2024年12月31日火曜日

2025年元旦に

 2025年は戦後80年、昭和で数えれば100年の節目の年だという。時代が大きく変わりそうな気配がする。  

 大晦日の昨夜は、昨年と同じ近所のお寺まで娘一家とともに除夜の鐘を撞きに行った。6歳の孫はちゃんと昼寝をして夜に備え、帰宅したのは1時半ごろだったのに、往復とも夜道を元気に歩いた。昨年はコロナ禍の名残だったのか、缶入りの甘酒が振る舞われていたが、今年はちゃんとお鍋で煮たもので、娘の絵本『じょやのかね』そっくりに、「あついから きをつけてね」と孫はお寺の方から声をかけられ、「あまざけの ゆげで ほっぺた」を温かくしながら飲んでいた。近所の人たちは三々五々に集まり、こじんまりとした和やかな雰囲気のなか交代で鐘を撞いていた。108個用意されていたと思われる銀杏は、参拝客の波が途絶えたあとも、まだいくらか残っていた。 

 娘と孫が長々とスケッチを始めてしばらく経ったころ、本堂で読経が始まった。しばらくは銅鑼を叩きながらの読経だったが、そのうち二人の僧侶が蛇腹折りされたお経を高く掲げながら、右から左へ、左から右へ大きくパラパラと動かしながら大声でお経を唱え始めた。初めてみる光景に孫は釘づけになり、お賽銭箱に貼りつくようにしながらその様子をスケッチしていた。臨済宗の転読というお経らしい。ときおり聞こえる短い叫び声は「喝」だったのかもしれない。帰りがけに見せてもらったら、えらくよく描けていた。出がけに、除夜の鐘の場面を描いたコラージュ作品を「全部、糊だよ」と得意そうに言いながらプレゼントしてくれたのだが、それもじつに上手だった。小学校に上がる年齢というのは、子どもが大きく成長するときであるようだ。 

 昨夜は就寝したのが遅かったので、面倒だなあと思いつつ、今朝は早起きして頑張って近所の公園まで初日の出を見に行った。昨秋、この公園を平たく改造する計画がもち上がり、反対したこともあって、高台からの初日の出を拝んでおかねばと思ったからだ。途中、犬の散歩をする人などがちらほらいて、元日の早朝にしては人が多いなと思ったら、どうやらみんな同じ公園を目指しているらしい。頂上に着いてみたらすでに数十人が南東を向いて待っていた。親子連れ、老夫婦、中高生、若者など、まさしく老若男女と犬たち。最終的にはおそらく80人くらいはいたと思う。この景観を守った一人として、初日の出以上に心を強く動かされる光景だった。 

 公園を出たところで、若いお兄さんが落ちているゴミを拾い上げていた。思わず「ありがとう!」と、声をかけたが、ふと見ると、道路上にファストフードのゴミが点在している。一緒に拾い始めると、「僕、もって帰りますよ」とまで言ってくれたが、自分の分は家までもち帰った。暗いニュースばかりがつづくが、世の中まだまだ捨てたものではない。  

 暮れに、黒豆、きんとん、松前漬だけはつくり、いくらかお節料理を用意はしていたが、朝は面倒なのでいつものトーストにしながら新聞(毎日)を広げたら、デジタル技術を活かして市民が自由にネット上で意見交換できる直接民主主義の方向へ、一歩踏みだす試みが始まっているという一面のトップ記事が飛び込んできた。ちょうどいま民主主義に関連したテーマの本を訳しており、昨秋は公園絡みで横浜市の「市民からの提案」を利用したばかりでもあったので、興味深く読んだ。  

 私自身にとっても節目の年となりそうな本年、これまで以上に健康に留意して、いましかできないことを一つひとつこなしていきたい。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 孫からのプレゼント! 

 近所のお寺で除夜の鐘の順番待ち

 甘酒をいただく

 近所の公園で初日の出を待つ人たち

 公園から見える富士山とカラス

昨年、ひそかな願望を託してつくりつづけた人形たち。障子は真っ先につくってみた一つだったが、ようやく掛け軸(タンチョウは娘の絵を借用)と座布団をつくったら、やはり畳も欲しいと思い、年末になってボロボロのゴザ座布団を壊してつくり、ついでに花器も粘土でこしらえた。

2024年12月26日木曜日

年末に

 あっと言う間に一月が経ってしまい、すでにクリスマスも過ぎ、ボクシング・デーも終わろうとしている。予定では年末までに一通り訳し終えて、年始から全面的に訳語を再検討しながら見直すはずが、まだ本文が100ページ以上も残っているという情けない状況だ。

