2024年12月31日火曜日

2025年元旦に

 2025年は戦後80年、昭和で数えれば100年の節目の年だという。時代が大きく変わりそうな気配がする。  

 大晦日の昨夜は、昨年と同じ近所のお寺まで娘一家とともに除夜の鐘を撞きに行った。6歳の孫はちゃんと昼寝をして夜に備え、帰宅したのは1時半ごろだったのに、往復とも夜道を元気に歩いた。昨年はコロナ禍の名残だったのか、缶入りの甘酒が振る舞われていたが、今年はちゃんとお鍋で煮たもので、娘の絵本『じょやのかね』そっくりに、「あついから きをつけてね」と孫はお寺の方から声をかけられ、「あまざけの ゆげで ほっぺた」を温かくしながら飲んでいた。近所の人たちは三々五々に集まり、こじんまりとした和やかな雰囲気のなか交代で鐘を撞いていた。108個用意されていたと思われる銀杏は、参拝客の波が途絶えたあとも、まだいくらか残っていた。 

 娘と孫が長々とスケッチを始めてしばらく経ったころ、本堂で読経が始まった。しばらくは銅鑼を叩きながらの読経だったが、そのうち二人の僧侶が蛇腹折りされたお経を高く掲げながら、右から左へ、左から右へ大きくパラパラと動かしながら大声でお経を唱え始めた。初めてみる光景に孫は釘づけになり、お賽銭箱に貼りつくようにしながらその様子をスケッチしていた。臨済宗の転読というお経らしい。ときおり聞こえる短い叫び声は「喝」だったのかもしれない。帰りがけに見せてもらったら、えらくよく描けていた。出がけに、除夜の鐘の場面を描いたコラージュ作品を「全部、糊だよ」と得意そうに言いながらプレゼントしてくれたのだが、それもじつに上手だった。小学校に上がる年齢というのは、子どもが大きく成長するときであるようだ。 

 昨夜は就寝したのが遅かったので、面倒だなあと思いつつ、今朝は早起きして頑張って近所の公園まで初日の出を見に行った。昨秋、この公園を平たく改造する計画がもち上がり、反対したこともあって、高台からの初日の出を拝んでおかねばと思ったからだ。途中、犬の散歩をする人などがちらほらいて、元日の早朝にしては人が多いなと思ったら、どうやらみんな同じ公園を目指しているらしい。頂上に着いてみたらすでに数十人が南東を向いて待っていた。親子連れ、老夫婦、中高生、若者など、まさしく老若男女と犬たち。最終的にはおそらく80人くらいはいたと思う。この景観を守った一人として、初日の出以上に心を強く動かされる光景だった。 

 公園を出たところで、若いお兄さんが落ちているゴミを拾い上げていた。思わず「ありがとう!」と、声をかけたが、ふと見ると、道路上にファストフードのゴミが点在している。一緒に拾い始めると、「僕、もって帰りますよ」とまで言ってくれたが、自分の分は家までもち帰った。暗いニュースばかりがつづくが、世の中まだまだ捨てたものではない。  

 暮れに、黒豆、きんとん、松前漬だけはつくり、いくらかお節料理を用意はしていたが、朝は面倒なのでいつものトーストにしながら新聞(毎日)を広げたら、デジタル技術を活かして市民が自由にネット上で意見交換できる直接民主主義の方向へ、一歩踏みだす試みが始まっているという一面のトップ記事が飛び込んできた。ちょうどいま民主主義に関連したテーマの本を訳しており、昨秋は公園絡みで横浜市の「市民からの提案」を利用したばかりでもあったので、興味深く読んだ。  

 私自身にとっても節目の年となりそうな本年、これまで以上に健康に留意して、いましかできないことを一つひとつこなしていきたい。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 孫からのプレゼント! 

 近所のお寺で除夜の鐘の順番待ち

 甘酒をいただく

 近所の公園で初日の出を待つ人たち

 公園から見える富士山とカラス

昨年、ひそかな願望を託してつくりつづけた人形たち。障子は真っ先につくってみた一つだったが、ようやく掛け軸(タンチョウは娘の絵を借用)と座布団をつくったら、やはり畳も欲しいと思い、年末になってボロボロのゴザ座布団を壊してつくり、ついでに花器も粘土でこしらえた。

2024年12月26日木曜日

年末に

 あっと言う間に一月が経ってしまい、すでにクリスマスも過ぎ、ボクシング・デーも終わろうとしている。予定では年末までに一通り訳し終えて、年始から全面的に訳語を再検討しながら見直すはずが、まだ本文が100ページ以上も残っているという情けない状況だ。

 すでに何度か書いているが、このところずっと取り組んでいる本は、民主主義とは何か、平等とは何かという、きわめて根源的なことを深く追究している作品である。民主主義の危機が叫ばれるいま、世界が直面している本当の問題を鋭く描く本だと思うが、まだ自分の頭のなかで整理がつかない。原始時代から始まる壮大な思想史の作品を訳すのは、哲学の知識に乏しい私にはかなり荷が重い。  

 ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』も読んだことがなく、中江兆民をほんの少しかじった際に、日本国憲法の公共の福祉の問題等を認識した程度でしかない。今回、彼の思想をようやく理解するなかで、ふと思いだしたのが、小学生のころに愛読したサザエさんの漫画だった。「にんげんよ、たまにはしぜんにかえれ!!」と地面に大の字になるサザエさんを遠巻きに見ている人たちが、変死体と誤解する、というオチのもので、当時はもちろん、さっぱり意味がわからなかった。のちに、「自然に帰れ」がルソーと関連づけられる言葉だとは習った気がするが、人間が文明化し、堕落する以前の状態を「自然」と呼んだことなどは、よく理解していなかった。  

 そうか、あのサザエさんはルソーだったんだ、と思ったら、無性にその漫画を読み返したくなった。記憶のなかの表紙を頼りに画像検索で巻数を確認し、横浜市の図書館から借りてみた。うちでは週刊誌や月刊誌の漫画は買ってもらえなかったが、サザエさんの単行本だけは母が2冊買ってくれたので、私はよくわからないまま、繰り返しそれを読んでいた。半世紀ぶりに手にしたサザエさんだったが、どのページもセリフまでよく覚えていた。娘宅で孫に読んでやったら、大いに気に入り、いまでは行くたびに、フーテンだの、新聞配達少年だの、ガーターストッキングだの、木風呂だの、昭和の風習をいちいち説明しながら読んでやっている。  

 少し前の章は、社会主義やマルクス主義が中心テーマだったので、いくつか訳語を確認するために、『ユダヤ人問題によせて』や『反デューリング論』などを借りてみた。隙間時間にざっと読むのが精一杯だったが、どちらもなかなか面白そうだった。前者では「ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いの宗教を、ただもう人間精神の別々の発展段階として、つまり歴史によって脱ぎすてられた別々の蛇の脱けがらとして認識し、そして人間をそれらの脱けがらを脱皮した蛇として認識しさえすれば」と、マルクスは対立を生むばかりの宗教について言及していた。脱けがらは、宗教や国籍などによる集団のアイデンティティと考えてもよいかもしれない。 

 後者では、2人の人物を例に挙げて問題分析をするデューリングの手法にたいし、エンゲルスが同じくらいユーモアに富んだ批判をしていた。「ここで読者に不愉快なことをお伝えしておかなければならない。それは今後も長いあいだこの評判の二人の男が、ずうっと読者につきまとうであろうということである。彼らは社会的諸関係の領域において、これまで他の天体の住民というもの——これはおそらくもうかたがついたと思うが——が演じてきたのと類似した役割を演ずるわけである」。訳者はにやにやしながら、この箇所を訳したのだろうと、つい想像してしまう。 

 このあとはファシズムに焦点を当てた章で、カール・シュミットの本を借りて読んでみた。ファシズムの成立過程やその思想について、これまできちんと読んだことはなかったので、ルサンチマンとの関連がとくに、大いに考えさせられた。ついでに言えば、フランス語の発音とは程遠い、「ルサンチマン」というカタカナ語はどうも好きになれないので、原書が英語でリゼントメントと書いている箇所は「恨み」とシンプルに書くことにした。 

 極めつきは民主主義や社会主義とファシズムの共通点だった。民主主義の根本的な問題と言えるものは、ほかの章でも説得力をもって論じられており、いま世界各地に現われているさまざまな歪みは、生じるべくして生じたのだと思わざるをえなくなっている。 

 年末なので、もう少し楽しい話題にしたかったのだが、あまりにも余裕のない日々を送っているため、どうぞご勘弁を。

 本年も「コウモリ通信」をお読みいただき、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

『サザエさん』45巻、長谷川町子著、朝日新聞出版

2024年11月29日金曜日

近況報告

 少しずつ、懸念事項が片づいてきた感はあるが、それでも腰を据えて一つのことに集中できない日々がつづいている。 

 娘がインドへ行く前に、やっつけ作業で準備した「おさんぽ絵本原画展」は何とか無事に開催できているようだ。うちではたいがい手持ちの額を使い回して展示のイベントを切り抜けている。先週末、中央図書館に調べ物をしに行った帰りに、私もようやく弘明寺まで行って、児童書専門店クーベルチップのお店の壁一面に飾られた絵を見てきた。 

