2022年7月1日金曜日

「アラビヤ馬フレッデリー」

 日頃よくフェイスブックのタイムラインで馬関連の動画を見ているせいか、ここ数日、フランスのマントンで毎年開かれているアラブ種の馬の品評会らしきものの動画が立てつづけに流れてきて、つい何本も見てしまった。炎天下でもうもうと土煙を立てながら疾走する見事なアラブ馬を、引き綱一本で巧みに操り、汚れるだろうにスーツ姿で数分間一緒になって走り回る調馬師が同じくらい見事なのだ。  

 アラブ馬がツヤツヤとした肌をしていることや、サラブレッドほど体高がないことは以前から知っていたが、何度か見るうちに、どの馬も尾を異様なほどに立てて走っていることに気づいた。普段見る競馬馬の画像ではまず見ない形態だ。少し調べてみると、確かに尾を高く上げることはアラブ馬の特徴らしく、それとともに鼻面が凹にカーブしてほっそりしていることも特徴のようだった。ちょっとタツノオトシゴに似た顔だ。  

 ふと思いついて、私がアラブ馬に関心をもつきっかけとなった160年近く前の「アラビヤ馬フレッデリー」のイラストを確認してみた。私の高祖父が馬術を習ったと言われるイギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンが、アロー戦争に従軍後におそらく大連から長崎経由で日本に連れてきた馬だ。アプリン大尉の絵はチャールズ・ワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも、戯画として『ジャパン・パンチ』にもかなりの点数で描いている。拙著で使わせてもらった2点ではいずれも、馬は並足で進んでいるのでさすがに尾は上に立てるほどではないが、確かにサラブレッドのようにただ垂れてはおらず、後方に突きだしていた。鼻面も隣のずんぐりした在来馬に比べると、ほっそりとくびれている。どうやら、画家は彼の馬をアラブ種らしく描き分けていたようだ。 

『ジャパン・パンチ』を見直してみると、以前から気になっていた1枚でアプリンが乗っている馬は、明らかにアラブ馬ではなく、日本の在来馬だ。やたら多めの前髪に、シマウマのように逆立ったたてがみ。日本では人間があまり手を加えずに馬を育ててきたため、在来馬には野生のウマ本来の特徴がいくらか残っており、逆立ち気味のたてがみはその1つだった。ワーグマンは単なる体高の差だけでなく、こうした特徴もしっかり捉えて戯画に表わしていた。 

 アプリンが日本の馬に跨っているこのイラストは、1865年10月号に掲載されていた。ひょっとしてこの馬が、上田藩が1年間彼の手元に預けたという仙台馬の飛雲だったりしないだろうかと、想像してみたくなる絵だ。この年の5月には、第二次長州征討で飛馬も藩主松平忠礼を乗せて大坂に向かったと思われるので、飛雲が引き取られてしまったあと、アプリンがどこかで入手した日本の馬だった可能性もあるし、ワーグマンがただ遊び心で乗り馬を変えてみたのかもしれない。でも、もしかしたら、飛雲に乗って横浜周辺で、妙なスタイルの狩りをしていた可能性もあるのではないか。 

 ついでながら、徳川慶喜がナポレオン・ハットをかぶって馬に跨がる古写真が残っている。この馬はその特徴からして、ナポレオン3世から寄贈されたアラブ種ではなく、在来馬の可能性が高そうだ。実際、1867年に二十数頭の馬が到着したころ慶喜は大坂にいて、馬を見ていないとウィキペディアの「ナポレオン三世の馬」の項目に書かれている。騎乗姿の古写真は大坂で撮影されたという説も見受けられる。 

 そうだとすると、つい気になるのが、慶喜の背後にある幔幕だ。拙著の表紙に使わせていただいた松平忠礼と飛雲、および私の高祖父が写る写真の背後にも、よく似た幔幕がある。しかも、私は諸々の理由から、この写真が通常言われるように戊辰戦争時ではなく、第二次長州征討時の撮影ではないかと推察している。幕末の上田藩の写真の多くはアンブロタイプだが、この写真と、同時期の撮影と思われる鼓笛隊の写真は鶏卵紙だった。そう考えると、大坂に進軍してそのまま手持ち無沙汰のあいだに、大阪城で写真撮影をしていた可能性もなきにしもあらずだ。 

 FBで見た動画に誘われて、ついまたこんな寄り道をしてしまった。すでにもう7月。月末まで脇目も振らずねじり鉢巻で頑張らねば。

追記:じつはこれを書くに当たって漠然と、種子島の絶滅したウシウマのことを思いだしていたのだが、それによく似た古代中国の馬の像をどこで見たか思いだせず、その部分を削除して投稿した矢先に、甘粛省博物館が発売した「ブサ可愛い」ぬいぐるみなるものの記事を見たら、まさにそのモデルとなった後漢の馬踏飛燕の写真がでてきた。いまよくよく見ると、この後漢の馬は尾に毛のないアラブ種の馬と言ってもいい姿形で、ウシウマともどことなく似ている。つまり、アラブ馬が後漢時代に中国に渡り、それが秀吉の朝鮮出兵とともに日本に渡ってきたという推測だ。調べてみたら、以前にその彫像について書いていた(苦笑)。
 

1867年7月『萬國新聞紙』に掲載された広告。私が祖先の調査を始めてすぐに見つけた史料の1つだった

ワーグマンは『ジャパン・パンチ』のなかでSpurs(拍車)と偽名で呼んでおり、彼の馬はFreddyとしている

1865年10月号の『ジャパン・パンチ』より

2022年6月26日日曜日

七夕論考

 七夕までに各家庭で飾りをつくってくるようにと、孫が幼稚園で言われたらしい。もち帰ったプリントには、牛乳パックやスズランテープを使って好きなようにつくるようにと書かれていた。どうやら、仙台や平塚の七夕祭りの飾りのようなものをもち寄って吊るすようだ。立体工作が苦手な娘は、そそくさとプリントを私に押しつけ、「任せた!」の一言。

 七夕の飾りは一時的なもので、終わればすぐにごみになる。新たな物は買うまいと心に決めて、うちにある不用物を総動員することにした。七夕に関しては以前に伝説をかなり調べたことがあるので、真っ先に思いついたのが上部のくす玉状のものを上弦の月の船にすることだった。吹き流しは、何年か前に買った大判の小川和紙がまだ1枚そのまま残っているので、それを細く切って色をつけることにした。大量の絵の具が必要になるが、これまた以前に浮世絵のベロ藍(プルシアン・ブルー)について調べたとき、つい買ったまま用途を見いだせなかった染料があるので、これの出番にすることにした。そこに娘が以前つくってくれた消しゴムスタンプのカササギを飛ばし、適当に金銀の星を捨てずに取ってある大量の包装紙から切り抜いて散らす、というのが私の案だった。

 ところが、肝心の孫は不服そうで、「電車がいい」とのこと。そこで、吹き流しの何本かには線路を描き、そこに銀河鉄道を走らせることにした。これも、やはり買ったまま使い道のなかったメタリックのセタカラーで描き、孫に筆で枕木を入れてもらった。列車は娘が切り絵でつくった。ゴディバの包装紙でくるんだ上弦の月は、巨大なムーンスティックのようで、見れば見るほどおかしい代物になった。吹き流しの上部の凧糸がいやに目立ってしまうため、七夕らしく緑・紅・黄・白・黒の5色に塗り分けた。孫と遊びながらの紙工作は楽しく、わが家の不用物が断捨離でごみになる前にアップサイクルできたのはよかった。追加で支払ったのは、Photoshopで増殖したカササギの画像を、水に濡れても滲まないようにコンビニでカラーコピーした50円と、足りなくなったボンド・糊のみだった。  