 すでに何度か書いているが、このところずっと取り組んでいる本は、民主主義とは何か、平等とは何かという、きわめて根源的なことを深く追究している作品である。民主主義の危機が叫ばれるいま、世界が直面している本当の問題を鋭く描く本だと思うが、まだ自分の頭のなかで整理がつかない。原始時代から始まる壮大な思想史の作品を訳すのは、哲学の知識に乏しい私にはかなり荷が重い。  

 ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』も読んだことがなく、中江兆民をほんの少しかじった際に、日本国憲法の公共の福祉の問題等を認識した程度でしかない。今回、彼の思想をようやく理解するなかで、ふと思いだしたのが、小学生のころに愛読したサザエさんの漫画だった。「にんげんよ、たまにはしぜんにかえれ!!」と地面に大の字になるサザエさんを遠巻きに見ている人たちが、変死体と誤解する、というオチのもので、当時はもちろん、さっぱり意味がわからなかった。のちに、「自然に帰れ」がルソーと関連づけられる言葉だとは習った気がするが、人間が文明化し、堕落する以前の状態を「自然」と呼んだことなどは、よく理解していなかった。  

 そうか、あのサザエさんはルソーだったんだ、と思ったら、無性にその漫画を読み返したくなった。記憶のなかの表紙を頼りに画像検索で巻数を確認し、横浜市の図書館から借りてみた。うちでは週刊誌や月刊誌の漫画は買ってもらえなかったが、サザエさんの単行本だけは母が2冊買ってくれたので、私はよくわからないまま、繰り返しそれを読んでいた。半世紀ぶりに手にしたサザエさんだったが、どのページもセリフまでよく覚えていた。娘宅で孫に読んでやったら、大いに気に入り、いまでは行くたびに、フーテンだの、新聞配達少年だの、ガーターストッキングだの、木風呂だの、昭和の風習をいちいち説明しながら読んでやっている。  

 少し前の章は、社会主義やマルクス主義が中心テーマだったので、いくつか訳語を確認するために、『ユダヤ人問題によせて』や『反デューリング論』などを借りてみた。隙間時間にざっと読むのが精一杯だったが、どちらもなかなか面白そうだった。前者では「ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いの宗教を、ただもう人間精神の別々の発展段階として、つまり歴史によって脱ぎすてられた別々の蛇の脱けがらとして認識し、そして人間をそれらの脱けがらを脱皮した蛇として認識しさえすれば」と、マルクスは対立を生むばかりの宗教について言及していた。脱けがらは、宗教や国籍などによる集団のアイデンティティと考えてもよいかもしれない。 

 後者では、2人の人物を例に挙げて問題分析をするデューリングの手法にたいし、エンゲルスが同じくらいユーモアに富んだ批判をしていた。「ここで読者に不愉快なことをお伝えしておかなければならない。それは今後も長いあいだこの評判の二人の男が、ずうっと読者につきまとうであろうということである。彼らは社会的諸関係の領域において、これまで他の天体の住民というもの——これはおそらくもうかたがついたと思うが——が演じてきたのと類似した役割を演ずるわけである」。訳者はにやにやしながら、この箇所を訳したのだろうと、つい想像してしまう。 

 このあとはファシズムに焦点を当てた章で、カール・シュミットの本を借りて読んでみた。ファシズムの成立過程やその思想について、これまできちんと読んだことはなかったので、ルサンチマンとの関連がとくに、大いに考えさせられた。ついでに言えば、フランス語の発音とは程遠い、「ルサンチマン」というカタカナ語はどうも好きになれないので、原書が英語でリゼントメントと書いている箇所は「恨み」とシンプルに書くことにした。 

 極めつきは民主主義や社会主義とファシズムの共通点だった。民主主義の根本的な問題と言えるものは、ほかの章でも説得力をもって論じられており、いま世界各地に現われているさまざまな歪みは、生じるべくして生じたのだと思わざるをえなくなっている。 

 年末なので、もう少し楽しい話題にしたかったのだが、あまりにも余裕のない日々を送っているため、どうぞご勘弁を。

 本年も「コウモリ通信」をお読みいただき、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

『サザエさん』45巻、長谷川町子著、朝日新聞出版

2024年11月29日金曜日

近況報告

 少しずつ、懸念事項が片づいてきた感はあるが、それでも腰を据えて一つのことに集中できない日々がつづいている。 

 娘がインドへ行く前に、やっつけ作業で準備した「おさんぽ絵本原画展」は何とか無事に開催できているようだ。うちではたいがい手持ちの額を使い回して展示のイベントを切り抜けている。先週末、中央図書館に調べ物をしに行った帰りに、私もようやく弘明寺まで行って、児童書専門店クーベルチップのお店の壁一面に飾られた絵を見てきた。 

