2023年3月31日金曜日

下田駆け足旅行

 春休み気分にはなれなかったが、予定どおり下田行きを決行してきた。なにしろ、一カ月前にサフィール踊り子号が大好きな孫のたっての願いを叶えるために、数室しかない個室を娘が発売日の10時にみどりの窓口まで行って予約してあったのだ。日米和親条約や日米修好通商条約の歴史を調べた身としては、下田は一度見ておかねばと何年も前から思っていた場所なので、私も娘一家の旅行に途中まで便乗させてもらうことにした。そんな話を関良基先生にしたところ、玉泉寺のご住職はお友達なので、連絡してあげましょうといつもの気軽さで、即座にアポを取りつけて下さったのだ! よく伺ってみると、同寺の村上文樹和尚は、『不平等ではなかった幕末の安政条約』(勉誠出版)を関先生、鈴木壮一氏とともに共著なさった歴史通のご住職なのだった。

 そんなわけで、学生時代以来のコンパートメントの旅を、はしゃぐ孫と一緒に楽しんだあと、桜が満開で新緑と相まってパステルカラーに染まる山をハイキングする娘一家と別れて、私は一路、柿崎の玉泉寺まで一キロ半ほどの道のりを急いだ。当時は豊福寺にあった下田奉行所まで、「道が未整備で満潮時には舟で渡るしかない」(前述書)と、ハリスが危惧した海岸通りであり、吉田松陰と金子重輔も「下田踏海」を企てるために歩いたはずの道だ。嘉永7/安政元(1854)年11月4日に安政東海地震の大津波が3段目まで押し寄せたという山門の石段を登って寺務所に行くと、すぐに村上和尚さまが出てきてくださった。15分ほどお話を伺えればとお願いしてあったのに、広い境内をあちこちご案内いただき、結局のところ2時間もお邪魔してしまった。 

 このお寺は幕末史の非常に重要な舞台であっただけでない。現ご住職のお祖父さまが玉泉寺の住職となられた大正期には、かつてハリスやヒュースケンが滞在した本堂も軒は傾き、根太が折れた状態になっていたそうだ。思い余った26歳の若い和尚が渋沢栄一に窮状を訴えたことがきっかけで、大修復に漕ぎ着けることができ、いまに至ったのだという。石段を登ってすぐのところに立つ渋沢栄一による巨大な碑は、太平洋戦争時に一時期、敵国との交流を称えたものでけしからんとして引き倒され、危うく破壊されそうになったのを、お祖母さまが身を投げだして守ったものなのだそうだ。当時、40代のご住職自身は徴兵されて戦死されたとのこと。 

 玉泉寺を訪ねたかった理由はいくつもあるのだが、いちばんのきっかけは、和親条約が批准されるまでに少なくとも1年はかかるので、下田港が利用されるのはそれ以降だとペリーが応接掛に請け合ったにもかかわらず、条約調印から1年も経たないうちにアメリカ商船キャロライン・E・フート号が来航したうえに、3人の女性と5歳と9歳の子どもの一行が玉泉寺に2カ月ほど滞在していたことを知ったからだった。日本人絵師が描いた絵(アメリカの議会図書館蔵なのでリンクを参照)によると、ワース船長の24歳の妻、商人のH・H・ドティの妻、ウィリアム・C・リードの32歳の妻と5歳の娘ルイーザが含まれていた(この船にはトマス・ドアティとH・H・ドティが乗船していたようだ)。

 ドアティとリードは安政2年にすでに交易としか言いようのない事業に乗りだしていた。このリードなる人物を、数年後に横浜で活躍したユージーン・ヴァン・リードと私は混同していたが、まったくの別人であったことが、今回少しばかり調べ直してわかった。いずれにせよ、日米和親条約の抜け穴と言われる「欠乏品」のやりとりを定めた条項は、ペリー帰国後の翌年には少なくとも大いに活用されていたことになる。 

 ペリー艦隊が最終的に日本を離れたあと、ロシアのプチャーチン一行が下田にきており、日露和親条約の締結に向けた交渉に入った途端、大津波に見舞われるという事態も発生していた。乗ってきたディアナ号は500人乗りの大型船だったが、30分間に42回転もして大きく損傷してしまった。下田では875戸中、841戸が全壊流亡、85人が溺死したという。修理のために戸田村に曳航されたものの、ディアナ号は11月19日に沈没した。この間の死者は3人だけで、残りは帰国する手段を失って伊豆半島にしばらく滞在することになった。玉泉寺には少なくともロシア将兵数名が滞在していたと考えられている。残り数百人のロシア人はどこに寝泊まりしていたのだろうか? 

 安政2年前半の下田のこうした事情に私が強く関心をもったのは、水戸藩の徳川斉昭がこの年の5月に老中にたいし、このままでは下田はキリスト教に支配されるし、将軍家との縁組だの、自分の娘の縁組だのと言いだされたら、どうするつもりなのかと詰め寄った一件があり、その当時の背景を知りたかったためだった。

 プチャーチンはこの災難にもめげずに日露和親条約の交渉を続行し、船を建造して帰国すると言いだして川路聖謨を感服させている。このときの船ヘダ号は実際、翌2年3月22日にはプチャーチンら48人を乗せて戸田村を出帆し、帰国したことなども、村上和尚のご著書からわかった。 

 しかし、ディアナ号の大半の乗組員はまだ下田に取り残されていた。そこへ下田開港の噂を聞きつけてハワイから早々にやってきたキャロライン・E・フート号が傭船契約結び、船長の家族らを下田に残して、ロシア将兵159人をカムチャッカまで送り届けたのだという。だが、それでもまだ250人が残されており、この第3陣は日本側からの要請でプロイセンの商人リュードルフが、その名もグレタ号という船で送り届けることになったが、クリミア戦争のさなかであったため、グレタ号は拿捕されてしまったようだ。リュードルフ自身はこの年の5月から11月まで8カ月、玉泉寺に滞在していたことが、ご住職から頂戴した山田千秋氏の『フランクフルトのビスマルクと下田のリュードルフ』という本や、山本有造氏の論考などからわかった。 

 玉泉寺にはペリー艦隊からの死者などアメリカ人の墓5基と、ディアナ号関係者のロシア人の墓3基が現存しており(もう1名の新しい追悼碑がある)、アメリカとロシアの外交官や政治家や、多くの研究者や観光客が訪れるという。ジミー・カーター元大統領も来訪したし、ウクライナ戦争が始まる前まではガルージン元駐日大使もたびたび訪れたとか。下田について勉強しようと買い込んだものの、まだほとんど積読状態の『下田物語』の著者スタットラーは、渋沢栄一の碑を守ったご住職のお祖母さまから多くのことを聞き取り、あの長編を書いたのだそうだ。 

 一般には航海中の死者は水葬が基本だったはずで、薩英戦争中に水葬に付されたイギリス人が鹿児島の海岸に流れついたことなども知られている。だが、ペリーは和親条約の交渉に先立って艦隊での最初の死者である海兵隊員ロバート・ウィリアムズの埋葬にこだわり、第1回目の交渉がその件でほぼ費やされていた。ウィリアムズはいったん横浜の増徳院で盛大に葬られたが、玉泉寺に改葬された。これは死者を日本の地に葬ることで、そこを何かしらの聖地または拠点とすることを意図したものだろうかと、私はご住職に伺ってみた。開港直後に横浜で殺されたロシア人のために「聖堂」を建てることをロシア側が強く主張したことなども知っていたからだ。玉泉寺の外国人の墓は大名クラスの仕様だそうで、ペリーの意図を知ってか知らでか、日本側は異国の地で死んでいった若者を悼む純粋な気持ちと、両国関係の今後を期待して誠意をもって尽くした結果と思われた。ご住職はすぐにその意味を察してくださったが、これまでそのように考えたことはなかったとのことだった。

 アメリカ人の墓は下田湾とはるか太平洋を望む場所にあるが、そのため風化が激しく、近年、屋根が構築されたため見た目が変わってしまったが、じつは1855年から1858年に撮影されたと考えられるダゲレオタイプの古写真がロチェスターのジョージ・イーストマン博物館に残されているとご住職から教えられた。年代が特定できるのは、その古写真には1858年に埋葬された5基目の墓がまだないことと、西洋人の子ども(おそらくルイーザ)と犬と思われる姿が写っているためなのだという。境内のハリス記念館でコピーを拝見したとき、どこかで見た写真だと思ったら、案の定、テリー・ベネットの『Photography in Japan1853-1912』に大きく掲載されていて、確かに犬の目まで光ってよく見えた。 

 下田開国博物館で、ディアナ号に乗り組んでいて津波のスケッチを残したモジャイスキーのカメラが展示されているのを見たので、撮影者は彼かとも思ったが、ヘダ号建設を指揮した彼は、第1陣ですでに帰国していた可能性が高いだろう。一般には当時、下田に来航していて、のちに咸臨丸に乗り組んだエドワード・メイヤー・カーン撮影とされるそうだが、ベネットはキャロライン・E・フート号に乗ってきたエドワード・E・エジャートンの可能性が高いと考えていた。ベネットの書には、モジャイスキーが1854年4月に玉泉寺の住職を撮影していて、そのダゲレオタイプは現存するとも書かれていた。どこにあるんだろうか?!(ご住職から頂戴した「玉泉寺」という冊子をようやく開封してみたら、この写真は同寺に現存と書かれていた!)

