2009年3月31日火曜日

ベトナム旅行2009年

 毎年、タイばかり行っているので、今年は他の国も見てみたい。それならカンボジアがいい。そこまでは決まったのに、忙しくて旅の計画を立てる暇がなかった。そんな折、格安航空会社のエアアジアがゼロバーツ・キャンペーンをやっているから、一緒にハノイに行こうよ、とタイの友人から誘われた。ハノイ……あまり興味はないけれど、近くでベトナムの鳥を見られるなら、それもいいかと行く先を変更した。出発間際になって、クックフーン国立公園に電話をかけ、公園内の宿とハノイからの車を手配してもらった。  

 ハノイの空港に降り立った瞬間から、これまでとは勝手の違う国にきたことを悟った。市内までバスに乗るつもりだったのに、タクシーの運転手に囲まれる。あまりにしつこく迫るから、外国人はみな恐れをなして逃げる。つねづね思うのだが、商売でも恋愛でも、強引に押せば押すほど相手は引く。名づけて私の「プッシュ&プル論」。 

 ターミナルでも客引きに囲まれ、現在地もわからないまま困惑しているところへ、ベトナム人にしては体格のよい男性が現われ、流暢な英語で「メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と声をかけてきた。ホテルへの道を聞くと、自分の家も同じ方向だから、「フォロー・ミー」と言ってすたすた歩きだした。足早に歩くので、男性の姿は雑踏のなかに消えかけている。私たち3人は顔を見合わせ、荷物をかかえてあとを小走りに追った。しばらく行くと、男性が振り返り、私たちがついてきているか確かめた。笑いを堪えながら、私たちはバイクとトラックとクラクションの洪水のなか、信号のない通りを何度も横断して必死にあとを追った。男性はホテルの少し手前で立ち止まり、自分はここで右に曲がるけれど、あとはまっすぐ行けばいい、と言い残して去っていった。無理強いせず、適度な距離を置いて引けば、あとから妙齢の(?)女性が3人もついてくるのだ! まさにプッシュ&プル。 

 突然のヒーローの登場に、私たちの旅行気分は一気に高まった。その後もおかしなことがつづいたが、極めつけはクックフーン国立公園に向かう車中の「事件」だった。朝の7時には、ホテル前に迎えのオンボロ車がきていた。運転手は無言だったが、英語のできないベトナム人は概して手話のように身振りだけで話すので、気にしないことにした。2時間ほど走ったところで急に車が止まり、エンジンをかけたまま運転手が道端で用を足し始めた。仕方なく待っていると、やおら車が走りだした。「あれっ、違う人だ」という娘の一言に窓の外を見ると、前の運転手はまだ立ちション中だ。2時間交替なのかと勝手に解釈して、そのまま進んだ。が、新しい運転手はひどく不機嫌だ。そのとき、目の前をバイクが横切り、車が急停止した。運転手は大声でバイクの運転手を怒鳴りつけ、車を降りて喧嘩を始めた。殴り合いにはならなかったが、さすがに怖くなった。再び車が走りだすと、娘が言った。「この車、ハイジャックされたわけじゃないよね?」その言葉に、友人の顔色が変わった。車を乗っ取られるな、とタイで注意されたのを思いだし、血の気が引いた。すると友人が開き直り、運転手に向かって「この車はどこへ行くの? ハロン湾?」と、有名な観光スポットを挙げて鎌をかけた。彼女の声のただならぬ調子に、運転手もまずいと思ったのか、クックフーンらしき単語をつぶやいた。やれやれ。そのあと公園の事務所の担当者と電話で話させてくれたうえに、フランスパンまでくれたが、喉を通らなかった。  