 来春の姉のピアノリサイタルのチラシも、12月初めまでという姉の希望より大幅に早く刷り上がってきた。古いPCにしか入っていない、かなり古いバージョンのPhotoshopを久々に立ち上げて試行錯誤し、背景に使った写真も、近所で適当に撮った雲の写真を背景に入れてごまかした割には、一応それらしいものが出来上がった。今回は旅をテーマにした曲を集めた企画とのことで、3月22日19時から横浜のみなとみらい小ホールで開催する。クラシック音楽好きで、ご都合のつく方がおられたら、予定を入れておいてくださると嬉しい。 

 もちろん、本業の翻訳にも鋭意取り組んでいるが、今回の仕事はかなり厄介な思想史の本であるうえに、本文だけでも400ページを超え、カタツムリのような進捗状況だ。いま訳している箇所は、以前に訳したトリストラム・ハントの『エンゲルス』や、『アマルティア・セン回顧録』にも通じるし、先日参加させていただいた赤松小三郎研究会の田中優子先生ほかの講演会でも話題になっていた「共和」に関する考察もずいぶんあった。関連書籍をじっくり読んで考えてみたいところだが、いまはとにかく翻訳マシンに徹するしかないのが悲しい。 

 ほかにも身近なところで頭の痛い問題が発生し、生まれて陳情書のようなものを書き、ご近所の方々の協力を得て若干の署名も集めて役所に提出するはめにもなった。ちょうど講演会で、江戸時代の百姓一揆は首謀者がかならず死罪となったため、言い出しっぺが誰かわからないよう、傘連判状と呼ばれる円形の署名をしたという話を聞いたばかりだったので、提出するに当たってはかなりの緊張を強いられた。そんな話をしたところ、娘の夫の祖先の家からもそういう書類が出てきて、横浜市に寄贈していたことなども判明した! いつか現物見に行かねば。この件は幸い、とりあえずの解決を見ており、私の首もいまのところつながっている。 

 こうした「雑用」のほかに、数年前から参加させていただいている松平忠固と生糸貿易研究会のための論文をようやく書き上げたと思ったのも束の間、私が書いたものは再査読の対象となって大幅な書き直しを命じられている。 

 相変わらず落ち着かないなか、じつは細々と始めていることがある。やはり祖先調査をされている上田藩つながりの方が、上田図書館で幕末に作成された私の祖先の家の史料を見つけてくださったのだ。この数年間、断片的な記録はいくつか見つかっていたものの、今回の史料は格別だった。何しろ、古い時代のことがかなり書かれていたほか、上田藩にいた期間の祖先の諱や妻の出身の家(名前は不明)や、娘の嫁ぎ先、養子先を含む系図が含まれていたのだ。 

 何より驚いたのは、冒頭に「本氏桃井」、「桃井播磨守直常之後胤」と書かれていたことだ。もとは桃ノ井姓で、北関東の出身らしいと親戚から聞いたことはあったが、文字で見るのはこれが初めてだった。中世史にはまったく疎く、桃井直常など名前も聞いたことがなかったが、橋本左内もこの人の子孫だと称していたらしい。左内が京都で入説活動をしていた折に、桃井伊織の変名を使っていたことは以前から気づいていたが、まさか本当につながりがあるとは思いもよらなかった。 

 もっとも、今回の史料では、中世の肝心な時代については、横瀬村、阿賀野村などの郷士として各地を転々としながら「数代ヲ経テ」と省略されている。地元の伝説的な敗軍の将を祖先に仕立てたとか、代々そう信じ込んできた可能性もある。幕末の志士はよくそんな出自を自称しているし、実際、北阿賀野村の桃井可堂もまさにそういう人物だったらしい。 

 祖先がその後、岩槻から佐倉へ転封になった戸田忠昌に仕えたことは、別の史料からも判明していたが、今回の史料を見ると一代限りだった可能性がある。次の世代は出石藩時代の松平忠周に召し抱えられており、その後、忠周が上田へ転封になったため、以後は幕末まで上田藩にいた。 

 折よく、昨年刊行された『桃井直常とその一族』という本を見つけたので、隙間時間に拾い読みしながら、まずは時代背景を勉強している。今回の史料から判明したいくつかの村名を地図で探してみると、渋沢栄一の血洗島を囲むように存在する地名だった。暑くなる前に、レンタサイクルでこの広大な田園地帯を走ってみたい。 

 そんなこんなで、気づけばいつの間にかもう師走だ。これまで長年、細々と年賀状をつづけてきたが、郵便料金が大幅に値上がりしてしまったこともあり、日頃ネットでつながる方々への来年以降の年賀状は失礼させていただくことにした。どうぞご容赦を。

 娘のなりさの「おさんぽ絵本原画展」
 @クーベルチップ

 姉の来春のピアノリサイタルのチラシ

『桃井直常とその一族』
(松山充宏著、戎光祥出版、2023年)

2024年10月25日金曜日

草木染め、工作物

 何やら落ち着かない日々がつづいている。本業の締切りを来年に延ばしていただいたので、多少気は楽になったが、なかなか手強い作品なので遅々として進まない。その間にも雑用は増えつづける一方だ。 

