2018年2月28日水曜日

幕末の外国人殺傷事件

 仕事と雑用に追われているうちに、ただでさえ短い2月が終わってしまった。幕末のオランダ商人の本は初校を終えたので、だいぶ片づいた気はするのだが、次のゲラはまるで分野が異なるので、机や床の上に散乱した参考文献とコピーの山、それに何よりも頭のなかを整理しないと、何をどこで読んだのか、あとでさっぱりわからなくなってしまう。あれこれ調べているうちに、気になっていたいくつかの点を備忘録代わりに書いておく。  

 発端は、幕末最初の外国人殺傷事件、つまり1859年8月18日(安政6年7月20日)のロシア海軍軍人殺害事件の犯人が、水戸天狗党の藩士、小林幸八だと多くの資料に書かれていることだった。ところが、『日本人名辞典』によれば、小林幸八には小林忠雄という変名があった。一方、小林忠雄というのは、同年11月5日に起こったフランス領事代理ロウレイロの中国人従僕殺害事件の犯人として捕まった水戸浪士なのだ。ロシア人殺害者を小林幸八とした最も古い記述は、私が見つけた限りでは1898年刊の田辺太一の『幕末外交談』(p. 121)だった。1909年刊行の『横浜開港五十年史』上巻は、この田辺の書と同様の記述でロシア人殺害犯を幸八に、中国人従僕殺害犯を忠雄という別人にして(pp. 401、405)、幸八は水戸の武田耕雲斎らによる天狗党の乱が鎮圧された際に、ロシア人殺害犯であることが判明して横浜に送られ、慶応元年(1865年)5月に戸部で処刑されたとしていた。1931年刊行の『横浜市史稿』政治編2(p. 404)では、中国人従僕殺害犯の忠雄が天狗党の一派で、戸部で処刑され、共犯者の水戸の高倉猛三郎は遠島に処せられたとある。1959年発行の『横浜市史』第2巻(p. 254)は、『横浜開港五十年史』と同様の説明だ。かたや、『幕末異人殺傷録』(1996年)を書いた宮永孝は、1865年7月30日にフランスのメルメ・ド・カションが小林忠雄を尋問した記録を引用し、慶応元年8月11日に戸部で打ち首になったとしている。J・R・ブラックも中国人殺害について言及しているが(『ヤング・ジャパン』1、p. 33)、戸部での打ち首は1867年のこととしている。  

 なぜこうも食い違っているのか。小林幸八は、司馬遼太郎が河合継之助について書いた『峠』にも登場するようだし、水戸藩属吏として贈正五位に叙せられているという。幸八と忠雄は同一人物なのか。彼は二度の殺人事件の犯人なのか、それともどちらか一方なのか。当時、横浜にいたジョゼフ・ヒコによると、ロシア人殺害事件は、「日本人一名太刀を以て走り蒐(かか)り、やにはに一人を切仆し数人に重傷を蒙らしぬ」(『ジョゼフ・ヒコ自叙伝』、p. 133)と、単独犯のようだ。じつはこの事件を測量船フェニモア・クーパー号の船員が目撃しており、水野・加藤両奉行が幕府公文書に「亜国測量船之水夫弐人其場之様子目撃せし迚(とて)、右船将よりも其始末具(つぶさ)に書記し、差し越したれば」(『開国の先駆者 中居屋重兵衛』、p. 159に引用)と書かれているようなので、ジョン・M・ブルック船長による報告がどこかに残っているかもしれない。中国人殺害犯は2人で、これは即死でなかった被害者自身が、提灯をかざして顔を覗き込まれたと語った記録が複数あるため、かなり確かだろう。小林忠雄を尋問したメルメ・ド・カションの記録は、非常にトンチンカンな内容だ。なぜ、清国人を殺したのかと問うと、「清国人ですと!……唐人(ヨーロッパ人)です……役人衆は清国人であったと信じさせたかったのです」と忠雄は言い張り、殺した相手は西洋人と信じ込んでいた模様だ。だが、雨の夕暮れで、主人のロウレイロの外套を着て、洋装していたとはいえ、提灯の明かりで顔を見たのであれば、西洋人と中国人を間違えるだろうか? 小林幸八は実際にロシア人殺害犯で、英仏両国を納得させるために中国人殺害犯に仕立てあげられたと考えれば、双方の話が食い違った理由は説明がつきそうだ。

 だが、田辺太一は『幕末外交談』(p. 142)に堀織部正利煕の自殺の原因として、「堀の従僕に、水野行蔵といふものありて、水戸藩と相交り、横濱にて魯西亜士官を(爿部に戈)殺せし一人なりとの嫌疑ありしを以て、職掌上深くこれを辱として、か〻る次第に到れるなりともいへり」とも書いている。庄内藩の脱藩浪士、水野行蔵は、堀の従僕として箱館に赴いた人なので、樺太全島の領有権を主張したムラヴィヨフに腹を立てたと考えれば、殺害動機としては筋が通る。しかも、この人物は虎尾の会の清河八郎の愛妾、お蓮の面倒を何かと見るなど、かなり親しい間柄だったのだ。真犯人はいったい誰なのか。堀の家には坂下門外の変で闘死した河野顕三も寄寓しており、「その門下の者に不逞の徒がいなかったとは言い切れない」と、田辺太一は書いた。ちなみに、河野顕三は贈従五位で、靖国神社に祀られているらしい。外国奉行と神奈川奉行を兼務していた幕吏の身辺にまでテロリストがいたという事実は、幕末史を理解するうえで重要なポイントかもしれない。  