 この工作に当たって、2014年に書いてフェイスブックだけで公開した私の「七夕論考」を読み返してみたら、結構詳しく調べていたので、かなり長文だが改めてブログに掲載しておくことにする。調べ直していないので、誤字・脱字や勘違い等々あるかもしれないが、お時間のあるときにお読みいただければ幸いだ。 

 ***** 七夕論考        2014.07.06  

 七夕伝説について少々調べてみた。織女・牽牛という名称が記された最古の文献は、『詩経』の小雅の「大東」と言われている。『詩経』は殷(商)から春秋時代までの詩を、紀元前470年ごろに孔子が編纂したされる。  

維天有漢、監亦有光 これ天に大河あり、見ればまた光あり  
跂彼織女、終日七襄 爪先立つ織女は、終日七回移動する  
雖則七襄、不成報章 すなわち七回移動するといえども、織物もできず  
睆彼牽牛、不以服箱 輝く牽牛は、箱車を引かず  

 こと座にはヴェガの下に3つ(実際には4つ)の星が逆三角をなして見えることから、跂と表現したようだ。七襄の意味は定かではないが、襄はすなわち駕、反という古い注釈があり、天空を移動する意味と思われる。報章は、杼を往復させて機を織ること、それによってできた織物を指す。この詩の前後には、ほかにも啓明・長庚(金星)、箕(南斗六星の柄以外の四星)、斗(北斗七星)など、天体に関する言及が多々あり、織女と牽牛の関係は定かではない。二十八宿という天の赤道上の星座の概念を描いた前433年頃の漆箱が出土しており、当時すでに天文学が盛んであったことは窺える。 

『史記』天官書には「牽牛為犠牲、其北河鼓、河鼓大星、上将、左右、左右将。婺女、其北織女、天女孫也」とある。『史記』は前漢七代皇帝の武帝時代に司馬遷(紀元前145–前86年頃)によって編纂された。この時代の牽牛は、牛を引く人物ではなく、荷や犂を引く牛のほうを、犠牲になる役畜を意味し、アルタイルではなく、少し南にあるやぎ座の六星、つまり牛宿を指していた。当時、アルタイルは河の太鼓と呼ばれていたが、河鼓は上将でもあり、アルタイルの両脇にある小さい二星は、左右に連れた将軍とされていた。織女は天女孫で、北極星である天帝の孫だ。ただし、この時代の北極星は地球の歳差運動により、現代のこぐま座α星ではなく、β星だった。紀元前11,500年頃はヴェガが北極星だった。  

 同じく武帝のころに編纂された『淮南子』の巻末付録に「烏鵲填河成橋而渡織女」(カラスとカササギが河をうずめて橋をつくって織女を渡す)と書かれていたと言われるので、鵲橋または烏鵲橋というアイデアは前漢にはすでにあったようだ。ただし、現存する文書記録としては唐代の『白孔六帖』などにその引用が残っているのみである。  

 後漢の作と考えられている作者不詳の次の一首は、織女と牽牛の悲恋をテーマにしており、七夕に降るという催涙雨もこの詩に書かれている。これは南北朝の梁(502–557 年)の昭明太子が編纂した『文選』 の「古詩十九首」に収録されている。梁の武帝は学問を奨励し、文化が大いに繁栄し、この時代の書は飛鳥以降の日本にも大きな影響を与えた。  

迢迢牽牛星 皎皎河漢女 はるか彼方の牽牛星、清らかに光る天河の娘  
纖纖擢素手 札札弄機杼 細い素手を抜き、さっさと杼を通す  
終日不成章 泣涕零如雨 終日かけても織りあがらず、涙が雨のように降る  
河漢清且浅 相去復幾許 天河は清く浅い、またどれほど相い去るのか  
盈盈一水間 脈脈不得語 水の満ちた河に隔てられ、いつまでも語れない 

 『文選』には曹操の子で、魏の初代皇帝の曹丕(187–226年)の「燕歌行」という最古の七言詩も収録されている。「秋風蕭瑟天気涼。草木搖落露為霜。羣燕辭帰雁南翔」(秋風吹き渡り冷涼としてきた/草木は葉を落して露は霜となる/燕の群れは帰ってゆき、雁は南にやってくる)で始まるこの詩は、戦争から帰らない夫を待ちわびるもので、こうつづく。  

明月皎皎照我牀  明月は皎皎とわが床を照らし  
星漢西流夜未央  天河は西に流れ、夜は尽きない  
牽牛織女遥相望  牽牛と織女は遥かに相望む  
爾獨何辜限河梁  あなただけ何の罪で河に隔てられたままなのか  

 これらの詩では7月7日との結びつきは定かではないが、後漢の崔寔の『四民月令』に、「七月七日、曝経書、設酒脯時果、散香粉於筵上、祈請於河鼓織女。言此二星神當會、守夜者感懐私願。或云、見天漢中有奕奕正白氣、如地河之波、輝輝有光曜五色、以此為徵應。見者便拜乞願、三年乃得」(7月7日、書を虫干しし、酒や果物を備え、筵を敷き供物代の上に香粉をまき、河鼓と織女に祈る。この夜、二星が会合するのだと言い、二星に祈りを捧げた。そして天河に波涛のようなものが見え、さらに五色の輝きが見えたら、これを良い兆候と拝み、富を願い、長寿を願う)とある。    

 東晋(317–420年)になると、道教の著述家である葛洪が『西京・雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于開襟褸、倶以習之」(漢の宮女はつねに7月7日に〔未央宮内の〕開襟褸で、七本の針の穴に糸を通し、人びともこの風習に習う)と記しており、織女に手芸上達を願う乞巧奠(きっこうでん)の行事の最初の記述となっている。 梁の宗凛の『荊楚歳時記』 には「七月七日、爲牽牛織女、聚會之夜。是夕、人家婦女、結綵縷、穿七孔針、或以金銀鍮石爲針、陳几筵酒脯瓜果於庭中、以乞巧。有喜子網於瓜上、則以爲符應」と、さらに詳しく書かれている。鍮石とは真鍮のことで、七孔針は真鍮製の細い針を七本並べて、五色の糸を通して結ぶ。筵に供物台、酒と乾肉、瓜を庭に並べる。 瓜は七夕と関係の深いものの一つだが、いるか座の四星が『史記索隱』に「匏瓜、一名天雞。在河鼓東」と書かれていることにも関係がありそうだ。瓠瓜は瓢箪だが、ウリ科である。喜子はクモのことで、瓜の上に巣を張れば、器用になったことを意味した。

 七夕の行事は、乞巧というかたちで唐代になるとさらに盛んになり、以後、清代まで、月明かりのもとで針に糸を通す「月下穿針」や、水を張った容器に針を投げ入れて波紋で占う「丟巧針」など、女性の器用さから容姿、良縁などを願う行事に発展していった。  