 クックフーンで過ごした3日間はのどかで、ギンムネヒロハシやツノヤイロチョウなど、珍しい鳥がたくさん見られて充実していたが、あとから振り返ると、サプライズの連続だったベトナム人とのやりとりが、いちばん印象に残っていた。旅はおもしろい。
***ちょっと宣伝*** 根津のカフェ・コパンで、うちの娘が初めての展覧会を開くことになりました。 鳥好き、旅好きの娘が自分のブログ「クイナ通りSoi17」に掲載していた水彩、パステル、コラージュの作品展です。私のビーズ鳥のブックカバーなども販売いたします。 根津神社のつつじ祭りや谷中銀座にお出かけのついでに、ご休憩がてらお越しください。 
「クイナ通り展」4/18~5/1 11:00~19:00(月・火定休) カフェ・コパン 台東区谷中2-3-4(千代田線根津駅、根津神社口より5分)tel:03-3823-6985 
http://homepage2.nifty.com/cafecopains/ 
クイナ通りSoi 17 http://pub.ne.jp/KuinaSoi17/
*ブログ「クイナ通り」はこちら

2009年2月27日金曜日

ネット中毒

 10年ほど前、失業していたころ、マレーシアからの一行を成田で迎える仕事を臨時で引き受けたことがある。それをいまだに覚えているのは、都内に向かうバスのなかで、隣に座ったグループリーダーが印象深い話をしてくれたからだ。自宅には電話がないんだ、とその人は言った。用があれば会社に連絡してくれれば充分だし、家にいるときは家族との生活を大切にしたいから、電話で邪魔されたくない、と言うのだ。ちょうどインターネットや携帯電話が普及し始め、新しい情報機器が生活空間や人間関係をどう変えるのか、といった議論が盛んになっていたころでもあり、時代の波にたいするこのマレーシア人のささやかな抵抗が、私の耳にはとても新鮮に聞こえた。  

 それからしばらくして、『インターネット中毒』(キンバリー・S・ヤング著、毎日新聞社)という本を部分的に下訳する仕事をもらった。ネット中毒になる人の多くは、ゲームとチャットにはまっていることをこの本を通じて知った私は、それだけは手をだすまいと決めていた。もう十数年間、コンピューターの前に座る仕事をしているわりに、なんとか中毒にならずにすんでいるのは、早い時期にこの本に出合ったおかげかもしれない。  

 ところが、そんな私の生活にもここ一ヵ月のあいだにちょっとした変化が現われた。原因はインターネット電話のスカイプ。スカイプの電話機能はもう何年も前から重宝して使っているが、タイの友人の一人がチャットで頻繁に連絡してくるようになったのだ。そうなると、私がネットに接続しているときは、いつでもお構いなしに呼びだしがかかる。画面に突然、着信サイン(音声は消しているので、幸い聞こえない)が現われると、仕事を中断して即座に返事をしなければならない。 

 ネットに接続している時間が娯楽のひとときである人にとっては、楽しい機能に違いない。だが、あいにく私の場合、コンピューターに向かっている時間の9割は仕事中だ。しかも、文章を書いているときは、頭のなかで何度も読み返しているので、音楽もかけずに集中しないと能率が上がらない。たいていは予定がずれ込んで、追われるように仕事をしているので、たびたび中断させられるのは辛いものがある。まるで裏口からしょっちゅう隣のおばさんが上がり込んできて、おしゃべりをしていくような気分だ。  

 それにしても、この20年あまりの情報通信の変化には本当に驚かされる。郵便ポストに手紙が届くのを楽しみに待っていた時代から、テレックスやファックスでのやりとりに代わり、やがてeメールに安くなった国際電話、チャットと、それこそ目を見張るような変化だ。カメラ付きのパソコンなら、スカイプでテレビ電話もできる。その場にいないはずの人が電波に乗って忽然とお茶の間に姿を現わし、こちらの様子を知ってしまうのだから、これはもう『1984年』や映画「赤ちゃんよ永遠に」の世界だ。 

 私はとりわけ通信機器の発達に助けられているほうだが、便利な機能を使うときにも、相手の状況や性格を考え、適度な距離を保つ必要があるようだ。メールをすぐに返せなくても、一ヵ月に一度とか、年に数回とかの頻度で音信がつづく交友関係が、結局のところ私にとっては居心地がいい。それなら、郵便の手紙でやりとりしても変わらないか、と思うとなんだか笑える。まあ、切手を貼って、投函して、という作業がないことだけは確かにありがたい。