 もちろん、堀織部正自身がただの排外主義者だったとは思わない。馬輸送を強引に迫るイギリスにたいし、「馬は武器第一にいたし、夫故馬具も武器に有之……支那と日本とは何之隔意も無之、戦争に用ひ候馬を、日本より出シ候ては、支那之恨を醸し候也」と主張した一例をとっても、まっとうな感覚の持ち主だ。村垣範正らとともに幕末に樺太まで調査に赴いた幕吏でもあり、箱館時代の従者には「不逞の輩」だけでなく、榎本武揚、武田斐三郎、玉虫左太夫、島義勇など錚々たるメンバーが揃っていた。国にたいする貢献としては、彼らのほうがはるかに大きかったはずだが、明治以降に贈位されることはなかった。開国したおかげで政権の座に着いたはずの明治政府にとっては、やみくもに刀を振りかざした者のほうが表彰すべき対象だったというのが、いまのところ私が理解しえたことだ。
 

村垣範正の公務日記付録。樺太のエンルモコマフの図。 「蝦夷の海のあらきしほ路にひれふるハ鯨しやちほことゝにあさらし」

戸部の刑場があったくらやみ坂

2018年1月31日水曜日

幕末のオランダ商人

 海外から仲間が一時帰国するのに合わせてほぼ例年、和食の飲み屋やレストランで学生時代のサークルの同期会を開いているのだが、今年は私の勝手なお願いで銀座のポルトガル料理屋にしてもらった。お目当てはポートワインとマデイラワイン。先月の「コウモリ通信」にも書いた幕末のオランダ商人の本に、こうしたワインの話が度々でてくるからだ。それをただカタカナして済ませてしまうのは簡単だ。でも、「イギリス人たちは食事と一緒に飲んだ大量のポートワインの影響がまだ抜けていない」などと訳していると、幕末の日本まで船で運んできたワインがどんなものであったか、つい気になる。ポルトガル・ワイン専門店に気軽に行ければよいのだが、そんな気持ちの余裕もなく、昔の仲間の好意に甘えることにした。どちらも飲み放題プランには含まれておらず、今回は私だけこの甘いワインをアプリティフに飲ませてもらった。初めて食べるポルトガル料理は、魚介類たっぷりで素晴らしくおいしく、その他のワインやビールも飲み過ぎたので、食後のマデイラは諦めたが、ほんの一杯でも飲んでみると、居留地で酔っ払った外国人たちのことがより身近に感じられるから不思議だ。  

 ワインにはまるで詳しくないが、大阪日本ポルトガル協会によれば、ポルトガルのワインの歴史は紀元前5世紀にフェニキア人によって始まり、マデイラワインは17世紀から、ポートは18世紀には登場し、スペインのシェリー酒と並んで、世界3大酒精強化ワイン、つまりアルコール度を高めたワインとして知られているそうだ。ウィキペディアによると日本に最初にもたらされたワインはポートワインらしい。  

 この本はおもに横浜について書かれているのだが、1章だけ開国前の長崎の出島について割かれた章がある。一昨年に佐賀と長崎に旅行した際、夕方に駆け足ではあったが出島跡も見学したので、およその雰囲気はわかったが、水門や一番船船頭部屋、涼所などがどう再現されていたかは記憶にない。著者のオランダ商人デ・コーニングは、1851年に若い船長として出島に3カ月間滞在したことがあった。上陸した初日、家具一つない部屋で呆然としていたところへ、買弁が歓迎の意を込めてMoscovisch gebakなるお菓子を届けてくれた。これはマデイラケーキらしいが、オランダ語で検索するとやや異なるものがでてくる。そこへ通詞の吉雄作之烝と目付がやってきたため、携帯用フラスクに詰めたコニャックを分け合い、ちょっとした宴会を開いた。「二人の紳士が菓子数切れを食べ、コニャック数杯を飲み干したところで、作之烝は──まずは〈ジュール・ロバン・コニャック〉の名前を手帳に書き込んだあと──知り合えてよかったと述べ、それから暇乞いをした」。想像するとなんともおかしい。 「1782年創業のこの会社は今日でもコニャックを製造している」という英訳者の註を読み、私がネット検索したのは言うまでもない。作之烝もただの飲兵衛ではなく、仕事熱心だったのだと考えたい。当時と同じものかどうかはわからないが、ヤフオクにそれと思しきものがいくつか出品されていたので、木箱入りの、いかにも舶来品風のコニャックをつい購入してみた。無事に本になった暁に封を開けようと、こちらはまだ手を付けていない。  

 ジュール・ロバンが幕末にどれだけ輸入されていたかはわからないが、1862年9月13日付の『ジャパン・ヘラルド』紙に掲載された別のオランダ商人ヘフトの広告では、ドルフィン号で到着したばかりの「ジュール・ロバン社コニャックの積み荷」が、砂糖やボローニャ・ソーセージなどともに宣伝されていた。ついでながら、同じ紙面に10月1日・2日に開催予定の競馬の予告があるほか、乗客欄には、ランスフィールド号で上海から到着したイギリス公使館のロバートソンとサトウの名前がある。この船は薩摩藩が買って壬戌丸となった。  

