2025年3月15日土曜日

サザエさんの家完成!

 先週の土曜日、残っていた最後数章分の見直しを終えて、本当にようやく訳了となった。締め切りをオーバーすること一週間あまり。原書はほぼ500ページあり、見直し作業は目を酷使するので、湿布を貼り、目薬を射しまくっての作業となった。終わったあとも解放されず、まったくの手付かず状態だった確定申告が待っていた。  

 このストレスフルな数か月間を何とか乗り切れたのは、隙間時間につくりつづけた紙工作の極小サザエさんの家のおかげかもしれない。逃避行動でしかなく、ただの遊びで始めたのだが、気づけば子ども部屋やサザエさん夫婦の部屋、玄関まで出来上がり、こうなったら最後まで頑張ろうと風呂、トイレも仕上げた。自分でもよくやるよと、呆れている。  

 家だけではサイズ感もわからないし、臨場感が出ないと思い、サザエさん一家の人形をあれこれ探してみた。ネットオークションにはまだ古い人形が売られていたが、どれもピンとこなかった。考えた末に、私のミニチュア家屋にぴったりサイズの紙の人形を、レターパックの封筒の白い部分を張り合わせてつくることにした。足元のスタンドを畳と同色にしたので、さほど目立たずに部屋のなかに立つことができる。うちにあるセタカラーを適当に塗ったため、マスオさんの顔の半面はやたら赤ら顔になってしまった。もう一方の面はまずまずだったので、よしとしたところ、孫はすぐさま裏面に気づいて、「あっ、こっちはお酒飲んでる!」と嬉しそうだった。人形をつくったあとで、「推し活」の新聞記事を読み、アクスタなるものの存在を知り、私の人形はまさにそれだとおかしくなった。アクスタは、推しの対象の二次元画像を使ったアクリルスタンドのことで、それを持参して推し仲間とともに集まって飲んだりするのだとか。  

 家をつくる過程で参考にさせてもらったネット上の平面図や俯瞰図、イラスト、模型などは、いずれも原作の漫画ではなく、テレビのアニメを根拠としているようだった。ドラマにするに当たって、辻褄が合うように制作側が新たに引いた図面だろうか。原作は1951年から断続的に1974年までに書かれており、少なくともその後半は私の子ども時代の記憶と重なる。正面に高い棚がある勉強机は、子どものころにはまず見たことがなかったし、台所も昭和末期以降のシステム・キッチンに近い。うちにあった原作漫画では、子どもたちは寺子屋机のようなものに座っていることも多く、台所には湯沸かし器もなかった。 

 ネット情報では、お風呂はタイル張りの長方形の大きな湯船に見えたので、壁と床をトルコ石色の包装紙の残りで「タイル張り」にしたあと、同じ包装紙のラピスラズリ色の部分を使って大きな浴槽をつくった。何やらトプカプ宮殿のようになった風呂場を見せたら、漫画を熟読している孫に「木のお風呂は?」と聞かれてしまった。ワカメちゃんが風呂掃除をしている場面に描かれていた「風呂桶」は、私が生まれ育った高根台団地にあったものとそっくりで、そのことを得意になって説明してやっていたのだった。  

 正確な名称はわからなかったが、江戸時代の鉄砲風呂を薪からガスに換えた風呂だったと思われ、少なくとも昭和30、40年代には間違いなく使われていた。風呂桶の端が仕切られていて、そのなかに火を焚いて加熱させる鉄製の筒があって湯を沸かす仕組みだった。鉄の筒の周囲にも当然ながらお湯があった。画像を見ているうちに、その上部の小さな蓋を取ってなかのお湯を最後に掛け湯として使っていたことや、私たち幼児が風呂椅子に乗って出入りしたため、風呂桶の前面が一部ひどく腐食していたことや、風呂桶全体用の大きな蓋をガラス戸の前に立てて隙間風を防いでいたこと、夏はまだ明るいうちに窓を開けっぱなしのまま入っていたことなどが、懐かしく思いだされた。ステンレス製の風呂に替わったときは、鍋に入っているようで落ち着かなかった。そんなわけで、ラピスラズリの石棺のような湯船の代わりに、昭和の鉄砲風呂をつくり、ついでにスノコもこしらえた。  

 トイレはよい画像が見つからなかったが、どうやら和式らしく、しかも部屋の中央に何やら不思議な線が描かれているものがあった。これは一段高くなった和式トイレではないかと思い当たり、ひょっとして汲み取り式で、下に便槽があるために高くなっていたのか!と、遅まきながら気づいた。私が住んでいた団地のトイレは水洗だったが、祖父母の長野の家は確かこんな汲み取り式で、黒ちりと呼ばれたちり紙を使っていた。私のミニチュアでは、悩んだ末に結局ロール式のトイレットペーパーを採用した。このポットントイレは、どういうわけか床の間のすぐ隣に位置しており、他人事ながら気になった。  

 サザエさんの家の玄関はガラス格子戸だ。「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に〜」と歌われたころも、すでに少数派だったように思うが、最近では絶滅危惧種になっている。気になって近所を歩くたびに、つい人の家の玄関を見てしまうのだが、確認できた限りではいわゆる昔ながらの格子戸は5、6軒にしかなく、そのうちの2軒は廃屋で、うち1軒は翌日には解体されてドアが外されていた。格子戸は防犯上も断熱効果からも、好ましくないのだろう。 

