2008年5月31日土曜日

ものづくり熱

 ここ数週間、珍しくせっぱ詰まった仕事がなくなった。こういう時期にコツコツと真面目にページ数を稼げば、あとが楽になるのだろうけれど、効率よくひたすら義務をこなしていると息が詰まる。たまには自分の好きなこともしたい。いちばんよいのは旅にでることだけれど、そこまで時間もお金も余裕がないときの私の気晴らしは、もっぱら工作だ。  

 勤めていたころも、よく通勤電車のなかでアイデアを練り、週末になるとドイトやユザワヤへ材料探しにでかけた。娘の玩具も大半は私がつくっていた。なかには人形の家やお雛様などの自信作もあったが、衝立のようなドアとか、キルティング地でつくった14匹のねずみの家とか、いまだに笑いものにされる駄作も多々あった。セーラームーンが流行っていたころ、娘がキューティムーンロッドを欲しがったことがある。電子音の鳴るプラスチック玩具が嫌いな私は、丸い棒をピンク色に塗り、金色に塗った球をその上にボンドでつけ、スワロフスキーの大きなハートもつけてやり、このほうがはるかにいいと強引に押しつけた。確かに日の光が当たると、クリスタルガラスが部屋中に反射してなかなか幻想的だった。ところがある日、友達と一緒に神妙な顔で呪文をかけながら棒を振っていたら、先端の球が転がり落ちてしまい、おなかがよじれるほど笑って、結局、お釈迦になった。  

 度重なる引越しで、つくった玩具の大半は処分してしまった。多くのゴミをだして罪悪感に駆られた私は、物をつくるのはもうやめて、言葉の世界だけで満足しようと決心した。それ以来、どうしても必要なもの以外はつくらなくなっていたが、このところまたぞろ工作熱が再燃している。なるべくゴミをださないよう、軽薄短小のものに限定しているが。  

 先日は、東京ビッグサイトで開催されていたデザインフェスタを見てきた。7000人のアーティストが集う大規模な催しで、祭りの夜店のようなブースが2600も延々とつづき、いわゆるビーズアクセサリーから、壁画やインスタレーションまで玉石混交といった感じで並んでいた。出展者も来場者もほとんどが20代から30代で、私と同世代の人は非常に少なかった。こういう仕事で生き残れる人は、ごくわずかなのだろう。  

 最初は会場の様子だけのぞいてくるつもりだったのに、見だしたらおもしろくてたまらず、あちこちのブースで立ち止まっては、実演者と話し込んでしまった。恐ろしく細かい切り絵をナイフ一本で黙々とつづけるお姉さんや、ベニヤ板にポスカですいすいと絵を描く若者、小さく切った銀のワイヤーとガラスを一つひとつ溶接するジュエリー職人など、こんな手法もあるのか、と驚かされることばかりだった。ダンボールでつくった集合住宅や、針金一本でできた動くオブジェなど、なんの役にも立ちそうにない作品もあった。家族にどんな顔をされながら、こういう作品をつくりつづけてきたんだろう、と涙ぐましくなる。でも、そういった作品のほうがはるかに印象に残るから不思議だ。  

 ちょっと気になったのは、死人のような人形を展示するブースがかなりあったことだ。オフィーリアと『大いなる遺産』のミス・ハビシャムを合わせたような、朽ち果てる一歩手前の美醜紙一重の作品だ。こんなものを誰が誰のためにつくるのだろう? 死を見つめる芸術なのか、ネクロフィリアなのか。店番をしているのは、決まって真面目そうな30代くらいの女性だ。死体を損壊する殺人事件が多い世相を反映しているようで後味が悪い。 とはいえ、目を輝かせて自分の作品を並べる大勢の若いアーティストたちを見て、また新しいアイデアがいくつも浮かんできた。エネルギーが欲しい人は、年に二度開催されるデザインフェスタに、ぜひ足を運ばれるといい。