 一読者として本書を読んだときには、調べたかった情報を手っ取り早く知ることに重きを置いてしまうので、こうした些細な事柄は読み飛ばしていた。とくにネット上で、知りたいキーワードを検索して、該当ページの前後だけを拾い読みした場合には、こうした「味わい」は得られない。本書には歴史的な「新事実」がかなり含まれており、史料としての価値がかなりあると思われる。だが、それ以外の、ページの端々に書かれていたちょっとした描写にも、別の意味の発見がある。幕末に来日した多くの外国人は、江戸湾に近づくにつれて見えてくる富士山の圧倒的な美しさに言及しているが、デ・コーニングも例外ではない。9月初旬に彼が来日した際に、すでに冠雪があったのかどうか定かではないが、彼の見事な描写は、冬に東南アジア方面から早朝に成田に着く便で帰国した際に、日本列島の上にそびえる富士山を見たときの感動を思いだす。いつか長い航海のあとに、海上から眺めてみたいものだ。  

 やはり多くの外国人が書いているのは、日本の冬の野山に咲く椿だ。私には垣根のイメージしかなく、身近過ぎて意識に上らない花だったが、17世紀にケンペルが紹介して以来、東洋の神秘と結びついてきたのか、「椿姫」のオペラが上演されたばかりだったのか、彼らは椿に日本の美を感じていた。近所の公園に珍しく大木があったので、「椿が咲き乱れる森」はこんな感じだろうかと想像してみた。本は読み方しだいで、いかようにも楽しめる。

 ポートワイン

 ジュール・ロバン・コニャック

 出島の「カピタン部屋」のダイニング

 大木になった椿

2018年1月4日木曜日

A Pioneer in Yokohama

 この数年、毎年恒例のように締切りに追われた仕事をかかえての年越しとなっている。昨夏は3カ月間も仕事のない状態がつづいたので、それを考えれば、たとえ時間に追われていても、仕事があることはありがたい。しかも、いま取り組んでいる本は、失業中に読んであまりにもおもしろかったために、翻訳企画をもちかけて、とんとん拍子に決まったものなので、正月返上などとぼやいたら、罰が当たりそうだ。年末も必死に見直しをして過ごし、頭のなかがこの本のことでいっぱいなので、年始のエッセイながらちっとも新年らしくない話題で恐縮だが、どうぞご勘弁を。  

 今回の本は、じつは開港当初の横浜に住んでいたオランダ商人によって140年ほど前に書かれた、事実にもとづく冒険譚だが、原書がオランダ語だったせいかいままで邦訳されていなかった。6年ほど前にこの本がアメリカで英訳されたおかげで私の目に留まることになった。史料も少ない幕末の横浜・長崎について、アメリカの研究者があれこれ調べ抜いて訳してくれたのに、とうの日本の読者がそれを知らずにいるのはあまりにももったいない。そう思って、重訳にはなるが、翻訳すべき作品と考えた。  

 本書には、日本の歴史家が見落としてきた驚くべき事実がいろいろ書かれている。その一つに、コウモリ通信でも何度か触れた日本最初のホテルであるヨコハマ・ホテルに関する話があった。英訳者があげていた参考文献のリストには、澤護の『横浜外国人居留地ホテル史』も含まれていた。澤先生には大学時代に教わっているのだが、フランス文化史だったか文学史だったのかも覚えていない情けなさだ。のちに横浜の歴史に興味をもつようになり、ご著書を何冊か読んだ矢先に、先生は急逝されてしまい、横浜の歴史について直接お聞きする機会は永久に失われてしまった。それでも、ネット上に残された数々の論文を見つけるたびに、初期の横浜で活躍しながら誰からも忘れられた人びとを、一人ずつ丹念に調べあげておられた澤先生の熱意に感服したものだ。  

 ヨコハマ・ホテルは、ここが当初唯一のホテルであり社交場でもあったため、数多くのエピソードを生む舞台となったのだが、ここがそもそも開港期に幕府が建てた御貸長屋の一隅であったことを、先生は気づいておられただろうか。しかも、まだ商館用の土地すら整備されていないのに、遊郭だけは用意しなければならないと考えた幕府が、太田屋新田の沼地の埋め立てが間に合わなかったために、唯一の役場であり、税関であった運上所の目と鼻の先に、急遽、臨時の遊郭を開業させたのだという。数カ月後に遊郭が現在の横浜公園の場所に移転すると、この長屋が空いて、そこをオランダ船ナッサウ号の船長だったフフナーゲルが買い取り、ホテルに改装したのだという。  

 この一件に関する著者デ・コーニングの解説がじつにおもしろい。「東洋人はみなそうだが、日本人は非常に好色な民族だ。ヨーロッパ人との接触がなかったため、われわれの潔癖な習慣のことは知らず、外国人にも自分と同様の欠点は見られるに違いないと彼らは考えていた。外国人が日本を訪れたがるのは、ひとえに日本女性と知り合いになる下心があるためだという間違った観念を、非常に多くの日本人がいだいていたのである。荒海を航海してきたあと、横浜の桟橋に晴れ晴れと上陸した多くのまっとうな外国人は、礼儀正しい日本人がする無作法な仕草に直面することになった。彼らは歓迎のつもりで、遠路やってきた外国人がついに極楽に到着したことを知らせようとしていた」。遊郭の仮宅を改造したヨコハマ・ホテルについては、こう書いている。「これは日本の不道徳にたいして上品な文明が収めた最初の勝利であり、しかも数カ月前まで堕落した信奉者のいるお茶屋が放置されていた、まさにその場所で遂げられた勝利であった」  