 やはり梁の殷芸の『小説』に、織女と牽牛が渡河する、日本で「星合い」とも呼ばれる七夕の物語の大筋が書かれている。「天河之東有織女、天帝之子也。年々機杼労役、織成雲錦天衣。容貌不暇整。帝憐其独処、許嫁河西牽牛郎。嫁後遂廃織紝、天帝怒、責令帰河東、但使一年一度相会」。天の川の東に織女がいる。天帝の娘で、毎年、機を織る労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇もない。天帝は独身であるのを憐れんで、河の西にいる牽牛郎に嫁ぐことを許す。嫁いだのち機織りをやめたため、天帝は怒って河の東に帰るよう命じ、一年に一度だけ会うことを許した、というものだ。これも原典は失われており、明代の『月令広義』に引用されている。梁の任昉が選者したとされる『述異記』にもほぼ同様の内容が書かれている。興味深いのは、空を見上げると、ヴェガは天の川の西に、アルタイルは東にあるのに、ここではちょうど逆になっている。この時代には描かれた星図が容易に手に入り、東西を取り違えたのだろうか。  

 同じころ、西晋の張華(232–300年)が著した『博物誌』のなかで、7月7日に漢の武帝と西王母が出会う話が登場している。「漢武帝好仙道、祭祀名山大澤、以求神仙之道。時西王母遣使乘白鹿告帝當來、乃供帳九華殿以待之。七月七日夜漏七刻、王母乘紫雲車而至、頭上戴七勝、青気鬱鬱如雲。有三青鳥、如烏大、使侍母旁。時設九微燈。帝東面西向、王母索七桃、大如彈丸、以五枚與帝、母食二枚。帝食桃輒以核著膝前、母曰『取此核將何為?』帝曰『此桃甘美、欲種之』母笑曰『此桃三千年一生實』」。西王母と武帝との出会いは、同時期に成立したと言われる『漢武帝内伝』や『漢武故事』にもある。  

 不老長寿と関連の深い西王母の信仰は、前漢末期に「西王母籌」という迷信となって流行し始めた。秦漢時代は蝗害が平均8.8年おきに発生し、後漢時代はとくに干ばつが頻繁に起きたことなどが、流行の背景にある。当初は『山海経』大荒西経などにあるように、「有人戴勝、虎歯有豹尾、穴処、名曰西王母」、頭に勝の髪飾りを戴き、虎の歯と豹の尾をもち、崑崙山の穴蔵に住む存在だった。しかし、頭に戴いた「勝」榺/千切り(ちきり)は織機の縦糸を巻きつける横木を意味しており、西王母は機織りと養蚕に深くかかわった女神だった。西王母は漢代には道教の女仙となり、不老長寿の秘薬も地日草や霊芝などの薬草から晋代には桃に変わっている。武帝に食べさせたのは、3000年に一度実のなる桃である。3月3日の誕生日には蟠桃会(ばんとうえ)という聖誕祭が開かれるようになった。日本の雛祭りを桃の節句と呼ぶのはこれと関係がある。  

 西王母はやがてその名を王母娘娘と変え、容姿端麗な30歳代の女性に変貌した。天帝の娘だったはずの織女は、王母娘娘の子もしくは外孫女という設定になり、そうなるといろいろ不都合が生じてきた。西王母には東王父という蓬莱山の仙人のお相手がいたからだ。そこでいつしか玉皇大帝と名前が変わり、織女はこの大帝と王母娘娘の子になった。これ以降、七夕の物語は道士によって、もしくは民間伝承のなかで、さまざまに分化していった。牽牛という名称も、もともと牛を指していたためか、中国の民間伝承のなかでは牛郎に変わった。王母娘娘が七夕の話に登場するのは、織女を天上へ連れ帰ったあと、牛郎が近づけないように金のかんざしを抜いて天河を波立てる、もしくは河そのものを出現させる場面だ。西王母の頭飾りは「勝」から「華勝」、「金勝」、「七勝」と変わったあげくに、ついには金のかんざしになったのだ。  

 単純だった物語にもいろいろ尾ひれがつき、中国の民間伝承は盛りだくさんの内容になった。織女は『西遊記』(16世紀に成立とされる)にでてくる七仙女の末娘という設定になり、羽衣伝説と合体する。孫悟空が管理する桃園に、蟠桃会の準備で桃を摘みにくる仙女たちだ。七仙女は虹の七色の衣をそれぞれまとって河に水浴びにくる。 牛郎は両親を早くに亡くし、兄嫁にいじめられて、老牛と犂だけで家を追いだされた。ある日、牛郎は老牛にそそのかされて河に行って仙女の水浴現場に近づき、脱いであった羽衣の一枚を盗み、その衣の持ち主であった織女を妻にする。夫婦になった二人は一男一女に恵まれるが、織女は送り込まれた天神によって天廷に連れ去られる。牛郎は死んだ牛の皮をかぶり、子供たちを籠に入れて両天秤に担ぎ、瓢箪をもって天河まで行くが、逆巻く波に隔てられて渡れない。そこで親子三人が交替で河の水を瓢箪でかきだし始め、ついに玉皇大帝と王母娘娘も心を動かされ、一年に一度は会えるようにした、といった筋だ。 

 二人の子供は、アルタイルの両脇にある小さい星だとされた。瓢箪で水を汲みだす代わりに、瓜の水があふれて大河になる話もある。瓢箪畑だったいるか座の菱形の四星は、離ればなれの牛郎に織女が手紙をつけて投げた杼になった。牛郎のほうは、牛の軛、もしくは距骨に手紙をつけて織女に投げ、それがヴェガの下の四星だとされた。織女が自分で羽衣を取り返して天に帰る話では、この二つの小さい星の集まりは、夫婦喧嘩の末にたがいに投げ合ったものと説明される。ちなみに、距骨はアストラガリと呼ばれる占いに使われ、日本では「石なご」という聖徳太子も楽しんだという遊びになり、これがお手玉に発展した。  

 七夕の風習が日本に伝わったのは5世紀ごろで、機織り技術とともに入ってきた。棚式の機なので「たなばた」ということで、機織生産は646年の大化の改新で律令体制に組み込まれ、全国的なものになったという。真鍮の針も、最新技術としてこのころ伝播したかもしれない。七夕の物語は、遣隋使や遣唐使がもち帰った梁時代などの書物から伝わり、道教とは切り離されたせいか、当初の単純なストーリーが残った。日本には牛が非常に少なく、九州、近畿の限られた地域でのみ役畜として利用されていたため、牽牛のほうはいま一つ理解されないまま、職業不詳の彦星という名称に変わった。牛が引く犂(プラウ)は、中国では紀元前6世紀にすでに木製から鉄製に移行しており、漢代には牛と犂を使った耕作が農作業の象徴となっていたわけだが、日本では犂は明治の最新技術だった。そのせいか、彦星が鋤(スペード)を手にしたイラストが散見される。笹を飾る風習は江戸時代に始まり、五色の糸の代わりに五色の短冊(緑・紅・黄・白・黒)を飾るようになった。  

 旧暦7月7日の月は月齢6前後のほぼ上弦の月で、夕方に西の空に見え、22時には沈む。これを天の川を渡る船に見立てて、月が沈んだ夜中に輝きを増す天の川を楽しむこともあったようだが、これが中国由来の風習なのか、日本独自のものかは確認ができなかった。夏の大三角形をなすもう一つの星、はくちょう座のデネブは、中国語では天津四と呼ばれるが、なぜかあまり注目されることはなかったようだ。 七夕は日本では幼稚園児と商店街のための行事となり、中国では「中国情人節」としてバレンタイン・デーのようなものになっているらしいが、グレゴリオ暦7月の梅雨空ではなく、旧暦7月7日にこの晩くらいは夜空を見上げて天の川を探し、2500年の歳月に思い馳せる機会にしてはどうだろうか。