 もっとも、玄関は表の顔なので、アイデンティティの問題とも多少かかわるのかもしれない。新しくできた家は錬鉄製の金具などがついた洒落た洋風のドアの家が多い。スペイン風、北欧風、イギリス風、コロニアル風など、さまざまな洋風家屋を眺めていると、横浜にはいまだに幕末の居留地の影響があるのかと複雑な思いがする。子どものころに和風の人形の家で遊ぶ経験がないから、洋風を刷り込まれてしまうのか。そう考えて検索してみたら、チビまる子ちゃんの家という玩具は何種類かあったようだが、どれも色遣いが日本家屋とは言い難いものだった。トトロの映画に出てくるような家はないのかと思ったら、なんと、「みんなの草壁家」という精巧なセットが昨年夏に売りだされていた! が、その値段が……。 

 サザエさん宅は開口部の多さでも際立っている。中央部分にガラスが入った額入り障子は、明治期に徳川家勝が上田藩瓦町藩邸の跡地に建てた屋敷にも使われていたし、昨年、見学させていただいた別所温泉の産業遺構でも使われていた。通常は、寒い日や雨天の場合は雨戸を閉め切って、暗いなかで照明を使って過ごしたのだと思われる。サザエさん宅では障子の向こうに縁側があり、そこにガラス戸があってさらに雨戸がある。 明治になってガラスが普及し始めたことで、障子はどんどん窓ガラスに替わっていったのだろうが、透明なガラスだと、隣家や通りが目の前にある日本の都市部では家のなかが丸見えになる。昭和の型ガラスの流行は、明かり取りや換気のために開口部はできる限り設けたい、ただし目隠しは必要という需要に見合ったものだったに違いない。私のミニチュアでは、カーテンのない小窓から覗けないように、湿布についていた凹凸のあるフィルムやトレーシングペーパーをガラス代わりに使ってみた。レースのカーテン、遮光カーテン、ブラインドなどが普及し、そのうち開口部そのものが減ったことで、凝った型ガラスも風前の灯火となっているようだ。 

 逃避行動とはいえ、サザエさんの家のミニチュアをつくることで、懐かしい思い出に浸るとともに、私の生きてきた時代の変遷を改めて感じることができた。「またそんな物つくって。暇だねえ」と、いまでも言われてしまうが、非実用的で、経済活動とは無縁の工作物にも、お金には換算できない価値がある。少し前に、あり合わせのもので創意工夫を凝らすブリコラージュ(bricolage)の大切さを語る本もリーディングしたところだ。制作費は180円ほどのコニシボンドを追加で購入した以外は、ゼロ円で済んだ。組み立て式にしたので、まだA4サイズのダンボールに全体が収まる。

左側にあるのが額入り障子。通常の障子をつくったあとで、わざわざつくり直した。
われながら傑作だと思っているお風呂。脱衣場にある洗濯機は二槽式にしたが、絞り機がついたものや、脱水機が別の時代なのかもしれない。

トイレは小さすぎてうまく撮影できないので、制作途中のもの。
やたら立派になってしまった玄関。少しでも屋根をつけたかったので、昨日付け足してみた(3月18日差し替え)。アニメの指定は青い瓦だが。鬼瓦は多少意識してサザエさん風。

小窓には湿布のフィルムが貼ってある。

 居間

本棚がなぜか子ども部屋にしかなさそうだ。

台所。三種の神器は揃えたが、冷蔵庫が大きすぎた気がする。

サザエさん夫婦の部屋。箪笥二棹はまだつくっていない。三面鏡は子どものころよく座って遊んでいたので、思い出深い。

こたつは欲しいと思い、仏間とされる部屋に入れてみた。

 全体図

2025年2月21日金曜日

雛人形考

 昨秋、娘に教えられて読んだルーマー・ゴッデンの未邦訳の児童書の続編『Little Plum』に、マッチ棒で雛人形をつくり、ケーキでつくった雛壇に挿して飾るという突飛なエピソードがあった。挿絵の人形は雛人形にはまるで見えなかったし、そもそもマッチも見なくなって久しく、わざわざ買って試してみる気にはならなかった。それでも、この話は頭の片隅に残り、年末にたまたまネット上で多面体のウッドビーズの画像を見た途端、爪楊枝とウッドビーズを組み合わせてはどうかとひらめいた。  

   ケーキの雛壇というアイデアは採用せず、うちにあった端材でまずは組み立て式の極小の雛壇をつくった。各段に小さな穴を開け、楊枝の雛人形をそこに挿せるようにした。ウッドビーズを2、3個の通した楊枝はまるで串刺しした銀杏のようだったが、雪洞や桜、橘にいたるまで、すべてウッドビーズや木材を組み合わせることで、一応それらしいものができあがった。 

   小さな階まで備えた豆雛壇飾りを眺めながら、これぞヒエラルキー、序列の最たるものだなと苦笑してしまった。何しろ、ずっと平等に関する本を訳しており、序列についていろいろ考えさせられた挙句に、夜な夜な階段をつくっていたのだ。  

   今回の豆雛では、衣装はすべてただ色で塗り分けることにした。男雛と右大臣、左大臣がいわゆる着物ではなく束帯を着ていることは、その昔、娘に2セット目のお雛様をつくった際にようやく気づいたことだった。見慣れないその衣装は何やら昔の中国皇帝の袍のようで、違和感を覚えたものだった。袍との大きな違いは振袖のような長い袖だ。 