 日本の歴史家は通常、遊郭は一般の日本女性に外国人が手出ししないようにするために講じられた対策だったと説明する。実際、初期に単身で横浜にきた外国人の相当数が、「らしゃめん」を一人ないし二人囲っていた。しかし、こうした女性たちは実際には大半が女郎ではなく、町娘だったようで、日本通で知られた人びとの多くにはこのような日本人の内妻がいた。彼女たちはかならずしも、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』に登場する亀遊のような、喧伝された悲劇の主人公であったわけではないのだ。デ・コーニングによれば、開港当初の横浜には金貿易目当てのならず者の外国人も大勢いたので、幕府の対策がまったくの杞憂だったとは言えない。それでも、純粋に自由貿易のために来日した大多数の外国人にとっては、幕府によるこの過剰な手配は余計なもの、もしくは滑稽なものだったに違いない。今年は明治維新150周年でもあり、開国とはなんだったのかを振り返るよい機会でもある。なるべく春には刊行できるよう努力したい。
 
 現在、翻訳中の A Pioneer in Yokohama
 
『横浜外国人居留地ホテル史』 澤護著(白桃書房)

2017年11月30日木曜日

「松平忠固公を語る講演会&トークセッション」

 だいぶ以前のことだが、高校の夏休みの宿題で娘が親戚に聞き取り調査をしたことがあった。そのとき、私の祖父が子供のころ父親に連れられて上田の旧藩主にご挨拶に伺っていたという話を聞いた。私の知る限り祖父は型通りの礼儀作法を重んじるタイプではなかったので、何やら意外な気がして、その話は印象深く残った。明治末期か大正初めのことだろうか。  

 そんなこともあり、このたびその旧藩主のご子孫から、上田で松平忠固に関する講演会があるので、その折にでもお会いしましょうという旨のお電話を頂戴したときは、心踊る気分になった。誰でも参加可能の講演会ではあったが、会場となった藤井松平家の菩提寺である願行寺へ向かいながら、藩主を片隅から眺めるしかなかったであろう祖先のことを考え、私も同じくらい緊張した。  

 日本が近代化に向かい始めた明治時代は、こうした封建時代の身分制度がなくなり、しがらみがなくなった輝かしい時代のように錯覚しがちだが、現実には版籍奉還という名目で各大名の所領が一気に取りあげられ、武士階級は士族という名ばかりの存在になり、その一方で明治維新の功労者や財閥の当主は大名や貴族と並んで華族になり、かつての大名屋敷跡を買いあげた時代でもあった。幕末の江戸の地図と明治の地図を見くらべれば、明治維新が実際には革命であったことが実感できる。 

「それは人間を〈生まれつきの上位者〉と結びつけていた雑多な封建的絆を容赦なく断ち切り、そのあとに残された人と人の結びつきと言えば、むきだしの私利追求、すなわち無情な〈現金支払い〉しかない」というのは、ブルジョワ社会について述べた『共産主義者宣言』(1848年)の一節で、昨年刊行されたトリストラム・ハントの『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)に引用されていたため、四苦八苦しながら訳したものだ。藩主が〈生まれつきの上位者〉であるかはさておき、それまで数百年にわたって築かれていた主従関係が崩れ、明治維新を境に多額の資本をもつ人が事実上の支配者となり、人と人の関係がただの〈現金支払いの結びつき〉、つまり義理も人情もなく、ひたすら経済関係になったことが、この政変の本質だったのではないのか、とこの本を訳しながらよく思った。ブルジョワ階級は、「あらゆる国の民を、滅亡したくなければ、ブルジョワ的生産様式を採用せざるをえない状況に追いやる。人びとはブルジョワ階級が文明と呼ぶものを自分らのなかに導入させられる。すなわち、彼らもまたブルジョワにならざるをえない」。私は訳者あとがきに、これは明治の日本を念頭に書かれたかと思うほどだと書いた。同宣言には、資本主義が生みだす「消費財の安い価格は重砲であり、万里の長城をもなし崩しにし、頑なに外国人を嫌う未開人たちをも降伏させる」ともあった。  

 上田藩主の松平忠固は、日米和親条約、日米修好条約の二度の条約締結時に、老中として強力に開国を推し進めた人だ。1840年のアヘン戦争に危機感を抱いた松代藩の佐久間象山が1842年に書いた「海防に関する藩主宛上書」を早期に目にする機会は、上田と松代の関係から考えて充分にあったに違いない。忠固は姫路城主の酒井家から藤井松平家に養子に入った人で、開国せざるをえない世界情勢であれば、それを逆手にとって貿易で利益を得て財政を立て直そうとする商才もあった。そんな彼が周囲の反対を押し切って開国を主張し、その衝撃を緩和するために開港を限定的、漸進的に進め、アヘンは禁輸するなど、諸々の対策を講じたはずであることは不自然なほど知られていない。封建時代の日本の開国には、電気も水道もなかった部族社会に突然、ソーラー発電とスマホが入るような混乱があったはずだ。産業革命を経た欧米諸国で量産された武器や弾薬、軍艦は、戊辰戦争で多くの人命を奪っただけでなく、それらを競って購入し、大枚をはたいた諸藩や徳川政権の財政も狂わせた。維新後、大名たちは華族となって特権を維持したものの、いち早くブルジョワになった資本家に借金をし、財産を処分して手にした一時金を、投資に使うすべを知らないまま浪費して、いつ間にか身ぐるみ剥がれていったのだろう。  

