2025年9月2日火曜日

伊勢町八田家

 ようやく本業が一段落したため、『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』を読み進めていたところ、塚越俊志先生の「松平忠固と横浜開港」というコラムで目が点になった。忠固の目指した政策概要がわかる史料が、「松代藩領伊勢町八田家文書のなかに見出せる」と書かれていたのだ。八田家は、産物会所取締役という立場にあったという。

   祖先探しの一環で『象山全集』にはかなり目を通していたので、松代の八田という名前はよく登場することもあって以前から気になっていた。というのも、母の実家が戦後、松代で医院を開業しており、「はったさん」という名前を祖母がよく口にしていたからだ。同コラムによると、本町八田家が本家で、伊勢町八田家は分家だそうだ。その名称にピンときたのは、母たちの住んでいた場所は伊勢町だったと聞いていたためだ。 

   母の末弟に問い合わせてみると、八田家は松代藩の御用商人で、戦後の時代は金物屋を営んでおり、そこの女主人と祖母が仲良くなり、叔父も連れて行かれたとのことだった。いまもまだ家が残っているはずだという叔父の言葉どおり、検索すると八田家住宅が保存されているのが確認できた。戦後早々に単身東京に戻った曽祖父が急死し、西大久保の家は空襲で焼失したため、曽祖母は信州に疎開したまま、娘一家の近くに家を借りて一人暮らしをするようになったが、松代時代は町の東部にある東条にいたという。その家も、叔父によると、八田さんの別荘の一部だったらしい。  

   2014年に母と松代を訪ねた際に、祖父の医院があったという「御使者屋」前の場所に行ってみたのだが、ただの駐車場になっていた。御使者屋というのは松代藩のゲストハウスのようなもので、佐久間象山がしばらく暮らしていたことでも知られる。全集のなかでは「御使者屋時代」などと呼ばれていたし、すぐ裏手にある松代藩鐘楼と御使者屋のあいだで本邦初の電信実験がなされたとも言い伝えられている。残念ながら本邦初でもなければ、本当に実験したのかどうかも定かでないらしいが、現地には少なくともそのような案内板が立っていた。

 象山と言えば、その弟子だった高祖父に関して、これまで気づいていなかった重要な事実が『象山全集』巻1から一つ判明していたので、横道に逸れるが、忘れないようここに書いておく。今年初めに国会図書館のデジタルコレクションの検索機能が拡充したおかげで、象山の年譜の頭注に、ゴマ粒のような文字で象山の甥の北山安世が山田権之助という人物とともに書いた書状が引用されていたことがわかったのだ。ペリー来航時の吉田松陰の下田踏海事件に連座して伝馬町に収監されていた象山が、国許である松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、「九月廿四日門弟門倉、桜井へ宛て象山の江戸退去を通知せる文(頭注)あり。察するに門弟中親しき者へは一様に通知を発せるものか」と年譜本文にも書かれていた。書状には「二白、内密は白山辺にて被懸御目候様子に御座候」とあり、宛名は「松平伊賀守様 御上屋敷 門倉伝次郎様、桜井純蔵様」になっていた。知らせを受けて、高祖父と桜井が白山まで駆けつけたかどうかはわからない。 

 嘉永7年当時の上田藩上屋敷は西の丸下の役宅だろう。この当時は馬場などもある扇橋の抱屋敷か、のちにいた瓦町藩邸に住んでいたのではないかと推測していたが、この役宅にいたというのも新発見だった。高祖父が幕臣とトラブルになって追われ、桜田門から入って塀を乗り越えて役宅に逃げ込んだという逸話が曽祖父の追悼文に書かれていたが、まったくのホラ話ではないかもしれない。伝次郎の孫に当たる祖父が松代で開業したのは、日赤をクビになった際に知り合いが斡旋してくれたためと聞いているが、御使者屋の前に医院を構えたことの意味を、祖父がどう感じていたのかは、気になるところだ。何しろ、私が先祖探しをするまで、高祖父が象山の弟子だったという話は誰からも聞いたことがなかったからだ。

