史料に書かれていた関連の地名、横瀬村、阿賀野村、牧西村をグーグル・マップで検索すると、ひたすら農地が広がる一帯だった。しかも、渋沢栄一の血洗島と隣り合わせの地域だ。門倉姓との関連で見つかった本庄市の四方田を含めても、どうにか自転車で回れそうな距離で、驚くほど平坦な土地のようだが、埼玉のこのあたりは炎天下に走ったら熱中症になること請け合いの地域だ。下調べは十分とは言い難かったが、比較的自由に動ける連休中の晴れ間に決行した。
以前にもコウモリ通信に書いたように、この史料には「本氏 桃井」とか「桃井播磨守直常之後胤」などと書かれていたほか、「家紋井桁菱之内橘 抱桃」ともあった。「抱桃」はよくわからないが、前者は祖父の家(門倉)の紋であり、しかも上田に行く以前の古い墓碑にも刻まれていた。ほかに出自を探るうえで大きな手がかりとなるのは、江戸時代まで戸籍代わりの役目をはたしていた寺であり、少なくとも元禄時代に上田に行って以来、門倉家は真言宗智山派に属していた。こうした断片的な情報と、桃井直常と一緒に戦った新田義宗(義貞三男)などに関する生半可な知識だけを携えての現地調査となった。
ネット上で得られた情報は、横瀬神社とその隣にある渋沢家の菩提寺の華蔵寺のものが大半で、遠い祖先が仕えた主人と思われる新田義貞の「末男横瀬新六郎貞氏」がこの神社と寺にかかわっていた。横瀬神社の拝殿の彫刻、渋沢栄一揮毫の扁額などは見られたが、もっと凝った彫刻が施されていたはずの本殿のほうは見逃してしまった。華蔵寺には、新田義貞の祖父に当たる義兼が植えた「樹齢七百余年」の枝垂れ桜が昭和18年に枯死したあとの碑や、代わりに植えられた2代目の木、朱塗りの大日堂などは見られたが、境内には人影もなく、よくわからないまま退散した。それでも、私の曽祖父が各地の墓地から集めてきたとされ、まだ現存する4基の古い墓碑とよく似たものが、華蔵寺の裏手の墓地に多数並んでいることは確認できた。おそらく無縁仏となったものを集めたのだろう。
華蔵寺は真言宗でも豊山派なので、この付近で智山派の寺として目星をつけていた大福院にも途中立ち寄ってみたが、ここでも歴代住職の墓碑などによく似た形のものがあったほかは、収穫はなかった。この地域は南阿賀野らしく、南北の阿賀野村は別々の小藩の領地になるなどして、いくらか分断されていたようだ。
すぐ近くに、渋沢栄一の「中の家」があったので、短い時間ながらそこも寄らせてもらった。深谷のこの付近は、まさに「サザエさんの家」のような昭和もしくは、それ以前からある家が立ち並んでいる。ところどころにある墓地には、渋沢家と書かれたものもあった。地元のボランティアと思しき人たちが何人も来訪者の対応をしており、深谷市民がいまも渋沢に大きな期待を寄せていることが感じられた。そう言えば、往路で見た深谷駅は1996年竣工の赤煉瓦風の立派な駅舎で、隣の岡部駅とはずいぶんな違いがあった。渋沢が深谷に創設した日本煉瓦製造株式会社を記念したものだそうだ。渋沢の生誕地である「中の家」は、明治28年に建て替えた豪邸で、アンドロイドの栄一が語る藍玉にまつわるエピソードを拝聴したほか、流水の心地よい音が聞こえる庭を縁側越しに眺めるなど、無料で楽しませていただいた。
北阿賀野は、目指すものがないまま一帯を走ったのだが、途中で桃井可堂の碑があることに気づいて、そこも立ち寄った。本名、福本儀八というこの人物は、私がだいぶ以前にずいぶん調べた横浜の外国人居留地襲撃未遂事件の首謀者の一人であることがわかった。文久3年(1863)4月に清河八郎らが最初に襲撃を計画したものの、このときは幕府が清河を暗殺して未遂に終わった。その後、同年11月に渋沢栄一らの一派70人余りと、桃井可堂らによる300人余りの二つの集団が再び襲撃を計画した。だが、「挙兵は失敗した。可堂は挙兵計画を幕府に訴えた仲間の裏切りを知り天朝組を解散。自ら一切の責任を負って自首し、元治元年(1864)7月22日絶食して死去した」と、碑の横の説明には書かれていた。碑文のなかで渋沢は「故ありて事を共にせず」と、このときのいきさつを明治になってから書いたそうだ(裏面を確認しなかったので碑文はわからず)。