 地元の明倫会主催の今回の講演会では、忠固の末裔の方々だけでなく、上田高校のOBとして『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)を執筆された関良基氏や郷土史家の尾崎行也氏、貨幣史の研究から忠固に注目し脚本化なさった本野敦彦氏のお話も伺うことができた。忠固に関する史料は上田にもご子孫のもとにもわずかしか残されていないようだが、この祖先の実像を美化することなく、見極めたいという玄孫の浦辺信子さんの言葉には共感するものがあった。忠固が条約の締結を急いだ理由が、イギリス艦隊が来襲する前により穏当な交渉相手であるハリスと、日本に有利な条件で最恵国条約を結ぶことにあり、当初の関税率は20%であったのに、下関戦争の敗戦によって一律5%に減らされた、という関氏のご指摘は鋭かった。  

 講演会の前には上田市立博物館で開催されていた赤松小三郎企画展を覗き、上田城址にある戊辰戦争碑のかすれた文字に目を凝らし、上田市図書館や、うちの祖先の菩提寺だったという宗吽寺の墓地にも立ち寄った。私のこうした調査は考えてみれば、明治以降の日本では葬り去られた江戸時代までの、金銭上の損得とは違う次元の絆としがらみを探るものでもある。先祖探しを最初に始めた娘は、歴史にはその後ちっとも興味を示さないが、近刊の絵本『じょやのかね』(福音館書店)には、地域のまとめ役であり、時計代わりでもあった寺の役割を見直す意味も込めていた、と私は思っている。

 上田の三領主の紋

 上田城址公園

『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ──テロに葬られた立憲主義の夢』 関 良基著、作品社

2017年10月31日火曜日

『Magnificent Birds』と『じょやのかね』

 ちょうど1年ほど前、駆けだしの絵本作家である娘のなりさのもとに、思いがけない話が舞い込んだ。以前に挿絵の仕事をもらったことがあるイギリスのウォーカー・スタジオから、「野鳥の会」本家とも言えるイギリスのRSPBとの共同事業で鳥の絵本をつくる企画があるので、その絵を描かないかと打診してきたのだ。その後、話が二転三転し、いざ引き受ける段になったら、世界のすごい鳥ばかりを、見たこともないものも含めて18点、難易度の高いリダクション法の版画で、納期は3カ月と、信じ難いような展開になった。  

 それからというもの、くる日もくる日も机に向かい、日替わりで絵師と彫師と擦師を兼業するという、娘にとって地獄のような日々が始まった。うちにはもちろんプレス機はないので、ひたすらバレンで擦るしかないが、娘は私よりはるかに骨細で、体重も軽いのでプレス効果は乏しい。『Magnificent Birds』と題された本の表紙と裏表紙には、日本人アーティストを起用したからか、タンチョウが選ばれた。BBCの日本紹介番組でもタンチョウは大きく取りあげられ、イギリス人観光客にとって憧れの鳥なのだそうだが、家にこもって、背中を丸めて日々リノリウム板と格闘する娘の姿こそが、何やら『鶴の恩返し』のようで、「決して見てはいけない」やせ細った鶴を思わせた。  

 それにしてもなんでタンチョウなんだろう。シマフクロウのほうがよかったんじゃないか。壁にずらりと貼った試し擦りをぼんやりと眺めているうちに、ふと脳裏に浮かんだものがあった。幕末から明治にかけて、チャールズ・ワーグマンが発行した『ジャパン・パンチ』の表紙画だ。「パンチの守」という鼻の大きな架空の人物の両脇に二羽のタンチョウが侍る少々奇妙な絵が、毎号の表紙に使われていた。ワーグマンはタンチョウをただ日本の工芸品から写したのだろうか。釧路まで行ったとは思えないが、横浜近辺で目撃したのだろうか。広重の「名所江戸百景」の三河島にはタンチョウらしき鶴が描かれている。幕末に来日して克明な日記を残したフランシス・ホールは、1860年1月に江戸へ戻るハリス公使を送って六郷の渡しまで行った際に、「背の高い青と白の鶴が闊歩」と書いた。いまはほぼ九州にしか飛来しないマナヅルだろうか。  

 この年11月下旬に、マイケル・モスというイギリス人が狩猟にでかけて雁を仕留めて帰る途中、神奈川湊の近くで役人に咎められ、乱闘になった末に銃が「暴発」して役人の一人が負傷し、モスが奉行所に連行された事件についても、F・ホールは日記に詳述している。モスを救出するために、ヴァイス英領事が武装した横浜の居留民を引き連れて奉行所に押しかけ、プロイセン海兵隊も協力して威嚇し、後日、外国人の逮捕をめぐる規定が設けられたことなどから、治外法権・領事裁判権の問題でよく取りあげられる「モス事件」である。幕末の混乱期には狩猟を生来の権利と主張するイギリス人と多くのトラブルがあった。ヴァイス領事のもとで働いていた横浜の古老も、ある異人が「馬丁を連れて鉄砲打ちに出かけまして、鶴を一羽打って来て、私に料理しろと申しますから、これは禁制の鳥だから、私には手をつけることが出来ぬと断りましたが、異人は、戸部の奉行所へ喚出されて一応のお調べを受けた」と語った(『横浜どんたく』に再録)。ホールが日記に書いたことはもちろん誰かから聞いた話だ。実際にはモスがナベヅルか何かを撃ち、そのせいで役人に見咎められた可能性もなきにしもあらずだ。その事件を古老がやや記憶違いしたのではないか。  

