2010年2月28日日曜日

インターバルカメラ

 昨秋からあまりにも忙しい日々がつづいて、放りっぱなしにしていたものを、いまごろになって片づけている。何よりもまず、商売道具であるパソコンのハードディスクを占領していた、大量の写真の整理だ。原因はインターバルカメラ。  

 娘が卒論のテーマに鳥と果実の対応関係を選び、研究室からインターバル撮影のできるカメラを何台か借りていたのだ。30秒とか1分間隔で設定し、日の出から日の入りまで実のなっている木を撮影し、そこへやってくる鳥の採食現場を撮影しよう、という目論見からだった。どんな具合に撮れるのか試したくて、私も空いているカメラを拝借し、うちのフェンスに繁茂しているノブドウで二週間ほど実験してみた。簡単にできそうで、これがなかなかうまく行かない。メジロやヒヨドリがきているのが声でわかっていても、カメラにはなぜか写っていない。たとえば、30秒間隔で撮影しても、滞在時間が29秒だったら、シャッターが下りた瞬間にはもういないわけだ。小さな鳥は、焦点が合っていなければ、写っていてもシミにしか見えない。1日に撮影できた1000枚近い写真を見る作業は、目を酷使する以外の何ものでもない。防犯カメラから犯人の姿を捜す捜査官も、こんな思いをしているのだろうか。 

 見れども見れども、同じ光景の写真がつづく拷問のようなチェック作業にめげて、パソコン内に未確認のままの写真が増えつづけた。そのうち、いつの間にか実もなくなり、私の素人実験は終わりになった。これだけやって、はっきりと鳥の姿が確認できたのは2枚だけだった。大量の写真をただゴミ箱行きにするのも悔しいので、天気が急変した日と、秋の夕暮れの「つるべ落とし」がわかる写真を抜きだしてみた。日の光は色の魔術師だ。  

 ところで、ノブドウを撮影してみたのには理由がある。ノブドウは青やピンク、紫のパステルカラーの実をつけるので見た目には美しいけれど、このきれいな色は虫こぶ、つまり虫が寄生しているために生じる産物であり、実そのものはまずくて鳥すら見向きもしない、などとよく言われているからだ。本当だろうか? ネットで検索すると、「ブドウタマバエやブドウトガリバチが寄生」といった記事がわんさかでてくる。ところが、ブドウタマバエという蝿も、ブドウトガリバチという蜂も存在しない。いるのはノブドウミタマバエという蝿とブドウトリバという蛾らしい。ブドウ科の植物を食べるこれらの虫は、確かにノブドウに寄生するようだけれど、ブドウトリバはブドウ科のほかの植物の害虫でもある。それならなぜ、ノブドウだけが虫こぶだらけ、などと言われているのだろう?  

 夏に雨が多かったせいか、残念ながらうちのノブドウはあまりきれいに色づかず、カビが生えて腐ってしまった部分もあった。だから正確にはわからないが、私が観察した限りでは、黄緑色の未熟な実は、薄茶→ピンク→薄紫→水色→透き通った薄緑色に、4日前後で順繰りに変化していた。薄緑色になるともう色は変わらず、いつの間にかすべてなくなっていた。メジロが食べているところを、一度だけ目撃した。実は食べても大丈夫なのだろうか? ネットで調べてみると、ノブドウの実はなんと肝機能の改善から水虫にまで効く薬やサプリメントとして、かなりの高額で売られている! ノブドウの謎解きは今年に持ち越しだ。アパートの管理人には申し訳ないが、またノブドウを繁茂させるところから始めなくては。

 ノブドウの色の変化

 秋の日はつるべ落とし

 一天にわかにかき曇り

 庭で見かけた生き物

2010年1月31日日曜日

栄養学のにわか勉強

 長年、勉強してきた専門分野の翻訳だけをやって食べていかれる人、というのがはたして存在するかどうか知らないが、私はその正反対、つまりジェネラリストの最たるものなので、訳す本に合わせて、いつも付け焼刃で勉強するはめになる。知らない単語どころか、辞書を引いても意味のわからない単語が羅列しているときは、途方に暮れた気分になる。昔の蘭学者などは、暗号を解読するような気分で翻訳に取り組んでいたにちがいない。そう考えれば、インターネットもパソコンもある環境で、自分で辞書をつくりながらの翻訳作業など、苦労のうちには入らない。  