   じつは年末に、公家のことを揶揄して「長袖」と呼んでいた理由を調べていた。武士は袖の周囲に紐を通した「袖括り」で邪魔な袖を絞っていたのにたいし、公家や僧侶はそのままにしていたためという。ただし、徳川慶喜が大坂城で束帯を着ている姿をワーグマンが描いているので、武家でも正装は束帯だったのかもしれない。 

   パークス一行が謁見した際のこの大坂城のイラストでは、裾が踵よりもはるかに長い「長袴」を着ている武士もかなりいる。幕末に来日した外国人が長袴姿の役人を見て、立膝で進んでいるのだと勘違いした話をどこかで読んだ覚えがある。背の低い人であったとすれば、なおさらそう見えただろう。御殿の床を拭き掃除するようなこの袴は、明治維新ともに廃れたに違いない。ワーグマンは横浜で鉄道が開通した折の明治天皇と新政府のお歴々も描いている。天皇だけ束帯姿だが、袴は指貫とか狩袴と呼ばれるハーレムパンツのようなものを着用し、浅沓と思われるものを履いている。 

   豆雛をつくり終えてから気づいたのだが、束帯の背中部分には、用途不明の石帯という瑪瑙などの石を取りつけた革のベルトが本来ついているらしい。母の初節句に曽祖父が贈った昭和初めの内裏雛で確認してみたら、石こそないが、黒い革の帯を締めていた。唐代や明代の袍では、これとよく似た石付きベルトが腹側に締められている。 ネット上でざっと調べた限りだが、石帯はもともと金属製の帯だったらしい。奈良の大塚陵墓参考地や新山古墳から出土した帯金具のようなものだ。魏晋南北朝や鮮卑関連の出土品とよく似るもので、それが帯、つまりベルトであることが私の興味を大いに掻き立てる。というのも、D・アンソニーの『馬・車輪・言語』(筑摩書房)をはじめとするいくつかの文献に、コリオスなどと呼ばれた裸体にベルトだけを締めたような若者の襲撃団のことが書かれていたからだ。騎馬民族のあいだでベルトは大きな意味をもつものだった。その風習が鮮卑を通じて遠い日本まで伝わり、平安時代に背中側のひそかなファッションになったのでは、というのが私の想像だ。 

 母の女雛も、曽祖父が伯母に贈った段飾りの女雛も、享保雛のように垂飾がゆらゆらとする明代の妃のような宝冠をかぶっている。以前に慕容との関連で記事を書いたことがあるが、石帯というもう一つのヒントを得たいま、またぞろ古代史への興味が湧いてきた。女雛に関しては、腰から背後に裳という薄衣がついていることも新たに知った。「裳を引く」という言葉があるように、要は西洋のドレスのトレインに似たもので、よく言えば天女の足元を隠す羽衣なのかもしれないが、これも宮中の床掃除をするものだったに違いない。  

 雛人形にはそれぞれ特有の持ち物がある。下段にいる五人囃子の太鼓や左右の大臣の矢筒などは、御道具のお膳やタンスとともに、子どものころ触って遊んだためによく知っていた。今回も矢筒はアイスクリームの棒を小さく切り、そこに矢を描いてビーズに貼りつけてみた。だが、考えてみれば、太政大臣や関白のいない時代には公家の最上位にいたはずの両大臣が、なぜ門番のように武装して立っているのかは謎だ。昇殿の際は、城内と同様、帯刀は許されなかったはずで、男雛が刀を差しているのも余計な気がする。  

 雛人形には立っている人と座っている人がいるが、座っている人形は少なくとも男性はみな胡座をかいている。正座を求められるようになったのは徳川家光以降という説がネット上には散見され、打袴を穿いている女雛と三人官女も、あまり両脚をぴったりつけているようには見えない。座り方の風習に関しては、暇になったらもう少し調べてみよう。  

 じつは豆雛をつくる前に、ゴッデンのもう一冊の日本人形の本『Miss Happiness and Miss Flower』も読んでおり、それをきっかけに小さな日本人形をつくったことは以前にも書いたとおりだ。邦訳出版してみたいと何社かに企画をもちかけてみたのだが、いまのところ成功していない。だいぶ古い作品ながら、先行き不透明で、欧米という指針を失ったようないまの時代にこそ読む価値があると思うのだが、どこかで拾ってもらえないだろうか。 

 この本では非常に小さな市松人形と思われる日本人形が石膏にガラスの目を埋め込んであると説明されていた。今回、いくつか雛人形の制作工程を調べたところ、どうやら正しくは桐塑胡粉技法と呼ばれるらしい。桐のおがくずと膠を混ぜたものでつくった原型に、胡粉と膠を混ぜたさまざまな濃度の液体を何度も塗り重ねるという、気の遠くなるような工程を経ている。目を埋め込んだ箇所を彫刻刀で切って「開眼」させる工程は、恐ろしいがなかなかの見ものだ。胡粉や膠は素人には手に負えないので、私は石膏粘土に3ミリほどのアイオライトのビーズを埋め込んで、小さな日本人形をつくってみたが、柔らかい状態ではうまく切れず、「人形は顔が命」という宣伝文句が耳にこだました。  