2009年1月30日金曜日

お雛さま

 『三月ひなの月』という本をご存じだろうか? 昨年、101歳で亡くなった石井桃子さんが1963年に書いた児童書だ。貧乏な母子家庭の母親が、昔もっていたお雛さまのことが忘れられず、娘に新しい雛人形を買ってやれないでいる、というちょっと暗い話だ。幸い、私が子供のころ、うちには曽祖父が伯母のために買ったという御殿付きの七段飾りがあった。古い人形なので、箱からだすときに首が抜けたりして怖いものがあったが、箪笥や御膳、箱枕などをいじるのは楽しかった。私自身はお雛さまがなくて残念だと思わなかったせいか、この本は子供のころ一度だけ読んで本棚の奥にしまい込んでいた。 

 のちに娘が生まれたあと、その七段飾りの行方を探したが、親戚のあいだを回るうちに所在がわからなくなっていた。そこで、私は『三月ひなの月』をもう一度引っ張りだしてきた。本のなかのお母さんは最終的に折り雛のつくり方を習い、娘のために折り紙の段飾りをつくってやる。私はそれにヒントを得て、自分で雛人形をつくろうと思い立った。  

 私の頭に浮んだイメージは、おにぎりのような、お手玉のような布のお雛さまだった。それなら、幼い娘が振り回しても壊れない。仕事から帰り、娘を寝かしつけたあと、白いハンカチを切って円錐形のようなものをつくり、綿を入れ、そこにあり合わせの端切れやリボンを重ねて縫い、顔を刺繍すると、お内裏さまができあがった。翌朝、起きてきた娘が第一号のお内裏さまを見たときの顔は、生涯忘れられない。不細工な人形でこれだけ喜んでもらえるならと、調子に乗った私は、それから毎晩、一人ずつ増やしていった。お雛さまがやけに太めになり、三人官女も「大女」になるなど、いろいろ失敗もしたが、右大臣は白い布の下にピンクのフェルトを入れ、赤い顔にするといった懲りようだった。 

 最初の年は、本を重ねて階段をつくってお雛さまを飾った。でも、やはり子供のころにあったお雛さまのような御殿が欲しい。収納に困らないように、すべての段が小さい箱に収まるようにしたい。満員電車のなかであれこれと構想を練り、ついに竹ひごで編んだ御簾付きの、特製団地サイズの雛人形一式をつくりあげた。さらに翌年にはもう少し見てくれのいい布で新たにもう一セットこしらえ、全員に座蒲団をつくり、欄干と階をつけ、牛車までつくった。その完成版の写真を捜したけれどあいにく見つからなかった。 

 この雛人形たちは、ブロックでつくった列車のなかに寿司詰めにされたり、二列に並んで座蒲団取りゲームをやらされたり、あるいは「下克上の世だ!」とばかりに、御殿に仕丁が座り、内裏雛は下足番に並び替えさせられたりと、ずいぶん可愛がられた。 

 それから何年かたって、私が足しげく通っていた児童書と玩具専門店の狭い店内で、あるとき『折りひな』という本を見つけた。表紙の写真を見た途端、『三月ひなの月』の折り雛だ、と直感した。本には折り紙がセットされていたので、当時五年生の娘が早速、小さな折り雛を折り、私は折り畳み式階段と金屏風と雪洞を紙でつくってやった。そのすべてがB5版より小さい「たとお」のなかに収まってしまう。娘は高校生になるまで、このコンパクトな折り雛セットを3月3日になると学校にもって行っていた。教室に飾ると、みんな大喜びだったらしいが、私が金屏風に描いた泥道を行く牛の絵は笑いものだったそうだ。  