 ロシア人墓地のほうは、裏山の大木がよい木陰をつくっているために保存状態がよかった。見たことすらなかったであろうロシア文字を、一字の間違いもなく彫ってあったという碑文はまだ鮮明に残っていた。なぜか3基の墓にはロシア正教の八端十字架ではなく、普通の十字架が彫られていた。安政年間に、これほど堂々と十字架を示すものが彫られていた事実にも驚かされた。 

 墓地のあと、嘉永元年に柱や梁に硬材であるケヤキをふんだんに使って再建されたという本堂も見せていただいた。ご本尊を祀る両脇に和室があり、向かって左手が、ハリスが長い闘病生活を送った8畳間で、右手がヒュースケンの部屋だった。ヒュースケンの日記にあったベッドの置かれたあの部屋だ。彼は床間に座ってあのスケッチを描いたのだろう。ヒュースケンは、星がまだ31個の星条旗が玉泉寺境内に翻る、アメリカにとっては画期的な一枚も残している。下田の女性が羽二重で丁寧に縫ってつくった星条旗もアメリカに残されているのだという。 

 玉泉寺を失礼したあとは、了仙寺、泰平寺(何やら近代的な建物になっていた)や博物館などを回り、復路は普通列車を乗り継いで帰った。単線区間の下田から伊東まではいまでも時間がかかり、幕府が当初、開港場を下田ことで外国人をここにとどめておきたかったという地理的条件を再認識したような旅だった。いざこの日帰り旅行の記録を投稿する段になって、上田の次に下田に旅をしたことにようやく気づいて、われながら笑ってしまった。別に意図したわけではないのだが。

 いざサフィール踊り子号へ

時間が足らず下田踏海の現場までは行けなかったが、遠目に彫像は眺めた

玉泉寺の山門。この3段目まで波が押し寄せたという

玉泉寺本堂。渋沢栄一のおかげで銅葺きになった

下田湾を望むアメリカ人の墓所

ダゲレオタイプなので左右が反転している。
Terry Bennet, Photography in Japan 1853-1912より

ロシア人の墓所。側面の目立つところにも十字が刻まれていた

本堂内のケヤキの柱。左奥がハリスの部屋だったところ

ヒュースケンの部屋だった和室

ヒュースケンのスケッチ、
Henry Heusken, Japan Journal 1855-1861

2023年3月23日木曜日

上田旅行ほか

 先週初め、上田で史料調査に参加することがあり、現地の方から市内各所もご案内いただき、この旅行について書いておきたいと思いつつ、その後、多忙で今日にいたっている。大きな原因は、船橋で一人暮らしをしている高齢の母が入院してしまったことだ。母の長年の友人からの電話で、「お母さんが昨夜、誤嚥性肺炎で入院した」と知らされ、朝食もそこそこに駆けつけた。  

 上田に旅行中も、母はひ孫の面倒を見に横浜にきてくれていたので、まさに青天の霹靂だったが、この一年ほどいろいろな意味で衰えが目立ってはきていた。『気候変動と環境危機』の印税を、一部前払いしていただいていたため、いざというときに母宅に泊まり込めるようにと年末にラップトップを購入していたので、今回も一応それを持参した。ラップトップをもつのは20数年ぶりだ。翻訳のよい点は、何と言ってもどこでも仕事ができることだ。母のところはインターネット回線がないので、年末はテザリングする方法を娘から教わって凌いだが、今後の状況しだいで、モバイルWi-Fiを買うか、回線を引くか考えなければならない。

 上田で過ごした3日間はじつに多くの発見があったが、とりあえず簡単なものだけ、いくつかメモしておく。ちょうど「蔵出し! 新収蔵資料展」という企画展が上田市立博物館で開催されていて、そこに最後の上田藩主松平忠礼とともに、私の高祖父が写る写真も展示されていたので、ガラス越しながら初めて現物を見ることができた。上田藩関連の古写真のなかでも最も古い一枚だと思うのだが、画像は驚くほど鮮明だった。ただし、いかにも現代の写真らしい光沢が表面に見られた。今回、同じ幔幕前で撮影されたと思われる忠礼と鼓笛隊の写真は現物を手に取ることができたので、よく見てみたところ、やはり表面に光沢があり、素人目には鶏卵紙には見えなかった。アンブロタイプの古写真を写したものではないだろうか。この2枚は、東京都写真美術館が若林勅滋氏から買い取らなかった写真であり、当時もそう判断されたのではないだろうか。1975年刊の『庶民のアルバム明治・大正・昭和』にこの写真が初めて掲載されたときから、この写しが使用されており、オリジナルは行方不明なのだと思われた。 

 以前、「明細」という家別の記録の高祖父の項に「弘化四未七月御在坂中 大坂勝手被二仰付一」と書かれているのを、FB友の方に読んでいただいたことがあり、そのとき以来、見たかった「大坂入城行列図」という3巻ものの絵巻物を、今回、念願叶って閲覧することができた。想像していたよりはるかに小型で、ごく薄い和紙に描かれていたが、その長いこと、長いこと。調査の終了間際にトイレットペーパーのようなその巻物の1巻目を繰りつづけ、そのほぼ最後に徒歩で行列に加わる「馬役 門倉傳次郎」の小さな姿を発見したときは「あっ、いた!」と思わず声をあげた。巻物の3巻目は進み方が逆方向なので、ことによると復路かもしれないが、史料名どおりに入城時の様子だとすれば、25歳の高祖父だ。  

 今回は、上田藩の関係者がつくる明倫会や赤松小三郎顕彰会など、現地の方々とも交流する機会があった。小三郎記念館は以前も訪ねていたが、今回、説明を受けながら小三郎が島津久光に提出した建白書に、軍馬の改良とともに、畜産を奨励して「往々国民皆牛・豚・鶏等之美食を常とし、羊毛にて織り候美服を着候様改め候えば、器量も従て相増し、身体も健強に相成り、富国強兵の基にこれ有るべく候」と書かれていることに気づき、苦笑してしまった。何しろ、グレタ・トゥーンベリ編著の本で、畜産業がいかに地球の環境破壊の大きな一因となってきたかを昨年ずっと翻訳していたからだ。  

 明倫会の方々などが上田の主要産業だった養蚕の関係施設の訪問を手配してくださったおかげで、江戸時代に上田の蚕種業が始まった上塩尻の藤本養蚕歴史館から、現代の日本に残るわずか3社という蚕種会社の一つである上田蚕種株式会社や、信州大学繊維学部キャンパス、重要文化財に指定されている常田館製糸場まで、たいへん貴重な施設を見学させていただいた。詳しい説明を受けたおかげで、ようやく蚕種の仕組みを理解したのだが、狭いスペースで大量の蚕を孵化し飼育するためには、入念な温度調節から消毒、細菌検査、人工交配など、まさに産業としての畜産技術がなければ成り立たないことがよくわかった。養蚕はシルクロード文化の根幹にあり、日本では明治維新の原動力となった基幹産業であり、幕末から上田の養蚕業を支え、開国に結びつけたのが忠礼の父である松平忠固だった。養蚕業の衰退ぶりに、忠固が忘れ去られた一因を見る一方で、絹織物という人類の文化遺産の将来は、その他の畜産文化と同様に、厳しいものになりそうな予感がした。 

 個人的な収穫としてはほかにも、帰りの新幹線の時間間際に上田市立図書館まで走って行ったおかげで、以前に撮り損ねていた『上田郷友会月報』の何枚かの写真を資料室で撮影させていただくことができた。その1枚の、曾祖父の晩年の大正2(1913)年の郷友会の会合での集合写真には、山極勝三郎博士と忠礼の養子である松平忠正、それに5年後に没した曾祖父の追悼文を書いてくださった宮下釚太郎氏(無濁というペンネームでしかわからなかった方)が一緒に写っていた。 