2008年4月30日水曜日

馬の骨

「まず隗より始めよ」という言葉は、ご存じのとおり、燕の昭王がよい人材を集めるにはどうすればよいか宰相の郭隗に尋ねたところ、まずは身近にいる自分を優遇することから始めなさい、と答えた故事に由来する。このとき郭隗は、昔の君主の例をあげて昭王に諭す。一日に千里走る名馬を手に入れようとした君主が、涓人という役人に千金をもたせたところ、涓人は死馬の骨を五百金で買って帰ってくる。王は怒るが、涓人は「死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。馬今に至らん」と答えた、というものだ。  

 娘が高校生だったころ、授業参観である教室をのぞいてみたら、親は私一人しかいなくて、生徒はほぼ全員が寝ていた。そのとき先生が一人でぼそぼそと教えていらしたのが「まず隗より始めよ」だった。先生はなぜか「生きた馬の骨すら買ってくれるなら……」と解説してしまい、顔を赤らめてあわてて「死んだ馬の骨」と訂正された。生徒はもちろん静まり返ったまま。私は吹きだしたくなるのを必死で堪えたが、数分後にまた同じ説明を先生が繰り返したときにはいたたまらなくなり、教室から走りでた。それでも、「生きた馬の骨」の話は、漢文の苦手な私の頭にも妙な具合に残った。  

 なぜ、こんなことを書いているかというと、実はいま訳している気候変動と歴史に関する本に、馬と遊牧民に関する話がでていからだ。人間が馬を家畜化したのは紀元前3500年ごろ、ステップの周辺部や黒海周辺でだったと言われる。燕の昭王は在位が前331~前279年なので、涓人が例にあげた昔の君主の時代となると、一日に千里を走る馬は、いまの北京を含む渤海沿岸の燕ではまだまだ最先端の武器だったのだろう。燕は前222年に秦に滅ぼされているが、『山海経』に「倭は燕に属す」と書かれており、倭は燕に朝貢していた可能性がある。  

 ちなみに、中国の里は500メートルなので、千里は500キロ。さすがにこれでは新幹線のような馬になってしまうが、ヨーロッパまでモンゴル軍が遠征したことを考えれば、汗血馬の実力は相当なものだったに違いない。「こうした距離を比較的速く移動できる者はステップで生き延びることができ、その結果、社会は様変わりした」と、私の訳している本にも書かれていた。つまり、一ヵ所に定住できないような厳しい環境でも、距離を克服できた者は、季節ごとにあちこちで食べ物を集めて生きていかれたということだ。  

 ところが、馬は牛にくらべて干ばつに弱く、気候が悪化して草がなくなるとどんどん死んでしまうのだという。死んだ馬は食べてしまったそうなので、「馬の骨」はステップでは干ばつ時にはそこらじゅうにあるものだったかもしれない。『スーホの白い馬』では死んだ馬の骨や皮で楽器をつくる。子供のころ想像してぞっとした覚えがあるが、実際の馬頭琴(モリンホール)には弓に馬の尻尾が使われているだけで、以前は馬の皮が張られていた共鳴箱もいまは木製になっている。馬の骨は、何にも使えない代物でもあったようだ。 

「馬の骨」と広辞苑を引くと、「素性のわからない人をののしって言う語」とある。日本に馬がやってきたのは4世紀後半。「どこの馬の骨だか」という言葉は、日本人の日々の生活から生まれた表現というよりは、大陸からなんらかのかたちで伝わってきたものに違いない。眠くなる漢文の授業も、こんな具合に枝葉を伸ばせば、もう少し楽しくなるのではないだろうか。

2008年3月31日月曜日

タイ旅行2008年

 恒例になった年に一度のタイ旅行に、今年もでかけてきた。どこか田舎へ行って船でも漕いでのんびりしたい、という私の希望を聞いて、今回、鳥仲間の友人が連れて行ってくれたのは、バンコクの南西にあるアンパワー郡だった。 最初に訪れたのは、タラード・ロムフップという線路の両脇すれすれに店が並ぶ市場。一日に8回、列車が通る時間だけはロム(傘)をたたんで(フップ)店を片づけ、列車が通過すると何事もなかったようにまた店を広げる、日本人なら目をむきそうな市場だ。  