 母の雛人形は座高が10センチ前後の小さいもので、今回しげしげと眺めてみたが、老眼では目のつくりまで見えない。接写して画面で拡大してみたところ、確かに小さなガラスの目が入っているのがわかった。こんな小さい顔を精巧につくった職人技に感嘆する。宝冠の飾りは取れかけてしまっていたので、家にあった細い銅線と石のビーズで数箇所だけ修復してみた。背後には屏風の代わりに几帳があり、鳳凰と桐が描かれているが、五三でも五七でもなかった。衣装はとくに凝ってはおらず、パルメット起源と言われる忍冬唐草文の織物が使われていた。父親の赴任で朝鮮咸鏡南道の興南で生まれ、おそらく翌年初めに帰国した2番目の孫娘に、「祝 祖父 山口乕雄 門倉洵子殿 昭和十一年二月吉日」と箱書きして贈ってくれた曽祖父は、どんな思いでこの内裏雛を選んだのだろうか。  

 今回、私が爪楊枝とビーズでつくった豆雛も、毛先の割れた細筆と老眼ゆえにどれも妙な顔立ちになってしまったが、小さな紙箱にすべて収まるため、娘は一目見るなり「欲しい! 顔を描き直すよ!」と言いだした。ついでにこしらえたピアス金具付きのお雛様だけは、先日ようやく色をつけて、今年の雛祭りに間に合わせたようだが、残りは来年回しとなりそうだ。いつか完成したら、写真を追加することにしよう。

爪楊枝とビーズの豆雛と、雛祭りをする人形たち

豆雛の段飾りは、この小さな箱に収まる

母がもっていた男雛の背面。石こそ付いていないが、黒い革の帯がある。笏は紛失してしまい、私が昔アイスクリーム棒を削ってつくったものをもっている

女雛のアップ。ガラスの目であることがわかる

飾る場所もないので、人形たちは返品されてきた自費出版本の段ボールの上に載せられている。左側の押絵は90年以上前のもの。鋏箱の上に乗る小さな内裏雛は、私の2セット目の布製雛。御道具類はヤフオクで数年前に購入したもの

娘が絵付けをしたピアス雛。背面にはちゃんと石帯と裳が描かれている

2025年2月1日土曜日

ストレス解消

 予定より一か月遅れでようやく本文は訳し終えたものの、これから見直しと訳語の統一をやらねばならない。A4にして54ページもあることが判明した巻末の原註はこれからで、まだまだ先は長い。それでも、一昨年から並行して書いていた「忠固研」のための論文を先日、曲がりなりにも入稿できたこともあり、諸々の峠は越したかな、と思う。 

 とはいえ、この間のストレスはかなりあり、肋間神経痛かと思うような痛みがあったり、めまいがしたり、歯を強く噛み締めていたりと、黄色信号が出ているのが自分でもよくわかった。隙間時間に寸暇を惜しんで参考文献に目を通せば、仕事も効率よく進むだろうし、多くのことを学べるとは思うのだが、疲れ気味のためつい逃避行動に走ってしまう。何度か書いているが、私の場合、それは往々にしてしょうもない工作物をつくることになる。今回のそれは、たまたまネット上で目にしたサザエさんの家の間取り図がきっかけだった。  

 年末にもちらりと書いたが、私の孫はこのところやたらサザエさんにはまり、日常のさまざまな場面で、サザエさんのセリフを口にしている。自転車のチャイルドシートのベルトが冬物の上着のせいでうまく締まらないと、「フッ、フッ、ベルトの穴一つで寿命が5年違うと言うじゃないか」など、ふざけたセリフが大半だが、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句も、カツオ君のそれをもじったセリフ(何を着る人ぞ)からしっかり覚えていた。これはワカメちゃんが寒くて寝ぼけ眼で布団の上に足拭きマットを掛けて寝る場面からだが、その柄が自宅のトイレ・マットとそっくりであるため、強く印象に残ったらしい。 

 先日、孫は遊びに夢中でトイレが間に合わず、母親(私の娘)から先を考えて行動しなさいと説教されていた。その直後に娘が「ご飯炊くのを忘れた!」と叫ぶと、六歳児がすかさず「お言葉を返すようですが」と言ったのだ。一瞬の沈黙ののち、娘と私は大爆笑。孫は得意げににんまりとしていた。これは夏休みの宿題を終わらせていないカツオ君を叱るサザエさんに、彼女自身の三日坊主の日記数冊をカツオ君が突き返す漫画で覚えた言い回しだった。 

 何かとサザエさんを検索していたせいか、先月なかば、フェイスブックにサザエさん宅の俯瞰図が現われたのだ。世田谷区桜新町という設定の、かなり広いその平屋の画像をダウンロードし、孫に見せてやろうと眺めているうちに、考えてみれば孫は畳も障子も襖もない家に生まれ育ったなと思い当たった。四畳半だの六畳だのという言葉が死語になる日も、そう遠くはないのかもしれない。私自身、床間や違い棚は、旅館や保存された日本家屋でしか知らない。

「木材で手軽に建て、ガラスの代わりに紙を張った日本の家屋は、焼けるのに手間はかからない」と、幕末の日本に滞在したアーネスト・サトウが横浜の大火の折に書いたように、日本人は長らく木と紙と、若干の漆喰を使って家を建てていた。襖や障子で仕切られただけの空間は、音は筒抜けで、プライバシーもへったくれもないが、間取りは人数に合わせて自由に変えられ、風通しはやたらによく、陽光も取り入れられ、悪い面ばかりではない。縁側、玄関、勝手口の段差は、日本家屋が思いの外、高床に建てられてきたことを再認識させる。 

 うちの近所にも、いかにも昭和の家という感じの平屋が何軒もあったし、旧東海道沿いには昭和の初めごろの建築と思われるお屋敷もちらほらあったが、この十数年間で世代交代してどんどん建て替えられてしまった。最近は気密性を高くするためか、窓がほとんどない家もよく見かける。  