 来春の姉のピアノリサイタルのチラシも、12月初めまでという姉の希望より大幅に早く刷り上がってきた。古いPCにしか入っていない、かなり古いバージョンのPhotoshopを久々に立ち上げて試行錯誤し、背景に使った写真も、近所で適当に撮った雲の写真を背景に入れてごまかした割には、一応それらしいものが出来上がった。今回は旅をテーマにした曲を集めた企画とのことで、3月22日19時から横浜のみなとみらい小ホールで開催する。クラシック音楽好きで、ご都合のつく方がおられたら、予定を入れておいてくださると嬉しい。 

 もちろん、本業の翻訳にも鋭意取り組んでいるが、今回の仕事はかなり厄介な思想史の本であるうえに、本文だけでも400ページを超え、カタツムリのような進捗状況だ。いま訳している箇所は、以前に訳したトリストラム・ハントの『エンゲルス』や、『アマルティア・セン回顧録』にも通じるし、先日参加させていただいた赤松小三郎研究会の田中優子先生ほかの講演会でも話題になっていた「共和」に関する考察もずいぶんあった。関連書籍をじっくり読んで考えてみたいところだが、いまはとにかく翻訳マシンに徹するしかないのが悲しい。 

 ほかにも身近なところで頭の痛い問題が発生し、生まれて陳情書のようなものを書き、ご近所の方々の協力を得て若干の署名も集めて役所に提出するはめにもなった。ちょうど講演会で、江戸時代の百姓一揆は首謀者がかならず死罪となったため、言い出しっぺが誰かわからないよう、傘連判状と呼ばれる円形の署名をしたという話を聞いたばかりだったので、提出するに当たってはかなりの緊張を強いられた。そんな話をしたところ、娘の夫の祖先の家からもそういう書類が出てきて、横浜市に寄贈していたことなども判明した! いつか現物見に行かねば。この件は幸い、とりあえずの解決を見ており、私の首もいまのところつながっている。 

 こうした「雑用」のほかに、数年前から参加させていただいている松平忠固と生糸貿易研究会のための論文をようやく書き上げたと思ったのも束の間、私が書いたものは再査読の対象となって大幅な書き直しを命じられている。 

 相変わらず落ち着かないなか、じつは細々と始めていることがある。やはり祖先調査をされている上田藩つながりの方が、上田図書館で幕末に作成された私の祖先の家の史料を見つけてくださったのだ。この数年間、断片的な記録はいくつか見つかっていたものの、今回の史料は格別だった。何しろ、古い時代のことがかなり書かれていたほか、上田藩にいた期間の祖先の諱や妻の出身の家(名前は不明)や、娘の嫁ぎ先、養子先を含む系図が含まれていたのだ。 

 何より驚いたのは、冒頭に「本氏桃井」、「桃井播磨守直常之後胤」と書かれていたことだ。もとは桃ノ井姓で、北関東の出身らしいと親戚から聞いたことはあったが、文字で見るのはこれが初めてだった。中世史にはまったく疎く、桃井直常など名前も聞いたことがなかったが、橋本左内もこの人の子孫だと称していたらしい。左内が京都で入説活動をしていた折に、桃井伊織の変名を使っていたことは以前から気づいていたが、まさか本当につながりがあるとは思いもよらなかった。 

 もっとも、今回の史料では、中世の肝心な時代については、横瀬村、阿賀野村などの郷士として各地を転々としながら「数代ヲ経テ」と省略されている。地元の伝説的な敗軍の将を祖先に仕立てたとか、代々そう信じ込んできた可能性もある。幕末の志士はよくそんな出自を自称しているし、実際、北阿賀野村の桃井可堂もまさにそういう人物だったらしい。 

 祖先がその後、岩槻から佐倉へ転封になった戸田忠昌に仕えたことは、別の史料からも判明していたが、今回の史料を見ると一代限りだった可能性がある。次の世代は出石藩時代の松平忠周に召し抱えられており、その後、忠周が上田へ転封になったため、以後は幕末まで上田藩にいた。 

 折よく、昨年刊行された『桃井直常とその一族』という本を見つけたので、隙間時間に拾い読みしながら、まずは時代背景を勉強している。今回の史料から判明したいくつかの村名を地図で探してみると、渋沢栄一の血洗島を囲むように存在する地名だった。暑くなる前に、レンタサイクルでこの広大な田園地帯を走ってみたい。 

 そんなこんなで、気づけばいつの間にかもう師走だ。これまで長年、細々と年賀状をつづけてきたが、郵便料金が大幅に値上がりしてしまったこともあり、日頃ネットでつながる方々への来年以降の年賀状は失礼させていただくことにした。どうぞご容赦を。

 娘のなりさの「おさんぽ絵本原画展」
 @クーベルチップ

 姉の来春のピアノリサイタルのチラシ

『桃井直常とその一族』
(松山充宏著、戎光祥出版、2023年)

2024年10月25日金曜日

草木染め、工作物

 何やら落ち着かない日々がつづいている。本業の締切りを来年に延ばしていただいたので、多少気は楽になったが、なかなか手強い作品なので遅々として進まない。その間にも雑用は増えつづける一方だ。 

 その大半は、娘が来月、一週間弱ながらブッカルーという児童書のフェスティバルに招かれてインドに行くためで、それに合わせて「万障お繰り合わせ」をしているからだ。ただでさえ多忙な娘は、ほかの多数の仕事や用事を前倒しで進めねばならないうえに、今年から厳しくなったというインドのビザ取得でも手こずり、パンク寸前だ。同じ期間に弘明寺の子どもの本専門店クーベルチップで、「おさんぽ絵本原画展」を開いていただくことが以前から決まっていたので、そのための準備も出発前にすべて終わらせなければならない。額装の仕事は毎度のことながら、私に回ってくる。いつもは娘が引き受けてくれている姉のピアノリサイタルのチラシづくりも、今回は私がせざるをえなくなった。 

 やらねばならないことだらけでストレスが溜まると、私の場合、逃避行動で妙な工作を始めることが多い。孫の面倒を見ている時間につくるものが大半なので、「ベビーシッターが勝手に遊んでいる!」と娘によくからかわれている。ときには休日の朝から、一時間だけ、と自分に言い聞かせながらつくり始めることもある。娘からの要望に応えて、この数年ときおり実験している草木染めなどは、できる季節が限られているので、優先度を上げて仕事に割り込ませている。 

 前回のコウモリ通信にちらりと書いた黒染めも、あのあとザクロが使えることを思いだし、近所の小学校の高台にある木から実が落ちてくるのを待ってみた。よく道路に潰れた実が落ちているのを横目で見ていたからだ。ところが、いざ欲しいときには、一向に落ちてこない。しびれを切らして染色用のザクロを注文した矢先に、ポトリと2個も落ちているのを見つけたときは、何とも悔しかった。草木染めの面白さは、身近な場所で材料を拾い集めてできることにあると思っているからだ。 道端に落ちていた実でもザクロはかなり黒く染まったが、私の適当なやり方では多少緑味のある焦茶止まりだった。それでも、これまでに試したどの素材よりも黒髪に近く、それでとりあえず満足することにした。

 先日は、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』がストップモーションで撮影した古い映画(Totti: The Story of a Doll’s House)がネットで公開されていることに気づき、何回かに分けて孫と一緒に観た。ことりさんがピンクの羽ぼうきで掃除をしながら歌う場面が大いに気に入ったようだった。ならば羽をピンクに染めてつくってみようと思いたち、道端のヨウシュヤマゴボウを失敬して、孫が拾い集めた羽のコレクションから数本抜いて染めてみた。羽もタンパク質だからきっと染まるだろうと予想したとおり、濃いピンクに染まったときはちょっと嬉しかった。孫は喜んで「Dusting, dusting……」と歌いながら、それを使って私が昔つくった埃だらけの人形の家の掃除を始めた。もっとも、羽ぼうきはその後すぐに行方不明になり、数日後にまた見つかったそうだ。 