   11年前に母と訪ねた医院跡の駐車場は、グーグルマップでいくら見てもどこだかわからず、叔父にもう一度聞いてみると、伊勢町の「メイン通り」沿いにあったと記憶していると返答してくれた。そこでふと母の遺品に、この旅のときの写真をプリントアウトして簡易アルバムに入れて渡してあったものがあったのを思いだした。開いてみたら、母の字でそれぞれの写真に丁寧にキャプションと説明が書かれていた。まるで自分の死後に、記憶力の悪い娘が困るのを見越したかのような母の周到さに、思わず涙が込み上げてきた。 

   叔父の記憶と母の説明、それに写真に映る背景を手がかりに、ストリート・ビューで確認すると、現在、「秘密基地アトリエ wanaka」がある場所、またはその隣の駐車場が、鈴木という料亭跡に開業したという祖父の医院および自宅があった場所であることがわかった。 

「秘密基地アトリエ」とは何ぞやと思ってさらに検索すると、2019年に信州を襲った台風19号で廃業した築60年の布団店倉庫を、地元のアーティストがリノベーションした多目的スペースのようなものだった。この台風で上田電鉄別所線の赤い千曲川橋梁が崩落したことはニュースで知っていたが、松代の甚大な被害については恥ずかしながら知らなかった。長野県が作成した被害一覧のようなものを見ると、八田家住宅も長土蔵の一部が破損したほか、飯綱高原のダニエル・ノルマン邸も倒木によるかなりの被害を受けたようだった。  

   松平忠固の論文集からは、思いがけずいろいろな発見があった。じつはまだ全部読み終えていないのだが、最後までしっかり読みつづけよう。

 母のキャプションが残る旅のアルバム

2025年8月1日金曜日

硫黄岳2025年

 今年も、30年もののメスナーテントを担いで1泊2日で八ヶ岳に行ってきた。このところずっと多忙だったため、山へ行くのは1年ぶりだ。毎週、娘宅まで片道30分ほどの距離を自転車で通っているとはいえ、それ以外は毎朝の短時間の体操くらいで、この数週間は原稿の見直しやら校正やらで座りつづけていたため、腰の調子も悪かった。トリプル台風の影響もあったのか、天気も絶好とは言えず、多少は降られるのを覚悟のうえで出かけた。というのも、この夏は娘の仕事などの予定がいろいろ入っており、出かけられる週末が非常に限られていたからだ。  

 孫の楽しみは、登頂すること以上にテントで寝ることにあるので、今年はオーレン小屋をテン場に選んだ。娘が小学校5年生ごろ、3人のいとこたちとオーレン小屋に流れる渓流で遊んで大いに楽しんだ記憶があったためだ。 古い写真も未整理で、記憶が定かではないのだが、古い手帳に残る私の手書きの標高グラフを見ると、最初にオーレン小屋へ行ったのは娘が小学校3年の夏と思われる。美濃戸口から登って赤岩の経由でオーレン小屋でテン泊し、今回同様に夏沢峠経由で標高2760mの硫黄岳に初めて登り、そこから横岳を抜けて行者小屋に降り、阿弥陀岳を登って御小屋尾根から下山していた。おそらくまだ白灯油を入れてポンピングしてから使うかなり巨大なバーナーを使っていた時代で、私は全行程を13kgくらいの荷物を背負っての苦しい山行だった。阿弥陀岳の登りが恐ろしかったことや、下山途中で道に迷い、林業の人が使うような急坂を下ってしまい、暗い森のなかでギンリョウソウを初めて見てぎょっとしたことを覚えている。沢に出たところ、対岸を歩く登山者が見えたため浅瀬を渡り、何とか無事に帰ることができた。その前年もキレットで恐怖の体験をさせてしまったため、娘はこの親は当てにならないと思ったらしく、私が25000分の1の地図のほか唯一の頼りとしていたガイドブック『山小屋の主人がガイドする八ガ岳を歩く』(山と渓谷社、1995年五刷)を、ふりがなを振って自分で読んで勉強するようになった。  