 こんな調子で仕事をしているから、校正の段になり、ようやく全体像が見えてきたころになって、次々に間違いが見つかる。何度も見直すだけの時間的な余裕があればいいのだが、いつも締め切りぎりぎりに駆け込んでいる私の場合、そうもいかない。原稿を修正してくださる方には申し訳ないと思いつつ、いまもたくさんの赤字を入れている。  

 たとえばfatという言葉。英語では私たちの身についている中性脂肪もfatだし、栄養成分表の表示もfatだし、その他、動物性の脂に多く含まれて血管を詰まらせる成分も、ショートニングやマーガリンに含まれる有害な副産物も、それぞれsaturated fat、trans fatと書かれている。もちろん、太っているのもfatだ。  

 ところが、日本の食品の成分表には「脂質」と書かれている。これに相当する英語はlipidだ。脂質もlipidも、脂、油、蝋、リン脂質など、水に溶けないもろもろの物質の総称と、似たように定義されている。食品には脂も油も含まれるから、本来はlipidとすべきところを、一般人にわかりやすいように、アメリカではfatが使われている、ということだろうか。日本の栄養学ではそれを「脂質」と呼ぶのであれば、「体内への脂肪吸収を妨げる○○茶」などと宣伝されているものは、本当は「脂質吸収」とすべきなのだろうか? となると、「低脂肪高タンパク」は、「低脂質高タンパク」なのだろうか? うーん、ややこしい。要するに、言葉の定義と、実際の使用例はかならずしも一致しないということらしい。  

 肥満大国のアメリカでは、栄養成分表に厳しい表示義務があるというので、アメリカから送られてきたコーンブレッドの袋を見てみると、確かにカロリーにつづいてSaturated Fat 0.5g、Trans Fat 0gなどと、明記されている。日本語ではこれらの成分は、飽和脂肪酸、トランス脂肪酸と正式名称で呼んでいる(ことに遅まきながら気づいた)が、アメリカでは科学文献以外はもっぱらただのfatだ。まったく紛らわしい。もっとも、オメガ3脂肪酸などは、さすがのアメリカでもomega-3 fatty acidと呼ぶようだ。  

 複雑なのは脂質だけではない。糖質にも、異性化糖からカロリー0の人工甘味料まで実にいろいろあって、コーンスターチからつくるHFCSは砂糖以上に血糖値を上げることなどがわかってくると、いったい自分は何を食べているのか、とつい気になってくる。最近は買い物に行くと、いちいち商品をひっくり返して裏の成分表を読んでいるが、老眼が進んできた私の目では、情けないことに読めないものもある。「40歳くらいから始まる老眼は、中年期に体と脳を襲うホルモンの逆転の前兆」なのだそうだ。いつまでたっても仕事は効率よく進まないけれど、一冊の本を訳しながら、少しずつ学んでいる気はする。

2010年1月3日日曜日

追悼 故鈴木主税先生を偲んで

「clueという単語をすべて『手がかり』と訳しているのは、どうかと思うね。数えただけでも9ヵ所はあった。糸口とか端緒とか言い換えられないのかね?」  1つの英単語にたいし、1つの訳語を機械的に当てはめるな、と鈴木主税先生にはたびたび注意された。「『しゃべりまくる』とか、『ぴんしゃん』なんていう下品な口語は使いたくないね。しゃべるように書けというのは、あれは間違いだ。書く文章は、気取っているくらい硬いほうがいい」とも言われた。  

 訳文が冗長で眠くなる。オノマトペや大げさな表現を多用するな。同じ助詞が連続しないように言い換えろ。漢字が無用に4語も連続すると四字熟語と見誤るから避けろ……等々、先生に指摘されたことは限りない。「きみの言語感覚を疑うね」と頭ごなしに怒られたときは、さすがに腹に据えかねて、「言葉なんて時代とともに変わるものだと思いますが」と、ささやかな反論を試みた。 

 いまから15年ほど前、転職を考えていた私は、会社勤めをしながら翻訳の通信講座を受けていた。資格さえとれたら、フリーで翻訳の仕事が始められると気楽に考えていたところ、1年半近く失業生活を強いられることになった。その後、鈴木先生の講座を受講したことをきっかけに、牧人舎で勉強しながら下訳の仕事をいただくという「徒弟」のような日々を8年ほど送った。  