 本業と孫守りの傍らで、ない時間を捻出してつづけてきた祖先探しと、関連の歴史調査だが、母が退院後にまた自立した生活に戻れるかどうかで、先行き不透明になってきた。連絡を受けて駆けつけても、横浜からではかれこれ2時間近くかかってしまう。 

 今回は数日前から頭痛がするという母を心配して、友人がお粥とおひたしをもって玄関先に「置き配」してくださり、連絡が取れないのを案じて夜間に助っ人を頼んで知人たちに行ってもらったところ、容体がかなり悪いことが判明して、なかば強引に入院させたのだそうだ。しかも、いろいろな話を総合すると、どうやら皆さん高齢者で、車ではなく、手持ちのショッピングカートに母を座らせて(見てみたかった!)、徒歩数分の場所にある病院まで夜中に連れて行ってくださったうえに、耳の遠い母と病院スタッフのあいだの「通訳」もしてくださったらしい。いまはもう完全に建て替えられて新しい街になっているが、昭和の団地仲間の、いまもつづく村の社会のような人の絆には、ただただ感謝するしかない。 

 駆けつけた病院では、まだコロナ禍の規制最終日であるうえ、母のPCRの結果が出ていないとのことで面会はできなかった。母が家に置き忘れた携帯・補聴器その他を取りに留守宅に入ったところ、差し入れとわかるお弁当箱や、自分でつくったと思われる土鍋のお粥、煮物等が食べかけのまま放置され、乱れたままの布団も敷きっぱなしで驚いた。母は極端に綺麗好きなので、入院した夜の慌しさが想像できた。  

 いずれこういう日がくることは覚悟していたとはいえ、あともう少しだけ時間が欲しい。母がまた煮物をもって横浜まできてくることはもうないのだろうか。せめて、近所をゆっくりとでも散歩をし、自宅で自分の食べたいものを料理できる日々が戻ってくることを願っている。食べるために生きているような母にとって、点滴と一日一食の重湯の食事は耐え難いようだ。

ようやく見ることができた高祖父と松平忠礼の写真

上田市立博物館で開催されていた企画展のチラシ

弘化2(1845)年、「大坂入城行列図」のなかにいた高祖父

赤松小三郎記念館にあった建白書のレプリカ

上塩尻の藤本養蚕歴史館の旧佐藤邸

信州大学繊維学部の旧貯繭庫に展示されていた繭のサンプル。建物はイギリス積みの古いレンガ造りだった。

上田城址公園の山極勝三郎の像

『上田郷友会月報』大正2年。曾祖父は扁額の右下。左隣りが宮下氏、山極勝三郎は後列左から7人目、その右隣りが忠正氏。

2023年3月3日金曜日

「未開人を待ちながら」

 ギリシャの詩人コンスタンディノス・カヴァフィスの詩の一部が翻訳中の本に引用されており、その意味深な言葉に惹かれて、前段の部分を少しばかり訳してみた。英訳は何通りかあるようで、そこからの重訳となってしまうが、なるべく忠実な訳を心がけてみた。 

 この作品の英語タイトルWaiting for the Barbarians(1904年)からして、野蛮人、夷狄、蛮族などと、訳者によってさまざまに和訳されてきた。ルイス・モーガンが人類の進歩をsavagery(野蛮)、barbarism(未開)、civilization (文明)の三段階に分け、それをエンゲルスが採用したことを知って以来、私はbarbarianを未開人と訳してきたので、今回もそれを踏襲したい。文明が恐れる敵としての他者は、石斧や吹き矢で戦うしかない野蛮人ではありえず、慣習や考え方、言語が異なるものの、武力面では侮れない「非文明的な未開人」に違いないと思うからだ。こうした言葉が日本に入ってきた当時、福沢諭吉が卑下したように日本を「半開」と呼んだことも忘れられない。題名は、この詩をもとに書かれたと言われるサミュエル・ベケットの戯曲の邦題『ゴドーを待ちながら』(1954年)がよく知られているので、それに合わせてみた。 

「未開人を待ちながら」

みな何を待っているのか、広場に集まって?   

    今日ここに未開人がやってくるはずなのだ。 

なぜ元老院ではこれほど無駄な時間が過ぎているのか? 
なぜ議員たちは法案を可決もせず座っているのか?   

    今日、未開人がやってくるからだ。   
    議員たちがまだ法律をつくる必要がどこにあるのか?   
    未開人たちが、ここへきたら、法を制定するだろう。 

なぜ皇帝はこれほど早起きしているのか? 
なぜ市の正門の前にいるのか?  
玉座に腰掛け、厳しく、冠をかぶって?   

    今日、未開人がやってくるからだ。   
    その指導者を迎えるために皇帝は待っているのだ。   
    彼に与える巻物すら用意している。   
    称号や立派な名前をいくつも書き連ねて。  
 
 [中略] 

この突然の落ち着きのなさは、この混乱はどうしたのか? 
(人びとの顔がいかに深刻になったことか。)
 通りも広場もこれほど急に人けがなくなったのはどうしたことか? 
誰もが思いに沈み家に戻っている。   

    夜になったのに未開人がやってこなかったからだ。   
    そして国境地帯から何人かがやってきて、   
    未開人はもうどこにもいないと言った。 

 いまや未開人もいなくなってわれわれはどうなるのか。
 あの連中が解決策みたいなものだったのに。  

 引用されていたのは、最後の四行で、ここがこの詩の要だ。この最初の行は、国境地帯から何人かがreturnedとなっている英訳もあるが、ギリシャ語の原詩をグーグル翻訳した限りでは、私が翻訳中の仕事で引用されていたように、arrivedが近そうだ。そうなると、これを「兵士が何人か前線から戻った」(中井久夫訳)とするのはおかしい。国境地帯からやってきたのは文明の慣習と言葉を身につけた「未開人」だと解釈することも可能だからだ。未開人は死に絶えたのではなく、文明化されたのだと考えたほうが、この詩のもつ意味がより鮮明になるのではないか。つまり、対峙すべき敵が、他者がいなくなったとき、解決策がなくなって、国としてのアイデンティティが崩壊するのだと。  

 以前にも書いたことがあるが、アメリカのナショナル・アイデンティティの崩壊を憂いたサミュエル・ハンチントンの『分断されるアメリカ』(集英社、2004年)に「他者と敵」という忘れ難いセクションがあった。「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか? 一部の人は明らかにそうだ。『ああ、憎むというのは何とすばらしいことか』とヨーゼフ・ゲッベルスは言った。『おお、戦えるのは有難い。護りをかため身構えている敵と戦えるのは』と、アンドレ・マルローは言った」と始まる。  

 今回、カヴァフィスの詩で他者とは何かを改めて考えさせられたあと、世界の終わりに北方の地に封じ込められていたゴグとマゴグが解き放たれると信じられていたことを知った。ゴグとマゴグはイギリスではどういうわけかロンドンの2人の巨人の守護者となり、19世紀にジョン・ベネットが時計仕掛けの見せ物としてその人形を登場させていたことを、少し前に『世界を変えた12の時計』(デイヴィッド・ルーニー著、河出書房新社)で訳していた。最初に登場するのは旧約聖書のエゼキエル書だが、そこでは「マゴグの地のゴグ」であり、イスラエルの地を襲う「メシェクとトバルの総首長ゴグ」だった。ところが、新訳聖書が書かれた時代には、ゴグとマゴグはいつの間にか2人の巨人になり、アレクサンドロス大王の門によってローマの最果ての地の向こうに封じ込められているのだと考えられるようになった。のちにアレクサンドロスの門の話はクルアーンにも盛り込まれた。やがて既知の世界の範囲が広がるにつれて、この門の場所は遠方へと移動しつづけた。シルクロード西端の玉門関がその砦だという説も有力で、18世紀にいたるまでヨーロッパの地図の北東の隅にその領土が描かれていたことなども、今回初めて知った。  

 日本にも蝦夷は存在したが、坂上田村麻呂が討伐して久しく、北方からの脅威という感覚は根づかなかったようだ。他者も敵もとくに必要とせず、他国との接触は最小限にとどめても、さほど大きな内乱もなくやり過ごすことのできた江戸時代は、ひとえに蒸気船も飛行機もインターネットもなかった時代に、世界の果てを取り巻く大洋オーケアノスの、そのまた先に浮かぶ島国だから可能だったのか。「普通の国」では、他者や敵がいないと、自分たちをまとめる解決策がなくなるのか。 

 そんなことを考えながら、ゴグとマゴグ、プーチンと検索してみたら、案の定、昨年の春を中心に次々にそんな記述が次々に出てきた。ゴグがプーチンならマゴグは誰か、という滑稽な議論も盛んになされていた。聖典を通じて頭に叩き込まれたこうした考えは、身に染み付いてしまい、気候変動の脅威が迫り、終末がちらついてくるなかで、甦ってくるに違いない。

 厄介なのは、ゴグ扱いされているプーチンや、マゴグ候補の諸々の国の指導者たちもまた、終末は近づいていて、アメリカを筆頭とするサタンが解き放たれたと思っていることだ。彼らにとっては、欧米諸国が他者であり、敵なのだから。 

 マゴグと名指しされがちな中国では、さすがに「アブラハムの宗教」の影響は少ないかもしれないが、長年、万里の長城や玉門関を築いて、西からの夷狄に備えてきた民族だ。城壁の内と外の陣容が入れ替わっただけで、思考回路はよく似ている。  

 欧米諸国の目論見どおりにプーチン一派が一掃された暁には、どうなるのだろうか。かりにロシア人が一夜にして欧米と価値観を共有する民主主義者になったとしたら、それで世界は平和になるのか? それとも、未開人がもういなくなったら、各国をまとめていたたがが外れてしまうのか? 