 その夜は水上マーケットの近くにある、川沿いの家を改装した宿に泊まった。「ここへ来たからには、コークラチョウとパートゥンを着なくてはね」と、友人がにやにやしながらプレゼントしてくれたのは、筒状の巻きスカートとノースリーブのトップだった。当の友人は、「セクシーセクシーすぎるから」と言って自分は着ない。せっかくだからと思って着てみると、涼しくて快適だった。ふと前の家を見ると、パートゥンを胸までたくしあげたおばあちゃんが、ザンブと川に浸かって水浴びをしている。なかなか便利な服らしい。 翌朝は托鉢の僧侶に差しあげる食べ物を注文しておいた、と言うので、薄暗いうちから起きて緊張して待った。お坊さんはどこからくるのかと思ったら、川から小船を漕いで現われた。差しだされた銀の器に食べ物と花を入れると、何やらお経を唱えてくれる。  

 次の日は、友人の友人の友人の家に泊まりに行った。塀も柵もない木立のなかにタイ中部の伝統的な高床式の母屋があり、ほかにもいくつかの小屋が建っていて、目の前には川、横には運河が流れている。チーク材でできた母屋の下は、増水時以外は食事や談話のできる快適なピロティになっている。ピロティはル・コルビュジエが提唱したと言われるが、東南アジアには何百年も前から存在していたに違いない。  

 昼食後、私と娘はさっそく平船を借りて運河へ漕ぎだした。お坊さんや物売りのおばあちゃんたちは易々と漕いでいたはずなのに、竜骨のない船は漕げば漕ぐほどくるくる回ってしまう。何度も泥や茂みに乗り上げているうちに、この家の大型犬トムが興奮して運河に飛び込み、船に乗ってきた。びしょ濡れのトムを乗客に、よろよろと船を漕ぐ私たちを見かねて、この家のご主人が漕ぐ秘訣を伝授してくれた。船尾で櫂をしばらく止めて進路を調節するのだ。手にマメをつくりながら練習した甲斐あって、川にも漕ぎだせるようになり、潮の満ち干の影響で流れる方向が変わる河口域を体感することができた。  

 夜になると蛍が木を飾り、空には満天の星が見える。母屋は階段を上ってすぐのところに屋根のない居間がある。そこに寝てみたいと無理を言ったら、布団を敷いて蚊帳まで吊ってくれた。いざ寝る段になって、蚊帳の上に描かれたピンクのバラの絵が邪魔になって星が見えないことに気づいたが、笑い転げているうちに眠ってしまった。  

 翌日も川に張りだしたサーラー(東屋)で鳥を見たり絵を描いたりして過ごし、ニッパヤシの実を割ってもらってシロップをかけて食べ、誰がいちばん殻を遠くまで投げられるか競争して遊んだ。川で泳ぎ、川で洗い物をし、川に生ごみを捨てる。ちょっと抵抗はあったけれど、川はすべてを洗い流してくれるのだと思うことにした。日がな一日、サーラーで過ごしているタイ人を見て、退屈しないのだろうかとかねてから疑問に思っていたが、実際にやってみたら悪くない。いつの間にか、すっかりくつろいでいる自分に気づいた。緑のなかの屋外キッチンで、ムナオビオウギビタキを見ながら、油が飛ぶことなど気にもせずに野菜炒めをつくっているうちに、それまで着込んでいた鎧が消えて、背中が軽くなったような気がした。ここでは、時間が確かにゆっくり流れていた。

 ロムフップ市場

 水上市場

 泊めていただいた家

 にわか地元民の格好で料理に挑戦する
サーラーからニッパヤシの殻投げ 











この場をお借りしてちょっと宣伝を。 5月に姉がまたピアノリサイタルを開きます。前半はスクリャービン、バルトーク、プーランク、ドビュッシーなど20世紀前半の名曲を、後半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を、5人の弦楽器奏者と共演するピアノ六重奏です。お時間がありましたら、どうぞおでかけください。 
日時:2008年5月2日(金)7:00pm 場所:横浜みなとみらいホール(小) 
全席自由 ¥3,000 (チケットはCNプレイガイド 0570-08-9990)