『かぶとむしランドセル』(ふくべあきひろ作、おおのこうへい絵、PHP研究所)という本を娘が図書館で借りたところ、カブトムシをこよなく愛する孫が気に入って何度も読まされたこともあった。なかなかよく考えられたランドセルで、イラストを眺めているうちに、ふと思いだしたものがあった。その昔、焦茶色のバックスキンで娘につくってやったムーミンに出てくるルビーの王様入りの小さなトランクだ。いかにもカブトムシ色のその革の残りはまだ裁縫箱の底に入っていた。翌日それを持参して、娘宅の裁縫セットでつくり始めたものの、針と糸の太さがミスマッチで、糸通しもなく、おまけに焦茶色の革ではどこを縫っているのかよくわからず、往生した。 家にもち帰って少しだけ修正した際に、ランドセルに爪楊枝の鉛筆と筆箱を入れてやったところ、孫はえらく喜んでくれたが、これまたすぐになくしてしまった。孫は私に似たのか、ものの管理が悪い。後日、爪楊枝を差しだして、これを3つに切って、先端を削ってくれというので、そのとおりにしたら、自分で色を塗って人形用の鉛筆をつくっていた。 

 こんな調子でひとしきり何かをつくると、仕事しなくちゃっ、という罪悪感だかエネルギーだかが湧き、またパソコンの前に座れるようになる。工作は私にとって大きな息抜きなので、もうしばらくつづけられるように、ひと段落がついたら眼科に行くなり、ハズキルーペを買うなりしよう。

ようやく黒髪がついた人形。左にあるのは、髪用に買ってみて失敗したいろいろな糸。手縫糸は届いてみたら紺色で、日本刺繍用の糸は墨色が美しかったが、撚りがかかっておらず、髪の毛には使えなかった

道路に落ちて潰れたザクロ。これで立派に染料になる

 試した草木染めのごく一部

ヨウシュヤマゴボウで染めた羽ぼうきと、ことりさん。 

 人形用かぶとむしランドセルと筆箱セット

2024年9月28日土曜日

2024年9月上田旅行

 ブログを長らく放置してしまった。最低、月に一本は書こうと決めていたので、ない時間をひねりだして短い近況報告だけ書いておく。 

 先週末は「忠固研」の研究会があったので、また上田に行ってきた。連休初めの新幹線があれほど混むとは予想しておらず、指定が取れなかったため早めに出たところ、運良く自由席に座れたので、集合時間までの数時間を利用して、前回、訪ね損ねた佐久間象山の師である活文禅師が隠居後に移ってきたという毘沙門堂跡に寄ったあと、藤本つむぎ工房を訪ねた。自費出版した『埋もれた歴史』の表紙に、この工房で購入した切り売りの反物の画像を使わせていただき、その後、献本だけして、お礼に伺っていなかったためだ。 

 よほど奇妙なお願いをした客だったからか、ご主人は私のことをちゃんと覚えていてくださり、今回は縦糸をつくる大きな機械がある紬の工房のなかも案内していただいた。湿度管理が難しいことから、国内ではもう紡ぎ糸がつくれない現状や、草木染めは扱わないことまで、多岐にわたる話題で長々と話し込んでしまった。同じ生地があればもう少し欲しいと思っていたのだが、店内にあったのは多少色味が異なったので、今回は違う模様の生地を2種類、またごくわずかな長さで購入した。 

 研究会の一日目は昼から夜の八時まで、途中でお弁当を食べながら、延々と各自の論文の発表があった。翌日は、現地の明倫会の方々などのご手配で、マイクロバスを貸し切って別所温泉に入浴でも宴会でもなく、倉沢運平という大正期に蚕種産業を発展させた人の産業遺構を「視察」に行った。二階建ての旅館にしか見えない大きな蚕室は、解体される寸前だったそうだ。明治期に倉沢が朝鮮、ロシア、大陸ヨーロッパなどを視察して得た知識をもとに、独自に考案したオンドルというか、セントラル・ヒーティングのようなものが設置されていた。川の合流点の傾斜地に建つこの建物の土台部分には、川からの涼しい風を取り込める石積みの地下室があり、桑を新鮮な状態に保つための貯蔵庫にしていたという。 

 保存運動をなさっている地元の先生方から蚕室で解説していただいたあと、蚕の孵化を遅らせるための人造の氷沢風穴まで細い山道をマイクロバスで登り、天然冷風扇のようなものを体験した。火成岩がところどころ陥入した地形で、ヒン岩という礫が堆積した場所に、さらに岩を隙間を残して積んだ地下倉庫のようなもので、階段を数段下りるだけで周囲の気温が数度は下がり、驚くほどひんやりとしていた。かつては上に建物があり、夏でも10度以下に保つことで、孵化時期を調整し、夏、秋まで、桑のある限り数度に分けて養蚕ができるようになったとか。 

 このあと曹洞宗安楽寺の鎌倉期の八角三重塔も見学した。いかにも中国由来の建築物で、寄木細工のように細い木材を重ねることで、曲線が描きだされていた。こけら葺きの屋根は、さすがに何度も葺き替えているとのこと。活文禅師は中国に密航したわけではなく、長崎で中国人から学んだようだが、上田のこの一帯には鎌倉時代にも中国人技術者がきていたのかもしれない。

  研究会はお昼で解散だったので、上田電鉄とバスを乗り継いで戦没画学生慰霊美術館「無言館」まで足を延ばした。学生時代に窪島誠一郎の『父への手紙』を読み、その後、無言館が開設されてまもない時期に、母が同窓会の帰りに寄って、素晴らしかったと話すのを聞いて以来なので、四半世紀を経てようやく、という感じだった。コンクリート打ちっぱなしの外観は、ベルリンのリベスキンドのユダヤ博物館を連想させ、館内にはそれなりの数の来館者がいたにもかかわらず、誰もが無言で作品と若い画学生たちの遺品に見入っていた。享年が27歳から29歳の人が多く、フィリピンで戦死した人が多く、病死、餓死、沈没事故などで命を落とした人もいた。

  入ってすぐの一角に芳賀準録という23歳でフィリピンのルソン島で亡くなった若者の静物画があり、雑然と積まれた本の上に置かれた人形に目が釘づけになった。じつは旅行前からちょっとした計画を立てて小さな日本人形をつくっており、紬のはぎれはその着物をつくろうと購入したものだった。絵のなかの人形は、おさげ髪でズボンを穿いているのだが、仕事の合間に工作を始めることの多い私には、自分の机の絵を見たようで、虚を突かれた気がした。  

 ミニサイズの着物を縫うのは、老眼の私には厳しいものがあったが、とりあえずそれらしきものはできた。日本人形は苦手なほうで、黒々とした髪がもっさりとした市松人形はとくに好きになれない。ガラスの目が埋め込まれたという設定なので、粘土に手持ちの天然石ビーズを埋め込みはしたが、目鼻はできる限り単純なものにし、動かせるようになかに針金を入れた。人毛かと思うような真っ黒の細い糸は怖いので、手持ちの太めの生糸を染められたらと試行錯誤し、ヤシャブシ、コーヒーなどを鉄媒染し、あれこれ掛け合わせてみたが、藤本つむぎ工房のご主人が言われたように、どれも「いろんなグレーか茶色にしかならない」。調べてみると、黒染めは最初は墨で、のちに輸入のビンロウジが藍染に重ねて使われたらしく、容易でないことがわかった。紋付の黒の羽織は、非常に高価なものだったのだろう。幕末に黒いラシャ地がたくさん輸入され、軍服などに仕立てられた理由が見えた気がする。その名残が詰襟の学生服、学ランに違いない。これまでこの言葉の語源を調べたことはなかったが、「ラン」はオランダらしい!  

 茶色い髪の日本人形でもいいかとも思ったが、もう少しだけ濃い色が欲しい。冷凍ブルーベリーまで使って重ね染めしたのに失敗に終わった生糸は、細い紐にして帯留めにし、黒染めは諦めて、刺繍糸を買うことにした。いつか髪のある姿でお披露目したい。

藤本つむぎ工房で買った反物の着物を着た人形。無言館で見た芳賀準録の静物画を真似て

倉沢運平の蚕室地下。練炭で火を焚くと、温風が室内に行き渡るようになっていた

 氷沢風穴

 安楽寺の八角三重塔

 無言館

 グレーや茶色にしかならない

2024年8月3日土曜日

『この身体がつくってきた文明の本質』

 昨秋から取り組んだルイス・ダートネルの新刊『この身体がつくってきた文明の本質』(原題:Being Human: How Our Biology Shaped World History、河出書房新社)の見本が本日届いた。これまでたびたび、仕事で出合った本に影響されて暮らし方を変えたことに言及してきたが、今回の本でも私の生活にささやかながら、重要な変化があった。  

 著者ダートネルはまだ40代前半の宇宙生物学者で、1作目の『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(2015年)は、文明崩壊後の未来という奇抜な想定が多くの人の心をつかんだらしく、日本でも大ヒット作となった。その点、2作目の『世界の起源:人類を決定づけた地球の歴史』(2019年)は地質学が中心であったためか、気候科学の本を多く訳してきた私にはたいへん興味深い作品だったが、読者層は限定的だったようだ。  