 その大半は、娘が来月、一週間弱ながらブッカルーという児童書のフェスティバルに招かれてインドに行くためで、それに合わせて「万障お繰り合わせ」をしているからだ。ただでさえ多忙な娘は、ほかの多数の仕事や用事を前倒しで進めねばならないうえに、今年から厳しくなったというインドのビザ取得でも手こずり、パンク寸前だ。同じ期間に弘明寺の子どもの本専門店クーベルチップで、「おさんぽ絵本原画展」を開いていただくことが以前から決まっていたので、そのための準備も出発前にすべて終わらせなければならない。額装の仕事は毎度のことながら、私に回ってくる。いつもは娘が引き受けてくれている姉のピアノリサイタルのチラシづくりも、今回は私がせざるをえなくなった。 

 やらねばならないことだらけでストレスが溜まると、私の場合、逃避行動で妙な工作を始めることが多い。孫の面倒を見ている時間につくるものが大半なので、「ベビーシッターが勝手に遊んでいる!」と娘によくからかわれている。ときには休日の朝から、一時間だけ、と自分に言い聞かせながらつくり始めることもある。娘からの要望に応えて、この数年ときおり実験している草木染めなどは、できる季節が限られているので、優先度を上げて仕事に割り込ませている。 

 前回のコウモリ通信にちらりと書いた黒染めも、あのあとザクロが使えることを思いだし、近所の小学校の高台にある木から実が落ちてくるのを待ってみた。よく道路に潰れた実が落ちているのを横目で見ていたからだ。ところが、いざ欲しいときには、一向に落ちてこない。しびれを切らして染色用のザクロを注文した矢先に、ポトリと2個も落ちているのを見つけたときは、何とも悔しかった。草木染めの面白さは、身近な場所で材料を拾い集めてできることにあると思っているからだ。 道端に落ちていた実でもザクロはかなり黒く染まったが、私の適当なやり方では多少緑味のある焦茶止まりだった。それでも、これまでに試したどの素材よりも黒髪に近く、それでとりあえず満足することにした。

 先日は、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』がストップモーションで撮影した古い映画(Totti: The Story of a Doll’s House)がネットで公開されていることに気づき、何回かに分けて孫と一緒に観た。ことりさんがピンクの羽ぼうきで掃除をしながら歌う場面が大いに気に入ったようだった。ならば羽をピンクに染めてつくってみようと思いたち、道端のヨウシュヤマゴボウを失敬して、孫が拾い集めた羽のコレクションから数本抜いて染めてみた。羽もタンパク質だからきっと染まるだろうと予想したとおり、濃いピンクに染まったときはちょっと嬉しかった。孫は喜んで「Dusting, dusting……」と歌いながら、それを使って私が昔つくった埃だらけの人形の家の掃除を始めた。もっとも、羽ぼうきはその後すぐに行方不明になり、数日後にまた見つかったそうだ。 

『かぶとむしランドセル』(ふくべあきひろ作、おおのこうへい絵、PHP研究所)という本を娘が図書館で借りたところ、カブトムシをこよなく愛する孫が気に入って何度も読まされたこともあった。なかなかよく考えられたランドセルで、イラストを眺めているうちに、ふと思いだしたものがあった。その昔、焦茶色のバックスキンで娘につくってやったムーミンに出てくるルビーの王様入りの小さなトランクだ。いかにもカブトムシ色のその革の残りはまだ裁縫箱の底に入っていた。翌日それを持参して、娘宅の裁縫セットでつくり始めたものの、針と糸の太さがミスマッチで、糸通しもなく、おまけに焦茶色の革ではどこを縫っているのかよくわからず、往生した。 家にもち帰って少しだけ修正した際に、ランドセルに爪楊枝の鉛筆と筆箱を入れてやったところ、孫はえらく喜んでくれたが、これまたすぐになくしてしまった。孫は私に似たのか、ものの管理が悪い。後日、爪楊枝を差しだして、これを3つに切って、先端を削ってくれというので、そのとおりにしたら、自分で色を塗って人形用の鉛筆をつくっていた。 

 こんな調子でひとしきり何かをつくると、仕事しなくちゃっ、という罪悪感だかエネルギーだかが湧き、またパソコンの前に座れるようになる。工作は私にとって大きな息抜きなので、もうしばらくつづけられるように、ひと段落がついたら眼科に行くなり、ハズキルーペを買うなりしよう。

ようやく黒髪がついた人形。左にあるのは、髪用に買ってみて失敗したいろいろな糸。手縫糸は届いてみたら紺色で、日本刺繍用の糸は墨色が美しかったが、撚りがかかっておらず、髪の毛には使えなかった