コウモリ通信その100

 鳥と動物のあいだで大紛争が起こりそうになった。両軍が集結すると、コウモリはどちらに加わるべきか迷った。コウモリがぶらさがっているそばを飛んでいく鳥たちが言った。「一緒においで」。でも、コウモリは答えた。「ぼくは動物なんだ」。しばらくのち、下を通りかかった動物たちが見あげて言った。「一緒にこいよ」。でも、コウモリは答えた。「ぼくは鳥なんだ」。幸い、土壇場になって和平が結ばれたので、戦いにはならなかった。そこで、コウモリは鳥のところへ祝宴に加わらせてほしいと頼みに行った。ところが、鳥はみなそっぽを向いたため、コウモリはすごすごと引き返した。今度は動物のところへ行ってみたが、八つ裂きにされかねず、逃げ帰るはめになった。「ああ、ようやくわかったよ」コウモリは言った。 「どっちつかずの者に、友達はいないんだ」――イソップ寓話  

 コウモリ通信と名づけたエッセイを一月に一度、牧人舎のホームページに寄稿させていただくようになってから8年の歳月がたち、今回で「その100」を迎える。翻訳の仕事は英語が得意な人よりも、日本語がうまい人のほうが向いているそうだが、私の場合は、残念ながら国語は大の苦手科目だった。だからこそ、毎月のこのエッセイは作文の練習だと思ってつづけてきた。途中、3度の引越しを重ね、人には言えない悩みで頭がいっぱいで、当り障りのないことしか書けない辛い時期もたびたびあった。それでも書きつづけてきた甲斐あって、最近は文章を書くことがあまり億劫でなくなってきた。   

 エッセイを書きだしたころは、翻訳業に足を踏み入れてまだ数年目だった。すでに平日の昼間に外を歩いても違和感がない程度には自由業の生活に順応していたが、PTAの集まりにでると、時間がたっぷりある周囲のお母さんとのあいだで浮いていた。旅行会社にいたころは、残業、出張、添乗が日常的な職場で、ずいぶん肩身の狭い思いをした。かといって翻訳の世界も、本来は運動したり工作したり、旅にでたりするのが好きな私には息の詰まることが多い。自分にぴったりの環境を探し求めながら、どこにも身の置き場がなかった私は、いつしか自分をコウモリと重ねていた。 

 100回目のエッセイを書くに当たって、イソップの寓話をネットで検索したら、「卑怯なコウモリ」という題名だった。卑怯……そうなのかなあ。もう少し、検索したら、The Bat, the Birds, and the Beastsと題された英語版が見つかった。それを訳したのが冒頭の話だが、少しニュアンスは異なる。コウモリは鳥でないのに、鳥のふりをすることはできず、動物でないのに、動物のふりができなかっただけなのだ。私にもコウモリどころか、カメレオンほどいろいろな「顔」がある。そのどれもが私なのに、どれか一つだけを仮面のようにかぶり、それ以外のアイデンティティを押し殺すことはできない。  

 ハンギング・プランツ、根無し草のコスモポリタン、そう言われても仕方ないかもしれない。でも、エッセイを書きながら、音信の途絶えてしまった昔の友達が、いつかネット上で私を見つけてメッセージを受け取ってくれたらとも願っている。コウモリだって友達がいないと寂しい。だから、懐かしい人から、「読んだよ」と言われるのが何よりもうれしい。バックナンバーまでさかのぼって読んでくれた旧友もいるし、このエッセイのおかげで何十年ぶりかの再会をはたすこともできた。毎月、拙文を欠かさず読んでくださっているみなさまには、本当に感謝している。いまやコウモリ通信は私の大切な宝だ。 

 8年間、多忙ななか毎月かならずこのホームページを更新し、私のエッセイにひょうきんなコウモリの挿絵を描き、いつもフォローしてくださった野中先生に、この場を借りてお礼を申しあげたい。それから、「別にいいんだ、私は私。どうせ変人だから」と言って、私の悩みも笑い飛ばすうちの子コウモリにも、たびたびイラストを描いてくれ、話のネタになってくれたことを感謝せねば。最近、娘は絵のブログ http://pub.ne.jp/KuinaSoi17/や、その他の活動に忙しくてあまり協力してくれないが、今回は100回目だからと、マレーシア旅行に飛びだしていく前日に、親子コウモリの絵を描いてくれた。テレマカシー。