 行方不明だった古い七段飾りも、その後、叔母の家の物置から見つかった。おかげで、娘はいろいろな雛人形をもつことになったが、いまでもいちばん気に入っているのは、私がつくった第一号の不細工なお内裏なのだそうだ。つい最近になって、私が額に刺繍した点の眉を、娘はずっと目だと思っていたことが判明した。「素っ頓狂な顔でかわいいと思っていたのに!」娘は抗議したが、私は腹をかかえて笑ってしまった。

『三月ひなのつき』石井桃子作(福音館書店)

 第一号のお内裏さまとお雛さま

 完成一歩手前のお雛さまと 幼かった娘

『折りひな』田中サタ他著、三人会(残念ながら絶版)*2012年に福音館書店から新版として再刊

 折り雛セット

2009年1月2日金曜日

富士山を見て思うこと

 この季節になると、晴れた日には尾根道から富士山が見える。横浜から見る富士山は驚くほど大きく、あんな山が後ろにそびえていながら、ふだんは気づかないなんて信じがたい。数年前までは、駅前のエスカレーターを下りながらも、雪化粧した凛とした富士山が眺められた。ところが、いまでは無粋な高層ビルのせいでまったく見えない。

 日本のほぼ中心にある日本一高い山でも、目に入らなければ、忘れ去られてしまう。なにしろ、目の前にはビルが立ちはだかっているし、周囲にはところ狭しと誘惑物があるし、頭のなかは誰しも悩みごとや雑事でいっぱいだからだ。見晴らしのいい場所から眺めれば一目瞭然にわかることも、大きなビルのすぐ下に立って圧倒されているときには、方向感覚すら失いがちだ。  

 考えてみれば、忘れられているのは富士山だけではない。目の前にあり、強引に迫ってくる雑多なものにとらわれて、本当に大切なことや真実が見えなくなっている人は大勢いる。憎しみや不満や不安にとらわれると、視野はいっそう狭くなる。たとえばイスラエルとパレスチナ。傍から見れば、争いつづけ、悲劇を繰り返すことの愚かしさが誰にでもわかるのに、憎悪に駆られた当事者はそれぞれの大儀を掲げて譲らない。 

 私にとって身近なタイでも、ここ数年来、国を二分するような争いがつづいている。昨秋の空港占拠に参加していた友人は、疑問を投げかける私に、自分たちは絶対に正しいから、誰も手出しはできない。だから、心配は無用だし、外国人のあなたにはわからない、と珍しく強い口調で言った。

  確かに、タクシン政権はお金にものを言わせて、タイの社会を根底から揺るがし腐敗させたのだろう。でも、お金で釣られたのも同じタイ国民であり、貧しい彼らにしてみれば、そのお金は何よりも価値があったに違いない。タクシン時代に急成長した経済の恩恵を受けた人だって、限りなくいるはずだ。悪いのは政治家だけではない。彼らをのさばらせたのは国民なのだ。その国民が変わらなければ、政治家の首だけ挿げ替えても何も変わらない。そして、国民は急には変われないし、急激な変化はかならず反動をともなう。  

 そもそも、この世の中に絶対に正しいことなんてあるんだろうか? 自分にとって正しいことが、ほかの人にとっても正しいとは限らない。人はそれぞれ異なった価値観で生きている。おたがいが相手の価値観を尊重し、そのときどきで共同体内のなるべく多くの人が満足する方法を、誰もがまあ納得するやり方で選ぶのが民主主義であって、「正しい」やり方を強引に押しつけることではないはずだ。結果以上に、一応の総意を生みだすプロセスのほうが大切なのだ。黄色シャツと赤シャツに分かれて国民同士がいがみ合うなんて、まるで茶番劇だが、友人たちは熱くなって正義を語る。冷静になって視点を変えれば、国の顔である首相府や空港を占拠した行為のほうが、タイのイメージと経済をひどく傷つけたことがわかるだろうに。ときには、遠くから見ている外国人のほうが、事態の本質を見ていることもあるはずだ。 