 実際に見ることが難しくなってきた昭和の家の造りを、せめて紙模型で孫に見せてやれたらと思いつき、手始めに2×4センチの小さな紙の畳をたくさんこしらえ、同じサイズで襖をつくった。敷居と鴨居は悩んだ末に、やはり厚紙を細く切ったものを3本貼りつけてみたところ、一応、スライドできることがわかった。雨戸までつくる元気はなかったが、縁側にはOPP袋でガラス戸もつくった。サザエさんの家は物置、トイレ、勝手口以外は、すべて引き戸だ。押し入れには布団を入れ、仏壇、掛け軸、雨戸の戸袋はつくった。木の雨戸のある家も減ってきているが、戸袋に巣をつくるムクドリやハッカチョウが穴から出入りするところは、孫と何度か眺めたことがあったので、戸袋は必須アイテムだった。全部つくるかどうかは不明だが、襖で仕切られた「田の字型の間取り」四部屋は完成させようかと思っている。 

 こんな調子で工作している限りは、体の不調も感じないので、ストレスはまさしく万病の元と思う。紙の模型に使用する材料はゲラが入ってきた大きな厚紙封筒や、レゴのパーツが入ってきたパッケージ(大量にある)、それに娘が長年、溜め込んだ包装紙等なので、制作費はゼロ円だ。常備しているコニシの木工ボンドだけは、少なくなってきたので買い足したが。狭い家のなかで場所をとるのは困るので、パーツごとにつくって自由に並べる方式にしたので、全体がいまのところA4サイズのネコポス用ダンボールのなかに収まる。 

 こんな妙なことを思いつくのは私くらいだろうと思ったら、サザエさん宅は人気があるらしく、本格的な模型がいくつも制作されていることを知って大いに笑った。最初に見つけた俯瞰図以外の間取りも複数あり、論文のようなものすら見つかった。まあ、それだけ昭和が遠くなり、ミニチュアで再現しなければならないものになったのかもしれない。

 縁側から見た図

奥が仏間。押し入れもあるので、そこが波平・フネさんの部屋ではないかと、ひそかに思っている。

奥が床間。そちらが老夫婦の部屋と見取り図はどれも書くが、客間ではないのかと思う。

一昨年にタイの友人たちと行った佐倉の旧堀田邸(明治23年築)。床間横の違い棚の上は天袋、下に収納場所があるものは地袋というようだ。そこに季節ごとの掛け軸や、花器などを収納しておくのだろう。それだけのために、かなりのスペースが割かれていたことになる。

2024年12月31日火曜日

2025年元旦に

 2025年は戦後80年、昭和で数えれば100年の節目の年だという。時代が大きく変わりそうな気配がする。  

 大晦日の昨夜は、昨年と同じ近所のお寺まで娘一家とともに除夜の鐘を撞きに行った。6歳の孫はちゃんと昼寝をして夜に備え、帰宅したのは1時半ごろだったのに、往復とも夜道を元気に歩いた。昨年はコロナ禍の名残だったのか、缶入りの甘酒が振る舞われていたが、今年はちゃんとお鍋で煮たもので、娘の絵本『じょやのかね』そっくりに、「あついから きをつけてね」と孫はお寺の方から声をかけられ、「あまざけの ゆげで ほっぺた」を温かくしながら飲んでいた。近所の人たちは三々五々に集まり、こじんまりとした和やかな雰囲気のなか交代で鐘を撞いていた。108個用意されていたと思われる銀杏は、参拝客の波が途絶えたあとも、まだいくらか残っていた。 

 娘と孫が長々とスケッチを始めてしばらく経ったころ、本堂で読経が始まった。しばらくは銅鑼を叩きながらの読経だったが、そのうち二人の僧侶が蛇腹折りされたお経を高く掲げながら、右から左へ、左から右へ大きくパラパラと動かしながら大声でお経を唱え始めた。初めてみる光景に孫は釘づけになり、お賽銭箱に貼りつくようにしながらその様子をスケッチしていた。臨済宗の転読というお経らしい。ときおり聞こえる短い叫び声は「喝」だったのかもしれない。帰りがけに見せてもらったら、えらくよく描けていた。出がけに、除夜の鐘の場面を描いたコラージュ作品を「全部、糊だよ」と得意そうに言いながらプレゼントしてくれたのだが、それもじつに上手だった。小学校に上がる年齢というのは、子どもが大きく成長するときであるようだ。 

 昨夜は就寝したのが遅かったので、面倒だなあと思いつつ、今朝は早起きして頑張って近所の公園まで初日の出を見に行った。昨秋、この公園を平たく改造する計画がもち上がり、反対したこともあって、高台からの初日の出を拝んでおかねばと思ったからだ。途中、犬の散歩をする人などがちらほらいて、元日の早朝にしては人が多いなと思ったら、どうやらみんな同じ公園を目指しているらしい。頂上に着いてみたらすでに数十人が南東を向いて待っていた。親子連れ、老夫婦、中高生、若者など、まさしく老若男女と犬たち。最終的にはおそらく80人くらいはいたと思う。この景観を守った一人として、初日の出以上に心を強く動かされる光景だった。 

 公園を出たところで、若いお兄さんが落ちているゴミを拾い上げていた。思わず「ありがとう!」と、声をかけたが、ふと見ると、道路上にファストフードのゴミが点在している。一緒に拾い始めると、「僕、もって帰りますよ」とまで言ってくれたが、自分の分は家までもち帰った。暗いニュースばかりがつづくが、世の中まだまだ捨てたものではない。  

 暮れに、黒豆、きんとん、松前漬だけはつくり、いくらかお節料理を用意はしていたが、朝は面倒なのでいつものトーストにしながら新聞(毎日)を広げたら、デジタル技術を活かして市民が自由にネット上で意見交換できる直接民主主義の方向へ、一歩踏みだす試みが始まっているという一面のトップ記事が飛び込んできた。ちょうどいま民主主義に関連したテーマの本を訳しており、昨秋は公園絡みで横浜市の「市民からの提案」を利用したばかりでもあったので、興味深く読んだ。  

 私自身にとっても節目の年となりそうな本年、これまで以上に健康に留意して、いましかできないことを一つひとつこなしていきたい。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 孫からのプレゼント! 