道路に落ちて潰れたザクロ。これで立派に染料になる

 試した草木染めのごく一部

ヨウシュヤマゴボウで染めた羽ぼうきと、ことりさん。 

 人形用かぶとむしランドセルと筆箱セット

2024年9月28日土曜日

2024年9月上田旅行

 ブログを長らく放置してしまった。最低、月に一本は書こうと決めていたので、ない時間をひねりだして短い近況報告だけ書いておく。 

 先週末は「忠固研」の研究会があったので、また上田に行ってきた。連休初めの新幹線があれほど混むとは予想しておらず、指定が取れなかったため早めに出たところ、運良く自由席に座れたので、集合時間までの数時間を利用して、前回、訪ね損ねた佐久間象山の師である活文禅師が隠居後に移ってきたという毘沙門堂跡に寄ったあと、藤本つむぎ工房を訪ねた。自費出版した『埋もれた歴史』の表紙に、この工房で購入した切り売りの反物の画像を使わせていただき、その後、献本だけして、お礼に伺っていなかったためだ。 

 よほど奇妙なお願いをした客だったからか、ご主人は私のことをちゃんと覚えていてくださり、今回は縦糸をつくる大きな機械がある紬の工房のなかも案内していただいた。湿度管理が難しいことから、国内ではもう紡ぎ糸がつくれない現状や、草木染めは扱わないことまで、多岐にわたる話題で長々と話し込んでしまった。同じ生地があればもう少し欲しいと思っていたのだが、店内にあったのは多少色味が異なったので、今回は違う模様の生地を2種類、またごくわずかな長さで購入した。 

 研究会の一日目は昼から夜の八時まで、途中でお弁当を食べながら、延々と各自の論文の発表があった。翌日は、現地の明倫会の方々などのご手配で、マイクロバスを貸し切って別所温泉に入浴でも宴会でもなく、倉沢運平という大正期に蚕種産業を発展させた人の産業遺構を「視察」に行った。二階建ての旅館にしか見えない大きな蚕室は、解体される寸前だったそうだ。明治期に倉沢が朝鮮、ロシア、大陸ヨーロッパなどを視察して得た知識をもとに、独自に考案したオンドルというか、セントラル・ヒーティングのようなものが設置されていた。川の合流点の傾斜地に建つこの建物の土台部分には、川からの涼しい風を取り込める石積みの地下室があり、桑を新鮮な状態に保つための貯蔵庫にしていたという。 

 保存運動をなさっている地元の先生方から蚕室で解説していただいたあと、蚕の孵化を遅らせるための人造の氷沢風穴まで細い山道をマイクロバスで登り、天然冷風扇のようなものを体験した。火成岩がところどころ陥入した地形で、ヒン岩という礫が堆積した場所に、さらに岩を隙間を残して積んだ地下倉庫のようなもので、階段を数段下りるだけで周囲の気温が数度は下がり、驚くほどひんやりとしていた。かつては上に建物があり、夏でも10度以下に保つことで、孵化時期を調整し、夏、秋まで、桑のある限り数度に分けて養蚕ができるようになったとか。 

 このあと曹洞宗安楽寺の鎌倉期の八角三重塔も見学した。いかにも中国由来の建築物で、寄木細工のように細い木材を重ねることで、曲線が描きだされていた。こけら葺きの屋根は、さすがに何度も葺き替えているとのこと。活文禅師は中国に密航したわけではなく、長崎で中国人から学んだようだが、上田のこの一帯には鎌倉時代にも中国人技術者がきていたのかもしれない。

  研究会はお昼で解散だったので、上田電鉄とバスを乗り継いで戦没画学生慰霊美術館「無言館」まで足を延ばした。学生時代に窪島誠一郎の『父への手紙』を読み、その後、無言館が開設されてまもない時期に、母が同窓会の帰りに寄って、素晴らしかったと話すのを聞いて以来なので、四半世紀を経てようやく、という感じだった。コンクリート打ちっぱなしの外観は、ベルリンのリベスキンドのユダヤ博物館を連想させ、館内にはそれなりの数の来館者がいたにもかかわらず、誰もが無言で作品と若い画学生たちの遺品に見入っていた。享年が27歳から29歳の人が多く、フィリピンで戦死した人が多く、病死、餓死、沈没事故などで命を落とした人もいた。

  入ってすぐの一角に芳賀準録という23歳でフィリピンのルソン島で亡くなった若者の静物画があり、雑然と積まれた本の上に置かれた人形に目が釘づけになった。じつは旅行前からちょっとした計画を立てて小さな日本人形をつくっており、紬のはぎれはその着物をつくろうと購入したものだった。絵のなかの人形は、おさげ髪でズボンを穿いているのだが、仕事の合間に工作を始めることの多い私には、自分の机の絵を見たようで、虚を突かれた気がした。  