 荒波に翻弄されているときほど、そこから抜けだして遠くから、高みからものごとを見つめ直す必要がある。ものの見方を少し変えるだけでも、違う側面が見えてくるはずだ。駅に向かう道も、並行した下の道を通れば、いまでも富士山が見えることが最近になってわかった。大晦日には、船橋の母の家の前にある棟のてっぺんから、2008年最後の太陽と地平線上に浮かぶ富士山のシルエットを眺めた。見る見るうちに沈む夕日に、地球は確かに回っていると感じた。

 尾根道から、
 富士あり(上) 
 富士なし(下)

 駅前に浮かぶ富士山 ――下の道から

 最後の日の入りと富士山

 ついでに、大晦日の金星と三日月

2008年11月30日日曜日

秋のお祭り

 このところ、訳書が重版されるという朗報を立てつづけにいただいた。夏からずっと、リーディングはすれど次の仕事が決まらないという苦しい状況がつづいていたので、数ヵ月の延命措置を施してもらったようなものだ。本業が開店休業状態だったので、その間、私はミシンがけや粘土工作に精をだし、11月中は2つのお祭りに参加して、オリジナル・ビーズ鳥グッズを売らせてもらった。いよいよ露天商稼業に乗りだしたわけだ。 

 まずは、昨年に引きつづき大磯の宿場祭りで、「こまたん」のあおばと屋の隅に出店させていただいた。今年は巾着やブックカバーなども持参したが、私のつくるものは総じて小さく地味なものだ。通りすがりのお年寄りの目にはまず留まらない。いちばん安いもので400円という値段設定も、不況の折のお祭り価格としては少々高すぎたようだ。結局、こまたんのメンバーや、その知り合いの鳥好きの人たちにしか興味をもっていただけず、売上げはぱっとしなかった。それでも、わざわざ立ち寄ってくれたありがたい友人や、大磯にいる親戚にも会えたし、小春日和の一日だったので、よい気分転換にはなった。日経に掲載された書評をコピーしてつくった宣伝チラシを配り、訳書の宣伝もしっかりとさせてもらった。 

 翌週は、我孫子で開かれたジャパン・バードフェスティバルに、バードウォッチングのツアーを主に企画しているワイバードという旅行会社のブースに間借りさせていただくかたちで、初参加した。こまたん同様、こちらもまた娘の口利きで出店できるようになった、という恰好の悪さ。私は鳥の世界ではまったくのもぐりなので、そんなことは気にしていられない。あいにく両日とも、ときおり小雨の降る寒い日で、例年より人出が少なかったらしく、ここでも苦戦はつづいた。通りすがりの人に「ブックカバーはいかがですか?」と声をかけても、興味ないわ、と言わんばかりの顔。「天然石の2ミリビーズでつくりました」と言っても、「あっ、そう」。それでも、ときどき意外にも、男の人や小学生の女の子がブックカバーを買ってくれたりする。ビーズのピンバッジが欲しかったのに、お小遣いが足りず、樹脂粘土のキーホールダーで我慢した子もいた。すべての柄を見て、いちばんシックな組み合わせ(と私が思っている柄)を選んでいくお洒落なお姉さんもいた。私のビーズ鳥は、どうやら特定の人にしか受けないらしい。  

 しばらく売り子をつづけるうちに、買ってくれそうな人を見分けるのがうまくなった。ブックカバーを買う人は、見本として置いた訳書にも関心を示してくれる。考えてみれば当たり前のことだ。どの鳥も45個の点でつくられている、という説明に反応を示さない人は、まず見込みがない。売上げは芳しくなかったが、ワイバードの人たちはさすが旅行会社でノリも面倒見も抜群で、寒い2日間も苦にならなかった。イラストレーターの富士鷹なすびさんが色紙に絵を描いているところを間近に拝見できたのも、実にラッキーだった。  