 記憶を正してみると、オーレン小屋には桜平まで車で行けることをのちに発見し、姉一家と車2台でそこまで登ったようだ。桜平のどの駐車場に停めたのか記憶にないが、ガタゴト道の登りがうちのオンボロ車にはきつかったことだけは覚えていた。今回は娘の夫の4WDで登山ゲートまで送ってもらったので、その点は非常にお気楽だった。ただし、そこから夏沢鉱泉までの登りが恐ろしく急で、日頃の運動不足は言うにおよばず、暑いうえに標高にも慣れておらずで、身の軽い孫がすたすた先を行くのを、必死で追うはめになった。途中、かなりの水量で勢いよく流れる川と見事な苔の森を横目で眺めながらも、それを楽しむ余裕もないほどだった。  

 昼過ぎにオーレン小屋に着いた途端、土砂降りになり、コンビニのおにぎりを食べながら小屋前のパラソルの下で雨をやり過ごした。テン場には簀が敷かれていて、大雨のときなどは川が流れることもあると言われた。オーレン小屋は、雨の多い北八ヶ岳と乾燥した南八ヶ岳の中間地点にあり、近年、降水量にいくらか変化があるのかもしれない。このところ私が日本庭園の本でやたら苔庭に興味をもつようになったせいか、本当に降水量が増えているせいか、いたるところに生えている珍しいコケやシダについ目が行く。テン場付近にはウソが何度もやってきて、そのたびに作業を中断してみんなで双眼鏡を覗いた。  

 テント設営後、すぐにご飯を炊き始めたのは、17時半からテン泊者も1000円でお風呂に入れると言われていたからだったが、それが正解で、レトルトカレーを温め始めたころにはまた本降りになった。山小屋でシャワーを使わせてもらったことはあったが、お風呂は初めての経験で、興味津々でドアを開けてみたら、立派な檜風呂で、まるで温泉気分。いま検索してみたら「檜展望風呂」と呼ばれるそうで、窓を開けてみればよかったと残念に思っている。オーレン小屋は自動で水洗する清潔なトイレがたくさんあり、キャンプ場の片隅に簡易トイレが一つあるだけの青年小屋とは段違いだった。中高年のガイド付き登山グループが何組もいたのは、そのためだろう。
  
 暗くなって早々に就寝したときは、星が数個見える程度だったが、真夜中に起きてフライシートを開けてみると天の川も埋もれるくらいの満天の星空で、どれがどの星座かわからないほどだった。小屋のトイレまで行った娘と孫は途中でシカの鳴く声をたくさん聞いたそうで、そのあと3人でテントから顔だけ出してしばらく降るような星空と流星を堪能した。孫も生まれて初めて流れ星をしっかり2度見ることができた。硬い地面に、狭いテントと寝袋で身動きもままならず、私は腰が痛くてほとんど眠れなかったが、またシカが鳴いたので声をかけたのに、誰も起きなかったと娘が朝言っていたので、少しは眠っていたのかもしれない。  

 翌朝は、4時過ぎに起きて恒例のオートミールの朝食を済ませたあと、テントを残して軽装で硫黄岳を目指した。私と娘は硫黄岳に登るのはこれで4回目だったようだ。頂上付近は多少ざれているが、山頂はなだらかで広く、何と言っても展望がいい。テネリフェでピアッツィ・スマイスが雲海を「標高四〇〇〇フィート〔約一二二〇メートル〕で空中に漂う水蒸気の大平原」と表現したこと(『地球を支配する水の力』)や、木曽谷にある興禅寺に重森三玲が雲海にひらめきを得た庭を造築したことなどを思いだすと、はるか下方に見える雲海が何やら特別なものに思えた。途中、かなりの数のイワヒバリを近くで見られたのもよかった。高山植物には少し遅かったが、まだコマクサは咲いていると聞いて、硫黄岳山荘まで往復した。最近、やたら植物に詳しくなっている孫は、自分の知らない高山植物を見つけるたびに、「これ写真に撮って!」と娘に頼んでいた。  

 昼から降るという予報だったので、それまでにテントを撤収したくて早々に下山したが、とくに降られることもなく済んだ。オーレン小屋では小学生以下には500円で「登頂証明書」を出してくれるというので、御朱印のようなものかと思ってお願いしたところ、表彰式までしてくださる盛大なもので、山小屋の人たちだけでなく、周囲にいた登山客たちからも拍手してもらい、孫には忘れられない体験となった。今回、20代、30代と思われる登山客にはそれなりの数で出会ったが、中高年が大多数であることには変わりなく、子どもは2日間で2、3人しか見かけなかった。それだけ子育て世代に余裕がないのだろうか。「登頂証明書」は、次世代の登山者を増やすための山小屋の地道な試みのようだ。たとえ年に一回でも、元気なうちは登りつづけたい。

硫黄岳頂上付近

頂上の火口跡(今回は時間がなくて周囲は歩かなかった)

テント設営中

登頂証明書の授与式!