 イラスト:東郷なりさ

 イラスト:野中邦子

2008年1月31日木曜日

娘の成人式

 1人の子供を育てるには、1つの村が必要だ。 

 10年ほど前、ヒラリー・クリントンがこんなアフリカのことわざを引用して、保守派からさんざん叩かれたことがある。子供を育てるのはそれぞれの家の責任、という理由からだ。泣き言を言わず、福祉に頼らず、自力で成功を勝ち取ることを美徳とするアメリカ社会を考えれば、当然のことだろう。  

 当時、幼い娘を抱えながら深夜残業を繰り返し、心身ともにくたびれはてた私は、長年勤めた会社を辞めて失業中だった。産後8週間から会社復帰し、私の母をはじめ、ベビーシッターをしてくれた高校生たちや、娘を預かって夕食、入浴まで面倒を見てくれた隣人に助けられながらどうにかそこまでやってきたものの、子供の寝顔しか見られない日がつづき、喘息の発作で苦しむときもそばにいてやれない現実に、行き場のない怒りを感じていた。家庭を顧みずに仕事をする人間以外は、会社にとって結局、お荷物でしかない。病院の小児ベッドで添い寝をした翌朝も、家に寄って着替えだけしてまた出勤した。時間をやりくりして見舞いに行ってくれた母から、点滴で動けない娘はトイレが間に合わなかったらしく、冷たいままベッドで寝かされていたとあとから聞かされ、我慢の限界に達した。  

 誰にも迷惑をかけまいとして、1人でしゃかりきになって子育てをしてもどうにもならない。誰もが同じ条件のもとに生まれるのなら、自助努力しろと突き放されても仕方ない。でも、普通の人が当然のように与えられるものすらなく、生まれる子供もいる。娘だって、好き好んでこんな境遇に生まれたわけではない。そのハンディは埋め合わせてやらなければならない。私がつまらないプライドを捨てて、多くの人の好意を素直に受ければ、そのほうが結果的に周囲の特定の人たちへの負担が減り、娘はもちろん、誰もが幸せになれる。つまるところ、子供は生物学的な親の所有物ではなく、天からの授かりものであり、生まれた瞬間から親とは別個の存在であって、「村」の一員なのだから。失業保険で暮らし、この先どうなるかわからない不安な時期に聞いたこの言葉に、私はどれだけ救われただろう。 

 私と娘はこれまであまりにも多くの人にお世話になってきたため、いったいどの方角なら足を向けて寝られるのかわからないほどだ。娘の成長に合わせて、着なくなったブランド子供服をダンボールで送りつづけてくれた友人もいた。今晩のおかずから、田舎からの野菜のおすそ分けまで、たくさんの差し入れもいただいた。いつも「どっかへ行きたい病」の娘を、休みが取れない私に代わってドライブや旅行に連れだしてくれた人も、宿を提供してくれた人も大勢いた。パソコンやスコープなどの貴重品も無償で貸与してもらっている。わが家のオンボロPCがなんとか動きつづけているのも、故障するたびに時間の都合をつけて駆けつけ、カンフル剤注入やら臓器移植を試みてくれる奇特な友人がいるからだ。  

 そうやって大勢の人の善意に支えられて育った娘が、今年、めでたく成人式を迎えた。このきれいな振袖は、娘が近所の川で知り合った鳥仲間が、大切なお着物なのに、ご好意で貸して下さったものだ。写真は中学・高校時代の親友とお姉さんが早朝にもかかわらず撮りにきてくれた。娘が頭に挿している髪飾りの羽は、鳥の羽を収集している娘のために、友人たちが各地で拾い集めてくれたものから選んだ。これぞまさしく、Fine feathers make fine birds、馬子にも衣装。  