 途中、バンコクに移住した時期もあったが、鈴木先生はその間も仕事をくださり、おかげで私は海外でもなんとか働きつづけることができた。そのころ訳した1冊、フェイガンの『歴史を変えた気候変動』の書評のコピーを、多忙な先生がわざわざバンコクまで送ってくださったことは、いまでも忘れられない。  

 牧人舎で下訳させてもらった本は、アンモナイトからマイケル・ジョーダンまで、占いから国際政治まで、実に多岐にわたった。下訳料は高いとは言えなかったけれど、なかには出版されず仕舞いの本もあり、それでも仕事が終わるとすぐに振り込んでくださったことが、毎月の家賃を払うのに苦労している私にとっては非常にありがたかった。  

 鈴木先生はどちらか言うと独断的で、懇切丁寧に教えるタイプでもなかったので、私は先生に言われたことすべてを納得して受け入れていたわけではなかった。それでも、フリーで仕事をするようになってからよく、そうか、これが先生の言わんとしていたことだったのか、と思い当たることがあった。たとえば、本を読んでいると、自分の気に入らない表現はやたらに目につく。それが1度でてくるだけなら見逃せるけれど、何度も繰り返されると、うんざりしてくる。同じ訳語を繰り返さなければ、読者をそんなつまらないことで刺激せずにすむ。だからこそ、言い換えは必要だったのだ! もちろん、特定の専門用語であれば、話は別だろうが。 

「15分でも30分でも時間があれば、仕事をする癖をつけなさい」と、先生はおっしゃっていたが、ご本人もいかにも仕事中毒の人だった。長時間、座りつづける翻訳業が身体によいはずがない。晩年はまず目や腰を悪くされ、入退院を繰り返されていた。「倒れるまで仕事をつづける」と、先生は口癖のように言われていたから、のんびり気ままな余生を送られるつもりなど毛頭なかったのかもしれない。延命治療は拒否なさっていたそうで、それもいかにも鈴木先生らしい。遺された膨大な数の訳書は、これからも多くの人に読みつがれるだろう。 

  鈴木先生、たいへんお世話になりました。どうぞこれからは安らかにお眠りください。

2009年9月30日水曜日

『CO2と温暖化の正体』

 今年に入って初めての訳書が、先月ようやく刊行された。海洋のベルトコンベヤー説で有名なブロッカーの『CO2と温暖化の正体』だ。これまでの気候科学関係の訳書を、よくわからないと言いながら読みつづけてくれた母が、「キャンプ・センチュリーとか、ダンスガード・オシュガー・イベントとか、聞いたことがある名前がでてきたよ!」と、得意そうに話してくれたのが、ちょっとうれしい。 この分野の本はかなり訳したので、文系人間の私でもおよそのことは見当がつくようになったが、根本的な科学の知識が欠けていることと、数字に弱い点は、いかんともしがたい。このエッセイを書きながら、訳文を読み直したら、なんと間違いを見つけてしまった。「45リットル・タンクに詰めたガソリンはおよそ45キロの重さがあるが、それを燃やして炭素を酸化させると、135キロ以上のCO2が生成される。車にはそれだけのCO2を格納する場所はないし、もちろん、飛行機にもない」(14章、p303)という件だ。  

 ガソリン1リットルを燃やすと、二酸化炭素が2360g排出されるというから、逆算すると、タンクは57リットルでなければならない。原書を確認すると、タンクは12ガロンとある。著者がアメリカ人なので、米ガロンだと思い込み、45リットルと訳したのが運の尽きだった。英ガロンなら54.55リットルで、まあ近い。1リットルのガソリンはハイオクだと780gらしいので、45キロで57リットル強となり、やはり辻褄が合う。単位の換算はこれだから嫌だ。やれやれ。編集者にお詫びのメールを書かなければ。この箇所を訳したとき、わざわざアイスクリームを買ってドライアイスの重さを確かめ、ついでに昇華したときの容量をビニール袋で試し、さらに庭のヤツデの近くで袋の口を開けたのに、なぜ肝心なことには気づかなかったんだろう? 水と油が同じ重さのはずがないのに。  

 そう言えば、以前に訳した本の謝辞に、著者のフェイガンがこう書いていた。「おそらく近日中に、大小さまざまな間違いを指摘することを楽しむ親切な、そしてたいがいは匿名の人びとから、連絡をいただくだろうと確信している。彼らには前もって礼を述べさせてもらおう」。ああ、私も開き直るか。  