 ミニサイズの着物を縫うのは、老眼の私には厳しいものがあったが、とりあえずそれらしきものはできた。日本人形は苦手なほうで、黒々とした髪がもっさりとした市松人形はとくに好きになれない。ガラスの目が埋め込まれたという設定なので、粘土に手持ちの天然石ビーズを埋め込みはしたが、目鼻はできる限り単純なものにし、動かせるようになかに針金を入れた。人毛かと思うような真っ黒の細い糸は怖いので、手持ちの太めの生糸を染められたらと試行錯誤し、ヤシャブシ、コーヒーなどを鉄媒染し、あれこれ掛け合わせてみたが、藤本つむぎ工房のご主人が言われたように、どれも「いろんなグレーか茶色にしかならない」。調べてみると、黒染めは最初は墨で、のちに輸入のビンロウジが藍染に重ねて使われたらしく、容易でないことがわかった。紋付の黒の羽織は、非常に高価なものだったのだろう。幕末に黒いラシャ地がたくさん輸入され、軍服などに仕立てられた理由が見えた気がする。その名残が詰襟の学生服、学ランに違いない。これまでこの言葉の語源を調べたことはなかったが、「ラン」はオランダらしい!  

 茶色い髪の日本人形でもいいかとも思ったが、もう少しだけ濃い色が欲しい。冷凍ブルーベリーまで使って重ね染めしたのに失敗に終わった生糸は、細い紐にして帯留めにし、黒染めは諦めて、刺繍糸を買うことにした。いつか髪のある姿でお披露目したい。

藤本つむぎ工房で買った反物の着物を着た人形。無言館で見た芳賀準録の静物画を真似て

倉沢運平の蚕室地下。練炭で火を焚くと、温風が室内に行き渡るようになっていた

 氷沢風穴

 安楽寺の八角三重塔

 無言館

 グレーや茶色にしかならない

2024年8月3日土曜日

『この身体がつくってきた文明の本質』

 昨秋から取り組んだルイス・ダートネルの新刊『この身体がつくってきた文明の本質』(原題:Being Human: How Our Biology Shaped World History、河出書房新社)の見本が本日届いた。これまでたびたび、仕事で出合った本に影響されて暮らし方を変えたことに言及してきたが、今回の本でも私の生活にささやかながら、重要な変化があった。  

 著者ダートネルはまだ40代前半の宇宙生物学者で、1作目の『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(2015年)は、文明崩壊後の未来という奇抜な想定が多くの人の心をつかんだらしく、日本でも大ヒット作となった。その点、2作目の『世界の起源:人類を決定づけた地球の歴史』(2019年)は地質学が中心であったためか、気候科学の本を多く訳してきた私にはたいへん興味深い作品だったが、読者層は限定的だったようだ。  

 3作目の本作は、著者本来の生物学が切り口であるうえに、著者自身も多少は年齢を重ねたこともあって、安定した筆致で、歴史家が語らない世界の歴史の裏事情を次々と明らかにする。人間はヒトという動物であり、身体上のさまざまな特徴と制約がおのずと歴史にも反映されてきたという、考えてみれば当然なのに、誰も注目してこなかった事実を本書は教えてくれる。  

 検討するテーマは人口問題から認知バイアスまで多岐にわたるが、個人的にとくに面白かったのは、植民地に関連する多くの問題と、それらの地からの産物である嗜好品や薬物に関する章、および大航海時代の水事情だった。イギリス人はよくも悪くも、数百年にわたる帝国主義の歴史のうえにいまの生活が成り立っていることをよく認識しており、このところグローバルサウス(南半球を中心とする発展途上国)の問題にかかわることの多かった私には、今回の作品は大いに参考になった。前2作ではほとんど政治色のない、いかにも科学者的な著者だと思っていたが、昨今の若者世代の意識変化も反映するのか、今回はずいぶん突っ込んだ分析もしていた。  

 一口に植民地と言っても、実際には大きく2種類に分けられていた事実を、私は本書から初めて知った。人口が増え過ぎて、本国では成功できる望みのない次男以下や貧困者が移住するためのsettler colony(入植植民地)と、ヨーロッパ人が移り住める環境ではないが、資源は豊富なextractive colony(収奪的植民地)である。いろいろ調べたが、どちらも定訳はまだないようだった。両者を分けたのが風土病であり、シュヴァイツァーの研究と活動によって、その敷居がある程度は取り払われたことなどを知ると、複雑な思いになった。 

「気分を変える」と題された章では、おおむね後者タイプの植民地が輸出用に産出するアルカロイドを含む嗜好品や薬物がテーマとなっていた。例外はアメリカ南部で栽培され、放棄される寸前にあったジェイムズタウンを救ったタバコくらいだ。タバコがアメリカ経済にどれほど大きな位置を占めていたかを再認識させられると、タバコ産業と広告産業の癒着について『気候変動と環境危機』でナオミ・オレスケスやビル・マッキベンが指摘していたことが痛烈な意味をもつことに気づかされた。  