イドリーシーの『ルッジェーロの書』(1154年)をもとに1929年にKonrad Millerが作成した写しの部分。画像はウィキメディア・コモンズより。
この地図は上が南で、この部分は北東端。「アレクサンドロスの門」らしきものが描かれている。

「蛮族を待ちながら」と訳した池澤夏樹訳も参考に読んでみた。最後の四行は、「何人かの者が国境から戻ってきて、/蛮族など一人もいないと伝えたから。/さて、蛮族が来ないとなると我々はどうすればいいのか。/彼らとて一種の解決には違いなかったのに」となっていた。
解説から察するに、池澤氏はこの詩を「覇気の徹底的欠除」を表わすものと解釈したようだが、それでは肝心の最後の文の意味が通じないのではないだろうか?

2023年2月21日火曜日

歴史は意図的にも繰り返される?

 昨年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まった際に、これは双方が壊滅状態になるまでつづくのではないかという悪い予感がした。黒海・カスピ海沿岸のステップは印欧祖語の故地と考えられている。この一帯は定住する農耕民と移動生活を送っていた狩猟採集民が接触していた地域であり、野生の馬はこの地で初めて飼い慣らされた。そのことがヨーロッパから北インドにいたるまでの広大な地域の文明を大きく変えたのだと、『馬・車輪・言語』(デイヴィッド・アンソニー著、筑摩書房)には書かれていた。そんな何千年も昔の事情をもちだして、ウクライナ情勢を説明する人はまずいないだろうが、民族の気質というものは、代々受け継がれる言語や文化と気候風土が相まって、案外長く変わらないのではないか、と私は思っている。 

 前3500年からステップの乾燥化が始まった前期青銅器時代に、ヤムナヤ・ホライズンという広域文化が広まった原動力の一つとして、コリオス(korios)またはメンネアビュンデ(Männerbünde)と呼ばれる制度があったという。「誓約によってお互いにも祖先にも縛られた若者による戦士の同胞団であり、原印欧の通過儀礼の中心をなす部分として強制された襲撃のなかで再構築されてきた」というのが、その大まかな説明だ。コリオスの若者たちの多くは犬の犬歯をペンダントとし、オオカミの毛皮を羽織るか、ほとんど何も身にはつけず、ベルトだけを締めて襲撃に出たのだそうだ。 

 水が豊富にある肥沃な土地で栄える農耕とは異なり、牧畜は総じて農業には不向きな乾燥した土地で、人びとが生き延びる手段として発達する。だが、脆弱な環境で過放牧を防ぐには、広大な面積を必要とする。この時代、黒海・カスピ海沿岸地域では襲撃による牛泥棒や牧草地の確保は、正当化されるどころか、奨励されていた。馬のような大型の動物を裸で、つまり非武装で乗り回すということは、野生を素手で制御できる力を誇示することだったのだろう。ここは騎馬民族の故地であり、家父長制やマッチョ文化の発祥の地なのだ。ヨーロッパ人の優れた側面も、醜い側面も、この地に集約されているような気がしてならない。 

 じつは、いま取り組んでいる国境に関する本で、このコリオスとよく似た風習が古代ギリシャにもあったことを知った。アテナイでは若者は2年間、エペーボスとして国境地帯でパトロールを務めなければ、市民権を獲得することはできなかった。スパルタにはクリュプテイアという、より過酷な制度があり、未開の地で武器は短剣一本で、一人または小グループで生き延びなければならなかった。その過程で命を落とす若者も大勢いた一方で、彼らは奴隷であるヘイロタイを手荒く取り締まる汚れ仕事も負っていた。古代ギリシャの都市国家は文明の手本のように考えられているが、まだまだ力がものを言う世界だったわけだ。 

 改めて調べてみたら、Kóryosという項目がウィキペディアに出来ていて、そこには確かにエペーボスとの関連がギリシャの黒絵式の壺に描かれた若者の写真付きで、裸で戦うことへのこだわりとともに言及されていた。どうやら2年前にダン・デイヴィスというYouTubeで活躍する小説家がこの風習をテーマに小説を発表したために、情報が増えているようだ。過去を史実として知り、伝えることは非常に大切だが、フィクションや映像作品は、過去を単純化し美化することにつながりやすいので、少々危惧している。 

 コリオスの風習は、イギリスのフィングルシャムにある七世紀のアングロサクソンの墓地から出土したベルトバックルにも見られると、アンソニーは書いていた。文字のなかったヤムナヤ時代の風習は、考古学的痕跡にかろうじて残されているだけだが、ギリシャ時代に文字で記録が残されたことで、若者の通過儀礼であるこの風習はヨーロッパ文化のなかで長く受け継がれ、それが後世に繰り返し想起され、民族のアイデンティティやルーツを強化するために意図的に利用されてきたのだろう。日本で言えば、さしずめ武士道だろうか。 

 国境紛争があれば、エペーボスやクリュプテイアの若者たちは駆りだされ、大量に死んでいった。遺体は回収されることなく、ただ「空の墓」の慰霊碑が建てられ、スパルタではその死は美しい理想とされ、裸の戦士たちが踊るギムノペディアと呼ばれる祭りで「ティレアの花冠」とともにたたえられたという。エリック・サティの「ジムノペディ」は、この祭りに着想を得た作品だった。 マティスの「ダンス」や「ダンスII」は、画家本人が意識したかどうかはわからないが、ギリシャの黒絵式の壺に描かれた裸の踊り手たちを思わせる。ひょっとすると、ギリシャのこの祭りがベースにあるのかもしれない。一般には、ストランヴィンスキー作曲で、ニジンスキーが振り付けをした「春の祭典」からも影響を受けたと解説されている。これはロシアの実業家セルゲイ・シューキンからの依頼で制作した作品で、ロシア革命時に没収されて行方不明になり、1930年に再発見され、それ以来エルミタージュの所蔵品となっている。マティスのモデルの多くは、リディア・デレクトルスカヤというトムスクのロシア貴族の家に生まれた女性だったことを、今回、「ロシア・ビヨンド」というサイトで知った。 

 ティレアの花冠の現代版は、戦没者に捧げる赤いヒナゲシの造花だという、国境の本の著者の指摘に、第一世界大戦終結記念のリメンブランス・デーに、イギリスの知人、故イアン・アプリン氏が送ってくれた写真を思いだした。彼の父親は、塹壕戦を戦い、クリスマス休戦の発端をつくった一人だった。日本のお墓では地味な色合の花が一般的なので、最初に写真を送ってもらったときはずいぶんと奇異に感じた。どうやら、塹壕のなかに埋もれたままになった夥しい遺体の上に、戦後、真っ赤なヒナゲシが一面に咲いたことから始まった慣習らしい。ソンムの戦いだけで、行方不明の戦死者が7万2315人にのぼるという。ケンブリッジのトリニティ・カレッジのチャペルの壁に、第一世界大戦で命を落としたカレッジ関係者の名前がびっしり刻まれていることは、『アマルティア・セン回顧録』から知った。

 ヤムナヤ・ホライズンの影響は西へ広がっただけでなく、カイバル峠を越えて北インドにも、さらにはウラル山脈、アルタイ山脈を越えて東にも広がった。コリオスの制度は、要するに徴兵制だ。現代の徴兵制はフランス革命とともに始まったと言われ、それ以前の三十年戦争などは傭兵を中心とした戦いだった。国民国家が誕生して、「国民」が人為的に創生される過程で、ギリシャ・ローマの古典を手本に祖国のために戦って死ぬことが再び美徳とされ、賛美されるようになったに違いない。徴兵制はいまも面倒な隣国と国境を接する大陸の国々を中心に残っており、一時的に廃止されていた国々で復活する動きすら見られる。日本では、国境を広げようと無駄な努力をした1873(明治6)年から1945年の敗戦まで敷かれていた。文明開花した日本が真っ先に取り入れた西洋の慣習の一つだったわけだ。 