 ところで今回の本では、大気中から二酸化炭素を回収して安全に貯留するという、驚くようなアイデアが提案されている。文明滅亡といった悲観論より、人類の知恵を絞って温暖化の危機に対処する方向のほうが、個人的には惹かれる。この画期的な処理方法の開発費は、ブロッカーらの研究に多くの私財を投じ、この本を執筆するためにプロの書き手であるクンジグを雇った実業家、故ゲイリー・カマーが捻出してくれたものだった。こういう財界人が絡んでくると、すぐに陰謀に違いないと勘ぐる人もいるようだが、研究するためにも、世界各地で取材をして本を書くためにも、それを支える資金がなければならない。理論を実践し、実用化にこぎつけるまでにも、多くの試行錯誤を経なければならない。  

 CO2浄化装置にしろ、代替エネルギーにしろ、最初は雲をつかむような話だったに違いないが、それでもこういう難題に挑戦している人がいるというのは心強い。新技術を応援するために、カマーのように大金を拠出できる人はそういないだろうが、不完全な新商品を買って支えたり、代替エネルギーの開発に取り組む会社の株を買ったり、といった応援なら、できる人もいるはずだ。そんなことを考えて、私は試しにソーラーランタンという、ごく小さな商品を買ってみた。日向で6時間ほどニッケル・カドミウム電池を充電すると、LEDランプが6時間ほど点灯しつづける。少なくともクリスマス用の電飾などは、今後はすべてソーラータイプにすればいい。要は、世の中の人の考え方が少しずつ変わることだ。

『CO2と温暖化の正体』 ウォレス・S・ブロッカー/ ロバート・クンジグ著、 内田昌男 監訳(河出書房新社)

2009年8月31日月曜日

『九月姫とウグイス』

 ひょんなことから、子供のころ読んだ本を思いだすことがある。先日も、おぼろげな記憶をたどり、岩波の子どもの本シリーズをネットで捜していたら、懐かしい本が次々にでてきた。その一つが『九月姫とウグイス』。著者はなんと、サマセット・モームだった。いまでこそタイは私にとって身近な国になったが、25年前までタイについて私が知っていたことと言えば、このお伽噺だけだった。  

 シャムの王家に王女ばかりが次々に生まれた。子供の名前をシリーズにしないと気がすまない王様は最初、「夜」と「昼」と名づけたが、さらに増えたために四季に変え、曜日に変えとしたあげくに、12の月の名前をつけ始めたところ、九月姫でようやくおしまいになり、あとは王子ばかり10人生まれて、こちらはAからJまでで事足りた、という設定で話は始まる。王様は自分の誕生日に周囲の人びとに贈り物をするのが好きで、ある年、金色の籠に入った緑色のオウムを9人の王女たちにプレゼントした。ところが、九月姫のオウムは死んでしまい、嘆いているところに、一羽の鳴き鳥が迷い込んでくる。九月姫はその鳥と仲良くなるが、あるとき姉たちの甘言に釣られて籠に入れると、鳥はだんだん元気がなくなり、ついに籠の底に横たわってしまう。九月姫の涙で息を吹き返した鳥は、自分は自由でなければ死んでしまうのだと言う。それを聞いた九月姫は、鳥を空に放ってやる。のちに美しく成長した九月姫は、カンボジアの王様に嫁いでいく、というあらすじだ。  

 改めて読み返してみると、これはイギリス人のモームが創作したというより、何かの逸話をベースに書かれたように思える。この童話はもともと《ピアソンズ・マガジン》の1922年12月号に掲載されたようだが、モームはその年、ビルマのマンダレーからシャン州を馬で抜けて、チェンマイから鉄道でバンコクに向かい、翌年1月にオリエンタル・ホテルに投宿している。旅の途中でマラリアを患い、九死に一生を得たらしいので、そんな状況でいつこの童話を書いたのか、誰から聞いた話をもとにしたのか、興味は尽きない。  