小学生だった娘がふりがなを振って勉強したガイドブックと、当時の私の手帳

滞在中のスケッチ

2025年7月29日火曜日

『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』

 このたび東洋大学の岩下哲典教授を編者に、吉川弘文館から『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』という論文集が刊行された。3年前、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」が発足した折に、若手史学者が大半を占めるこの研究会に、気まずいながらも、何であれ多様性は重要と自分に言い聞かせ、参加させていただいた。以来、月一のオンライン・ミーティングを重ね、上田での史料調査も何度かご一緒し、この論文集ために論文とコラムを1本ずつ担当した。  

 松平忠固(ただかた)については、このブログでも何度か書いたので、繰り返すことになるが、最初のきっかけは、十数年前に上田藩士だった自分の先祖のルーツ探しを始め、幕末史にはまったことだった。もっとも、私の先祖の足跡が最初に見つかったのが1861年11月に横浜にやってきたイギリスの騎馬護衛隊や、1862年5月に来日したイギリス公使館付の医師ウィリス関連の記録であったため、1859年10月(安政6年9月)に死去していた忠固は長らく私の興味の対象とはならなかった。  

 2014年に、私の母が子ども時代を過ごした松代や屋代を一緒に訪ねたあと、上田にも立ち寄り、上田市立博物館刊行の『松平氏史料集』と『松平忠固・赤松小三郎』を購入したものの、斜め読みしただけでしばらく積読状態となっていた。 

 その後、『横浜市誌稿』や『史談会速記録』などに忠固の名前をわずかに発見することはあったものの、それ以上は調べあぐねていたところ、2017年11月に上田の願行寺で開催された「松平忠固公を語る講演会&トークセッション」に、忠固のご子孫の方からお誘いいただき、参加してみた。このイベントでは、赤松小三郎研究会でお会いしていた関良基先生や地元史家の尾崎行也先生、貿易会社の経営者として日本の貿易史を研究され、松平忠固に強い関心をもたれていた本野敦彦氏などが、ご子孫の方々とともに登壇され、いろいろなお話を伺うことができた。その帰りに、関先生が猪坂直一の小説『あらしの江戸城』(上田市立博物館、1958年)を紹介して下さったのが一つの転機となった。  

 以後、小説を書くうえで猪坂氏が典拠としたと思われる史料が次々に見つかったが、上田に残るもの以外は、大半が忠固の政敵が残した記録であることがわかった。そのため、最初は開国をめぐって、のちに将軍継嗣問題に巻き込まれて、水戸、福井、彦根などの大藩だけでなく、岩瀬忠震ら幕臣からも忠固は嫌われ者として語られるようになった。大量に残るそれらの史料が何度も引用されることで彼の評価は地に落ち、やがて忘れ去られた。上田に残された記録を読む限り、忠固は非常に聡明で冷静、かつ潔癖な人物に思われた。ただし、おそらく気難し屋で、自分の意見をはっきり述べるなど、日本の根回し社会には馴染まない側面があったのだろう。 

 私なりに探り当てた忠固像は、2020年に自費出版した『埋もれた歴史——幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)で、一章を割いてまとめてみた。この本で追究しきれなかったテーマは、のちにブログで何度か記事にした。その一つとして日米和親条約締結時の森山栄之助の役割について書いたことなどから、岩下先生のご紹介で横須賀の『開国史研究』21号に論文を投稿したこともあった。 

 こうした諸々のご縁から、本野氏が寄付された研究費を岩下先生が受けて立ち上がった忠固研究のプロジェクトに、ファミリー・ヒストリアンの延長でしかない私にもお声がかかった、という次第だ。ひとえに、研究会発足時には上田の歴史家以外に、忠固を研究した人がほとんどいなかったからだろう。 