 近所のお寺で除夜の鐘の順番待ち

 甘酒をいただく

 近所の公園で初日の出を待つ人たち

 公園から見える富士山とカラス

昨年、ひそかな願望を託してつくりつづけた人形たち。障子は真っ先につくってみた一つだったが、ようやく掛け軸(タンチョウは娘の絵を借用)と座布団をつくったら、やはり畳も欲しいと思い、年末になってボロボロのゴザ座布団を壊してつくり、ついでに花器も粘土でこしらえた。

2024年12月26日木曜日

年末に

 あっと言う間に一月が経ってしまい、すでにクリスマスも過ぎ、ボクシング・デーも終わろうとしている。予定では年末までに一通り訳し終えて、年始から全面的に訳語を再検討しながら見直すはずが、まだ本文が100ページ以上も残っているという情けない状況だ。

 すでに何度か書いているが、このところずっと取り組んでいる本は、民主主義とは何か、平等とは何かという、きわめて根源的なことを深く追究している作品である。民主主義の危機が叫ばれるいま、世界が直面している本当の問題を鋭く描く本だと思うが、まだ自分の頭のなかで整理がつかない。原始時代から始まる壮大な思想史の作品を訳すのは、哲学の知識に乏しい私にはかなり荷が重い。  

 ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』も読んだことがなく、中江兆民をほんの少しかじった際に、日本国憲法の公共の福祉の問題等を認識した程度でしかない。今回、彼の思想をようやく理解するなかで、ふと思いだしたのが、小学生のころに愛読したサザエさんの漫画だった。「にんげんよ、たまにはしぜんにかえれ!!」と地面に大の字になるサザエさんを遠巻きに見ている人たちが、変死体と誤解する、というオチのもので、当時はもちろん、さっぱり意味がわからなかった。のちに、「自然に帰れ」がルソーと関連づけられる言葉だとは習った気がするが、人間が文明化し、堕落する以前の状態を「自然」と呼んだことなどは、よく理解していなかった。  

 そうか、あのサザエさんはルソーだったんだ、と思ったら、無性にその漫画を読み返したくなった。記憶のなかの表紙を頼りに画像検索で巻数を確認し、横浜市の図書館から借りてみた。うちでは週刊誌や月刊誌の漫画は買ってもらえなかったが、サザエさんの単行本だけは母が2冊買ってくれたので、私はよくわからないまま、繰り返しそれを読んでいた。半世紀ぶりに手にしたサザエさんだったが、どのページもセリフまでよく覚えていた。娘宅で孫に読んでやったら、大いに気に入り、いまでは行くたびに、フーテンだの、新聞配達少年だの、ガーターストッキングだの、木風呂だの、昭和の風習をいちいち説明しながら読んでやっている。  

 少し前の章は、社会主義やマルクス主義が中心テーマだったので、いくつか訳語を確認するために、『ユダヤ人問題によせて』や『反デューリング論』などを借りてみた。隙間時間にざっと読むのが精一杯だったが、どちらもなかなか面白そうだった。前者では「ユダヤ人とキリスト教徒が、お互いの宗教を、ただもう人間精神の別々の発展段階として、つまり歴史によって脱ぎすてられた別々の蛇の脱けがらとして認識し、そして人間をそれらの脱けがらを脱皮した蛇として認識しさえすれば」と、マルクスは対立を生むばかりの宗教について言及していた。脱けがらは、宗教や国籍などによる集団のアイデンティティと考えてもよいかもしれない。 

 後者では、2人の人物を例に挙げて問題分析をするデューリングの手法にたいし、エンゲルスが同じくらいユーモアに富んだ批判をしていた。「ここで読者に不愉快なことをお伝えしておかなければならない。それは今後も長いあいだこの評判の二人の男が、ずうっと読者につきまとうであろうということである。彼らは社会的諸関係の領域において、これまで他の天体の住民というもの——これはおそらくもうかたがついたと思うが——が演じてきたのと類似した役割を演ずるわけである」。訳者はにやにやしながら、この箇所を訳したのだろうと、つい想像してしまう。 

 このあとはファシズムに焦点を当てた章で、カール・シュミットの本を借りて読んでみた。ファシズムの成立過程やその思想について、これまできちんと読んだことはなかったので、ルサンチマンとの関連がとくに、大いに考えさせられた。ついでに言えば、フランス語の発音とは程遠い、「ルサンチマン」というカタカナ語はどうも好きになれないので、原書が英語でリゼントメントと書いている箇所は「恨み」とシンプルに書くことにした。 

 極めつきは民主主義や社会主義とファシズムの共通点だった。民主主義の根本的な問題と言えるものは、ほかの章でも説得力をもって論じられており、いま世界各地に現われているさまざまな歪みは、生じるべくして生じたのだと思わざるをえなくなっている。 