吊るしてみると、七夕の飾りというよりは消防の纏のよう。一瞬、中華鍋を型に張り子にして、底部や側面に丸みをもたせようかと思ったが、動画で張り子の作り方を見てあきらめ、お手軽な厚紙工作にしたので、遣唐使船か巨大な金貨チョコのようになった。

「烏鵲填河成橋而渡織女」
10本の吹き流しに、カササギがスパイラルで飛ぶ幻想的な情景にするつもりだったが、狭い床の上で孫と糊貼りに格闘したため、というより、元来無計画な性分ゆえ、あまり成功しなかった。

 後から思いついて色を塗った5色の糸


その昔、「七夕論考」をまとめた際に作成した関連の星図

幼稚園の園庭に大きな竹を何本も立てて飾ってくれたというので、七夕の夕方見に行ってきた。

2022年6月5日日曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』 その2

 日曜日の夜、予定どおり歌舞伎座へでかけてきた。最後に劇場に行ったのはコロナ以前どころか、孫が生まれる前のことだから、本当に久々に幕が上がる前の、現実の世界から芝居のなかの世界へ入る瞬間を味わうことができた。  

 事前に脚本を読んでいたので、おお、この場面はこう演じるのか等々、一部始終が興味深かったし、一読しただけでは見落としていた重要な台詞も多々あり、やはり生で観て初めて芝居は理解できると思った。ほぼ出ずっぱりのお園役の玉三郎は、女形の発声で長時間喋りつづけ、それを1カ月繰り返すのだから相当な負担になるだろう。第4幕はとくに大熱演で、観終わったあと私まで無性に日本酒が飲みたくなってきた。共演の俳優たち、通辞藤吉を演じた中村福之助や岩亀楼の主人の鴈次郎なども、なかなかいい味をだしていた。  

 その一方で、台本にある言葉が、少なくとも私の世代以降には耳で聞いて理解しにくいものも多かったと思う。「本当は攘夷党の間諜(かんちょう)でさ」、「子の日(ねのひ)おいらんが、いや吉原じゃ子の日だったけど、横浜(はま)じゃ亀遊さんというんだった」などは、さっと聞いてわかるものではない。懐剣も、「かいけん」と読んでいたが、「ふところがたな」のほうが舞台ではわかりやすいのでは、などと思ったりもした。「おいらん、せいぜいお繁りなんし」という隠語らしい言葉は文字で読んでもわからなかったし、「私はでたらめと坊主の頭はゆったことのない女ですよ」という台詞などは、早口だったこともあって、観客からの笑いは少なかった。英語の台詞も多く、これも聞き取りにくさを増す原因となっていた。  

 この作品は、フェイクニュースだらけで何を信じればよいのかわからない昨今の情勢のように、一握りの真実の混じった嘘がどんどん広がる様を描いているので、観劇後、よくわからなかったと話している声がちらほら聞こえた。「確かにわかったのは、口は災いの元だということ」という感想を小耳に挟んだときは苦笑してしまった。世の中が揺れ動く時代に、日本人の最大の処世術は「見ざる聞かざる言わざる」で、だから庚申塔には三猿が彫られていたのではないかと、私は以前から勝手な推測を立てている。  

 有吉佐和子の戯曲にいくつかの誤解と偏見があったことも、舞台を観たことでよくわかった。とりわけ「唐人口」と呼ばれた外国人相手の遊女にたいする蔑視であり、こうした姿勢は幕末だけでなく、戦後の日本でも顕著に見られたことは言うまでもない。唐人口の遊女がことさらに醜く演出されていたのはやり過ぎだったように思う。  

 舞台では、障子を開けると港が見えるような造りになっていて、カモメの鳴き声とともに素敵な効果をだしていた。実際、新たに入船したのがアメリカ船だと話す台詞もあるのだが、港崎遊郭の場所はいまの横浜スタジアムの場所で、当時の港でも600メートルくらいは離れているので、たとえここが珍しく2階建であっても、はたして海がそれほどよく見えたかなどと、無粋なことを考えた。舞台装置を考案した人は、貞秀の「横浜異人商館の図」(1861年)を参考にしたのかもしれないが、これは英一番館、ジャーディン・マセソンではないだろうか。  

 岩亀楼の扇の間のセットは、壁面こそ扇が飾られていたが、岩亀楼として伝えられている竜宮城のような横浜絵からすると、和風過ぎるように思った。1幕を除いて、舞台はここを中心とするので、どんどん増えていく攘夷女郎の小道具の入れ替えなどは、その都度、緞帳を下ろさずに舞台照明だけ落として観客にその滑稽さが伝わるような演出でもよかったのではないだろうか。新作歌舞伎だからなのか、定式幕ではなく緞帳で、歌舞伎の回舞台のような手品が見られなかったのも、ちょっと残念だった。  

 なお、この芝居に名前だけ登場する大橋訥庵が渋沢栄一と何らかの関係があることだけは知っていたが、調べてみたことはなかった。この記事を書くためにちらりと検索したところ、坂下門外の変を計画した人物であり、かつ堀織部正利煕が謎の自刃を遂げたあと、堀の安藤信正にたいする諫言の書と称する偽書を捏造して世論形成をしたのだという。堀織部正の死をめぐっていろいろ調べたことがあったので、これは目から鱗の情報だった。時間のあるときに、この典拠となっている土井良三の本を読んでみよう。

 歌舞伎座の建て替えは2014年だったらしい。

開港当初の横浜にいて克明な日記を残したフランシス・ホールの書、JAPAN THROUGH AMERICAN EYESの表紙に使われていた貞秀の「横浜異人商館の図」
舞台から見えた窓の外の光景は、これにやや似ていた。

『横浜浮世絵』横田洋一編、有隣堂より

 同上
 舞台に使われた扇の間はこれにやや近い。

2022年6月2日木曜日

『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 この年齢になって初めて歌舞伎座に行くことにした。  

 締切りの厳しい仕事に追われているときに限って、「六月大歌舞伎」の第3部が、玉三郎の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に演目変更になったとい新聞の短い紹介記事が目に留まり、そこからいくつかのネット上の記事を検索した結果、意を決したのだ。  

 正直に言えば、新聞記事を最初に読んだときは、玉三郎のような人がなぜこの作品にこれほど入れ込んでいるのか、私は理解しかねていた。ここ数年、この作品は明治座でも演じられて話題になっていた。だが、有吉佐和子の戯曲(1970年)のあらすじを読んだ限りでは、横浜の居留地や岩亀楼の実態とはかけ離れているように思われたのだ。  

 横浜の港崎遊廓は、外国人を受け入れるための「都市建設に伴う必須条件」として開港当初から設けられていた幕府公認の遊廓だった。『横浜市史稿』風俗編(1932年刊)は延々270ページも割いてその後、昭和まで場所を変えつつ存在しつづけた横浜の遊郭の歴史について述べている。幕府に遊廓の設置を勧めたのは、オランダのポルスブルック副領事と考えてまず間違いないだろう。 彼自身が「本町二丁目に居住する文吉なる者の娘お長」を見染め、ピートと言う息子をもうけた。