 ワーグマンの「パンチの守」はワーグマン自身だと一般には解釈され、後年には確かにそうだったと思うが、もともとはパンチという渾名で知られ、やはり大きな鼻で『ジャパン・パンチ』に描かれていたヴァイス領事や、鶴を保護した神奈川奉行がモデルだったかもしれない。イギリスの絵本の担当者は誰もそんな歴史的背景は考慮していなかっただろうが、世界のすごい鳥の絵本の表紙をタンチョウが飾ったことには、大きな意味があったような気がしてきた。(後日、ワーグマンの表紙絵をよくよく見たら、タンチョウではなく、コウノトリであることに気づいた!) 

 ホールが六郷で鶴を見た翌々日は安政7年の元旦だった。「真夜中に寺の鐘が鳴りだし、朝まで間隔を置いて聞こえていた。日本人は少なくとも神奈川では、新年に中国人がやるような派手なお祭り騒ぎをしない。昨晩は各家の戸口に大きな提灯が下げられ、通りが明るく輝いていた」と、ホールは日記に書いた。当時、彼は神奈川の宗興寺にシモンズ医師とともに住んでいたと思われるが、彼が聞いたのはどこの鐘だったのだろうか。線路を挟んだ向こうにアメリカ領事館が置かれていた本覚寺があり、境内にはいまも鐘楼がある。  

 じつは、すごい鳥の絵本の仕事が終わった途端、娘は数年前から取り組んできた『じょやのかね』の残りの制作作業に移り、そこからまたひたすら彫っては擦る日々が始まった。ふだん生物や自然を描くことの多い娘にしては珍しく、今度は人間が主人公でお寺が舞台、しかも人一倍、色にこだわりがあるのに、この本は白黒とあって、頭の切り替えがなかなかできなかったようだ。モデルにしたのは船橋のお寺で、娘が小学生のころ、たまたま新聞か広報で除夜の鐘が撞けるお寺が近くにあると知って、毎年詣でるようになったところだ。寒いなか静まり返った暗い夜道を歩いたあとに、赤々と燃える篝火と湯気の立つ甘酒とお腹に染み渡る鐘の音で迎えてくれたお寺は、子供心に強い印象を残したようだ。この本は、初めて真夜中まで起きて、古い年が終わって新しい年がくる魔法の瞬間を見届けようとした幼い日の体験を描いたものでもある。 『じょやのかね』は福音館書店から刊行される。

『Magnificent Birds』は、紀伊国屋の洋書専門店である新宿タカシマヤ6F、Books Kinokuniya Tokyoで販売予定のほか、アマゾンでも購入できる。身近な方へのクリスマス・プレゼントにでもしていただけたら、とてもうれしい。

Magnificent Birds, Narisa Togo 絵, Walker Studio

『ジャパン・パンチ』の表紙画、 『横浜市史稿』より

『じょやのかね』 とうごうなりさ作、福音館書店

神奈川の本覚寺

2017年9月30日土曜日

森山栄之助

「昼食のとき、幸いにも肥後守の隣の席になったので、われわれは彼の扇子に単語帳をつくる作業に勤しんだ。彼はつい数カ月前まで、一度も外国人を見たことがなかったが、英語の文字は書くことができ、私が教えたすべての母音をすぐに聞き取って、正しく発音できるようになった。自分はまもなくヨーロッパへ派遣される大使の一人となるべく努力しており、そのため英語を学ぶ機会を失うまいとしているのだと彼は言った」。これはローレンス・オリファントが『エルギン卿遣日使節録』のなかで、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」である岩瀬肥後守忠震について書いた一節だ。英単語を書き取った筆記用具は筆だろうか。胸元から翻訳アプリ付きのスマホの代わりに、外国語の単語を並べた扇子を取りだして、覚えたての新しい言葉を筆ペンでサラサラと書き込んだら、それだけで会話が弾むかもしれない。  

 岩瀬忠震は、1858年7月29日にポーハタン号上で井上信濃守清直とともに日米修好通商条約を締結した人だ。つまり違勅調印と糾弾されつづけた行為の当事者である。調印に先立って孝明天皇の勅許を得るために、口下手な堀田正睦が上京した際には、能弁な岩瀬が助太刀する予定だったが、官位が低すぎて実現しなかったという。一年以上におよんだ交渉の矢面に立ったのは下田奉行だった井上で、ハリスやヒュースケンの日記には「信濃守」が頻出する。井上の兄で、奈良奉行時代に朝廷に強いパイプをもっていた川路聖謨も上京したが、勅許は得られなかった。幕府はそのままアメリカにつづいて、オランダ、ロシア、イギリス、そしてフランスとも次々に条約を結び、岩瀬はそのすべての調印にかかわる活躍をしたが、一橋派であり、弁が立ちすぎたのか、井伊直弼に睨まれて安政の大獄で永蟄居となり、1861年に42歳で病死した。  