帰宅後、桃井可堂について調べ直すなかで、横瀬村に桃井直常創建とされる暦応2年(1339)創立の寺があったことを知った。直常は1376年死去とされるので、50代後半までは生きた人ということになりそうだ。この寺は赤城山多門院福王寺という新義真言宗の寺だったが、昭和の初めごろ廃寺になったと思われる。真言宗智山派も豊山派も、新義真言宗から派生した宗派で、それぞれ戦国時代、江戸時代初期に創建されていた。となると、曽祖父が大正期に古いお墓を整理しにやってきたのは、その福王寺だった可能性がありそうだ。
憶測ながら、深谷のこの一帯は利根川に近く、利根川と都内の小名木川は水路でつながっていたはずなので、大正期なら墓石を運んでくれる船も探せたのではないだろうか。茨城県谷田部で没した高祖父の遺骨と墓標もその手を使った可能性がある。自家用車も宅急便もない時代に、どうやって重い石を運んだのかという謎は、解けたかもしれない。上田のお墓からは遺骨だけ集めて、1893年に開通したアプト式鉄道で碓氷峠を通って運んだのではないかと、想像をたくましくしている。
北阿賀野を回ったあと、牧西に向かうと、周囲が一面、青々とした麦畑になった。ところどころ収穫が終わったらしい区画では、取水口からボコボコと水があふれていた。どうやら冬大麦か小麦と米の二毛作地帯のようだ。何しろ、スマホを片手に村内の狭い道や農道をぐねぐねと走り、曲がり角ではいちいち老眼鏡をかけて画面を拡大し、確かめながら走行したので、この田園風景を楽しむ余裕はあまりなかったが、何度かヒバリが目の前で飛び立ち、頭上まで高く上がって鳴く光景にも遭遇した。だいぶ以前に、娘が麦畑とヒバリのイラストを描く仕事を請け負ったのを思いだし、もしやこの付近がモデルだったのではと思った。
牧西は本庄市にあり、深谷市とは雰囲気がだいぶ変わる。農村であっても近代的だ。大きな道路沿いには大型店舗が点在する。私の祖先はこの牧西の郷士となったのち、どういう経緯か戸田忠昌の家臣となり、その息子が出石藩時代の藤井松平家3代目の忠周に仕えるようになった。出石は兵庫県北部なので、なぜと頭をひねるばかりだが、戸田忠昌も松平忠周も岩槻藩主だった時期があるので、いつかそのあたりを調べてみたい。
牧西は、武蔵七党の一つ児玉党を構成していた氏族の名前でもあり、同じく児玉党の四方田氏の本貫地に門倉という家があることがネット検索からわかっていた。この門倉さんは深谷や本庄の歴史書にもときおり名前があったし、上田藩に四方田という家臣がいるのも知っていた。
すでに日も高くなり、暑さでだいぶくたびれてはいたが、本庄早稲田駅の先の四方田にある臨済宗の光明寺という寺まで、自転車を漕ぎ進めた。墓地には確かに門倉家のお墓がたくさん並んでいたが、どの家も家紋が揚羽蝶だった。臨済宗のこのお寺にも、うちの門倉のお墓とよく似た古い墓碑が多数あって、まとめて供養されているようだったが、梵字が刻まれているものはなかった。宗派によって、いろいろ違いがあるようだ。
結局、あちこち走り回った割には大きな収穫はなかったと言わざるをえない。同じ家紋の門倉さんの生き残りはもういないのだろうか。家紋について検索するうちに、橘にもいくつかのバージョンがあることがわかった。15年ほど前に建て替えられたお墓の家紋が正確に刻まれていたとすればだが、うちの門倉の紋は実の部分に筋が多く入る「久世橘」だった。ついでながら、井伊家と日蓮宗が井桁に橘紋だが、うちのは向きが違って菱井桁というらしい。
その紋を調べているうちに、大生部多(おおふべのおお)という飛鳥時代の宗教家が、橘の葉を食べる青虫を「常世神」と崇めたという妙な記述に出合った。柑橘類の葉を食べるならアゲハか、と考えたら、四方田の門倉さんはやはり遠い遠い親戚かも、と思えてきた。大生部多の「常世神」は柑橘類の葉も食草とし、繭をつくるシンジュサンの幼虫で、古代日本の最初の養蚕はこの種ではないかと推測する論考まで見つかった! 中世に生きた祖先の足跡をたどったことで、あれこれ思いがけない発見があり、頑張って遠出をした甲斐はあったかもしれない。
渋沢栄一の「中の家」のアンドロイド!
「中の家」はまさに伝統的日本家屋だった
桃井可堂の碑
牧西に向かう途中の麦畑
北阿賀野付近の農道。ひたすら平らな農地が広がる。