 以前に、明治初期の護国神社や招魂社の歴史を調べたことがあったが、改めて確認してみたら、1865年に落成した下関の櫻山招魂場が実際にはその第1号だった。今回、「空の墓」という表現を知ったとき、明治2年5月に箱館海戦で、19歳で死亡した遠い親戚の墓所を探したときに味わった虚しさを思いだしていた。  

 ソンムの戦いの夥しい戦没者を祀ったティプヴァル記念碑の画像をいろいろ検索したあとで、近所にある横浜英連邦戦死者墓地を久々に訪ねてみた。整然と墓標が並ぶ墓地は、相変わらず雑草一本ないほどきれいに手入れがされていた。管理費は、コモンウェルス戦争墓地委員会が基本的に賄っていることを今回初めて知った。埋葬者の多くは20代、30代の若者だが、インド兵のなかには生年月日すら不明の人がいたようで、ただ死亡日だけが記されていた。墓石のない20名のための碑もあった。ほぼ全員がムスリムであったことも印象的だった。  

 何かと戦争について考えさせられた一年を振り返って、こんなことをあれこれ取り止めもなく考えている。

英連邦戦没者墓地のニュージーランドとカナダ兵の墓地。2023年2月撮影


同墓地の墓石のない20名のインド兵のための追悼記念碑


故イアン・アプリン氏、リメンブランス・デーの写真

2023年1月29日日曜日

『人新世の「資本論」』を読んで

 何とも遅まきながら、ようやく斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)を一通り読んだ。ベストセラーは図書館で借りる主義なので、仕事が一段落した折にリクエストを出そうと思ったら、あまりの待機者の多さに仰天してしまった。2021年新書大賞となり、75万部(2月1日付、毎日によると50万部に届く程度とのこと)を売り上げたらしい。あきらめて年末に古本を購入した。

 私にとっては子世代の若い研究者が、2020年の段階でここまで世界の状況を理解し、自説を掲げるほどまでにいたったことには、とにかく驚きしかない。この本で言及される研究者の多くは、グレタ・トゥーンベリ編著の『気候変動と環境危機』(河出書房新社)の寄稿者たちだ。こと気候問題、環境問題に関する限り、斎藤氏がこの本で書いたことは、彼の妄想でも誤解でもない。本書には科学面では、『地球の限界』の環境学者ヨハン・ロックストロームと、アメリカの環境活動家のビル・マッキベンくらいしか具体的に登場しないが、ここで述べられていることはいずれも最先端の科学者たちが到達した結論であり、気候問題に長らく翻訳を通じて携わってきた者として、何ら違和感なく受け入れられることだった。よって、その点を槍玉に挙げて本書を批判する人は、まず気候問題について勉強し直してほしい。  

 斎藤氏のもともとの専門は経済学のようなので、トマ・ピケティや、ドーナツ経済学のケイト・ラワースも登場するし、ショック・ドクトリン、公正な社会への移行、ケア労働の重要性等への言及などは、ナオミ・クラインなのだろうと思った。「ネガティブ・エミション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ」とも書いていた。「外部化される環境負荷」、「あらゆるものを海外にアウトソーシングしてきたせい」、「ブランド化と広告が生む相対的希少性」、政治学者のエリカ・チェノウェスの「3.5%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる」といった問題にも触れているところなど、『気候変動と環境危機』の寄稿文と重なり合う部分がじつに多く、それをまだ30代なかばの日本の一研究者が2020年にはすべて把握していたということに、敬意を表したい。 

 もちろん、「学校ストライキで有名になった当時一五歳の高校生」についても、資本主義という無策の「システムそのものを変えるべきだ」と主張したことや、世界中の若者たちが彼女を熱狂的に支持したことに触れている。年末に斎藤氏が『現代ビジネス』に寄せた『気候変動と環境危機』の書評でも、グレタについて、「大人たちにもガツンと殴られるような衝撃を与えたのだ。何を隠そう私自身もその一人である」と書かれていた。 

 彼の経歴を見ると、東大には3カ月しか在籍せず、もっぱら欧米で勉強し研究してきたようだ。ガラパゴス化している日本社会でおもに書物とニュースでしか世界の情勢を知らず、大学や研究機関とのつながりもない私とでは雲泥の差になるのは当然か。 

 長年、細々と気候科学の行方を追うなかで、私も唯一可能で現実的な解決策は経済成長を遅らせることだとつねづね思っていたので、脱成長を掲げる点でも彼の主張には共感する。「生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである。その場合、日本人は、ニューヨークで三日間過ごすためだけに飛行機に乗ることはできない。解禁の日にボジョレヌーボーを飲むこともできなくなる」というくだりを読みながら、その時代をじかに知る人間の一人として、決して不可能ではないと思った。 

 コモンズに関する見解も、ブライアン・フェイガンがよく言及していたし、日本だって私の子供時代までは裏山の薪炭林などは誰もが入ってタケノコでも山菜でも採れるコモンズだったはずだ。イギリスの都市で実際に牛が草を食むコモンズを見て、私有地を突き抜けるパブリック・フットパスを歩いたことから、どこもかしこも立ち入り禁止の私有地になりはてた日本の現状を憂いてきた一人でもある。鉄道や水道、電気、ガス、電話、郵便などを民営化したのが間違いだったと、いまでも思う。 

 しかし、『人新世の「資本論」』のマルクス主義に関することでは、いくつか重要な疑問がある。マルクス研究者の彼に、マルクス主義なりコミュニズムに関して異を唱えるのは、釈迦に説法もいいところなのだが、私が翻訳で携わったわずかばかりの経験で得た知識との食い違いが気になったのだ。とくにマルクスが1881年に3度書き直したという「ザスーリチ宛の手紙」に関する相違は引っかかる。本書で斉藤氏がこれを何度も取り上げ、「人新世を私たちが生き延びるために欠かせないマルクスの遺言」とするからなおさらだ。ロシアのミールと呼ばれる農村共同体が、資本主義という段階を経ることなしに、ロシアをコミュニズムに移行できるとマルクスが認めたものだ。これは「最晩年のマルクスが、単線的な歴史観とヨーロッパ中心主義から決別していた」ことを明らかに示すものだと、本書は主張するのだが、「生産力至上主義」からの脱却の道筋だと解釈するあまり、晩年のマルクスのこの見解に力点を置きすぎてはいないだろうか。

 『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)を書いたトリストラム・ハントによると、エンゲルスは1875年の小論で同趣旨のことを述べつつ、一つの条件を加えていた。「しかしながら、これが起こりうるのは、共同所有の形態が完全に崩壊する前に、西欧でプロレタリア革命が成功して、ロシアの小作農がそのような移行をするために不可欠な前提条件が生みだされた場合のみである」と。マルクスは晩年に「資本主義による社会経済的進歩の統一過程がすべての民族に当てはまるという論点を、強調しなくなっていたのだ。しかし、エンゲルスはこうした考えを残念に思い、二人のあいだの哲学的相違が明らかになるわずかな例のなかで、当初のマルクス主義の理論的枠組みに立ち戻っている」と、ハントは説明していた。エンゲルスはロシアのプレハーノフにも「資本主義社会の矛盾が共産主義への変貌に必要な前提条件」であることを納得させ、プレハーノフは「レーニンの主張する前衛に立つエリートが引き起こすトップダウン方式の社会主義革命を心底から嫌っていた」ともハントは書く。こうした経緯を翻訳した当時、私なりに理解したのは、ロシア革命によってソ連に誕生した政権や、その後の中国や北朝鮮などに生まれた政権が社会主義や共産主義を名乗ることについて、マルクスはいざ知らず、エンゲルスはもし生きていたら、その行く末を危惧しただろうということだった。そして実際、その結果は恐ろしい社会となった。

  一方、斎藤氏は「『資本論』の第二巻、第三巻は、盟友エンゲルスがマルクスの没後に遺構を編集し、出版したものにすぎない。そのため、マルクスとエンゲルスの見解の相違から、編集過程で、晩年のマルクスの考えていたことが歪められ、見えにくくなっている箇所も少なくない」として、エンゲルスのはたした役割を過小評価、もしくは否定的に捉えているように感じた。近年、MEGAと呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』刊行の国際プロジェクトが進んでおり、彼もその一員だそうだが、「E」はエンゲルスなのだ。マルクスが大英博物館にこもって研究に耽っているあいだ、資本主義の現場も労働者の置かれた悲惨な状況も嫌というほど目にしながら、20年近くマルクスに資金援助をつづけ、かつマルクスより長く生きて民主主義とは何かを少しは体験したエンゲルスの思想にこそ、むしろ現代に通ずるものがあるように私は思った。 