『横浜どんたく』下巻(有隣堂)に掲載された「珍事五カ国横浜はなし」(1862年)にはこんなエピソードがある。ポルスプルックが「百枚の洋銀ザラリと投出し、交渉に及びけるに、もとより開放主義のお長とて、蘭でも漢でも私や構やせぬと、早速応来の吉報は与えたるも、野暮天なる当時の役人等は、例の体面云々の考えより、公許の娼妓にあらざれば、外国人の妾たる能わず」。窮したお長は表向き岩亀楼の娼妓になり、鑑札料として月々1両2分ずつ同楼に納め、外妾の元祖となったのだという。 

 同書には1862年当時の居留地の外国人リストもあり、その大多数には小使いや別当とともに、「娘」として遊女の名前が記されている。和蘭陀のコンシユル、ボスボクスのところには確かに「娘〔ラシヤメン〕 てう」とあるし、下段の英吉利のコンシユル、ゲビテンワイス(ヴァイス大尉)には「娘〔ラシヤメン〕 たか」とある。この物語の舞台となる岩亀楼は港崎遊廓の代名詞ともなった楼で、「二階楼を異人館と和人館に区別し」た造りで、幕末のあいだはこの一軒だけが「異人揚屋」だったと、『横浜市史稿』は書く。 

 改めて読み返してみると、『横浜市史稿』には「岩亀楼遊女喜遊の正体」と題した、今流に言えばファクトチェック、オシントとでも言うべき章まであった。遊廓が大きな位置を占めてきた横浜の歴史を編纂するうえで、この攘夷女郎の逸話はとうてい無視できなかったのだろう。明治32年に書かれた決定版的な『温故見聞彙纂(いさん)』から、慶応年間の刊行かと書かれた『近世義人伝』まで諸説を集めて食い違いを検討したものだ。それによると、自死した遊女の名前も、その父の名前も、身請けを申しでた外国人の名前も、憤死した年月も、年齢にも資料によって食い違いがあった。市史の執筆者は喜遊(有吉作品では亀遊)と呼ばれることの多かった女性の墓所も探したようだが、発見はできなかったという。 

 有吉佐和子は戯曲を書いた際に、これらの資料を読み、そこから瓦版でまことしやかに書き立てられた攘夷女郎の話に合わせて、世間が求める方向へ話がどんどん飛躍していくさまを、そのまま戯曲にするという、抜群のアイデアを思いついたに違いない。ネット上で見た2008年の映画版の予告編の最後に、玉三郎の演じる語り手の年増芸者お園が、「みんな嘘さ」と、絞りだすように言う台詞を見て、ようやく有吉佐和子の意図も、玉三郎がこの作品に強い思い入れがある理由も理解したのだった。「嘘っぱちだよ。おいらんは、喜勇さんは、淋しくって、悲しくって、心細くって、ひとりで死んでしまったのさ」と台詞はつづく。

 よく読めば、花魁の自死がテーマにもかかわらず、この作品は「喜劇」とされていることがわかるのだが、私同様に勘違いしている人はかなりいるのではないだろうか。なにしろ有吉佐和子の曾祖父、有吉熊次郎は、長州の御盾組の1人で、池田屋事件の生き証人となり、禁門の変で久坂玄瑞らと鷹司邸で自刃したという、きわめつけの攘夷派だったからだ。実際、「あの前後は高杉晋作が品川のイギリス公使館を焼打ちしたり、胸のすくような事が続きましたねえ」という、大橋訥庵の「思誠塾」の門人、多賀谷の台詞まである。有吉佐和子の曾祖父はまさしくその下手人の1人だった。享年23歳なので、本当に遺児がいたのか、養子縁組していたのかはわからないが、そんな志士の子孫が、攘夷から一気に西洋追従に変わる時代に翻弄されつつある人びとを、笑いのなかで見事に描き切っていたのだ。 

 有吉佐和子の意図がわかれば、「岩亀楼遊女喜遊」が実在の人物かどうかなど、探るだけ野暮な気がしないでもない。それでも、横浜の歴史に首を突っ込み、否応なしに遊郭の歴史も読んできた身でもあるので、少しだけ私なりの推理をしてみた。一次史料と呼べるものがない場合はとくに、「実話」は時代を経るごとに尾鰭が付く。よって、情報は少ないが、戯曲にも登場する江戸の新吉原の桜木という花魁が最初に「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の歌と関連づけられた安政4、5年ごろがヒントになりそうだ。となると、候補はハリスの通訳で、暗殺されたヒュースケンと彼の江戸での日本人妻とされる、おつるあたりだろうか。

 作品に登場する外国人はアメリカ人イルウスという設定だ。大正期までのいくつかの資料が「伊留宇須」、イルミスンとしていたが、アボットだとするものもあった。イルウスならば、ヒュースケンの遺体写真の撮影者で、下岡蓮杖に写真機材を譲ったジョン・ウィルソンの名前が一部の日本人に知られていた。 

 ヒュースケンの寡婦と遺児の写真だとよく言われる古写真は、実際にはポルスブルックの妻子、つまりお長とピートだと、古写真研究者の高橋信一氏が突き止めておられた。オランダからの移民だったヒュースケンとポルスブルックは親しく、遺族の面倒を見ていたとどこかで読んだような記憶がある。ポルスブルックとお長の関係については、いくつかの証言が横浜市の史料に残っているので、この江戸時代のフェイクニュースは、このあたりの何人かの有名な外国人と日本女性の逸話をもとに、故意や勘違いから、口伝えに膨れあがったのだろうと思う。 

 本来ならば、舞台を見てからこの記事を公開すべきなのだが、今日は横浜開港記念日だし、もう1カ月近くブログを放置してしまったので、早めにアップすることにする。この先、さらに多忙になりそうなので、観劇の感想は少しあとから追加するかもしれない。高校か大学のころ、一度だけ玉三郎の歌舞伎を国立劇場に観に行ったことがあるが、それ以来のことになる。今回の公演は27日まで。

『甦る幕末』(朝日新聞社)にヒュースケンの日本人妻というキャプションで掲載されていた、ポルスブルックの妻たかと思われる女性。喜遊のモデルの1人か。

「露をだにいとふ倭の女郎花ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、喜遊の辞世の句として捏造されたものだった。秋になったら撮影しようと思っていたら、昨日、幼稚園からの帰りに大雨のなか咲いているのを発見。今朝カメラをもって撮ってきた。花期は8月〜9月らしい。2022年7月16日撮影

2022年5月6日金曜日

結局はエネルギー問題なのか

 政治・経済のニュースはあまり興味がないので、普段は最低限の情報しか読まないが、数日前、ウクライナ侵攻に関連したエネルギー問題と、その隣のページにあった労組分断という記事をひとしきり読んでしまった。 

 私がまだ旅行会社に勤めていたソ連崩壊から間もないころ、シベリアの石油開発事業関連で来日したアメリカ人と話をしたことがあり、その後も世界の石油メジャーや日本の商社などが大規模な開発を進めるニュースを見るたびに、そのことをよく思いだしていた。北極海も、地球温暖化で季節的に航行が可能になると、各国がこぞってこの海域に触手を伸ばすようになった。 