 3作目の本作は、著者本来の生物学が切り口であるうえに、著者自身も多少は年齢を重ねたこともあって、安定した筆致で、歴史家が語らない世界の歴史の裏事情を次々と明らかにする。人間はヒトという動物であり、身体上のさまざまな特徴と制約がおのずと歴史にも反映されてきたという、考えてみれば当然なのに、誰も注目してこなかった事実を本書は教えてくれる。  

 検討するテーマは人口問題から認知バイアスまで多岐にわたるが、個人的にとくに面白かったのは、植民地に関連する多くの問題と、それらの地からの産物である嗜好品や薬物に関する章、および大航海時代の水事情だった。イギリス人はよくも悪くも、数百年にわたる帝国主義の歴史のうえにいまの生活が成り立っていることをよく認識しており、このところグローバルサウス(南半球を中心とする発展途上国)の問題にかかわることの多かった私には、今回の作品は大いに参考になった。前2作ではほとんど政治色のない、いかにも科学者的な著者だと思っていたが、昨今の若者世代の意識変化も反映するのか、今回はずいぶん突っ込んだ分析もしていた。  

 一口に植民地と言っても、実際には大きく2種類に分けられていた事実を、私は本書から初めて知った。人口が増え過ぎて、本国では成功できる望みのない次男以下や貧困者が移住するためのsettler colony(入植植民地)と、ヨーロッパ人が移り住める環境ではないが、資源は豊富なextractive colony(収奪的植民地)である。いろいろ調べたが、どちらも定訳はまだないようだった。両者を分けたのが風土病であり、シュヴァイツァーの研究と活動によって、その敷居がある程度は取り払われたことなどを知ると、複雑な思いになった。 

「気分を変える」と題された章では、おおむね後者タイプの植民地が輸出用に産出するアルカロイドを含む嗜好品や薬物がテーマとなっていた。例外はアメリカ南部で栽培され、放棄される寸前にあったジェイムズタウンを救ったタバコくらいだ。タバコがアメリカ経済にどれほど大きな位置を占めていたかを再認識させられると、タバコ産業と広告産業の癒着について『気候変動と環境危機』でナオミ・オレスケスやビル・マッキベンが指摘していたことが痛烈な意味をもつことに気づかされた。  

 個人的に衝撃を受けたのは、カフェインに関する問題だった。目覚めているあいだ脳内に蓄積するアデノシンが、12時間から16時間起きていると強い衝動で眠りに誘うのに、カフェインを摂取するとその信号が妨害されるのだという。この原稿を書いているいまは夜の9時過ぎで、まさしくそのような時間帯であり、私はあくびをしながら執筆中だ。そういった仕組みがわかると、カフェインを摂りながら、日々それに抵抗する生活をすることに疑問が湧いてきた。  

 とはいえ、コーヒーは仕事の必需品なので、まずは量を減らすことにして、惰性で何杯も飲むのをやめ、いまから飲むぞと自覚するようにした。コーヒータイムは午前のみにし、かつ母宅から引き上げてきた手動のミルで豆を挽く面倒臭さを加え、手軽な粉を利用するのはやめた。コーヒーの原産地がエチオピアで、モカが原種に近いことも本書でようやく知ったので、近所のカルディで「フローラル・モカ」という豆も一度だけ試しに買ってみた。ドリップするのを待つあいだに、ぼんやりと袋の裏側を眺めていたら、その少し前に訳したコーヒー発見の逸話に登場するヤギ遣いの名前が「カルディ」だと書かれていて、拍子抜けしてしまった。コーヒーは相変わらず一定量飲んでいるが、チョコレートはカカオ豆が高騰していることもあって買わなくなったので、カフェインの摂取量は多少減ったはずだ。 

 訳し終えた2月にタイに旅行した際、友人が偶然にもウタイタニー県サケークラン川沿いの街のナイトマーケットで、阿片窟跡を利用した展示館に連れて行ってくれた。一見して中国人経営だったとわかる建物のなかに横になってアヘンを吸う人形などが置かれており、当時の雰囲気が再現されていた。アヘンは痛み止めや咳止めとして遅くとも江戸時代には日本でも服用されていたが、吸引した場合には依存性が高くなるそうで、その習慣をもち込ませずに済んだのは、アメリカ総領事ハリスのおかげだったと思われる。中国やタイが20世紀なかばになるまでアヘンを使用禁止にできずに苦しんだことを考えれば、日本は幸運だった。もっとも、ハリス自身は日本滞在中に重病になった際にアヘンをタバコと混ぜたものを薬用で吸引していた。オピオイド薬は実際にはいまでも多くの人を中毒にしている。最近、薬局で風邪薬を買うときに、あれこれ質問されるようになった背景には、依存症にたいする懸念があるらしい。 

 本書ではアルコールに関しても、あれこれ論じられている。日本は一年中、雨が適度に降るため、飲み水にはあまり苦労しない。だが、世界の大半の地域では飲み水は簡単には手に入らない。アルコール飲料はそのために発達したと言っても過言ではないだろう。きれいな飲み水が得られることと、日本人に下戸遺伝子が多く見られることには何かしら関連があるのではないだろうか。つまり、日本では下戸でも生き延びられたのだと。 大航海時代には飲料水は文字どおり命綱となり、水の代わりにビールやワインが積まれ、それすら劣化するため、生ホップを加えたインドのペールエール、IPAが誕生した、などという脚注を訳すたびに、あれこれ飲んでみたくなり、酒類の売り場をうろつき、ラム酒やジンなどを購入することにもなった。壊血病についても多くのページが割かれていたので、レモンの輪切りも添えてみた。 

 本書ではもちろん、霊長類としてのヒトに関するもっと根源的なテーマも追究されている。何がヒトを、その他の動物とは異なる存在にしたのか、という問いだ。近縁のチンパンジーやボノボ、ゴリラなどと比較して、ヒトで際立っていたのは「協力」なのだと、ニコラ・ライハニの説を引いた箇所を最初に訳したときは、何やら意外な気がしたが、現在取り組み中のまるで別分野の本でも、この「協力」というキーワードがたびたび出てくる。どうも世の中はその正反対の方向に進んでいるような気がするが、それは取りも直さず、人間が人間であることをやめつつあるという意味なのだろうか。 本書に掲載されたロシアの人口ピラミッドは非常に衝撃的なものだった。

 生物学という一風変わったレンズを通して人類の歴史を振り返ることで、人間とは何なのか、人類は今後どの方向へ進もうとしているのかを考えさせる一冊だと思う。何しろ今回のテーマはいちばんな身近な「人間」なので、従来のダートネル・ファンだけでなく、誰にでも広く一読をお勧めしたい作品である。

 発売は8月20日です。下旬に書店で見かけたら、ぜひお手に取ってみてください。

(左)原書、
(右)『この身体がつくってきた文明の本質』、ルイス・ダートネル著、河出書房新社

  カルディで買ったモカの豆

 タイのウタイタニー県にある阿片窟の展示館


2024年7月28日日曜日

『天の笛』

 最近はだいぶ改善したようだが、暑さとともに自分の水筒から大量の水を飲むようになったせいか、孫がおねしょをする事態が頻発し、娘が参っていた。そこでふと思いだしたのが、子どものころ大好きだった『モチモチの木』の絵本だった。  

 私にとってこの絵本は、宇野重吉の朴訥とした語りと一体化して、記憶の底に定着している。母の家を整理した際に『天の笛』というソノシート入りの本はもち帰ってはおらず、どうも処分してしまったと思われ、そうなると無性に聴きたくなる。ネットで音源を探してみたが、簡単には見つからず、結局、ヤフオクで出品されていたものを購入した。  

 しかし、姉のところのレコード・プレーヤーも壊れているとのことで、ソノシートを聴くこともままならず、いろいろ検討したあげくに、ココナラというサイトでレコードをデジタル化してくれるところを見つけ、そこにお願いしてMP3のファイルに変換してもらった。久々に聴く宇野重吉の声は本当に懐かしく聴き入ってしまった。『天の笛:宇野重吉の語り聞かせ』というこの斎藤隆介の作品集は、初版が1967年で、うちにあった『モチモチの木』は1971年の初版だった。現物がないので確かではないが、『天の笛』収録の語りを絵本に先駆けて、何度も聴いていた可能性が高い。  

 滝平二郎の切り絵は、当時、購読していた朝日新聞にたぶん毎週、見事な作品が掲載されており、母がいつもそれを切り取っては黒い画用紙に切り込みを入れた簡易額に入れて飾るほどのファンだった。おそらくそのためか、うちには『八郎』という絵本もあった。  

 どうせなら、デジタル化してもらった音源に、絵本の絵を合わせて動画をつくろうと考え、図書館からいろいろ借りてみた。『ひばりの矢』は1985年刊、『ソメコとオニ』は1987年刊で、どちらも今回初めて絵本になっていることを知った。『ひばりの矢』の切り絵は非常に美しい。 