 こうした幕末の重要な交渉にほぼかならず登場するのが、Yenoskyとハリスに呼ばれた森山栄之助(多吉郎)というオランダ通詞だった。「森山は気取った滑稽な作法の陰に、実際的かつ鋭い常識を限りなく秘めていた」と、オリファントも前述の本に書いている。「実際、彼はタレイラン風の外交官で、つねに穏やかに微笑み、しがない通訳に過ぎないという印象を与えようとしていたが、その人当たりのよい慎み深い態度からも、すべてを思いどおりに運ぼうとする秘めた野心と、みずからの能力へ揺るぎない自信が容易に見て取れた」  

 長崎生まれの森山はオランダ語が堪能なだけでなく、早い段階から英語も独学しており、1845年には浦賀で日本人漂流者を送り届けにきたアメリカ捕鯨船マンハッタン号との交渉を、片言の英語と身振り手振りでやってのけた。その後、ラナルド・マクドナルドというアメリカ先住民チヌーク族との混血青年が、自分のルーツを求めて極東の日本へ密入国してきた好機に飛びついて、通詞の仲間14人で英語を学んだ。「学習は、大悲庵の座敷牢の格子を挟んで行なわれた。マクドナルドが牢の中で、英語を音読すると、格子の外側に並んで座っていた通詞たちは、一人一人順番に音読した。マクドナルドは、その都度発音を訂正し、そうして出来るだけ、彼が覚えた日本語でその意味などを説明した。それでもどうしても文字に書かなければ理解できないような時には、栄之助が中に入って蘭英辞書で確認したり、紙に書いたりして通詞たちに回覧させた」(『幕末の外交官森山栄之助』)。こんな授業なら、誰も居眠りはしなかっただろう。だが、7カ月後にはアメリカ軍艦プレブル号が捕鯨船乗組員らを引き取りにきたため、マクドナルドも帰国してしまった。船員らが長崎で虐待されていると噂されたあげくの来訪だったので、一歩間違えれば大事件に発展したところを、森山が覚えたての英語で交渉し、うまく乗り切ったという。  

 森山はその後、日米和親条約、日米修好通商条約をはじめ、諸外国との条約締結で主席通訳官となり、プロイセンとの条約時にはヒュースケンとともに苦労して案文をつくった。この交渉は難航し、岩瀬のいとこで外国奉行だった堀利煕が謎の切腹を遂げ、その一カ月後にはヒュースケンが暗殺され、翌月には坂下門外の変が起きた。このころから攘夷の嵐が本格化したのだ。オールコックは『大君の都』で森山を「聡明で、おそらくその他どんな役人よりも信頼されている」と評しており、彼に絶大な信頼を置いていたことで知られる。賜暇で一時帰国した際には、文久遣欧使節の通訳として森山の派遣を依頼し、ヨーロッパまでの船旅を共にしたほどだったが、その森山も帰国後はしばらく身を隠さなければならなかったらしい。諸外国の代表とこれだけの信頼関係を築けた幕吏が、その後も外交の窓口にいれば、日本の歴史は変わっていただろう。  

 オールコックは新たに外国掛に就任した老中の間部詮勝や脇坂安宅が、背後に7人の外国奉行を控えさせ、自分たちに「聞いたことを理解させるか、何はともあれその意味を説明させ、ときにはどんな返答をすべきか提案させる」様子を皮肉り、さながら『ガリヴァー旅行記』の「叩き役」のようだと著書に書いた。上の空の主人の頭や耳を、膨らませた膀胱に少量の豆などを詰めて殻竿のように棒にぶら下げたものでそっと叩いて注意を喚起する従者のことだ。イギリスなどの国々が幕府に不信感をいだいたのは、信頼できる交渉相手が次々にいなくなったことが最大の原因だ。こういう「叩き役」は現在も国会あたりに多数出没している。こうしてまた停滞から混乱に揺れ動くのだろうか。

ヒュースケン日記(英語版)にあった彼の下田御用所のスケッチ

『幕末の外交官 森山栄之助』 江越弘人著、弦書房

ガリヴァー旅行記にでてくるラピュータの叩き役 
 @The University of Adelaide

2017年8月31日木曜日

リチャード・P・ブリジェンス

 新橋駅銀座口から昭和通り沿いに少し行った先に、旧新橋停車場の遺構に再現された鉄道歴史展示室がある。汐留の再開発のときの発掘調査で駅舎やプラットフォームの礎石などが発見され、古い写真や残されていた平面図をもとに、1871(明治4)年に竣工したブリジェンス設計の駅舎をそこに再建したものだ。周囲に高層ビルが建ち並ぶなかで、ちょっと不思議な空間になっている。  

 リチャード・P・ブリジェンスにいつから興味をもったのか覚えていないが、私が横浜の歴史を調べだしたきっかけになったコータッツィの『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、彼が設計したイギリス領事館の横浜絵が使われていた。新橋駅の対となった横浜駅の駅舎を設計したのもブリジェンスだった。のちに神奈川県庁となった横浜税関の建物や、「時計台」として知られた町会所、グランドホテルのほか、山手にあったイギリス公使館も彼の作品だった。1867年に建設されたこの公使館と築地ホテルは、レンガや石造りではなくナマコ壁を使っており、耐火性のある建築物を、地元で調達できる資材で手早く建設したものだった。二代広重の描いた「横浜高台英役館之全図」ではレンガ風に見えるが、『ファーイースト』紙に掲載された写真を見ると、ちゃんとナマコ壁になっている。このアイデアが、工事を請け負った高島嘉右衛門の発案なのか、建築家のものかはわからないが、トリニダード・トバゴで育ったブリジェンスには植民地の折衷建築物に馴染みがあったのだろう。  