 翻訳の仕事を通じて長年、気候問題にはかかわってきたので、もう何十年も科学者が警告の声を上げているにもかかわらず、化石燃料の使用が増える一方の現実に、エネルギー問題の厄介さを痛感している。改めて各種統計を見ると、ロシアは天然ガスの埋蔵量が世界1位、石炭は2位、石油は6位で、2016年の総輸出額に占めるエネルギーの比率は約6割という。天然ガスは温暖化対策の切り札とも言われてきたので、ロシアはその点でこの数十年間かなり有利だったのだろう。 

 今回の戦争の経済制裁によって、これらの化石燃料の一部が使われなくなれば、地球の気候にとっては喜ばしいのだろうが、各国がその穴埋めをすぐに再生エネルギーで賄えるわけではない。代わりに原発を増やしたり、その代替分の化石燃料を遠隔地からCO2をだして運んだりすれば、地球環境にとってはむしろ嘆かわしい。 

 今年もすでにシベリアで森林火災が相次いでいるのに、戦争中でロシア軍がいつもの消火活動にかかわれていないというニュースも数日前に読んだ。ロシアの国土の60%は永久凍土で、温暖化の影響がいちじるしい北極圏では、近年、夏に猛烈に高温の日がつづき、火災が起きやすくなっているようだ。昨年、シベリアでは2012年を上回る最大規模の森林火災に見舞われ、WWFのサイトによると、日本の半分に当たる面積が焼失したという。ただでさえ温暖化で始まっている永久凍土の融解が、火災で加速されれば、CO2ブラックカーボンのエアロゾルとともにメタンが大量に放出されることも忘れてはならない。 

 エネルギー問題と労組分断の記事は、一見まるで無関係のようだが、政府の脱炭素推進によって、2030年代なかばまでに乗用車の新車販売をすべて電気自動車などに切り替えることになった結果、エンジン関連の製造業で雇用不安が広がり、それが生き残りをかけての労使協調につながっているという内容だった。同じことは電力総連でも言えるという。記事には、かつて50%以上あった労組全体の組織率が昨年はすでに全労働者の1割程度にまで落ちていたともあり、働く環境は様変わりしているようだ。 

 つまるところ、気候問題に端を発するエネルギーの方向転換に、世界中が揺すぶられているのではなかろうか。本来ならば、気候問題こそ人類が一致団結して取り組まなければならない未曾有の危機であるはずなのに、破壊の限りを尽くす戦争がつづき、一向に終わる気配が見えない。それどころか気候の危機を待たずに、核戦争で人類が自滅する可能性すらある。ミサイル攻撃を受けてもうもうと上がる黒煙。廃墟となった夥しい建物群。途方もないゴミ処理を想像するだけも、復興時に必要となる大量のセメントとそのために排出されるCO2のことを考えても、やりきれない。 

 連休中ずっと仕事に追われ、頭の痛い問題と暗いニュースに悩まされつづけていたので、昨夜、娘宅から羽化寸前のクロアゲハの蛹がやってきたのが、せめてもの慰めとなった。夏の終わりに、ベランダのレモンの木で孵った幼虫が蛹のまま年を越したものだった。小旅行にでかける日に限って黒ずんできたから預かって、と電話があった。そんなわけで、今朝は5時起きして、横目で蛹を監視しつつ仕事をした。蛹は7時少し前にモゾモゾとでてきて、8時半には完全に翅を広げ、昼前に窓を開けると飛び立っていった。

この蛹の「命綱」はまだ残っていたけれど、尾の先が枝から離れてしまっていたため、工作物で支えて冬を越していた。

羽化するときは、体を軽くするため、かなりの量のおしっこをする。

2022年4月18日月曜日

「シーボルトの帰り桜」

 昨春は、われながら呆れるほど桜三昧だったのに、今年の春は近所をおざなりに見て回る程度で終わってしまった。いろいろ忙しかったこともあるが、呑気に春を楽しむ気分になれなかったことも大きい。  

 そんな折に、たまたま県立長崎シーボルト大学のキャンパス内に植えられている「シーボルトの帰り桜」の写真をフェイスブックで見て、そこに〈ホクサイ〉と書かれていることに気づいた。NPOながさき千本桜によって平成15(2003)年に植樹されたものらしい。〈ホクサイ〉と言えば、コリングウッド・“チェリー”・イングラムが名づけたことで知られる品種なので、なぜ半世紀も時代をさかのぼるシーボルトの「帰り桜」とされるのかが気になった。

  ざっとネット検索したところ、ウィキペディアの「荒川堤」の項目に、「1866年にシーボルトが日本から持ち出した以後に日本では絶えていた〈ホクサイ〉は、日本のサクラを熱心に収集していたイギリスの園芸家のコリングウッド・イングラムにより保存されており、その後日本に里帰りした」との一文があり、その典拠として森林総研の勝木俊雄氏の『桜』(岩波新書、2015年)が挙げられていた。「シーボルトの帰り桜」は、大学構内だけでなく長崎の中島川沿いの眼鏡橋付近にも植えられているようだし、1901年創業というイギリス大手のフランク・P・マシューズをはじめとする苗木会社のウェブサイトにも、同様の説明を付したPrunus ‘Hokusai’のページがあった。  

 勝木氏の『桜の科学』は昨春、読んでいたが、『桜』は未読だったので、図書館から借りてみると、「なかには一八六六年にシーボルトが日本から持ち出したと考えられる〈ホクサイ〉という名のサクラなど、日本では見ることがない名称のものもあった」とだけ書かれていた。そう断定しているわけではない。フランツ・シーボルトは1866年10月に没しており、再来日したのは1859年4月から1862年5月までなので、この件を深く調べて書いたわけではなさそうだった。そもそも、この本が刊行される以前に「シーボルトの帰り桜」は植樹されているので、これとは別の根拠があったのだろう。  

 阿部菜穂子氏の『チェリー・イングラム』(岩波書店)も再読してみると、イングラムが〈ホクサイ〉と名づけた桜は、1919年に彼が購入したザ・グレンジの敷地内にもとからあった樹齢25年ほどと思われる大木がその始まりだった。当時、日本の桜の科学的分類の権威だった三好学に品種名を問い合わせたところ、「この桜の品種名は不明である」との回答を得ていた。「それなら、私が命名するよりほかにない。この桜を、世界的に有名な日本の画家、葛飾北斎にちなんで、〈ホクサイ〉と名づける」と、イングラムは宣言したと同書は書く。 

 ザ・グレンジはもともと1891年にクランブルック伯爵が娘のために建てたもので、その後、20世紀になって十数年間、『デイリーミラー』紙などの創業者の1人、ロザミア子爵の手に渡っていた。樹齢25年であれば、クランブルック伯爵が植えた可能性が高そうだが、それでもシーボルトの没後から30年は経ている。 海外に植木を売ることを目的として1890年に創業され、イングラムも利用した横浜植木商会や、1872年にマサチューセッツ州に創設され、東アジアの樹木収集に熱心だったアーノルド樹木園、あるいは「独立した日本特設コーナーが設けられ、菊や盆栽などともに、桜が植樹された」という1900年のパリ万博などから、ザ・グレンジのこの最初の所有者が購入した可能性は否定できないし、それらの入手方法のほうがより自然ではなかろうか。 