『モチモチの木』のおくびょうな豆太は何と五つ。孫も5歳なので、いま読まなくていつ読む!というタイミングだった。孫はとくに最後の一文がお気に入りだ。爺さまのほうは、ずいぶん年寄りだと思っていたが、64歳だった……。豆太のお父は、「クマとくみうちして、あたまをブッさかれて死んだほどのキモ助だった」。再びクマが身近な存在となりつつあるいま、まさに読むべき絵本だ。  

 トチ餅を買ってやりたいと思っているのだが、本格的なものは手に入りにくい。お話のなかでは簡単につくっているが、実際にはどんぐりと同様に水で長時間さらしてアク抜きをしなければならない、手間のかかる食べ物だ。娘が小学生のころ、トチノキを知らなかった私は、エゴの実を見つけてこれに違いないと早合点し、砕いて舐めてみてやめたことがある。エゴはサポニンが入っているので、団子にしなかったのは幸いだった。  

 ソメコも五つだった。忙しい大人たちに「あっちゃ行って遊べ」とたらい回しにされ、泥団子まで食べて遊んでくれる鬼に連れ去られるのだが、「カクレンボするべエ」と鬼を悩ますソメコは、まさにいまの孫の現状で、読みながら当の孫もニヤニヤしていた。 

『天の笛』に収録されていた『ベロ出しチョンマ』は、私の記憶のなかではキリシタンの迫害とごちゃ混ぜになっていたが、読み返してみると、年貢を納められずに直訴して、一家が磔刑になったという内容だった。三つのウメまでという設定に疑問が湧き、調べてみると、当時、斎藤隆介が住んでいた千葉県若葉区を舞台に選んだだけの、まったくの空想作品とのことだった。  

 やはり収録されていた『東・太郎と西・次郎』は、まるで記憶になかったが読み返してみたところ、水源をめぐる竜の出てくる話で、日照りつづきの東の国と、大雨つづきの西の国の境にいる竜を太郎と次郎が対峙する内容で、気候変動で水文学的な変化がいちじるしい現代を象徴するような話だった。長いお話で、滝平二郎の挿絵も数点しか見つからないが、宇野重吉の語りでぜひ孫に聴かせてやりたい。  

 となれば頑張るしかないと思い、iMovieなる動画編集ソフトが入っていることに気づき、試行錯誤でとりあえず『モチモチの木』と『ソメコとオニ』だけは動画をつくった。ただし、まだ著作権に引っかかるため公開はできないので、絵本好きの知り合いにだけ必要かどうか連絡しようと思っている。

宇野重吉の語りが入っている『天の笛』と図書館から借りた斎藤隆介作品

姉宅から借りてきた初版の『モチモチの木』

2024年7月21日日曜日

メスナーテントをもって編笠山へ

 15年ぶりに、泊まりがけの登山に行ってきた。娘が6歳で初めて登った本格的な山である八ヶ岳の編笠山に、5歳の孫を連れて1泊2日で行ってきたのだ。娘が子どものころの登山にはいつも母が同行してくれ、食材等を背負って登り、調理の大半を手際よくこなしてくれた。今回はそれが私の役目となり、母が使っていたリュックを背負って登った。  

 私はふだん運動らしきことをほとんどせず、中学以来の腰痛もちであるうえに、膝の調子も万全ではなかった。鳳凰三山の縦走時に膝を故障してみんなに迷惑をかけた苦い経験が、山から足が遠のいた原因だったので、直前に膝用のテーピングも注文したのだが配送の遅れで届かず、結局、YouTubeで見つけた膝のストレッチ体操だけを頼りに出発することになった。  

 今回、娘が担いでくれたテントは、まだ秋葉原で会社勤めをしていたころ、昼休みに抜けだしてニッピンで店員の勧めに乗せられて購入した3kg強の軽量の同店オリジナルの製品だった。記憶が不確かなのだが、最初に編笠に登った1994年は麓の泉郷あたりに前泊して日帰りで行ったため、薄暗い森のなかをヘンゼルとグレーテルさながらに下山するはめになり、疲労困憊して駐車場(たぶん観音平口)にたどり着いたところにソフトクリームのスタンドがあり、それを食べたことだけはやけに鮮明に覚えている。  

 初めてテントで寝たのはその翌年のようだ。これまた無謀な計画を立てて権現から赤岳まで登るつもりが、途中で道に迷って藪漕ぎをしてどうにか前年と同じ登山道に出て青年小屋で張らせてもらったのだ。その同じテントを押し入れから引っ張りだしてみたところ、縫い目を覆うシーリングは剥がれかけていたが、生地そのものの状態はよく、加水分解しているようには見えず、ネット情報を頼りに自分でアイロンを使って張り替えてみたのだ。  

 秋葉原のニッピンが撤退したのは風の頼りに聞いていたが、神田店もコロナ禍とともに閉店しいたことを今回初めて知った。しかも、ニッピンのテントと検索してみるうちに、うちのはメスナーテントと呼ばれるもので、1978年にラインホルト・メスナーがペーター・ハベラーとともに人類初のエベレスト無酸素登頂を達成した際に携行したものだったことを古いブログ記事などから知った。ニッピンの社長がミュンヘンのIPSOスポーツ見本市でメスナーと意気投合して、軽量で簡単に設営できるドライエッケンシステム(ポールと本体をロープで巻きつけるもの)のテントを開発したのだそうだ。  

 この先、どれだけ山に登るかどうかもわからないので、今回とりあえずトレッキングシューズだけは購入し、その他ウォータージャグ、銀マット、ガスバーナー用のガスを買う程度で、あとは古い登山グッズを掻き集めて出かけた。とにかく天候がよく、みんなの体調が許せるレベルで、予定の入っていない週末となると、選択肢はほとんどない。「明日行くよ〜」というメールが娘からきた翌日午後、娘一家は車で一足先に出発し、私は土曜の朝、小淵沢駅で落ち合うために、えきねっとで残っていたおそらく唯一のグリーン席を購入した。全席指定の臨時列車だったので、快適なシートで2時間ちょっと身体を休められたのはよかった。

 孫はふだんから自然公園などはよく歩いているし、低山には何度か登っているが、本格的な登山は今回が初めてだった。自分の寝袋と水、若干の食料など1.5kgほどの荷物を背負っているので、途中でダメになったら引き返すという前提で登り始めた。しかし、得てして子どもは身が軽いため登りは得意で、途中あちこちで鳥や花を見つけるたびに立ち止まっていた割には、地図に記されているコースタイムをいくらかオーバーする程度の速さで昼過ぎには青年小屋にたどり着いた。道中、行き合う人たちから口々に、「えらいねえ、何年生?」などと聞かれるたびに、「何年生でもないの。5歳」と得意げに答えており、到着した際には、小屋前でくつろいでいた人たちから拍手で迎えられていた。実際、今回の山行では子どもどころか、10代の姿すらほとんど見かけることがなかった。  

 青年小屋のテント場は所狭しと40近いテントが張られていて、まるで行者小屋のようだった。山に行く話が本格化し始めたこの一か月ほど、孫のお気に入りの遊びは「キャンプごっこ」だったので、テントを建てる作業も嬉々として手伝い、なかに入ると早速、寝袋を広げて寝転がり、「一緒におしゃべりしようよ〜」と誘われて参った。「乙女の水」という水場に水を汲みに行くごっこ遊びも、家でさんざんやっていたので、ウォータージャグに水を汲む作業も自分がやると言って聞かなかった。孫はどうやら「乙女の水」は、きれいなお姉さんがいる神秘の場所と思っていたようだったが。  

 事前に使えるかどうか確かめてみてはいたのだが、ガスバーナーが着火しなかったのは今回の失敗の一つだった。小屋からチャッカマンを借りて点火してから、コーヒーのためのお湯を沸かし、ご飯を炊き、レトルトカレー用を温める作業をつづけることで事なきを得たが、ライターでも持参すればよかった。水に浸す時間が足りず、お米は若干芯が残ってしまったが、食べられる程度には炊け、カレーを温めているあいだに、半分は翌日の昼食用おにぎりにした。孫はおにぎりも自分で握ると言って聞かず、その挙句に出来上がったおにぎりを地面に落として怒られるはめに。そんなドタバタがキャンプ場中に笑いを提供していたらしく、一つしかないトイレを待っているあいだも「ご飯炊いていましたよね」と声をかけられてしまった。  

 考えてみれば、うちのように煮炊きしている人はあまりおらず、最近は調理不要のレトルト食品で済ませてしまう人も多いのかもしれない。昔はキャンプと言えば飯盒炊爨だったので、やはりご飯は手を突っ込んで水加減を調整して炊かないとね、と私は思っている。もちろんコッヘルは使うが。お湯が沸くのにやたら時間がかかった割に、ご飯は意外に早く炊けたので、そう口にすると孫が、「うちではご飯はああいうので(電気炊飯器)炊いて、お湯はピッと(電気ケトル)と沸くでしょ。だからじゃない?」と、何やら鋭い指摘をするので驚いた。電気製品に慣らされてきた感覚なのかもしれない。  