「脱成長コミュニズム」の理論的根拠として、斎藤氏は『ゴータ綱領批判』の一説を引用し、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わるというマルクスの言葉は「コモン」に通ずると述べる。この一説の最後は、「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて」である。コミュニズムの定義として有名らしいこの一文のドイツ語の原文(Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen!)では、同じ表現が繰り返され、目的語に相当する能力とニーズだけが異なる構文のため、何を言わんとしているのか理解しづらい。そのせいか、このフレーズは、「無限の生産力と無限の潤沢さによって、不平等な分配の問題を解決すると」解釈されてきたのだが、実際は真逆なのだという。 

 しかし、この一文の英訳は「From each according to his ability, to each according to his needs!」なのだ。昨年末刊行された『アマルティア・セン回顧録』(勁草書房)には「マルクスをどう考えるのか」という面白い章がある。そのなかで、ゴータの町で開かれた労働党の会議と、それにたいするマルクスの批判の説明を読んだあと、私はこの一文を「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」と、fromとtoを補った形で訳した。センの解説によれば、マルクスはこのとき最終的に必要原理を選んだが、「仕事に意欲をもたせるのに充分な制度とこの原理を結びつけるのは、非常に難しいかもしれないとも記した。どれだけ働いても稼ぎに結びつかなければ、勤勉に働く意欲を失うかもしれない。そこで、必要原理を強く支持したあとで、マルクスはそれをただ長期的な目標であるとした」。ドイツ語の原語と英語訳、あるいは日本語訳で、同じ文献の解釈にずれがあるのではないかという疑念は、『エンゲルス』を訳していた期間、私がずっと抱いていたものだった。マルクス主義への回帰を主張するならば、こうした基本的な問題も考慮すべきだ。

 ちなみに、ハントの原書はこの部分を、違う英訳版を使用したのか、何かの誤解だったのか、「From each according to his ability, from each ability according to his work.”としていたため、私もそのとおりに訳していたことにいまさらながら気づいた。  

 斎藤氏の書では労働者が生産自治管理・共同管理することを訴えるピケティの「参加型社会主義」や国境を越えて都市間で協力する自治体主義というミュニシパリズム、選挙ではなくくじ引きでメンバーが選ばれるフランスの「市民議会」、気候非常事態宣言をしたバルセロナ、「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」といった実践例があれこれ挙げられている。これらの新しい概念や試みは魅力的だが、資本家を排除しても、それらの組織が民主的になり、環境に配慮した賢明なものになる保証はかならずしもない。センは回顧録のなかで、「政治組織にたいするマルクスの精査は奇妙なほど初歩的に思われた」とし、「プロレタリアートの独裁」において、「実際の政治的取り決めがどう機能するのかもほとんど説明されていない」と指摘していた。「マルクスによる民主主義の扱いにも重要な欠落がある」とも。共産主義と聞けば旧ソ連や中国を連想する多くの人にしてみれば、これらの左派的な新しい動きから、権威主義的な独裁政権が誕生して、自由など何一つなくなるのでは、という恐怖心も拭えないだろう。 

 女性参政権が認められ、普通選挙が行なわれるようになったのはおおむね20世紀以降なので、マルクスもエンゲルスも民主主義を実体験していない。マルクスの時代はまだ憲法でどうすれば王権を制限できるかという時代だ。実態すら不明な下々の民の意見をどう汲み上げ、誰がどう意思決定するのかまで、彼らも頭が回らなかったに違いない。民主主義国家を称する現代の国々でも、民主主義が機能しているとは言えない国が大半だ。戦後の束の間の平和な時代にやたら贅沢な暮らしに慣れてしまい、それが自分たちの権利であり日常だと信じ込んでいる大多数の人びとが、気候変動とともに環境が様変わりして右往左往するなかで、意思決定に時間のかかる民主主義をどうすれば貫けるのか。その難題にたいする答えを、19世紀の人間であるマルクスに過度に求めるのは、いささか無理があるのではないだろうか。  

 長々と書いてしまったが、政治家も経済人もまさしく「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と言わんばかりの日本で、大半の人は目先の娯楽や用事にしか関心がない現状において、人類に迫る大問題を真剣に考えてくれる若い世代がいるというだけで頼もしく思う。斎藤幸平に建設的な論争を挑む若い人がどんどん出てきて、困難な時代にも耐えうる政治・経済システムを考えてくれることを切に願っている。

2023年1月26日木曜日

横須賀開国史研究会

 昨日、横須賀開国史研究会主催の連続講座のうちの1回分として、「日米和親条約締結の舞台裏」という大それたテーマで発表をしてきた。寒波の影響で冷え込んだ一日だったにもかかわらず、ヴェルクよこすかの会場がほぼ満室状態になるほど、大勢の方にご参加いただいた。正月明けから、本業の傍ら、この不慣れな大役のために、図書館から大量の本を借り直して資料を作成し、4年ぶりにパワーポイントを立ち上げ、時間オーバーしないように、発表する内容を大幅に減らして調整を重ね、当日に挑んだ。それでも、何分、複雑きわまるテーマであるうえに、準備不足やら、人前で話し慣れていことやらで、どれだけご理解いただけたかはわからない。  

 今回、このお題をいただいて調べ直した際に、たくさんの新しい史料を見つけてしまい、「舞台裏」は当初思っていたより、はるかに深淵であることが判明したが、とりあえずこのような講座を担当するきっかけとなった日米和親条約第11条の誤訳問題に関して、少々まとめたので、ご興味があれば、お時間のあるときにお読みいただきたい。これまでもブログに「森山栄之助の弁護を試みる」をはじめ、平山謙二郎、井戸覚弘など、関連人物について何度か書いてきている。  

 今回はハリスの日記の原書(pp. 208-210)から始めたい。 1856年8月27日(前日の書き忘れとする条)で、上席の通訳(森山)についてまず「優秀な通訳で、非常に気持ちのよい態度の、真の廷臣(courtier)」と評したあと、トラブルをこう書いた。日本側は「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなっていない。[中略]条約では領事は両国[原文both]がそれを望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた(注275)」とつづく。注275は第11条の「和文条文はあいにく、両[同both]政府が領事の任命を必要とみなした場合としていた」と書き、その典拠にJ. H. GubbinsのThe Progress of Japan、pp. 68-69を挙げる。1911年刊のこの書が誤訳説の始まりとなった。  

 ハリスはさらに8月27日当日のことを記した条(この日付の条が2回ある)に、再び日本側との交渉についてこう書く。「追加の条項がまだ批准のために送付されていない(注277)。彼らはアメリカ政府が批准された条項を携えた大使を特派し、そのあと領事を送ることについての交渉に入るものと考えていた」。注277は、「Additional Regulations[下田追加条約と呼ばれるもの]は1854年6月17日に下田でペリー代将と日本の委員[応接掛]とのあいだで締結された」と書く。  

 これに相当する日本側の記録が『幕末外国関係文書』14の〔181〕と〔183〕にある。対応したのは支配組頭の若菜三男三郎と、調役並勤方に昇進した森山栄之助らである。領事駐在については条約に定めたのでこちらも承知しているが、「右は往々両国おいて差支えの筋これ有りの節は、尚談判の上差置き候積もり」(p. 522)と26日に言い、翌日も「去春条約本書取替せの節、条約付録差越されず候につき、その節応対の役々より掛合いに及び候ところ、追って持渡るべしの趣につき」(p. 535)と述べている。  

 ハリスのオランダ語通訳のヒュースケンは8月21日(27日の読み間違いか)の日記に、日本側はアメリカ領事をこの地に置く必要性を感じていないと記し、理由として在日日本領事が任命されるのは「either of the two governments deemed it necessary」と条約に書かれていたからだと書く。ところが、原書(英訳板)にはこのeither ofのあとに[sic]と書かれ、「ヒュースケンはここで間違っている。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と注がある。しかし、通訳に当たったヒュースケンは、森山が「両国おいて差支えの筋これ有りの節は」と言った言葉の、「差支えの筋」つまり、「必要と見なした場合には」という条文の但し書き部分にこだわっていたことを、正確に理解していた可能性が高い。  