 ネットでリチャード・ブリジェンスと検索すると、見つかるのはもっぱら建築家で家具職人かつ絵描きでもあった、ミドルネームだけが違う同名の父親の作品だ。『西インドの情景』と題された彼の本の生き生きとした挿絵が数多くヒットする。父親のほうはカリブ海の奴隷制度の実態をいまに伝える貴重な史料として、最近かなり話題になっているようだ。息子のほうも父親の才能を充分に受け継いだと見え、北米へ移住後、サンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。  

 その彼が1865年3月に来日したのは、夫人の姉が横浜にいたためだと言われている。義姉のほうは開港後まもない1860年1月ごろに来日した。当時は居留地にほとんど西洋人女性がいなかったうえに、パリの最新流行のドレスを着た30歳前後の美人だったために、大評判になったそうだ。夫のショイヤー氏は60歳と高齢で、横浜最初の新聞『ジャパン・エキスプレス』を短期間発行した競売人で、競馬の世話役、居留地参事会の初代議長を務めた人だった。妻のアナは、橋本玉蘭斎の御開港横浜大絵図に「画ヲ能ス女シヨヤ住家」と書き込まれたことからもわかるように、絵が上手で、のちに明治天皇の肖像画などを描いた高橋由一に絵を教えたことでも知られる。  

 居留地の有力者ショイヤー氏のつてで、ブリジェンスは次々に大きな仕事を受注できたと言われるが、ショイヤー夫妻はアメリカ人であるうえに、ブリジェンスが来日した翌年には、夫のラファエルは急死している。横浜外国人墓地には、ラファエルだけが生麦事件の被害者の近くに眠っている。寡婦となったアナは、66年に来日したアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグと翌年に再婚したため、その縁故で仕事を得られたという説もあるが、この夫婦は69年にはアメリカに帰国している。ちなみに、ヴァルケンバーグは幕府が発注した甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しを拒み、のちに薩長軍側に斡旋した人だ。これが箱館湾海戦で旗艦として使われ、勝敗を決した。  

 ブリジェンスがイギリス公使館と領事館の仕事を得られるようになったきっかけは、ほかにありそうだ。じつはそこにかかわってくるのは、宣教師としてヘボン博士らと来日したブラウン師の娘ジュリアと、当時横浜にいたウィルソンという写真家に下岡蓮杖、そしてイギリスのオールコック公使の再婚相手の連れ子で、17歳でイギリス領事館の通訳生として来日したフレデリック・ラウダーという、なんとも複雑な人間関係なのだ。フレデリック・ラウダーは生麦事件の前日に3歳年上のジュリアと、彼らの赤ん坊が生まれる48時間前に周囲の反対を押し切って結婚した。下岡蓮杖はそのジュリアを介して写真術を学んだと言われ、ブリジェンスのことは「ビジン」と呼んでいた。ラウダー夫妻はともに長く横浜に住み、横浜外国人墓地に葬られたとされる。だが、実際には夫の死後、ジュリアは亡夫の祖国イギリスへ永久に「帰国」したという記事がある。乗船した船はサンフランシスコ行きだったので、自分の母国アメリカに帰ったのかもしれない。草木に埋もれた夫の墓の縁石側面に、彼女の名前と生没年が刻まれていたので、分骨したのだろうか。  

 ブリジェンスは長らく消息不明になっていたらしいが、町会所が焼失した翌年まで生きた「ブライトゲン夫人」の古い新聞の死亡記事が1983年に見つかり、外国人墓地の19区に葬られていたことがわかったうえに、夫のリチャードも横浜で1891年に死去していたことが判明したという。狭い19区のなかを何度も歩き回ったが、ブリジェンス夫婦の墓は見つからなかった。先日、無理を頼んで詳しい地図を見せてもらい、その場所と思われるところへ行ってみた。1983年当時もかろうじて読める程度だったという大理石の墓標、と推測される石から文字は消え、墓には木が生い茂っていた。彼らの存在が日本人の記憶から消えてしまったことを象徴するようで、しばし呆然と見入った。  

 初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社の建物と蓬莱橋と呼ばれた石橋があったはずだ。いまやどちらも存在しないが、蓬莱橋という交差点に名が残っている。蓬莱社は横浜の北仲通の埋め立てを請け負ったというが、関内駅近くの蓬莱町も明治6年の埋め立て地なので、この会社の名が地名として残されたのだろうか。祇園精舎の鐘の声が聞こえてきそうだ。

 旧新橋停車場

『ファーイースト』に掲載された イギリス領事館





 山手のイギリス公使館

 フレデリック・ラウダーの墓
 
ブリジェンス夫妻の墓(牧人舎のHPのエッセイでは、違う墓碑を掲載してしまっていたが、のちに斎藤多喜夫さんのご著書から墓標の形がわかり、2018年2月に墓地を再訪してようやく見つけることができた)