 年末なので、もう少し楽しい話題にしたかったのだが、あまりにも余裕のない日々を送っているため、どうぞご勘弁を。

 本年も「コウモリ通信」をお読みいただき、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

『サザエさん』45巻、長谷川町子著、朝日新聞出版

2024年11月29日金曜日

近況報告

 少しずつ、懸念事項が片づいてきた感はあるが、それでも腰を据えて一つのことに集中できない日々がつづいている。 

 娘がインドへ行く前に、やっつけ作業で準備した「おさんぽ絵本原画展」は何とか無事に開催できているようだ。うちではたいがい手持ちの額を使い回して展示のイベントを切り抜けている。先週末、中央図書館に調べ物をしに行った帰りに、私もようやく弘明寺まで行って、児童書専門店クーベルチップのお店の壁一面に飾られた絵を見てきた。 

 来春の姉のピアノリサイタルのチラシも、12月初めまでという姉の希望より大幅に早く刷り上がってきた。古いPCにしか入っていない、かなり古いバージョンのPhotoshopを久々に立ち上げて試行錯誤し、背景に使った写真も、近所で適当に撮った雲の写真を背景に入れてごまかした割には、一応それらしいものが出来上がった。今回は旅をテーマにした曲を集めた企画とのことで、3月22日19時から横浜のみなとみらい小ホールで開催する。クラシック音楽好きで、ご都合のつく方がおられたら、予定を入れておいてくださると嬉しい。 

 もちろん、本業の翻訳にも鋭意取り組んでいるが、今回の仕事はかなり厄介な思想史の本であるうえに、本文だけでも400ページを超え、カタツムリのような進捗状況だ。いま訳している箇所は、以前に訳したトリストラム・ハントの『エンゲルス』や、『アマルティア・セン回顧録』にも通じるし、先日参加させていただいた赤松小三郎研究会の田中優子先生ほかの講演会でも話題になっていた「共和」に関する考察もずいぶんあった。関連書籍をじっくり読んで考えてみたいところだが、いまはとにかく翻訳マシンに徹するしかないのが悲しい。 

 ほかにも身近なところで頭の痛い問題が発生し、生まれて陳情書のようなものを書き、ご近所の方々の協力を得て若干の署名も集めて役所に提出するはめにもなった。ちょうど講演会で、江戸時代の百姓一揆は首謀者がかならず死罪となったため、言い出しっぺが誰かわからないよう、傘連判状と呼ばれる円形の署名をしたという話を聞いたばかりだったので、提出するに当たってはかなりの緊張を強いられた。そんな話をしたところ、娘の夫の祖先の家からもそういう書類が出てきて、横浜市に寄贈していたことなども判明した! いつか現物見に行かねば。この件は幸い、とりあえずの解決を見ており、私の首もいまのところつながっている。 

 こうした「雑用」のほかに、数年前から参加させていただいている松平忠固と生糸貿易研究会のための論文をようやく書き上げたと思ったのも束の間、私が書いたものは再査読の対象となって大幅な書き直しを命じられている。 

 相変わらず落ち着かないなか、じつは細々と始めていることがある。やはり祖先調査をされている上田藩つながりの方が、上田図書館で幕末に作成された私の祖先の家の史料を見つけてくださったのだ。この数年間、断片的な記録はいくつか見つかっていたものの、今回の史料は格別だった。何しろ、古い時代のことがかなり書かれていたほか、上田藩にいた期間の祖先の諱や妻の出身の家(名前は不明)や、娘の嫁ぎ先、養子先を含む系図が含まれていたのだ。 

 何より驚いたのは、冒頭に「本氏桃井」、「桃井播磨守直常之後胤」と書かれていたことだ。もとは桃ノ井姓で、北関東の出身らしいと親戚から聞いたことはあったが、文字で見るのはこれが初めてだった。中世史にはまったく疎く、桃井直常など名前も聞いたことがなかったが、橋本左内もこの人の子孫だと称していたらしい。左内が京都で入説活動をしていた折に、桃井伊織の変名を使っていたことは以前から気づいていたが、まさか本当につながりがあるとは思いもよらなかった。 

 もっとも、今回の史料では、中世の肝心な時代については、横瀬村、阿賀野村などの郷士として各地を転々としながら「数代ヲ経テ」と省略されている。地元の伝説的な敗軍の将を祖先に仕立てたとか、代々そう信じ込んできた可能性もある。幕末の志士はよくそんな出自を自称しているし、実際、北阿賀野村の桃井可堂もまさにそういう人物だったらしい。 

 祖先がその後、岩槻から佐倉へ転封になった戸田忠昌に仕えたことは、別の史料からも判明していたが、今回の史料を見ると一代限りだった可能性がある。次の世代は出石藩時代の松平忠周に召し抱えられており、その後、忠周が上田へ転封になったため、以後は幕末まで上田藩にいた。 

 折よく、昨年刊行された『桃井直常とその一族』という本を見つけたので、隙間時間に拾い読みしながら、まずは時代背景を勉強している。今回の史料から判明したいくつかの村名を地図で探してみると、渋沢栄一の血洗島を囲むように存在する地名だった。暑くなる前に、レンタサイクルでこの広大な田園地帯を走ってみたい。 

 そんなこんなで、気づけばいつの間にかもう師走だ。これまで長年、細々と年賀状をつづけてきたが、郵便料金が大幅に値上がりしてしまったこともあり、日頃ネットでつながる方々への来年以降の年賀状は失礼させていただくことにした。どうぞご容赦を。