 せっかく本格的な研究会に参加させていただいたのだからと、論文のテーマには自分のなかでいちばん大きな謎だと思っていた関白九条尚忠と忠固の関係を選んだ。九条尚忠も幕末の重大な時期に朝廷の最高位の役職に就いていた人物でありながら、政敵が残した記録ばかりが残り、忠固同様に歴史の脚注に片づけられてきた。2人の直接のやりとりを示す史料が見つからないなか、専門家の方々からは無謀ではないかと忠告も受けたし、自分でも背伸びどころか、竹馬に乗ったような不安はあった。それでも、これまで翻訳してきた科学書で学んだように、なくした鍵を街灯の下だけ探すのではなく、不完全なりに、部屋のなかの象にも挑んだつもりだ。また、自著を執筆した過程で、忠固の子どもたちについてかなり調べていた経緯もあって、もう一本、忠固自身の家族についてコラムも執筆した。拙稿を踏み台にして、いずれ何かしら違う展望が開けたらたいへん嬉しい。 

 もちろん、本論文集には、専門家の方々が同じだけの期間、上田をはじめ各地に史料調査に赴いて、それぞれの研究テーマと掛け合わせながら構想を練られた論文やコラムがぎっしり詰まっている。たとえば、忠固老中日記から忠固が平均して何人の対客をしたかを調べ、彼の仕事ぶりを数値で可視化を試みた、鈴木乙都さんの研究などは、毎日新聞の「首相日々」を思わせ、彼の性格の知られざる側面を明らかにする。

 論文集ということで、発行部数も限られ、高額の本となってしまったが、お近くの図書館にリクエストいただくなりして、お読みいただけたら嬉しい。浦賀に来航したペリー一行にたいし、船に乗り込んで歓待するふりをしながら「船将」を突き殺し、残りの船員も斬り殺せと水戸藩の徳川斉昭が主張した時期に、開国を主張した松平忠固。攘夷を主張する孝明天皇のもと、ハリスとの条約締結は不許可という最終回答が朝廷側から下ったにもかかわらず、井伊大老に強引に調印を迫った松平忠固。日本の近代化はいまや、過度のグローバル化によって輝かしいものでもなくなり、単純な過去への回帰を願う声すら聞かれる。排外主義が選挙の争点にまでなり始め、長年の常識がどんどん崩れてきている昨今だが、世界から孤立して島国として生きるわけにもいかない。いま一度、幕末の原点に立ち戻ってみることは非常に有意義なはずだ。

『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——」岩下哲典編、吉川弘文館、2025年

2025年7月14日月曜日

『西洋の敗北:日本と世界に何が起きるのか』を読んで

 平等をテーマとする大部の校正がようやく始まったところに、タイミング悪く、図書館で長らくリクエスト待ちしていた本がまた回ってきてしまった。いま話題のエマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(大野舞訳、文藝春秋、2024年)で、私のところに届いた図書館の本は、2025年3月の第8刷だった! 昨年11月に佐藤優の書評を読み、すぐにリクエストを入れたのにすでに200人以上待ちという凄まじい状況で、それを半年以上待ったからには読まねばと、読書時間をひねり出して目を通したので、備忘録を兼ねて書いておく。 

  トッドの著作は、はるか昔に『新ヨーロッパ大全』をやはり図書館で借りて読んで以来だ。イングランドやフランス、デンマークは平等主義的、個人主義的な絶対核家族型、日本やドイツは権威主義的な直系家族型などと、世界の民族を家族構成から分析したトッドの手法は斬新な視点を与えてはくれたが、上下2冊の大部のなかで繰り返しその類型がもちだされ、最後のほうは辟易した記憶がある。確かに、長子相続にたいする次男以下不満が、明治維新の原動力の一つではないかとこの数年とみに思うし、戦後、民法が改正されて子ども間で等分に相続することになっても、「長男の嫁」という言葉は、おおむね老親の介護や盆暮の義務などの否定的な意味ながら残りつづけ、二世帯住宅が決してなくならないことを考えれば、「直系家族型」は日本社会の本質的な側面を表わしているのだろう。とはいえ、世の中の雑多な人びとをいくつかの家族構造に分類して理解しようとする手法は、7つの性格タイプに人を当てはめるような性格診断と同じくらい、私にはどうも胡散臭く思えた。