 個人的に衝撃を受けたのは、カフェインに関する問題だった。目覚めているあいだ脳内に蓄積するアデノシンが、12時間から16時間起きていると強い衝動で眠りに誘うのに、カフェインを摂取するとその信号が妨害されるのだという。この原稿を書いているいまは夜の9時過ぎで、まさしくそのような時間帯であり、私はあくびをしながら執筆中だ。そういった仕組みがわかると、カフェインを摂りながら、日々それに抵抗する生活をすることに疑問が湧いてきた。  

 とはいえ、コーヒーは仕事の必需品なので、まずは量を減らすことにして、惰性で何杯も飲むのをやめ、いまから飲むぞと自覚するようにした。コーヒータイムは午前のみにし、かつ母宅から引き上げてきた手動のミルで豆を挽く面倒臭さを加え、手軽な粉を利用するのはやめた。コーヒーの原産地がエチオピアで、モカが原種に近いことも本書でようやく知ったので、近所のカルディで「フローラル・モカ」という豆も一度だけ試しに買ってみた。ドリップするのを待つあいだに、ぼんやりと袋の裏側を眺めていたら、その少し前に訳したコーヒー発見の逸話に登場するヤギ遣いの名前が「カルディ」だと書かれていて、拍子抜けしてしまった。コーヒーは相変わらず一定量飲んでいるが、チョコレートはカカオ豆が高騰していることもあって買わなくなったので、カフェインの摂取量は多少減ったはずだ。 

 訳し終えた2月にタイに旅行した際、友人が偶然にもウタイタニー県サケークラン川沿いの街のナイトマーケットで、阿片窟跡を利用した展示館に連れて行ってくれた。一見して中国人経営だったとわかる建物のなかに横になってアヘンを吸う人形などが置かれており、当時の雰囲気が再現されていた。アヘンは痛み止めや咳止めとして遅くとも江戸時代には日本でも服用されていたが、吸引した場合には依存性が高くなるそうで、その習慣をもち込ませずに済んだのは、アメリカ総領事ハリスのおかげだったと思われる。中国やタイが20世紀なかばになるまでアヘンを使用禁止にできずに苦しんだことを考えれば、日本は幸運だった。もっとも、ハリス自身は日本滞在中に重病になった際にアヘンをタバコと混ぜたものを薬用で吸引していた。オピオイド薬は実際にはいまでも多くの人を中毒にしている。最近、薬局で風邪薬を買うときに、あれこれ質問されるようになった背景には、依存症にたいする懸念があるらしい。 

 本書ではアルコールに関しても、あれこれ論じられている。日本は一年中、雨が適度に降るため、飲み水にはあまり苦労しない。だが、世界の大半の地域では飲み水は簡単には手に入らない。アルコール飲料はそのために発達したと言っても過言ではないだろう。きれいな飲み水が得られることと、日本人に下戸遺伝子が多く見られることには何かしら関連があるのではないだろうか。つまり、日本では下戸でも生き延びられたのだと。 大航海時代には飲料水は文字どおり命綱となり、水の代わりにビールやワインが積まれ、それすら劣化するため、生ホップを加えたインドのペールエール、IPAが誕生した、などという脚注を訳すたびに、あれこれ飲んでみたくなり、酒類の売り場をうろつき、ラム酒やジンなどを購入することにもなった。壊血病についても多くのページが割かれていたので、レモンの輪切りも添えてみた。 

 本書ではもちろん、霊長類としてのヒトに関するもっと根源的なテーマも追究されている。何がヒトを、その他の動物とは異なる存在にしたのか、という問いだ。近縁のチンパンジーやボノボ、ゴリラなどと比較して、ヒトで際立っていたのは「協力」なのだと、ニコラ・ライハニの説を引いた箇所を最初に訳したときは、何やら意外な気がしたが、現在取り組み中のまるで別分野の本でも、この「協力」というキーワードがたびたび出てくる。どうも世の中はその正反対の方向に進んでいるような気がするが、それは取りも直さず、人間が人間であることをやめつつあるという意味なのだろうか。 本書に掲載されたロシアの人口ピラミッドは非常に衝撃的なものだった。

 生物学という一風変わったレンズを通して人類の歴史を振り返ることで、人間とは何なのか、人類は今後どの方向へ進もうとしているのかを考えさせる一冊だと思う。何しろ今回のテーマはいちばんな身近な「人間」なので、従来のダートネル・ファンだけでなく、誰にでも広く一読をお勧めしたい作品である。