 娘のなりさの「おさんぽ絵本原画展」
 @クーベルチップ

 姉の来春のピアノリサイタルのチラシ

『桃井直常とその一族』
(松山充宏著、戎光祥出版、2023年)

2024年10月25日金曜日

草木染め、工作物

 何やら落ち着かない日々がつづいている。本業の締切りを来年に延ばしていただいたので、多少気は楽になったが、なかなか手強い作品なので遅々として進まない。その間にも雑用は増えつづける一方だ。 

 その大半は、娘が来月、一週間弱ながらブッカルーという児童書のフェスティバルに招かれてインドに行くためで、それに合わせて「万障お繰り合わせ」をしているからだ。ただでさえ多忙な娘は、ほかの多数の仕事や用事を前倒しで進めねばならないうえに、今年から厳しくなったというインドのビザ取得でも手こずり、パンク寸前だ。同じ期間に弘明寺の子どもの本専門店クーベルチップで、「おさんぽ絵本原画展」を開いていただくことが以前から決まっていたので、そのための準備も出発前にすべて終わらせなければならない。額装の仕事は毎度のことながら、私に回ってくる。いつもは娘が引き受けてくれている姉のピアノリサイタルのチラシづくりも、今回は私がせざるをえなくなった。 

 やらねばならないことだらけでストレスが溜まると、私の場合、逃避行動で妙な工作を始めることが多い。孫の面倒を見ている時間につくるものが大半なので、「ベビーシッターが勝手に遊んでいる!」と娘によくからかわれている。ときには休日の朝から、一時間だけ、と自分に言い聞かせながらつくり始めることもある。娘からの要望に応えて、この数年ときおり実験している草木染めなどは、できる季節が限られているので、優先度を上げて仕事に割り込ませている。 

 前回のコウモリ通信にちらりと書いた黒染めも、あのあとザクロが使えることを思いだし、近所の小学校の高台にある木から実が落ちてくるのを待ってみた。よく道路に潰れた実が落ちているのを横目で見ていたからだ。ところが、いざ欲しいときには、一向に落ちてこない。しびれを切らして染色用のザクロを注文した矢先に、ポトリと2個も落ちているのを見つけたときは、何とも悔しかった。草木染めの面白さは、身近な場所で材料を拾い集めてできることにあると思っているからだ。 道端に落ちていた実でもザクロはかなり黒く染まったが、私の適当なやり方では多少緑味のある焦茶止まりだった。それでも、これまでに試したどの素材よりも黒髪に近く、それでとりあえず満足することにした。

 先日は、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』がストップモーションで撮影した古い映画(Totti: The Story of a Doll’s House)がネットで公開されていることに気づき、何回かに分けて孫と一緒に観た。ことりさんがピンクの羽ぼうきで掃除をしながら歌う場面が大いに気に入ったようだった。ならば羽をピンクに染めてつくってみようと思いたち、道端のヨウシュヤマゴボウを失敬して、孫が拾い集めた羽のコレクションから数本抜いて染めてみた。羽もタンパク質だからきっと染まるだろうと予想したとおり、濃いピンクに染まったときはちょっと嬉しかった。孫は喜んで「Dusting, dusting……」と歌いながら、それを使って私が昔つくった埃だらけの人形の家の掃除を始めた。もっとも、羽ぼうきはその後すぐに行方不明になり、数日後にまた見つかったそうだ。 

『かぶとむしランドセル』(ふくべあきひろ作、おおのこうへい絵、PHP研究所)という本を娘が図書館で借りたところ、カブトムシをこよなく愛する孫が気に入って何度も読まされたこともあった。なかなかよく考えられたランドセルで、イラストを眺めているうちに、ふと思いだしたものがあった。その昔、焦茶色のバックスキンで娘につくってやったムーミンに出てくるルビーの王様入りの小さなトランクだ。いかにもカブトムシ色のその革の残りはまだ裁縫箱の底に入っていた。翌日それを持参して、娘宅の裁縫セットでつくり始めたものの、針と糸の太さがミスマッチで、糸通しもなく、おまけに焦茶色の革ではどこを縫っているのかよくわからず、往生した。 家にもち帰って少しだけ修正した際に、ランドセルに爪楊枝の鉛筆と筆箱を入れてやったところ、孫はえらく喜んでくれたが、これまたすぐになくしてしまった。孫は私に似たのか、ものの管理が悪い。後日、爪楊枝を差しだして、これを3つに切って、先端を削ってくれというので、そのとおりにしたら、自分で色を塗って人形用の鉛筆をつくっていた。 

 こんな調子でひとしきり何かをつくると、仕事しなくちゃっ、という罪悪感だかエネルギーだかが湧き、またパソコンの前に座れるようになる。工作は私にとって大きな息抜きなので、もうしばらくつづけられるように、ひと段落がついたら眼科に行くなり、ハズキルーペを買うなりしよう。

ようやく黒髪がついた人形。左にあるのは、髪用に買ってみて失敗したいろいろな糸。手縫糸は届いてみたら紺色で、日本刺繍用の糸は墨色が美しかったが、撚りがかかっておらず、髪の毛には使えなかった

道路に落ちて潰れたザクロ。これで立派に染料になる

 試した草木染めのごく一部

ヨウシュヤマゴボウで染めた羽ぼうきと、ことりさん。 

 人形用かぶとむしランドセルと筆箱セット