 ビーズ鳥は、私にとって遊び心満載の軽いプロジェクトなのだが、結局のところ、私の訳書と同様、一般受けはしないことが、この3日間を通じてよくわかった。でも、大いに関心を示してくれた人もなかにはいたのだから、それを励みにこれからも頑張ろう。 こまたんとワイバードのみなさま、本当にお世話になりました。それから、今年も「コウモリ通信」を読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。

 大磯の宿場祭り 「こまたん」のみなさんと

 大磯の宿場祭り  写真提供:こまたん

 ビーズ鳥クリスマスカード

2008年10月31日金曜日

大菩薩嶺

 この10月、数週間ほど失業していた。明日から仕事がないという事態が、いとも簡単に起こりうるのがフリーの身の辛いところだ。どんな仕事でもやるからと、あちこちに頭を下げてお願いしようかとも思ったが、「神さまがくれたご褒美くらいに思って」という友人の言葉に従い、まずは豚小屋の掃除とビーズ鳥制作に時間を費やし、下旬には大菩薩峠から大菩薩嶺にかけて歩いてきた。翻訳業に転職して十数年目にしてようやく、自転車操業くらいには昇格したかと思い、ちょっとうれしくなった。つまり、ペダルを踏みつづけなければ倒れる一輪車操業ではなく、ときには下り坂で足を休められる二輪車に。 

 たまたま娘も2日連続で大学が休講になったため、平日に鈍行を乗り継いで行くことにした。麓の雲峰寺付近は、ちらほら色づき始めた程度だったが、登山道に入るあたりから周囲は色鮮やかな紅葉に染まっていった。真っ赤なカエデや、惚れ惚れするグラデーションのヤマザクラの葉が落ちていると、すぐに色褪せてしまうと知りながら、つい手を伸ばしてしまう。  

 秋の山はカケスばかりで鳥はあまり期待できないよ、と言われていたのに、キビタキを初めて間近に見ることもできた。頂上付近ではルリビタキの若鳥が3羽、ナルニア国のコマドリさながら、私たちの前を飛んで道案内してくれた。途中で耳慣れない声も聞いた。ヒーイッ、ヒーイッ、と誰かが叫んでいるような、機械のきしみ音のような鋭い音だ。  

 1日目は途中の福ちゃん荘でキャンプをした。泊り客は私たちと、もう1組だけ。ご飯が炊けるのを待つあいだ、塩山の駅で買ってきた「えんざんワイン」の小瓶を開け、2人で回し飲みをした。地元のワインを飲みながら、夜空の下で食べると、レトルトのグリーンカレーでもおいしい。低山をのんびりと巡るこうした山行も悪くない。  

 昼間の鳴き声の正体がわかったのは、夜、キャンプ地のトイレに行ったときだ。目の前で何か白いものが急に動き、ヒイッという警戒音を発した。白いお尻。ニホンジカだ! ということは、昼間のあの声は、奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声だったわけだ。「ああ、それなら発情期の声だって、教授が言っていたよ」と、声の正体を突き止めて有頂天の私に、娘はあっさり言った。あの歌の物悲しさには、ひょっとして別の意味があったのだろうか?  

 翌日の明け方、フライシートに当たる雨の音で目が覚めた。それまでの楽しい気分はどこへやら。テントから身を乗りだしながら大急ぎでオートミールをつくり、熱いお茶を魔法瓶に詰め、雨が小降りになった隙にテントをたたんで、薄暗いうちに出発した。 途中、目の前を2頭のシカが横切った。冷え込む山のなかで、野生動物はみな雨に打たれている。餌の乏しい寒い冬を乗り切れるかどうかで、生存できるかどうかが決まる。でも、すべてのシカが生き延びたら、今度は山の草木が危ない。足元に茂るクマザサを示しながら、「ここはまだいいけど、丹沢のササは食い荒らされているんだよ」と娘が教えてくれた。行きの電車で読んでいた『ワインの科学』(ジェイミー・グッド著、河出書房新社)にも、ブドウの木を台無しにするフィロキセラというアブラムシが、通常は冬のあいだにほぼ死に絶えると書いてあった。温暖化によって越冬できる幼虫が増えたら、アブラムシは爆発的に増えるのだろう。自然の仕組みは本当に複雑だ。  