 テントもフライシートのないものがかなりあったうえに、グラウンドシートとテントが一体になっておらず、5cmほどの隙間が空いている簡易テントすら見受けられて驚いた。あれで風雨や夜露に耐えるのだろうか。雨こそ降らなかったが、フライシートの内側はびっしょり濡れていたし、夜間にはテントが揺れるほど風が一時的に強まった。周囲のテントの大半はポールがスリーブと呼ばれる筒状の場所を通す形になっており、その出し入れに結構手間がかかりそうだった。  

 青年小屋では降るような満天の星空を見た思い出があったが、就寝するころは曇っており、月が昇ると満月に近くてあまりにも煌々としていて、ときおり霧も発生したため、星は明るいものしか見えなかった。娘もいつもテントで熟睡する子だったが、孫も結局、明け方まで一度も目を覚まさずに寝通し、私が夜中にヨタカが飛びながら鳴いていたと話すと、「なんで起こしてくれなかったのよ〜」とむくれていた。私は周囲のテントの物音や話し声が気になって細切れの睡眠しか取れなかった。  

 翌朝、古いバーナーを再度試してみると、今度はうまく着火したので、娘が好きなオートミールの朝食を食べたあと、7時ごろ出発して編笠山の山頂を目指した。自分の身長をはるかに超えるような岩塊がごろごろする場所を、孫は怖がる様子もなく果敢に登っていった。少し前までジャングルジムもてっぺんまで登れない怖がりだったのに、随分成長したものだ。私はと言えば、前日の登りで足が疲れていたことや、二晩つづきの睡眠不足、それに薄い空気なども重なって遅れがちとなり、一緒に登れるのはもうあと何年もないなと思った。こんな岩場を、60 代後半になるまでよく母が何度も登ったなと思う。登山ブームの昨今、70代後半のような人を含む年配者のパーティにも何回も出会ったので、日頃から運動して体力を維持できれば、あと10年くらいは登れるのだろうか。  

 2524mの山頂に立った私たちを迎えるように、富士山から南アルプス、そして権現、ギボシ、赤岳、阿弥陀岳など、昔登った山々がぐるりと見えて壮観だった。娘と孫がスケッチを楽しむあいだ、私は山頂でコーヒー、ココアを用意する係を命じられ、カフェを開くことに。5歳でこの山のてっぺんでココアを飲んだことを、四半世紀後、半世紀後にでも孫が思いだしてくれるなら、お安いご用だ。背負ってきた予備の水が軽くなるのもありがたい。  

 下山は、山頂から押手川まで一気に下るルートを通ったため、脚の短い孫はかなり苦戦し、この区間はコースタイムの2.5倍もかかってしまった。朝4時半から起きだしてしまったこともあって途中で眠くもなり、つい無駄口ばかり多くなる孫を励ましながら、何とか観音平まで2時過ぎにたどり着いた。ストレッチ体操が効いたと見え、私の膝も最後まで元気に働いてくれた。  

 編笠のあとはソフトクリームでしょ、とばかりに、そのあとは清里の清泉寮まで有名なソフトクリームを食べに行った。清泉寮は、清里と大泉から一字ずつ取ってつけた名称だそうで、ポール・ラッシュの名前はたぶん澤田美喜さんの本で読んだなと思い出した。復路は娘一家の車に同乗させてもらった。途中、中央高速が大渋滞していたため迂回路を通り、8時半過ぎに帰宅し、「無事に帰ってきたよ」と、母の遺影に報告した。


 青年小屋の朝のテント場

 押手川付近

1995年に青年小屋でテント泊したあとギボシから。

1994年に編笠山の頂上で

1998年ごろか

編笠山頂上。まだ同じ標識が立っていた

 編笠山頂上

 乙女の水を汲む孫

 登りの途中で出会ったメスのシカ
今回の旅での唯一のスケッチ

2024年7月3日水曜日

上田日帰り調査

 忙しかったうえに体調も思わしくなかったため、ブログをサボってしまっていたが、ようやく先月なかばの日帰り上田調査のことなどを備忘録程度に書いた。やる気になったきっかけの一つは、先日たまたま上田の「松平神社文書」が話題になり、その後、以前にお世話になったことがある和根崎剛氏の「史跡上田城址整備事業の現状と課題」(平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書)の論考を見つけことだった。  

 7年ほど前に上田市立博物館で閲覧した祖先の記録に「松平神社文書」と書かれており、その後、何かの折に「しょうへい」神社と読むことを教えていただいたはずなのだが、そんなことすら私の記憶からすっぽり抜けてしまっていた。松平神社がいつのまにか真田神社になってしまったことは、松平家のご子孫が以前に嘆いておられたので記憶に残っていたが、神社そのものが明治12(1879)年に松平氏の祖先を祀る松平神社として創建されたことはしっかり認識していなかった。  

 和根崎氏によると、廃藩置県後、城郭は大蔵省に引き渡されて払い下げられ、本丸の土地を取得した上田藩御用達商人の丸山平八郎直義が神社用地として寄付したのが始まりで、氏子のいないこの神社は、松平氏旧臣とその子孫が管理運営しているという。丸山氏はその後、現在も西櫓として残る本丸隅櫓を旧藩主の松平忠礼に献納するとともに、遊園地用地として本丸の残り部分も寄付し、明治20年ごろから上田市が公園として整備するようになったらしい。神社そのものは、戦後の1953年に上田神社となり、さらに1963年には眞田神社と改称されているが、一応、真田氏、仙石氏、松平氏の歴代城主を祀っている。  

 このあたりには、上田の人びとの複雑な思いが反映されていそうだ。わずか40年しか城主でなかった真田家にとくに縁があるわけでなくとも、上田市民のアイデンティティとして歴史は残したい。ただし、明治になってようやく武士の世から解放されたのだから、166年間も圧政を敷いた松平家はご免こうむりたい、という感じなのだろうか。最後の2代の藩主、松代忠固・忠礼がほぼ江戸にいたことも関係しそうだ。母方の家は戦後の数年間を松代で過ごしており、祖母が「真田の奥さま」の主催する会にいそいそと出かけていたとも聞いている。真田家は地元を離れなかったのかもしれない。ちなみに、仙石氏の世は85年間だった。

 上田市立博物館そのものは、博物館のホームページも参照すると、昭和4(1929)年に西櫓を「徴古館」として開館した。太平洋戦争直前の1941年に、市内の遊郭に移築されていた本丸隅櫓2棟が東京の料亭に転売される話が出て、市民がこれを買い戻して戦後の1949年に南櫓、北櫓として再建され、上田神社と改名された同年の1953年にこの2棟を加えて「上田市立博物館」として登録された。現在の本館は1965年に落成した。  

 先日、私が拝見した数々の史料は、こうした紆余曲折を経て現在に残る記録だったのだ。なかには虫食いだらけでページとページがこびりついて、なかなか開けない史料もあったが、それらは松平神社の倉庫の片隅で激動の一世紀間、ひっそりと保存されていたのかもしれない。戊辰戦争をはじめ、その後の大震災や空襲等で過去の記録が一切失われてしまった地域も多々あるなかで、上田が比較的平和な時代を過ごしてきたおかげでもある。  

 調査そのものは、短い時間を有効に活用しようと、事前に研究者の方々からいろいろな情報を仕入れ、入念に用意していった甲斐あって、予定していた史料は調べあげ、その他いくつか当てずっぽうに選んで閲覧した史料のなかにも、思いがけない発見があった。  

 直接の祖先に関しては、今回新たに得られた情報は残念ながらわずかで、だいぶ昔の祖先が、いったん妻の弟を養子にしたものの、妾に子ができたため、そちらを後継にしたという拍子抜けする記述だけだった。ただし、前回の調査で偶然に嘉永5年の地図で見つけた祖先の家の場所は、いまの地図とよく照らし合わせた結果、ここと思う場所をもう一度訪ねてみた。  

 画期的だったのは、博物館での調査後、事前にダウンロードしておいた「バイクシェア」なるアプリを使って電動アシスト自転車を借りて、願行寺を経由しつつ、佐久間象山が若いころ松代から馬で通ったという活門禅師の遺跡を訪ねたことだ。こちらは事前の下調べ不足で、遺跡が実際には3か所もあることに気づかず、わざわざ遠い岩門大日堂跡に迷い込むはめになったが、観光地とは程遠い農村地帯で、ちょうど田植え後の美しい田園風景のなかを、夕陽を浴びながら自転車ですいすいと走ることができた。  