 子沢山のタイの王様といえば、「王様と私」のモンクット王がすぐに頭に浮ぶが、現在のチャクリ王朝は代々、ラーマ1世、42人、二世、73人、三世、51人、四世、82人、五世、77人と、二十世紀初頭の王様まで、お伽噺どころではない子持ちだった。王族だけでも一大エスタブリッシュメントだ。なかには后妃や側室が150人以上もいた王様もいた。どうやって19人も子供を産めたのかと、という子供のころの謎は、これで解決する。  

 もう少し調べてみると、ラーマ1世の時代に、カンボジアのアン・エン王が一時期タイで囚われの身となり、ラーマ1世と養子縁組をして、のちにタイ人のロス妃を娶っていることがわかった。この二人のあいだの息子アン・ドゥオン王が、シアヌーク前国王の高祖父に当たるというから、シアヌーク前国王が九月姫の子孫……という可能性もまったくなくはない。もちろん、チャクリ王朝以前の王様がモデルということも、充分にありうる。  

 肝心のウグイスのほうはどうだろう? 原文ではナイチンゲールだが、サヨナキドリはヨーロッパ、アフリカ、西アジアにしか分布しない。日本のウグイスも、タイにはいない。タイの鳥仲間に聞いてみると、市街地によくいて、よく通る澄んだ声で、さまざまな鳥の鳴きまねもするシキチョウではないか、とのことだった。  

 タイには誕生日に当人がパーティを開くという習慣もあるようだし、籠にすし詰めにされたシマキンパラを放鳥する摩訶不思議な商売もあるので、このお伽噺のなかにはそうしたタイならではの風習がどことなく感じられる。シュリーマンのトロイではないけれども、子供のころに読んで不思議に思っていたことが、のちにわかってくるのは楽しい。

 3月にバンコク市内で見かけた シキチョウ

2009年7月31日金曜日

写真家、砂守勝巳

 先日、ぼんやりと新聞のページをめくっていたら、マイケル・ジャクソンの追悼記事の横に、砂守勝巳という土門拳賞受賞の写真家の死を悼む記事があった。残念ながら、彼の生前の活躍を知っていたわけではなかったが、読んでみると、沖縄の米軍基地で働いていたフィリピン人軍属の父と、奄美大島出身の母のあいだに生まれた人で、父親はその後フィリピンに帰国したまま音信が途絶え、15歳のときに母親も亡くなったのだという。父に会いたい一心で、父の名を冠したリング名でボクサーになり、いつかフィリピンのリングに立とうと目論むが、その願いもかなわず、やがて写真家になったのだそうだ。   

 写真集『漂う島とまる水』がいまも心に深く刻まれていると、九州産業大学の大島洋教授が追悼文に書いていたので、『沖縄 シャウト』という著書とその写真集を図書館にリクエストした。マットな黒の背景に、沖縄や奄美やフィリピンの日常の営みを写した小さめの写真が、ページの真ん中にではなく、妙に上下左右に詰めた位置にたっぷりの空間を残して並ぶ写真集は、余計なキャプションもなく黙々とつづく。南国の蒸し暑い空気やにおいが伝わるようなページを繰っていくと、ページ一面に老人の顔のアップがあった。苦悩する目がこちらを凝視する。少しあとのページには、やわらかい逆光のなかで若い女性が、これまたカメラをしっかり見つめて立っている。巻末の解説を読んで、やっぱりそうかと思った。会えたんだ、お父さんに。異母妹さんにも。 

 あとから私の手元に届いた彼の著書は、こんな言葉で始まっていた。「誰しも強烈に忘れられない出来事が一つや二つはある。むろん、ぼくにもある。それらは記憶の底に小さい澱のように宿って、いつまでも消えない。けっして治癒することはない。そしてその『思い出』は何かをきっかけにことあるごとに噴出し、潰してもあとからあとからあたかも膿のようにわきおこってくる」。彼にとってそれは父親捜しだった。子供のころ、よく父親が釣りに連れて行ってくれたので、行方知れずになったあとも、彼は釣りに明け暮れ、青く広がる奄美の蒼海はフィリピンまでつづいているのだと考えていたという。 

 人は誰でも、好むと好まざるとにかかわらず、双方の親から何かしら受け継いでいる。だから、不仲な両親を見て育てば、自分のなかに相容れないものが混在している不安を感じるし、見捨てられれば空虚感にさいなまれ、自分は親にすら愛されない価値のない人間なのだと思い込むようになる。親を捜しだしたところで、失われた時間はいまさら取り戻せない。それでも親捜しをするのは、子を見捨てるに至った苦しい事情を知り、弱点のある親を受け止め、自分の心の葛藤を克服するためだろう。  