 ずぶ濡れにはなったものの、2日間の山歩きで、久々にたっぷりと充電した気分になった。家に帰ってみると、すでに仕事がいくつも待っていた。友人のアドバイスに感謝。

2008年9月30日火曜日

娘の一人旅

 大学三年の夏休みだから、遊べる最後の夏休みだから、どこかへ一人旅をしたい。そんな娘の希望と、うちの財政事情や、治安の悪化や、娘の大学の多忙な日程――それに私の心配性――を考慮したあげくに、八月末から二週間ばかり、テキサスにいる私の元ホストファミリーを娘が一人で訪ねることになった。  

 私のことをレンタカーならぬ、レンタキッドと呼んでいたホストファミリーは、孫娘が訪ねてきたように歓迎してくれたらしく、ホストファーザーはカヌーや自転車、バイクで、あちこち一緒に行ってくれたそうだ。「えーっ、私のときは連れて行ってくれなかったじゃない」と、電話でつい文句を言うと、「あのころはエルパソの砂漠にいたからな。でも、射撃に行ったじゃないか」とたしなめられてしまった。そうだ、考えてみれば、熱気球や乗馬、キャンプなど、いろいろな経験をさせてもらった。  

 ホストマザーも、ヒューストン近辺のさまざまな鳥のサンクチュアリに娘を連れて行ってくれた。特にメキシコ湾沿いにあるガルヴェストン島に一泊二日の旅行にでかけ、湿地や浜辺の鳥をたくさん見てきたらしい。  

 娘が帰国してわずか数日後、ホストマザーから、ハリケーン・アイクによる高潮でガルヴェストン島は氾濫していて、住民が避難している、というメールをもらった。彼らの住むヒューストン北西の郊外は、たくさんの木が倒れて数日間停電したほかは、大きな被害はなかったらしい。アメリカ本土に上陸したときは、カテゴリー2に弱まっていたし、カトリーナのときほど死者がでていないためか、日本でもあまり報道されていなかった。  

 その後、忙しくてなかなか連絡が取れずにいたら、しばらくしてハリケーン・アイクの被害状況をまとめた一連の写真を送ってくれた。高床式に建てられた家が並んでいたと思われる一帯には、支柱だけがところどころ残っていた。家も船も車もお墓も、あらゆるものが吹き飛ばされて、ゴミの山と化している。顔だけかろうじて水からだして車のそばにいる老人。海となった場所に一軒だけ奇跡的に残った家。ほんの数日前、娘がホストマザーと通った道路には、ソファや木材が散乱していた。ヒューストンにあるJPモルガン・チェイス・タワーはI.M.ぺイ設計のテキサス一の高層ビルらしいが、その窓ガラスがことごとく割れている写真もあった。  

 ネットで調べてみると、ハリケーン・アイクは9月4日の時点で風速が時速233キロにも達し、娘が帰国した翌日の11日にはカテゴリー5.2と、記録史上最大のハリケーンに発達していたらしい。今回はアメリカとハイチで150人ほどの死者がでており、行方不明者がまだ数百人いる。ガルヴェストン島は、1900年にもカテゴリー4の巨大ハリケーンに直撃されて6000人ほどの死者がでている。その後、高さ5メートルの防波堤がつくられたが、今回のハリケーンではそれを越えて海水が流れ込んだようだ。  

 送ってもらった写真には、トレーラー・パークに何百台もの移動住宅が連なった写真も含まれていた。サブプライム・ローンで建てた家がハリケーンで倒壊したら、保険でトレーラーを買うのだろうか。被害総額は270億ドルと見積もられている。ホストマザーには、「私を殺さないものは、私を強くする」という覚えたてのニーチェの言葉を、せめてもの励ましに送り返した。

 カヌー探検

 ガルヴェストン島

 左端がJPモルガン・チェイス・タワー