 借りた自転車は、しなの鉄道の信濃国分寺駅で乗り捨てし、そこからさらに数駅電車に乗って滋野まで足を伸ばした。前回のコウモリ通信に書いたように、そこに高祖父が何かしらかかわった可能性がある「力士雷電之碑」が現存するからだ。グーグルマップで上田からの自転車ルートが出てこなかったため、しなの鉄道に乗ったのは正解だったが、地図上では駅から石碑まで数百メートの距離のはずが、往路はひたすら登りの坂道で、民家の正面に忽然と現われた2基の石碑にたどり着いて、何か手掛かりはないかと周囲を足早にめぐったころには、復路の電車時刻まであと5分しかなくなっていた。前後の乗り継ぎを調べておらず、とにかく駅まで走ろうと下り坂を猛ダッシュした。どうにか発車間際の電車に飛び乗ったものの、あまりに息が上がってしまい、滋野駅にあった力士雷電の大看板も、全国の田中さんが詣でるという隣の田中駅に着いたころもまだ回復せず、写真を撮り損ねてしまった。

 その後、新幹線の乗り継ぎが悪くて、結局、上田駅の六文銭の下でおやきを食べながら、だいぶ時間をつぶすことになった。それでも、9時過ぎには無事に帰宅することができ、実りある1日となった。

上田城址公園の時の鐘。数百年にわたって上田で時を告げてきた鐘だったが、戦時中の金属供出させられ、戦後に新しく鋳造したもの。

城址公園内に翻る各家の幟旗。後方に見えるのが南櫓と北櫓。

嘉永年間に祖先が住んでいたと思われる一帯(右手)。『上田歴史地図』には、「道に面したところは門倉門蔵ら三名の住居があり、鈴木六郎家の横から細い道をつけ、中央と奥の部分に長屋が置かれている」と書かれていた。

電動アシスト自転車で田園地帯を走った。

活文禅師の岩門大日堂跡
力士雷電之碑。手前にあるのが表面がすべて削られて判読不能になったという古い碑

2024年5月28日火曜日

国会図書館デジタルコレクション

 国会図書館のデジタルコレクションは、私が祖先探しを始めたころからありがたく使わせていただいているものだが、今年になって約75万点が新たにテキスト化されたとのことで、全文の検索が可能になっている。そう教えてもらっていたものの、ずっと忙しくて十分に活用していなかったが、昨夜、別の検索をしたついでにふと高祖父の門倉伝次郎の名前も入れてみたところ、思いがけない発見が多々あった。あまり興奮したせいか、今朝はやたら早く目が覚めたので、とりあえず見つけたものを書いておく。  

 高祖父は維新後、陸軍の馬医になって横浜などにいて、従七位という低い官位も一応もらい、西南の役にも駆りだされているのに、そうした記録はこれまでほとんど見つからなかったが、この新しい検索機能のおかげで、官報や陸軍の記録が上田関連の資料とともにいくつか出てきた。  

 しかし、驚いたのは『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』という明治32年刊の陸軍騎兵実施学校が刊行した書籍に、調馬師の目賀田雅周述として仙台産馬に関する例が数例並ぶなかにこう書かれていたことだ。 

「元治年間、松平伊賀守の家臣に門倉伝次郎あり。許可を得て横浜在留の英獣医某に就きて其術を学びしとき(獣医の項参照)常に一頭の三春馬に乗て通ひたり(此馬は目賀田調馬師の自ら調教したるものにして河野対馬守の所有なりしを、伊賀守に売却したるものなり。青毛にして体尺五尺一寸五分)しに、□(言偏に夾)英人懇望止まさるに至りたるを、遂に伊賀守より之を贈与せられたる欣喜、措かすして本国に牽帰り御ち其返礼として馬具一式に添ふるに若干の獣医治療器械(現今の価格に積り約三千円のもの)を以てせり」  

 おおよそ同文のものが、昭和3年刊の『日本馬政史』第3巻(帝国競馬協会)にも書かれていた。この英人はまず間違いなくアプリン大尉だ。青毛の馬は飛雲と思われ、上田の最後の藩主松平忠礼が乗り、伝次郎が横に立つ写真が残る黒馬と推測される。拙著『埋もれた歴史』の表紙に使わせてもらった貴重な古写真だ。体高は約156cmだったことになる。アプリンが日本滞在中に自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じていたことは、彼の長男が自著に書いており、前髪がもさもさした日本馬にアプリンが乗って猟をする戯画をワーグマンが描いている。ただし、上田側の記録では一年間、アプリンに預けて調教してもらい、アプリンが帰国した1866年または67年に藩に戻されている。そもそも、アプリンはアロー戦争時からの愛馬で日本に連れてきたアラブ種の馬も帰国時に売却せざるをえず、彼の鞍ですら伝次郎が「買った」と、アプリンとともにイギリス公使館にいた医師のウィリアム・ウィリスが書き残している。帰国後にアプリンが薩摩藩などに鞍を贈った記録は、横浜開港博物館で見たことがあるので、こうした諸々のことが混同されて書かれた文書かもしれない。それでも、高祖父の確かな足跡を見つけた気がした。  

 昨夜のもう一つの大発見は、『新体育37』12月号という1967年刊の雑誌に、どういうわけか伝次郎の名前が書かれていたものだ。そこには「力士雷電之碑」と書かれた拓本が写り、佐久間象山が「此碑嘉永五(1852)年所建」とあり、そのあとに「信州上田人門倉伝次郎君所贈」とだけあった。夜中に眠い目をこすりながら説明を読むと、石黒忠悳が「珍蔵」していた拓本だという。「此碑信州上田在大石村に建る所にして、土人此碑の石片を懐中すれば勝敗事に勝ち、殊に無尽講に利ありとして石以て碑面を打撃し、其石粉を持帰るを以て全碑面完膚なく一字も読む能はず、此榻本の如き極めて珍襲するに足るものなり。況や余少時初めて象山先生に謁する時、此碑文を暗誦して先生を驚したる事あるおや、家に蔵して珍襲す。 現斎石黒忠悳識」とも書かれていた。  

 石黒忠悳が文久3(1863)年に象山に会ったときのエピソードは、松本健一が『評伝 佐久間象山』に書いており、拙著でも19歳だった石黒の攘夷思想を象山が嗜めたエピソードは引用していたが、力士雷電の件は朧げにしか記憶していなかった。今朝になって該当箇所を読み直してみたら、かつて中之条にいた際に、大石村の路端で雷電為右衛門(1767〜1825年)という力士の碑文をいつも見ていたため、その全文を暗記していると言ってそれを誦じたと書かれていた。「この碑文の終わりにあります『今、余雷電のためにこの碑に識して、またまさに殆ど泣かんとするなり』というその御顔を拝見に参りました」と言うと、象山は「面白い、面白い」と笑って答えたというものだ。  

 伝次郎は象山塾に嘉永4年8月に入門している。『上田市史』の伝次郎の項目には「象山其の馬術に精妙なるを見、自らは学によりて、様式馬術を教え、彼よりは技によりて騎術を習える程なりき」と書かれていたが、どんな交流があったのか詳しく記すものは残っていない。石黒忠悳の話を信じるとすれば、この碑は少なくとも文久3年以前に前に建てられていたはずで、その碑の建立に伝次郎がかかわっていたということだろうか? 伝次郎は、弘化年間は大坂、嘉永年間以降はずっと江戸詰めで、石碑を建てる費用を捻出できるほど裕福ではなかったと思うのだが。  

 象山は嘉永7年のペリー来航後、弟子である吉田松陰の密航未遂に連座して蟄居になった。『象山全集』では未確認だが、文久元年4月に象山が雷電の容貌を問うた記録があるそうで、古い碑はこの年の建立とされている。そうだとすれば、蟄居中の象山と伝次郎のあいだでまだ親しく交流があった証左になりそうだ。 設置場所は多少移動したらしいが、東御市滋野乙牧家にいまも現存するという石碑の画像を見ると、『新体育』に掲載された拓本は明治28年に勝海舟や山岡鉄舟らによって建てられたという新しい立派なほうの碑のもののようだ。近くに立つ古いほうの碑は、確かに「完膚なく一字も読む能はず」というほど、ただの石の塊に戻っている。蟄居中の象山の「明撰并書」による碑を文久元年に建てたことには、何らかの深い意味があったに違いない。 

 昨夜は、デジコレでほかにも曽祖父たちの新たな記録が多数見つかった。テキスト化され、検索機能が加わったことで、どれほど多くの新史実が自宅に居ながらにして発見されることだろうか。日本語の古い文献をテキスト化する作業は並大抵のことではない。その技術を開発し、膨大な点数の文書に対処してくれた人びとに感謝したい。

『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』(陸軍騎兵実施学校刊)
 国会図書館デジタルコレクションより

2024年5月3日金曜日

都内散策

 再校ゲラが出たこともあって、今年も連休中は諦めて仕事を優先することにした。とはいえ、娘一家が旅行中で孫守りから解放されている期間に、それではあまりにももったいないので、半日だけ都内を回ってきた。まず目指したのは、「東京府淀橋区西大久保3丁目30番地」という戦前まで祖母の実家があった場所だ。数年前にも訪ねたのだが、場所を間違えて撮影していた。先月末に伯母が亡くなり、昭和16年にこの家の前で撮影した写真に写る3人娘も全員が故人となったので、一つの時代の終わりを実感するためでもあった。
 