〈ホクサイ〉と名づけられたこの品種はピンクの八重で、素人目にはこれといった特徴のない品種に見える。昨年、足立区都市農業公園で私も若木を見ていたが、印象には残らなかった。実際、〈福禄寿〉との唯一の目立つ違いは萼片(がくへん)だとするウィーベ・カウテルトの研究書(Kuitert Wybe, Japanese Flowering Cherries, 1999)もあるし、2014年、15年に訪英してイギリスの桜のDNAを研究したという勝木氏自身は、2015年に東大農学部で開かれた森林遺伝育種学会大会で、「形態観察の結果」としてはいるが、「英国での ‘Shimidsu’は‘松月’、‘Hokusai’は ‘渦桜’と考えられた」と報告している。 

〈渦桜〉は大阪造幣局の桜並木の看板では、「東京荒川堤に元々あった桜とされている。花名は、しわのある花弁が渦を巻くように、ややらせん形に並ぶことによる。淡紅色の八重咲で、花弁数は30枚程である」となっている。長崎の眼鏡橋付近の〈ホクサイ〉には、「薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます」と書かれているので、はたして同じ品種と言えるのか私にはわからない。私には〈松月〉と〈福禄寿〉もそっくりに見えるし、八重桜はいずれも穂木を人工的に別々の台木の上に接木して増やすので、風土の異なる地で何十年、何百年も経るうちに品種が変わってしまうのではないだろうか。  

 片手間にほんの数時間、ネット検索した限りの憶測でしかないが、〈ホクサイ〉がシーボルトの桜だと言われ始めたのは、長崎時代の1820年代に彼の助手を務めた川原慶賀が描いた「サクラ」の絵が〈ホクサイ〉に似ているからではないか。この絵には登與輔と落款があり、Cerasus Pseudo-Cerasus var. flor. plenio roseisと書かれている。シーボルトの死後、日本の絵師たちが描いた原画は遺言により未亡人の手を経てロシア政府に売却され、現在はサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所の所蔵となっている。1041点に上る植物原図を1993年に丸善が『シーボルト旧蔵日本植物図譜コレクション』という30万円!の3冊本を刊行し、それを機に各地で展覧会が催された。  

 記憶を掘り起こせば、娘が高校時代、2002年の夏休みの宿題に「出島の三学者」と題して、ケンペル、ツンベリー、シーボルトを調べた際に、佐倉市立美術館で開催されていた「シーボルト・コレクション日本植物図譜展」に私も同行していた。「サクラ」の絵も見たのかもしれないが、記憶にはない。『シーボルト日本植物誌』は、ちくま学芸文庫版だがもっていた。だが、西洋の博物誌然としたこの本の挿絵と、川原慶賀などの日本の絵師が描いた膨大な数の絵がどう関係するのか、恥ずかしながら、これまで確かめたことがなかった。実際には、『日本植物誌』の挿絵はミンジンガーなどのヨーロッパの植物画家が、日本人絵師たちの作品を下絵にして描き直していたのだ!  

『日本植物誌』の解説によると、シーボルト事件で1829年10月に国外追放された際にも、彼は2000株近い日本植物の移出に成功し、ジャワ島のボイテンゾルフの植物園で馴化されていたようだが、オランダに戻ったのは翌年7月であり、コレクションの一部は彼の手には届かずじまいだったという。12歳の息子アレクサンダーを伴って1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日した際には、しばらく幕府の外交顧問にもなったが、失意のうちに帰国したと記憶している。ウィキペディアの彼の項目には、「2度目の訪日で集めた蒐集品や植物の種苗はミュンヘンで保管され、一部は長男アレキサンダーがイギリスに寄贈している」という心をそそる一文があるが、英語版には、アレクサンダーが遺品の多くを大英博物館に寄贈したとしか書かれておらず、「種苗」については定かではない。 

『チェリー・イングラム』によると、接木するための穂木は、樹が休眠中の冬のあいだに伐採する必要があり、穂木の切り口に湿った苔をつけたり、穂木をジャガイモに刺したりと工夫を重ねることでようやくヨーロッパまで無事に輸送できるようになったという。シーボルトが1862年5月に離日していて穂木を確保する時期でないことや、帰国後もオランダ、ロシア、フランスなどの政府に勤め先を求めたものの、成功していないことを考えると、そんな状況下で彼が日本からもち帰った桜の穂木を接木して無事に育てられたのか、と疑問をいだかざるをえない。それがやがてイギリスにまで渡り、大木となって花を咲かせていたなら、画期的なことなのだが、どこか飛躍している。  

 ちなみに、品種のラテン語名にシーボルトの名前がつく〈高砂〉というピンクの八重桜がある。これは1860–62年に日本に滞在していたプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンが、帰国後の1864年に輸入したもので、どういう経緯でシーボルトの名前がついたのかは、カウテルトの書にも、それを引用した阿部氏の本にも書かれていなかった。  

 余談ながら、12歳で来日した息子のアレクサンダーは、その後15歳で在日イギリス公使館に特別通訳生として雇用された。上田藩の赤松小三郎は、イギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンから「騎兵術を伝習し、同時に英文を学」んだ1864年末に、横浜の「アプリン宅に行き、アレキサンドルの通訳で話す」と日記に残している。アレクサンダーは1867年に休暇で帰国し、その際に徳川昭武や渋沢栄一らのパリ万博使節団に随行した。

 ワーグマンの『ジャパン・パンチ』1865年10月号には、インフルエンザのパークス公使の手当をするウィリス医師のもとへ、粥をもったミットフォードと、頰被りをして、燃えさしを入れてベッドを温める器具を担ぐスパーズ、つまりアプリン、それにアレクサンダーと思われる若者が見舞いにくる滑稽な絵がある。吹き出しの文字の判読を試みたが、意味不明の英語だった。通訳になった当初、アレクサンダーは英語が苦手だったらしいので、それをからかったものだろう。地球の裏側のような異国の地で、10代で独り立ちしたこの若者は、父の死に目には会えなかったようだ。  

 結局のところ、私が当初いだいた疑念が、かなり強まった程度で簡易調査はおしまいにせざるをえない。「シーボルトの帰り桜」と銘打って植樹した人たちが何を根拠としたのか、ご存じの方がいらしたらご教示願いたい。ピンクのふわふわとした八重桜の来歴を調べながら、そうか川原慶賀らの原画はロシアにあるのか、8つの本型の箱に収められていたこれらの植物画が長らく一般に知られていなかったのはソ連時代だったからなのか、などと現実に引き戻されるのが悲しい。そう言えば、アプリンも来日前にクリミア戦争とアロー戦争に従軍していた。イングラムの義理の娘が香港で日本軍の捕虜として3年以上も収容所生活を送り、日本の桜を生涯にわたって受け入れなかったというエピソードを思いだす。

足立区都市農業公園で見た〈ホクサイ〉。手前はおそらく〈鬱金〉。2021年4月撮影

川原慶賀による「サクラ」、『シーボルト旧蔵日本植物図譜展』(1995年)より
この図録に掲載されている桜はほかに、同じく川原慶賀によるイトザクラ(枝垂れ桜)と、再来日時に雇われた清水東谷によるエドヒガンとヤマザクラがある。

都市農業公園で見た〈高砂〉。2021年4月撮影

娘が高校時代にまとめた「出島の三学者」と今回の参考文献

『復刻版 ジャパン・パンチ』第1巻(雄松堂)より

2022年3月27日日曜日

『歴史修正主義』を読んで

 英語には「Words fail me.」という妙な表現があるが、この「言葉にならない」状態を、いままさに実感している。 1月の下旬、世界終末時計がまた一歩進んで、訳注を書き換えなければならないのではないかと今年の発表を気にしていたのだが、そのときはまだ昨年と変わらず、1分40秒前という戦後最も0時に近づいた状態を保っていた。だが、その後の2カ月間で、核戦争という言葉が日々聞かれるようになり、さらに進んだのは間違いない。 