 発売は8月20日です。下旬に書店で見かけたら、ぜひお手に取ってみてください。

(左)原書、
(右)『この身体がつくってきた文明の本質』、ルイス・ダートネル著、河出書房新社

  カルディで買ったモカの豆

 タイのウタイタニー県にある阿片窟の展示館


2024年7月28日日曜日

『天の笛』

 最近はだいぶ改善したようだが、暑さとともに自分の水筒から大量の水を飲むようになったせいか、孫がおねしょをする事態が頻発し、娘が参っていた。そこでふと思いだしたのが、子どものころ大好きだった『モチモチの木』の絵本だった。  

 私にとってこの絵本は、宇野重吉の朴訥とした語りと一体化して、記憶の底に定着している。母の家を整理した際に『天の笛』というソノシート入りの本はもち帰ってはおらず、どうも処分してしまったと思われ、そうなると無性に聴きたくなる。ネットで音源を探してみたが、簡単には見つからず、結局、ヤフオクで出品されていたものを購入した。  

 しかし、姉のところのレコード・プレーヤーも壊れているとのことで、ソノシートを聴くこともままならず、いろいろ検討したあげくに、ココナラというサイトでレコードをデジタル化してくれるところを見つけ、そこにお願いしてMP3のファイルに変換してもらった。久々に聴く宇野重吉の声は本当に懐かしく聴き入ってしまった。『天の笛:宇野重吉の語り聞かせ』というこの斎藤隆介の作品集は、初版が1967年で、うちにあった『モチモチの木』は1971年の初版だった。現物がないので確かではないが、『天の笛』収録の語りを絵本に先駆けて、何度も聴いていた可能性が高い。  

 滝平二郎の切り絵は、当時、購読していた朝日新聞にたぶん毎週、見事な作品が掲載されており、母がいつもそれを切り取っては黒い画用紙に切り込みを入れた簡易額に入れて飾るほどのファンだった。おそらくそのためか、うちには『八郎』という絵本もあった。  

 どうせなら、デジタル化してもらった音源に、絵本の絵を合わせて動画をつくろうと考え、図書館からいろいろ借りてみた。『ひばりの矢』は1985年刊、『ソメコとオニ』は1987年刊で、どちらも今回初めて絵本になっていることを知った。『ひばりの矢』の切り絵は非常に美しい。 

『モチモチの木』のおくびょうな豆太は何と五つ。孫も5歳なので、いま読まなくていつ読む!というタイミングだった。孫はとくに最後の一文がお気に入りだ。爺さまのほうは、ずいぶん年寄りだと思っていたが、64歳だった……。豆太のお父は、「クマとくみうちして、あたまをブッさかれて死んだほどのキモ助だった」。再びクマが身近な存在となりつつあるいま、まさに読むべき絵本だ。  

 トチ餅を買ってやりたいと思っているのだが、本格的なものは手に入りにくい。お話のなかでは簡単につくっているが、実際にはどんぐりと同様に水で長時間さらしてアク抜きをしなければならない、手間のかかる食べ物だ。娘が小学生のころ、トチノキを知らなかった私は、エゴの実を見つけてこれに違いないと早合点し、砕いて舐めてみてやめたことがある。エゴはサポニンが入っているので、団子にしなかったのは幸いだった。  

 ソメコも五つだった。忙しい大人たちに「あっちゃ行って遊べ」とたらい回しにされ、泥団子まで食べて遊んでくれる鬼に連れ去られるのだが、「カクレンボするべエ」と鬼を悩ますソメコは、まさにいまの孫の現状で、読みながら当の孫もニヤニヤしていた。 

『天の笛』に収録されていた『ベロ出しチョンマ』は、私の記憶のなかではキリシタンの迫害とごちゃ混ぜになっていたが、読み返してみると、年貢を納められずに直訴して、一家が磔刑になったという内容だった。三つのウメまでという設定に疑問が湧き、調べてみると、当時、斎藤隆介が住んでいた千葉県若葉区を舞台に選んだだけの、まったくの空想作品とのことだった。  

 やはり収録されていた『東・太郎と西・次郎』は、まるで記憶になかったが読み返してみたところ、水源をめぐる竜の出てくる話で、日照りつづきの東の国と、大雨つづきの西の国の境にいる竜を太郎と次郎が対峙する内容で、気候変動で水文学的な変化がいちじるしい現代を象徴するような話だった。長いお話で、滝平二郎の挿絵も数点しか見つからないが、宇野重吉の語りでぜひ孫に聴かせてやりたい。  

 となれば頑張るしかないと思い、iMovieなる動画編集ソフトが入っていることに気づき、試行錯誤でとりあえず『モチモチの木』と『ソメコとオニ』だけは動画をつくった。ただし、まだ著作権に引っかかるため公開はできないので、絵本好きの知り合いにだけ必要かどうか連絡しようと思っている。

宇野重吉の語りが入っている『天の笛』と図書館から借りた斎藤隆介作品

姉宅から借りてきた初版の『モチモチの木』