   以来、新聞などでときおり彼の論評などを読むことはあり、ウクライナ戦争について彼が一般とは違う冷静な意見を発していることはそれなりに承知していても、『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋、2022年)や『問題はむしろロシアよりも、アメリカだ』(池上彰との対談、朝日新聞、2023年)にも食指は動かなかった。それにもかかわらず今作に興味をもったのは、この10年ほど、アメリカは言うにおよばず、ヨーロッパの衰退を感じることが非常に増えたためだ。 

  従来の家族構成分類に加えて、宗教の崩壊が自身の分析モデルの中心にあると書く著者は、今作では宗教が「活動的状態」から「ゾンビ状態」に移行し、やがて「宗教のゼロ状態」になるという具合に時代ごとの分類も加えているので、なおさらややこしい。しかも、文脈によって微妙にその年代がずれているようでもあり、気になった。ちなみに、「ゼロ状態」になれば、社会が個人単位に解体され、国家機関が特別な重要性を担うようになる。いずれ宗教の絶対的虚無状態のなかで国民国家は解体され、グローバル化が勝利するのだともいう。

   原書が執筆されたのは2023年夏のあいだで、その年10月に始まったイスラエルとハマースのあいだの戦争に関する追記と、日本語版に寄せた2024年7月のあとがきはあるが、基本的にはウクライナとロシアの戦争にたいする分析を軸に、それを取り巻くアメリカとヨーロッパ諸国の近い未来の敗北を予測している。著者は大国に限定した場合の広義の西洋になぜか日本を含めており、日本がその他西洋諸国と運命を共にするのかについては、この先の進路しだいと言葉を濁している。

  2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻直後に西欧諸国で言論の自由がなくなった事態に、私も非常に危機感を覚えた一人だったが、本書の日本語版刊行に際して書かれた序文に、フランスでも「およそ八カ月間、沈黙を保たなければならなかった」とトッドが書いていることは多くを語る。 

 ロシアとウクライナ問題で彼が指摘していることは、侵攻当初にマイダン革命のころのBBCの動画や、本書でも言及されているジョン・ミアシャイマーの動画、プーチンを悪魔化するなと訴えるフランスのジャーナリストの動画などをかなり視聴した私には、さほど目新しいものではなかった。それでも、人口統計学者でもあり、各国の統計に詳しいトッドならではと思う指摘はいくつもあった。たとえば、ロシアが2020年に近年で初めて農産物の純輸出国になったこと、ロシアの工学専攻率は23.4%にたいし、アメリカは7.2%、イギリスは8.9%、ドイツは24.2%(2020年)で、ロシアが多くの技術者を輩出しており、ゆえに製造業が健在であること、ロシアの女性一人当たりの出生率は1.5人であり、動員可能な男性人口が40%も縮小しているのに、国土は1700万平方キロもあり、「ロシアにとっては、新たな領土の征服などもってのほか」であり、ゆえにウクライナを倒したあとヨーロッパを侵略するというのは「単なる幻想かプロパガンダ以外の何物でもない」ことなどだ。 

 ついでながら、ルイス・ダートネルが『この身体がつくってきた文明の本質』(河出書房新社、2024年)でロシアの人口ピラミッドを提示しており、第2次世界大戦の大きな爪痕がほぼ25年おきにいちじるしく人口の少ない世代となって現われているため、10代後半から30歳以下の人口が極端に少ないことを指摘していた。ソ連の一員であったウクライナにも、同じことが言えるはずだ。 

 ウクライナについては、独立時の大都市はキーウを除けば、ロシア語話者が多かった南部と東部オデーサ、ドニプロ、ハルキウしかなく、西部にはある程度の規模のリヴィウがあるのみという。ウクライナの航空産業、軍事産業などの最先端産業は東部に位置し、ロシアと結びついていたが、ロシア語話者の中流階級は、ウクライナ語話者のナショナリストの敵意の対象となるなかでロシアへ移住してしまい、1989年から2010年にかけて人口の20%を失った東部の町が多いそうだ。 ナショナリズムの活発な西部は歴史的に長年ポーランド貴族に支配され、ウクライナ人は農奴として扱われていた土地で、確かに「ネオナチ」の拠点ではあったが、トッドによれば、それ以上に、侵攻前からウクライナ全土に広がっていた「ロシア嫌い」こそ解明が必要な現象という。

