2020年10月9日金曜日

追補その5:白旗問題

 先述の本野敦彦さんの「松平忠固史」のサイトのヘッダーにはもう1つ驚かされたことがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』の挿絵に使われたヴィルヘルム・ハイネの石版画「ルビコン河を渡る」にも、白旗が描かれていたのだ。画面上で拡大されるまで白旗の存在には気づかなかった。私が拙著『埋もれた歴史』に掲載した「江戸湾、浦賀の光景」とともに、アメリカ側が白旗を平和目的の意味で使っていたことは、これらの絵を見れば一目瞭然ではないだろうか。

 「白旗問題」と称される一連の論争に私が関心をもったのは、この問題がつねにペリー来航時の幕府の弱腰を批判される文脈で使われてきたからだ。ペリーの砲艦外交を象徴的に語るエピソードとして、日本側に開国と通商を迫り、いざ戦争になって降伏した場合に掲げる白旗まで2本渡したとする説で、それを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだでつづいている論争のことだ。私が調査の初めに読んだ佐久間象山の評伝を書いた作家の松本健一が何度も言及していたので、のちにどういう意味だったのかと疑問に思い、ペリー関連の書物をあれこれ読んでみた。そうした経緯を拙著『埋もれた歴史』で簡単に触れたため、岩下哲典先生からご著書『江戸の海外情報ネットワーク』(吉川弘文館)のなかで論じられていることを教えていただいた。

 簡単に説明できる内容ではないため、詳しくは同書をお読みいただきたいが、かいつまんで説明すると、ペリーの来航は前年からオランダ商館長による「和蘭別段風説書」で幕府上層部は知らされており、浦賀奉行所でも「奉行だけは老中から情報をリークされて知っていた。しかし、与力、同心たちには正式に話していなかったのである。それ故に中島[三郎助]は必死になってうわさのアメリカ船なのかどうか確かめた」(p. 122)のだという。

『ペリー艦隊日本遠征記』では、1853年7月8日に通詞の堀辰之助が「I can speak Dutch」と言ったあと、「彼の英語は最初の一文で尽きてしまったようなので」、オランダ語通訳のポートマンとオランダ語で会話が始まり、まずアメリカ船かと質問されたことなどが書かれている。ペリー艦隊に同行した中国語通訳のウィリアムズの随行記では、翌朝7時に香山栄左衛門がやってきた折に、乗船する前から次のようなやりとりがあったと書いている。「『アメリカ人ですか?』──『ええ、いかにもそのとおりです』と、その質問への多少の驚きをにおわせる口調で私が答えたところ、一斉に笑いが起きた」

 「ペリー側がなんども〈通達済み〉を主張したため、次第に香山はアメリカと幕府上層部が通じているのではないかと疑いを持つようになったという」(同)と岩下先生は書く。確かに、香山栄左衛門は後日、老中宛に提出した長文の上申書のなかで、ペリー側が「此度浦賀表に渡来致すべく義は、書面を以て昨年中、政府に通達及び置き候事にて」(『幕末外交関係文書』 第1巻〔15〕)、浦賀奉行所から長崎へ回れと言われてもそれはできないと主張したと書いている。しかし、アメリカ側の資料には、アメリカ人かどうか確かめた前述のやりとりしかなく、来航する旨を事前に日本側に通達したなどとはどこにも書かれていない。拙著でも指摘したように、当時の状況を考えれば、オランダがペリーの便宜を図るような紹介を日本側にするはずもないので、これは香山の誤解だろう。

 浦賀奉行所では白旗の意味はすでに弘化年代に知られていたことも同書で知った。「夷狄に白旗の使い方を教えられるとは……。しかし、日本側の火器が到底アメリカの敵ではないことを知っていた香山は、耐えるしかなかったのである」(p. 143)と当時の心情が分析されている。「白旗書簡」に関連した「与力聞書」の成立の過程まで探った岩下先生のご著書から、フェイクニュースが広まった舞台裏がよくわかった。



「ルビコン河を渡る」の絵は、神奈川県立歴史博物館の「ペリーの顔・貌・カオ──「黒船」の死者の虚像と実像」展(2012年)の図録ではなぜか、こう書かれていた。「『遠征記』によれば、実際はこのような状況はなく、蒸気軍艦の威力を背景に小艇を進めている[……]勇敢なベント大尉をイメージさせる虚構であるといえよう」。記録を読む限りまさにこういう状況であり、ハイネの描写は正確だと思われる。

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