 私を含め、大多数の人は、ものづくりだろうが商売だろうが、スポーツや芸術だろうが、学問や研究だろうが、平和な世の中だからこそ意味のあることに従事している。いざ戦争になって、身一つで逃げなければならなくなったら、これまでのあらゆる努力が水泡に帰してしまう。夫や父や息子を置いて、小さな鞄だけをかかえて隣国に逃げださなければならなかったウクライナ難民は、すでに350万人を超えるという。その大半を受け入れているポーランドは、いったいどうやりくりしているのか。  

 先行きが見えず、もやもやしたなかで、FB友の方に勧められて、武井彩佳氏の『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中央公論新社)を借りて読んでみた。歴史研究に少しばかり足を突っ込み、自分で一次史料を読んでみた結果、従来の通説にいくつもの疑念をいだかざるをえなくなった私としては、自分のそうした主張も、歴史修正主義と呼ばれるものなのか、ずっと気になっていた。本書を読んで歴史修正主義と非難されるものの定義がよく理解できたことは、その意味でも大きな収穫だった。 

「歴史家は誰もがその時代と環境が産み落とした子どもに過ぎず、自分が属する社会集団や文化によって規定される枠組みのなかでものを考えている。[……]これに加え、私たちの思考そのものが言語による制約を受ける」という、著者の歴史にたいする認識は、私がこれまで感じてきたことそのものだ。「歴史は単数ではなく、常に複数であり、また固定的な歴史像というものは存在しない。歴史は常に〈修正〉され続ける運命にある。また、歴史的〈事実〉はある程度確定できるが、歴史的〈真実〉がどこにあるかを知ることはできない」という説明も腑に落ちた。  

 ホロコースト否定論に大きな焦点を当てた本書の内容は、南京大虐殺を否定したり、東京裁判を批判したりする同種の主張の欠陥を炙りだすうえで役立つだろう。実際、パル判事が「事後法」だと主張した件については、いろいろ関連資料を読んでみたいと思っていたので、いまだに蒸し返される戦犯問題を考えるうえでじっくりと読み直してみたい。  

 しかしそれ以上に、いまの私には、ホロコースト否定論が極右の台頭とともに増え、とりわけユーゴスラヴィア内戦でドイツへ大量の難民流入があった1990年代初頭から盛んになったという指摘が印象に残った。その一方、東欧の旧ソ連衛星国が「ヨーロッパ人」のアイデンティティを確立するうえで、「共産主義体制へ抵抗した事実が、正統性の根拠とされた。[……]西側の自由主義的な価値観を進んで受け入れる意志が示され、その歴史観に大きく接近する。[……]旧共産圏の国々は二〇〇四年以降、順次EUへの加盟を果たしていくが、東欧諸国が西欧諸国とともにホロコーストの歴史を共有していることが、皮肉にも彼らがヨーロッパの一部であることの証となった」という指摘も興味深い。

 歴史はこのようにつねに政治と密接にかかわるが、国の歴史を国民に共有させ、国民であることを誇れる歴史を提示することは、どうしても歴史修正主義につながりやすい。しかし、「長期的に見ると、自国民のみが満足する歴史は、将来の選択肢をせばめている」と本書はその点を明確にし、ジョージ・オーウェルの『1984年』にも言及する。この小説のなかで、主人公のウィンストンは全体主義的な国で党の命令を受けて過去の改竄を行なっている。『1984年』は数十年前に読んだきりなので、また読み返さなくてはいけない。「現実に起こったことがビッグ・ブラザーによる予言と計画に合致するように、過去のニュースを日々書き替えている」と、武井氏は説明する。  

 折しも、「プーチンの意味不明な言説は『1984』で読み解ける」というマーク・サッタ氏の記事を読み、ニュースピークさながらに彼が戦争活動を「平和維持活動」と銘打っているという指摘に苦笑してしまったが、「ホロコースト生存者の孫でユダヤ系のゼレンスキー大統領について、政府転覆や彼の殺害さえ目論みながら、自身はウクライナの〈非ナチ化〉に尽力しているとのたまう」というくだりでは、ちょっと待てよと思った。  

 2014年のマイダン革命の前後からウクライナの極右組織が台頭し、かつてのウクライナ蜂起軍を想起させる赤と黒の旗を掲げる右派セクターや、ナチスの親衛隊などが使用したヴォルフスアンゲルのシンボルを掲げたアゾフ大隊(現在は連隊もしくは軍Forces)などが大きな勢力となっていたことは、BBCやガーディアン紙、ドイチェ・ヴェレ、カナダのデジタルメディアVICE、フランスのフリーのジャーナリストなど、いくつもの欧米のメディアによって報道されてきた。だが、その多くはウクライナ東部で2014年からつづく悲惨な内戦に関する2018年までの報道ばかりで、私が見つけた最新のものはタイム誌が2019年夏に取材した動画だった。 

 右派セクターが祖国の英雄視するステパン・バンデーラのウクライナ蜂起軍は1943年から45年にウクライナのヴォルィーニ州、ガリツィア州東部などで数万人のポーランド人虐殺に関与したという。2014年に書かれたキャノングローバル戦略研究所の研究主幹、小手川大助氏の「ウクライナ問題について その3」という驚くほど詳しい報告書には、このバンデーラが1948年4月に今度はイギリスのMI6に採用されて、ソ連邦内における破壊活動に携わり、1959年にKGBにより暗殺されたと書かれている。何やら映画『007』のようだが、事実は映画より奇なり、なのだろう。小手川氏のこの一連の報告書を読むと、海外のニュース動画で見た断片がよく理解できるようになる。 

 ロシアの脅威と蛮行を前に、ウクライナのネオ・ナチについて語ることはタブーになったのか、2019年にゼレンスキーが大統領に就任して以降、ウクライナの非ナチ化はすでに達成されたのか、まるでそんな勢力は存在しなかったことにされている。いまやマーク・サッタ氏が言うように、プーチンのこの発言は笑いの種にされているが、実際には、「現在の政治に合わせて過去が書き替えられてゆく」『1984年』さながらの作業は、言論の自由や民主主義を標榜する先進国の主流メディアでも盛大に行なわれているとしか言いようがない。 

 アゾフ大隊の創始者のアンドリー・ビレツキーは、2014—2019年までウクライナ議会議員だったが、2019年の選挙で議席を確保できず、現在は「アゾフ軍の最高司令官」としてマリウポリでロシア軍や親露分離主義者と死闘を繰り広げている。3月18日にYouTubeで公開された動画で彼自身が語るところによると、マリウポリは2014年のロシア侵攻時に奪われなかった、ウクライナ側のドンバスの象徴となり、死守しなければならない都市だったそうだ。人口43万人ほどという大都市のマリウポリを、ロシア軍があれほど破壊する必要がどこにあったのかと唖然としたが、その意味がいくらかわかった気がする。後世の歴史家は、この紛争をどう読み解くのだろうか。

最近のささやかな楽しみはこれ。孫と拾った種を一緒に蒔いたもの。結局、芽がでたのはフウセンカヅラだけだが、植え替えるときは、殻を潰せばいいらしい。