 砂守さんが父親の消息を知ったのは、フィリピンに住む顔も知らない17歳の異母妹が1982年に送ってきた手紙からだったが、実際に父親を捜し当てたのは、さらに何年ものちの1990年のことだった。父と別れたとき8歳だった少年は、38歳になっていた。「それがどんな形で、どのような結果になろうとも、それはそれでよかった」と覚悟を決めていた砂守さんを待ち受けていたのは、マニラの貧しい地区に住み、老いて家族の世話になるしかない父だった。「ダイジョービ、ダイジョービ」。「アンタ、イッショに魚釣りに行ッタノ覚エテイル?」。30年ぶりに日本語を話すお父さんのカタコトの台詞が泣けてくる。  

 砂守さんは、再会時の父親の年齢に達することもなく、57歳でこの世を去ってしまった。人生のあらゆる苦しみを乗り越えてきた人だから、みずからの早すぎる死も、きっと淡々と受け入れていたのだろう。

『沖縄 シャウト』

『漂う島とまる水』

2009年6月30日火曜日

無用の用

 最近、仕事で読んだ英語の本のなかに、老子の無用の用について語っているくだりがあり、それ以来、何かにつけて「無」について考えている。 三十輻共一轂。当其無、有車之用。 セン(土+延)埴以為器。当其無、有器之用。 鑿戸牖以為室。当其無、有室之用。 故有之以為利、無之以為用。  

 車輪の30本のスポークは中心に空いたハブ、つまり無でつながることによって役に立つものになる。同様に器もなかの空洞があればこそ、そこにものが入れられるのであり、部屋は戸口や窓という開口部をつくってなかに空間があってこそ部屋になる。よって、有形のものが利用できるのは、無形のものがそれを役立つものにしているからだ、という意味らしい。老子の言葉を英語で知るのも妙な話だが、それはさておき、存在しないものに意味があるというこの言葉には、大いに共感するものがあった。  

 人はとかく目につくものにばかり注意を傾ける。たとえば絵なら、実物のように細かく描かれた細部や鮮やかな色彩に人は感心するけれども、そうした部分が引き立つためには、実はその周囲に目立たない部分や空間がなければならない。ジル・バークレムの「のばらの村のものがたり」シリーズの絵本などは、心をそそるものが画面の隅々にまで描かれていて、最初に手に取ったときは驚いたものだけれど、何冊も読むうちにどれもこれも一緒くたになってしまい、結局、何も印象に残らなくなった。一方、ビアトリクス・ポターの絵は周囲にたっぷりある白い空間のおかげで、ニンジンやジョウロなどの脇役までが、いつのまにか人の記憶に残っている。  

 卑近な例では、私が樹脂粘土でつくっているミルフィオリケイン、つまり金太郎飴のようなものでも、こうした「無」の存在を実感することがある。子供のころ、鳴門巻きにはどうやって「の」の字を入れるんだろうと、よく不思議に思ったものだが、複雑な「寿」の字や松竹梅の図案でも、基本的なコツは一緒だ(といっても、かまぼこをつくってみたことはないけれど)。肝心なのは、「の」や「寿」の線の隙間や背景の白い部分を正確な分量にすることなのだ。どんなに模様の部分に神経を使っても、地の部分、つまり通常は見ていない「無」の部分がいびつだと、結局、模様はきれいにできない。いくつもの失敗作をつくって、ようやくそのことを悟ったあとだけに、老子の言葉は身にしみた。  

 実際、どんな分野においても、その道を極めた人はこの「無」や「間」、「空間」、「休符」、「行間」といった概念を、よく理解している。近所から聞こえてくる尺八や大正琴がいつまでも心を打つ響きにならないのは、休符を無視しているからだろう。住宅の広告に「心地よい空間を演出」などと書かれていると、つい贅沢な素材でできた床や柱などに目が行くが、優れた建築家は空間そのものを見ているのだろう。実際に人が住むのは何もない空間であり、居心地がよいかどうかはその空間しだいなのだ。ならば、と周囲を見まわして、雑然とした家のなかにため息がでた。何はなくとも、せめて空間くらい欲しいと思って、頑張って片づけてみたものの、空間を維持するのは容易ではないらしい。