 娘はまだ学生だが、鳥見と絵描きの趣味を合わせてBIRDERという雑誌に記事を描いたり、鳥の調査を手伝ったりして、自分の小遣いくらいは稼げるまでに成長した。お世話になった「村」に、なんらかのかたちで恩返しができるといい、と願っている。これまで私たち親子を支えてきてくださったみなさん、本当に、本当にありがとう。

 Photo by まちこ

 Photo by まちこ

2008年1月4日金曜日

『2012地球大異変』

 2007年は仕事に追われているうちに、いつの間にか終わっていた。 年末、上智大学管弦楽団の定期演奏会の招待状を弟からもらったので、翌日締め切りの原稿を放りだして、数時間でかけてきた。上智オケの公演など、在学中は一度も聴きに行ったことがなかったが、学生オケにしては本格的な演奏会で、充分に楽しめるものだった。  

 会場で思いがけず、管弦楽団の名誉顧問をされているアルフォンス・デーケン先生にお会いすることができた。デーケン先生の「死の哲学」は確か半年だけの一般教養の科目だったが、講義の内容は卒業後も忘れられないものだった。当時はまだ癌などの病気は患者本人に告知しないことが一般的だった。突然の死を宣告された人はその不条理に怒り、反発し、落ち込むが、やがて徐々にそれを受け入れて、残された日々を豊かに生きられるようになると学んだ私は、癌になったらすぐに教えてほしいと家族に頼んだ覚えがある。 

 死は誰にでもかならず訪れるものだが、人は往々にして死を考えまいとして、いまの生活が永遠につづくかのように錯覚している。でも、死をはっきりと意識して、人生は限られた短いものだと考えることで、人はより充実した生を送れるようになる。大学1年でこうして死を身近に意識させられたおかげで、私は日々を漫然と過ごすような人生は送らずにすんでいるのだと思う。 先を見通す力を英語ではvisionという。人生の果てにある死を意識することも、visionをもつことだ。visionという言葉には視野や視力のような意味もあるし、幻覚という悪い意味もある。平和な世の中では、visionaryは夢想家として笑われる。現に、デーケン先生も1977年に死の哲学の講義を始めた当初は、縁起でもないと周囲から猛反対されたそうだ。高齢化が進んだ現在は、先生が力説されていたターミナル・ケアの考え方が日本でも浸透してきているが、当時はまだ「誰もが若くて永遠に生きており、死に関する話は差別的発言にも等しい」時代だったのかもしれない。 

 実はこの言葉は、暮れに出版された私の訳書『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』のなかで、著者のローレンス・E.ジョセフが書いていたものだ。 “太陽”と呼ばれる一つの時代が2012年12月21日に終わるとするマヤの長期暦を、科学ジャーナリストである著者がさまざまな角度から検証するという、一見、かなり怪しげな本だ。 

 一般にこの世の春を謳歌している人は、近い将来、地球全体に危機が訪れる可能性などまずないと考え、かりにあったとしても、はるか未来の出来事だろうと高を括っている。だが、現代のような状況がこの先もつづく保証は実はどこにもない。変化の時代には、広い視野と長期にわたる見通しをもって、この先に起こりうる事態に備える必要がある。死を意識することでより有意義な人生を送れるようになるのと同様に、文明の終焉を多数の人が予期すれば、人間社会全体はもう少し高尚なものに変化できるのかもしれない。もっとも、そう意識したからといって、現実に大惨事が起きた場合に自分が助かるかどうかは、どうやら別問題らしい。 新しい年が始まって、マヤの予言の日までまた一歩近づいた。現実的な私は、その年に大惨事が起こるとは思っていないが、万一、そこで人生が終わっても悔いが残らないように、これからはなるべく毎日を楽しむことにしよう。 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 行徳での初日の出

『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』
 ローレンス・E・ジョセフ( NHK出版)