   昨年、1942年4月18日のドゥーリットル空襲について調べた際に、この曽祖父母の家の南西数十メートルのところに焼夷弾が落とされ、近所の家がかなり被災したことを知った。今回は、その位置関係を確かめながら現場を歩いてみた。この空襲について詳しく調べた人がネット上で緯度・経度の座標を教えてくれていたので、大正期から昭和初めの地図で確認した30番地の場所とともに、前の晩、私にしては入念にストリートビューも使って場所をよく確認して今回は挑んだ。おかげで、この空襲で火事になった一帯からわずか二本先の通りに、曽祖父母の家があったことを確かめることができた。

 この場所に私がこだわるのは、曽祖父母の家からわずか50メートル先の西大久保4丁目に当時、陸軍射撃場があり、明治通りを挟んで東側には、陸軍幼年学校、近衛騎兵連隊、陸軍戸山学校、軍医学校など、軍関連の施設が多数あったからだ。軍医学校には731部隊と関係がある防疫研究室があって、1989年にここから多数の人骨が発見されたこともあった。

   現在、戸山公園の箱根山地区と都営戸山ハイツなどがある一帯は、幕末まで尾張藩の下屋敷があった場所だ。安政の大獄で隠居・謹慎となった徳川慶勝が写真に入れ込んだのが、この戸山屋敷だった。山手線内で最高峰の標高44.6mの人造の築山、箱根山がその中央部にあるが、高木の樹冠に遮られて、頂上からの眺めはよくなかった。この一帯はかなり起伏のある丘陵地で、屋敷跡とされる場所も傾斜地なので、土を盛って頂上部分をさらに高くしたものと思われる。 

 明治に入ってから陸軍関連施設がつくられたが、昭和になって周辺に民家が増え、流れ弾や騒音にたいする苦情が増えたために、射撃場には巨大なコンクリート製の射撃用隧道がつくられたのだという。跡地の一角に現在は早大の西早稲田キャンパスがあり、被災地となった通りからも、曽祖父母の家があった場所からも、特徴的な高層の51号棟がよく見えた。 

  私の祖母は1908年に長崎で生まれ、曽祖父が拓殖大学で教え始めた1920年ごろに東京に引っ越したのだと思われる。祖母からは1923年の関東大震災のときは庭に飛び出したという話を聞いたことがあるが、当時すでに西大久保にいたのかどうかは不明だ。除籍謄本では、1930(昭和5)年に西大久保に転居したことになっており、この家で撮影された曽祖父母の写真で残っているいちばん古いものは昭和8年だった。 

  それにしても、陸軍関連の施設とこれほど接近した場所に、よりによってなぜ曽祖父母は住んでいたのだろう。ドゥーリットル空襲時に西大久保に飛来した1番機の本来の目標は、後楽園にあった陸軍造兵厰東京工廠だったと言われているが、このとき西大久保が狙われ、1945年4月にも再び空襲に遭ったのは、陸軍関連施設が周囲にあったせいではなかったのか。そんな疑問がずっと頭の片隅にあったので、今回、もう一度、ドゥーリットル空襲関連の情報にも当たってみた。何と言っても、後楽園と西大久保では4km以上離れている。陸軍造兵厰東京工廠そのものは実際には関東大震災後で被災して、1935年に小倉へ完全に移転していた。 

  この空襲に関しては、スコット・ジェイムズという人が2016年に刊行した「Target Tokyo:Jimmy Doolittle and the Raid That Avenged Pearl Harbor」という本が好評らしく、ちょうど西大久保の空襲に関連したページがネット上で読めたので、ざっと見てみた。それによると、1番機は予定していた犬吠埼より50マイルほど北にずれて日本領土上に侵入し、手賀沼の水面をかすめ、隅田川を越えてから、皇居の北数マイルの場所にある主要ターゲットのarmory(武器庫、兵器工場)に向かった。24歳の三等軍曹フレッド・ブレーマーがarsenal(兵器庫)を目視したあと、1:15 p.m.(日本時間は1時間遅れ)に搭載していた4発の焼夷弾のうち、最初の1発が地上へ落とされたのだという。そのあとの3発はただ次々に投下されたとのみ描写されていた。それぞれに重さ訳2kgの小型爆弾(エレクトロン焼夷弾子)が128発入っていた。 

   使用されたB25という爆撃機の爆弾倉は、ボタンを押すとゆっくり観音開きに開いて、爆弾がただ落下する仕組みだったようだ。飛行高度、飛行速度、風向き、風速などによっても落下場所は大きくずれそうだし、目視してから爆弾倉が開くまでのタイムラグもあっただろう。柴田武彦の『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』を参考にすると、小石川区関口水道町、早稲田中学、陸軍幼年学校、および西大久保3丁目が被災している。結局のところ、ドゥーリットル機としては飽くまで陸軍造兵厰東京工廠を狙ったのであり、合計4発搭載していたので、残りは少しずつ南へ方向転換するなかで順次、適当に投下した、ということのようだ。 

  1945年の空襲時に陸軍関係の施設が狙われたのかどうかはまだわからないが、少なくともドゥーリットル空襲については、当時の米軍のあまりにも精度を欠く攻撃方法ゆえに、まるで無関係の学校や住宅地が被災したのだった。考えてみれば、付近には生徒が犠牲になった早稲田中学だけでなく、早大戸山キャンパスのほか、善隣協会専門学校などの教育機関が、陸軍関連施設を囲むように立っていた。空襲されるという発想がそもそもなかったのかもしれない。学習院女子大は青山で空襲に遭い、戦後になってから近衛騎兵連隊の跡地に、都立戸山高校とともに移転していた。 

   新緑の戸山公園内は、20度を超える気温でも快適な涼しさで、戸山ハイツの住民と思われるお年寄りや家族連れが、静かな連休を楽しんでいた。ここは戦後すぐにGHQの提唱によって整備が始まった団地で、その後数度にわたる建て替えを経て現在にいたる。公園内にある戸山教会と併設された幼稚園は、陸軍戸山学校の将校集会所を土台に残す形で建てられている。グーグルマップでは「旧陸軍戸山学校野外演奏場跡」も見つかったが、5月・6月にそこで予定されている野外劇の案内のほかは、現場に史跡を示す看板等は見当たらなかった。幕末か明治初期の横浜の山手公園野外音楽堂を思わせる造りだったので、一目でピンときたが、中央の銅板も戸山公園とつくり変えられていたので、付近を探し回るはめに。 

   尾張藩の広大な屋敷跡に、老朽化しつつある都営住宅が立ち並ぶ光景を見ているうちに、ふと「great leveler、偉大な格差撤廃者」という言葉が脳裡に浮かんできた。疫病や戦争のように、社会が壊滅的な打撃を受けて人口が激減してようやく、平等が推進されるというものだ。明治維新が尾張藩邸を陸軍用に接収したとき、ある程度、身分による格差は撤廃されたが、戦後、庶民が入居できる都営住宅がこの緑地に整備され、公園として一般人にも解放されたことは、より象徴的な出来事に思えた。 

   戸山公園内をぐるぐる回ったあと、地図上では大した距離ではなく見えた榎町の宗柏寺まで歩こうと思ったところ、何度も道を間違えて、暑いなかをやたら大回りすることになった。だが、おかげでドゥーリットル機が最初に焼夷弾を落とした早稲田鶴巻町も通ることができたので、よしとすることにした。歩けなくなってきたら、街歩きの際はもっと事前の下調べが必要だ。 

 グーグルマップの「スター付き」に保存してあった宗柏寺には、ハリスとの折衝を何年にもわたってつづけたあと、幕末の外国奉行の一人としても活躍した井上清直が眠る。井上は才気のある岩瀬忠震の陰になって忘れられがちだが、実兄である川路聖謨以上に、優れた外交官だったと思う。墓標は風化してよく読めなかったが、名前の横に「幕府外国奉行信濃守」の文字が読めて嬉しかった。手を合わせて黙祷した途端、蚊に刺されたのには閉口したが。隣にある水盤を覗き込んだら、ボウフラがたくさんいた。5月初めから蚊に悩まされるとは、この先が思いやられる。

  西大久保3丁目にあった曽祖父母の家の前で

ドゥーリットル1番機で被災した付近。前方に見える高層ビルが早大の51号棟

曽祖父母の家の跡地。古い地図では道の左右両側が30番となっているが、おそらく左手の白いアパートがある場所。早大の51号棟がこの位置から見える

 将校集会所の上に立つ戸山教会

 野外演奏場跡

 尾張藩の戸山屋敷跡

 戸山ハイツ
  
 宗柏寺の井上清直の墓