 というのも、ハリスは最初、領事駐在は「既に治定の事」と言い切ったあと、「自国において余儀無き次第これ有りに付き、此度差越し候事」と言い直しているのだ。それにたいし、日本側は「其政府おいて差支えの義は、素より当方にて知るべき謂れこれ無く」と言い返している(pp. 530-531)。当時は、両国間に連絡を取る手段がなかったことを考えれば、そうだろうなと読んでいて笑いたくなるようなやりとりである。

   ハリスはおそらく当初、第11条英文条約の最後に書かれた、provided that either of the two governments deem such arrangement necessaryの但し書き部分が重要だと認識していなかったのだろう。彼が赴任した安政3年7月21日(1856年8月21日)は、日米和親条約が批准された安政2年1月5日(1855年2月21日)からちょうど1年半後で、その日を狙って来航した可能性がある。条約の条文では、調印日である嘉永7年3月3日(1854年3月31日)から18カ月後なら任命可能と読めるのだが、アメリカ側が日本の事情を配慮して、批准書が交わされた日から1年半後まで待ったのではないか。ハリスは満を持して意気揚々と下田にやってきたのに、冷遇されたため、憤慨したのではなかろうか。  

 日米和親条約の第2条では「下田港は本条約調印のうえで即時開港」と定めているが、ペリーは口頭で、条約が批准されてから、早くとも10カ月ないし1年以上先でなければ、アメリカからの船が下田に来航することはなく、領事も今後1、2年は派遣されないと請け合い、日本側はそれを記した書面を求めていた(『遠征記』下巻、pp.228-229)。ペリーとの交渉では、正式の交渉でない事務方との協議で土壇場に決まったと思われる第9条の件をはじめ、口約束や双方の暗黙の了解がかなりあったようだ。『墨夷応接録』という日本側の公式記録で、応接掛の林大学頭らが領事駐在は18カ月後に再度「ご談判に及び申すべく候」と述べたことは、この公式記録に見られる改竄と解釈されることが多かったが、これはペリーの口約束だったと考えるほうが自然ではないだろうか。  

 また、ハリスが来日当初に言及した「追加の条項」は、日記の注釈にあるような下田追加条約のことではなく、森山が「条約付録」と述べたものであり、ペリーに随行していたウィリアムズが言及していた「付属文書」のことだったと思われる。『ペリー日本遠征随行記』に、「その他いくつかの点が付属文書(supplementary letter)に加えられることになり、そのうちの一つは下田が実際には来秋(next autumn)まで開港されないことで、もう一つは領事に関するものである」(拙訳、邦訳書p. 252)と書かれているものだ。「付属文書」に関しては今津浩一氏が『開国史研究』第11号で指摘しておられた。 

 付属文書を交わす話は、結局のところ口頭でのやりとりでうやむやになったに違いない。アメリカ側は下田追加条約でこれは解決済みと考えたのにたいし、日本側は領事駐在という重大な案件に釘を刺す頼みの綱として、ハリス来日までずっとすがっていたのだ。反故にされたこれらの口約束こそ、ハリス来日時のトラブルの原因だった。そうした一連のトラブルをハリスがbothという言葉を使って日記に書いたのを、1911年にJ. H. Gubbinsという研究者が条文の相違に端を発するトラブルと解釈したことから、その後の誤訳説が生まれたと私は考える。 

 ハリスの日記の原書は1930年に刊行された。翌年には、Treaties and Other international Acts of the United States of AmericaのVol. 6が刊行され、そのなかで第11条の和・英の条文に違いがあることが言及されていた。当時、アメリカ議会図書館に勤務していた坂西志保氏が和文条約を英訳した際に、「両国政府に於いてよんどころなき儀これ有り候模様により」という部分を、「After the two Governments think it necessary and desirable」と英訳したものが、この箇所に引用されている。これらのことから和文版はboth であるのに、英文版はeither ofで、これは誤訳だ!という短絡的な誤訳説が広まったと、私は推測している。今津氏の前述の論文によると、最も古い誤訳説は、竹村覚著『日本英学発達史』(1933年)だそうだ。日米和親条約の条文が掲載された1931年刊の書はGoogleブックスで全文が読める。

 「両国政府において」という日本語は曖昧な表現であり、「両国政府共に」と言っているわけではない。かたや英文条約のeither ofは両国政府のいずれでも、という意味であり、いずれか一方のみが、という意味ではない。オランダ語条文のeen van beideは、森山が「両国政府の一方より」と訳したように、英文より明確に意味を伝えていた。よって、彼が誤訳したわけではない。 条約交渉前に老中が五年後の交易開始に前向きであったことや、応接掛に全権委任をし、後日にお咎めがあれば、自分が受けると責任を取ったと内藤耻叟が後年『開国起源安政紀事』(pp. 60-61)に書いたことを考えれば、「ご談判」に関する誤解が森山の通訳の不手際だとか、応接掛による隠蔽工作だという説明は腑に落ちない。森山と応接掛は当時、松平忠固をはじめとする大半の老中からは交易に向けて平和の談判をするようにと指示され、水戸の徳川斉昭からは交易は絶対にならんと命じられ、そのあいだに立って言葉を失う阿部正弘の苦渋をよく承知していたのだ。  

 以上が、第11条の誤訳問題に関する付け足しだが、本当に解明しなければならない問題はもっとずっと複雑かつ広範囲にまたがる。日米和親条約の締結(1854年3月31日)から5年と数カ月後の1859年7月1日に横浜は開港された。日米修好通商条約の締結に最後の一押しを加えたあと、老中を解任された松平忠固は、ペリー来航時に日米双方で交わされた5年後に交易開始という条文外の約束を守ったのだろうと私は想像している。そして、森山栄之助はその双方の条約の締結に向けて、現場で誰よりも身を粉にして働いた人だ。誤訳問題が解決することで、日本開国の真の功労者が正当に評価される一助となれば嬉しい。

 会場となったヴェルクよこすか

2023年1月9日月曜日

松平兄弟

 慌ただしい年末年始を過ごし、年が明けてから数日遅れでようやく物理学の歴史の翻訳原稿の残りを提出し、一息つく間もなく、柄にもなく引き受けてしまった月末の幕末史の講座のための資料づくりにかかっていたので、家のなかも、頭のなかも混乱しきっている。すでに開始が遅れている次の仕事に至急取り掛かるべきなのだが、まずは諸々の雑用を片づけて、忘れまいとして、頭のメモリーを食っていたことを細々としたことを書きだしておくことにする。

 昨年10月に拓殖大学の関良基先生から、同大の塩崎智先生が発見された松平忠礼・忠厚兄弟に関する史料コピーと、金井圓の「あるハタモトの生涯——私費米国留学生松平忠厚小伝」(1969年)という論考コピーを送っていただいていた。金井氏の論考は『トミーという名の日本人』(文一総合出版、1979年)にも収録されていたので、古本を入手してそれも読んでみた。  

 さらにそのずっと以前の昨年5月に、以前に祖先探しの調査で上田を訪ねた際にお世話になった長野大学の前川道博先生から、「みんなでつくる信州デジタルマップ」に拙著『埋もれた歴史』の紹介記事を掲載してくださった旨をご連絡いただいていた。そこには、私と同様に、上田藩士だった祖先探しをしておられた2人の方がすでに記事を投稿されていて、拙著の記事を読んで連絡を下さっていた。私にとって非常に嬉しいこれら諸々の進展を尻目に、翻訳の仕事に専念しなければならなかった日々は、何とも苦しかったが、赤松小三郎研究会主催の三谷博先生の講演会があった機会に、松平兄弟に随行してアメリカに渡った山口慎のご子孫の方が東京にお住まいだったのでお誘いしてみた。日比谷公園内の松本楼でランチをしながら、初めてお会いしたのに、まるで遠い親戚に再会したかのように、あれこれ尽きることのない話をしたあと、一緒に日比谷図書館の講演会場へ向かった。  

 前段が長くなったが、こうした経緯から、じつは新たな発見があったので、今回はそれを書いておきたい。上田藩の最後の藩主松平忠礼(拙著表紙の騎乗の人)と弟の忠厚は、山口慎とともに明治5(1872)7月に渡米し、兄の忠礼はラトガーズ大学を1879年に卒業して帰国したが、弟の忠厚は現地に残り、アメリカ人女性と初めて結婚した日本人となり、測量機器を発明して『サイエンティフィック・アメリカン』に日本人として初めて掲載された人なり、測量技師として活躍したが、1888年にデンヴァーで結核によって36歳で亡くなった。