2007年11月30日金曜日

ビーズ鳥

 翻訳という作業は、黒子に徹することだ。言語や習慣の違いを考慮してわかりやすく説明を加えたりはしても、基本的には著者の声をできる限り忠実に読者のもとへ届けるのが訳者の仕事だ。そういう作業を毎日つづけていると、大量の情報を溜め込んでは吐きだすバッファのような気分になり、ときとして自分を見失いそうになる。慣れない分野の仕事がつづいたこの一年間は、仕事だけでも充分すぎるほどストレスがあったのに、私生活でも不幸やトラブルが重なり、経済的にも苦しく、頼みの綱とする人は連絡もままならず、このままではさすがの私も気が変になるのではないかと恐ろしくなった。 

 一区切りつくまでは、とにかく騙しだましでも乗り切らねばと、私はこの夏から奇妙な試みを始めた。集中できないときや、不安にさいなまれたとき、あるいは眠気覚ましに、天然石の2ミリビーズを使って鳥をつくるのだ。別にパワーストーンの効能を信じているわけでもないが、何かをつくっているときはそれに没頭できる。それに、天然石を通して見る日の光や、そこに凝縮された深い色には、少なくともなんらかの癒し効果はある。  

 高度な技術や道具を要する宝飾工芸とは異なり、ビーズ細工はどこかもろくてはかない。だから、敢えて高級に見せる必要も、本物そっくりにする必要もない。むしろ、古代の工芸品のように素朴で単純なものを、あるいは飴細工のようにつかの間だけ楽しめる作品をペンチ一本でつくれたら、それでいいのではないかと私は考えた。細かい部分にこだわりすぎると全体が肥大し、一粒ごとの輝きが失せて、ただの醜い塊になりはてる。何を削って、何を加えるか、試行錯誤を繰り返すうちに、ビーズの数を45個に限定していろいろな鳥がつくれるか試してみようと思いついた。不透明な石ばかりを並べると、一個一個の輪郭が目立ってボチボチに見える。かといって、透明なものだけでもインパクトが弱く、適度に交ざっているのがいい。鮮やかな色にたいするこだわりは大事だけれど、それと相殺しない地味な色も、負けず劣らず重要だ。なんだか生物の世界や人間社会のようであり、こんなビーズ細工にも学ぶことはたくさんあるんだという発見に私はうれしくなった。 

 暇つぶしに好きなだけビーズを買って遊べればいいのだが、貧乏性の私は最初から、できあがったものを売れないだろうか、と考えていた。ごま粒のようなビーズを通す作業は、細かいものが見えなくなり、手先もすっかり不器用になった私には、正直言って辛い。同じものを繰り返しつくるのも苦手だ。それでも、頭を使わず、単純作業に専念していると、タイの路上でジャスミンの花輪を黙々とつくるおばさんたちのように、不思議と心が穏やかになった。 

 先日は、娘の口利きで、大磯の宿場祭りに出店したアオバトの愛好会「こまたん」のブースの片隅をお借りし、ビーズの鳥を売らせてもらった。自然界の生き物は光がうまく当たった一瞬だけきれいに見える。捕まえて剥製や標本にしても、輝きは失せている。そんな瞬間的なはかない美に価値を見出せるバードウォッチャーなら、私の鳥も理解してもらえるのでは、と期待したとおり、声をあげて道行く人に宣伝し、買ってもくださり、本当にありがたかった。 

 ビーズの鳥のおかげか、いちばん苦しい時期はどうにか乗り越えることができた。失敗作品を壊し、バラバラになった多様な色のビーズに射し込む日の光を見ているうちに、子供のころ繰り返し読んだ『うちゅうの7人きょうだい』(三好碩也作・絵、福音館書店)の話を思いだした。泣き虫の末っ子ルーナが地球にたどり着くページが私のお気に入りだったが、土星のまわりに宝石でできた輪を見つけて、それを拾うのに夢中になった欲張りな衛星、レア姉さんの絵も、忘れがたいものがあった。 

 リタリンを飲む代わりに、童心に返ってビーズで遊んだと思えばいいのかもしれない。とはいえ、これで終わらせるのもくやしく、45個にこだわらない虫シリーズやクリスマスツリーも考えてみたが、どうやれば売れるのか、まだ模索中だ。商売を始めるのは、なかなか難しい。

 ビーズ鳥

クリスマスツリー 

 レア姉さん(のつもり)

 シオカラトンボのピアス