 松平忠厚については、飯沼信子の『黄金のくさび』(1996年)という伝記があるが、インターネットの使えなかった当時の状況では仕方のないことだが、かなり間違いが多い。上田市立博物館発行の『赤松小三郎・松平忠厚』(2000年)は、その点、史料をもとに書かれているためより正確な情報が書かれている。この史料の多くを提供したのが、どうやら東大史料編纂所におられた金井圓氏(1927-2001年)だったようだ。1875年に一足先に帰国した山口慎が、明治14(1881)年9月に、生活費に苦労する忠厚に宛て「二白、金六十五円九十六銭にて(是は少々足し前あり、おまけなるべし)銀貨四十弗相求め、それに又金貨三十五弗七十銭相求め」送金したことを記した手紙が上田市博物館にあるが、これらも金井氏が収集・解読されたのではないだろうか。 

 私がお会いしたご子孫の方から、母上がまとめられた「祖父・山口慎」という論考も見せていただいたところ、母上が調査で上田市立博物館を訪ねた折に、奇しくもそれらの書簡3通が展示されていて、当時の寺島館長が山口家の「明細」等を見せてくださったのだそうだ。山口慎は帰国後に東京英語学校の同僚として高橋是清と出会い、1889年にペルー銀山の仕事にともに駆りだされ、断崖絶壁で落馬するなど危ない目に遭ったうえに、この事業そのものが詐欺に近いもので、たいへんな苦労を味わうことになった。是清とは生涯の友で、慎の葬儀も出してもらったという。高橋是清は、高校時代の親友の祖母に当たる方が是清邸に奉公されていたとのことで、私が歴史上の人物で身近に感じた最初の人だったので、祖先調査の折に『上田郷友会月報』で山口慎の追悼記事を見つけ、ペルーの一件を知ったときは驚いたものだった。 

 山口慎は「明治6年 新約克(ニューヨークと読む)にて」と書かれた1枚の写真を残していた。渡米した翌年撮影のウィキペディアにも掲載されたこの写真には、松平兄弟と山口慎が写っている。彼ら3人がどんな伝手で私費留学したのかについては不明な点が多く、そもそもどこで学んだのかもはっきりしていなかった。今回、塩崎先生からの史料で、忠厚がマサチューセッツ州のウースター・フリースクール(現ウースター工科大学)に、1874年から1877年まで在籍していたことがわかった。石附実「明治初期における日本人の海外留学」(『近代化の推進者たち』)によると、1866年からの10年間にニュージャージー州ニューブランズウィックで学んだ留学生は約40名いて、そのうちラトガーズ大学に入学したのは13名、卒業できたのは4名という。忠礼はその1人である。大半の留学生はラトガーズ・グラマー・スクールに2年ほど通ってから他校へ移ったり、帰国したりしていた。上田から渡米した3人も、おそらくは最初の2年ばかりグラマー・スクールに一緒に通い、忠礼はラトガーズ大学に進学し、忠厚は1874年からウースターに移り、山口は帰国したのだろう。福井出身の今立吐酔宛に忠厚が書いた1875年12月の3通の手紙に「学校モニトル選任」と書かれていたことが、今回、金井氏の論考から判明した。ということは、「生徒の風紀取締委員」と金井氏が説明する役に忠厚がついたのは、ウースーターの学校の話なのだ。 

 マサチューセッツとニュージャージーは300キロ近く離れているので、1874年以降、松平兄弟は頻繁には会っていなかったはずだ。金井氏の論考には、年次不明の年末に忠厚宛に名前不明の友人が書いた手紙もあり、そこには「今夜は阿兄公〔忠礼〕と談話の約束にて阿兄の尊居に参りたれ共、只彼美人の所に招かれ行くと耳(のみ)の書置にて、何如とも仕段なし」と書かれていた。書籍版のほうには、このあと忠礼がアメリカ女性などと並ぶ写真が2枚掲載されている。そのうちの1枚は裏書に、「Miss Cadie Sampson, Susie Powiston, Nettie Bentley, 南部英麿, 南部信方, 松平忠礼の名がある」とし、但し順不同でどれがカリー・サンプソンかわからないが、撮影日は1878年7月26日としている。 

 この説明を見てまず驚いたのが、南部英麿の名前だ。渡米したての1871年の有名な集合写真ではまだ初々しい美少年だった彼が、この写真では後方に立つ口髭の青年に成長していたからだ。英麿は1878年に帰国しているので、最後の記念撮影だったのだろうか。南部信方は彼の弟のようだ。この2枚の写真は私も何度も眺め、忠礼以外の男性は誰なのか、頭をひねったものだった。 

 カリー・サンプソンは忠厚の妻となった女性で、「Cadie Sampson」が確かにカリーなのだとすれば、これはいろいろ考えさせられる事実だ。ちなみに、もう1枚の写真についても金井氏はいろいろ書いておられるが、前列左端が忠礼である以外は、誰かはわからない。どちらの写真も現在は東京都写真美術館にあるので、いつか裏書を見てみたいものだ。

  しかも、同書にはこんなことも書かれていた。忠厚が友人の黒田長知(福岡藩主黒田長溥の世子)宛に、1878年と推測される手紙に「当秋末ニハ小生モ帰朝之心得ニ候」と書き、翌年夏の卒業式を待たずに出発する兄とともに1878年秋に帰国する予定だったという。実際には帰国間際になって忠厚はカリーと駆け落ちして姿をくらましてしまい、忠礼だけが帰ってきたことはよく知られる。忠厚も忠礼も日本に妻を残していたのだが、忠厚はカリーとの重婚に踏み切り、忠礼も、うろ覚えだが、「アメリカ人女性のように自立した人がいい」として最初の妻とは離縁し、その後、山内豊福の娘と再婚している。  

 忠厚が1874年以降、ニューブランズウィックにはいなかったことや、カリーが1859年生まれで、1878年秋にようやく19歳だった事実を考えると、もしやこれは帰国間際に2人のあいだに急に芽生えた恋だったのか、という疑問が湧いてくる。しかも、カリーとは忠礼が先に会っていたのかもしれない! だとすれば、帰国後も半年以上、弟に手紙を書かず、「男子の決心自由の存する処」と結局は受け入れるものの、「金銭の義は一切御構へ申さず、独立自弁の御事と、断然御承知成し下さるべく候也」と、絶縁状に近い手紙を送った忠礼の心情が少しわかるような気がする。まあ、いまさらこんなことを根掘り葉掘り詮索しても仕方がないのではあるが。  

 余談ながら、金井氏の書には、「明治期アメリカ留学の断面」という章もあり、そこにはラトガーズ大学に最初に留学し、結核で倒れて帰らぬ人となった日下部太郎の碑を囲む日本人留学生の写真も掲載されていた。『ザ・ファーイースト』紙1872年12月16日付に掲載されていたそうで、そこには「碑の右に立つのはスギウラコウゾウ氏、すなわち今の米国駐在公使館第三等書記官である。左に立つ二人の学生は、今ワシントンの日本公使館書記生のタカキ氏と、江戸の帝国大学の職員のひとりであるヤギモト氏である」という説明があるそうだ(まだ現物は確認していない)。  

 この写真も私が調査中に見つけていたもので、杉浦弘蔵(畠山義成)と高木三郎まではわかったのだが、左側の人物は吉田清成だと思っていた。金井氏によると、のちの名古屋市長の柳本直太郎だそうだ。ただし、金井氏はなぜか、墓碑のわきにうずくまるのが柳本だとするが、『ファーイースト』の記事に従えば、うずくまる人物はまだ不明だ。私はこの人物を碓氷峠列車逆走事故で息子とともに命を落とした長州の山本重輔と推測している。  少しも新年らしくない記事となったが、昨年からずっと気になっていたことなので、祝日の月曜日を利用して書きあげられてちょっと嬉しい。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 左から:松平忠厚、忠礼、山口慎
「明治6年 ニューヨークにて」撮影
 了承を得てウィキペディアからダウンロードした。 

『トミーという名の日本人:日米修好史話』金井圓著、
 文一総合出版、1979年

左側の写真に裏書があったようだ。後方の男性が南部英麿。前列左が松平忠礼、右は南部信方

カリー・サンプソンの写真として知られる2枚。左は上田市立博物館のパンフレット、右は『黄金のくさび』より

ラトガーズで1870年に結核で客死した日下部太郎の碑を囲む日本人留学生。1867年に松平慶永が送りだした最初の公式留学生だった。
左から:柳本直太郎、高木三郎、山本重輔?、畠山義成

日下部太郎の前に、ラトガーズでは1866年に密航した横井小楠の2人の甥が最初に学んでいたが、仕送りもない苦しい生活のなかで結核を患い、帰国後間もなく死去した。