 フランス語で原書を読めるほどのフランス語能力がないので、確認していないが、「ロシア嫌い」は日本では「反露」と訳されることが多いrussophobieの訳語のはずだ。通常は高所恐怖症のように、「恐怖症」と訳されるフォビアという言葉は、ゼノフォビアやイスラムフォビアを含め、「〜嫌い」「反〜」と訳され、いまは意味的にも敵対心、反感を表わすようだが、語源的にはもっと心理的、歴史的な恐怖心があると思う。 

 ウクライナ社会では「〈ロシアに対するルサンチマン〉が最終的には指針となり、展望となり」、この戦争こそが、ウクライナにとっての「生きる意味」になり「生きる手段」となりうるとし、ウクライナは真の「国家」ではなく「ワシントンからの資金に依存する軍・警察組織」でしかないといった説明を読むと、「ロシア嫌い」にかろうじて国としてのアイデンティティを見出している、末期状態を感じさせた。アンチにしろ、フォビアにしろ、自分ではないもの、敵との区別や抵抗が自分の存在理由になるのは、哀れな状況だ。  

 トッド自身はカトリックの家庭出身らしいが、彼自身の宗教観は本書ではいま一つわからなかった。ただし、西洋の発展の中心と根源にある特殊な宗教、プロテスタント諸派に関しては面白い言及がいろいろあった。プロテスタントの教会はすべての国民が土着語で聖書を読むことを求めたため、大衆の識字化が進んだほか、「国民」も早くから誕生していた。「ある者は選ばれ、ある者は地獄に落ちる」とするカルヴァン派の予定説は、キリスト教本来の「人間はみな平等」という概念に戻ることはなく、トッドは「黒人排除こそがアメリカの自由民主主義を定義し、機能させていた」とし、「共産主義的普遍主義に道徳面で太刀打ちするために必要」となった「黒人の解放は、予期せぬ負の結果の一つとして、アメリカ民主主義の混乱をもたらした」などと書く。「共産主義は、正教会後のロシアの〈宗教〉となり、社会を結束させる集団的信念になっていた」という指摘も興味深い。 

 1957年のスプートニクの衝撃から科学面でソ連と対決しなければならなかったWASPエリートたちは、ハーヴァード、プリンストン、イェールという三大名門大学へのユダヤ人入学者数を限定する「ヌメルス・クラウズス」制度を実質的に廃止されたとも述べている。このあたりは、ちょうどマイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』で、マンハッタン計画の科学顧問だったコナントがSATを導入した経緯などを読んだばかりだったので、フムフムそういうことかと思いながら読んだ。  

 アメリカの「WASPの終焉」、「ユダヤ系知性の消滅?」といった小見出しで述べた状況や、東欧について書いた章に関連して、トッドは自身の出自についても言及しており、曽祖父がブダペスト出身のユダヤ人で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系でもあるとする。そのことと多少関連するのか、彼の同性婚にたいする見解、とくにトランスジェンダーへの姿勢はかなり一方的だ。フェミニズムに関する近著、Où en sont-elles?もあり、ウクライナ戦争絡みで非常に好戦的な姿勢を見せた女性たちについて書いたものと思われる。大野舞訳で文芸春秋より近刊と書かれていたが、こちらはまだ刊行されていないようだ。ウィキペディアによると、トッドはポール・ニザンの孫で、父親はジャーナリスト、息子は歴史家で、最初の歴史書は一家の友人であったル・ロワ・ラデュリからもらったとのこと。 

 トッドのいくつかの主張にはほかにも疑問が残るものがあった。2012年開通と2021年に竣工した天然ガスパイプライン・ノルドストリーム1と2の破壊工作について、攻撃はアメリカによって決定され、ノルウェー人の協力を得て実行されたとするアメリカの著名ジャーナリスト、シーモア・ハーシュの見解を「唯一真実味のある説明」だとして受け入れているところなどだ。ただ、これだけの内容の本を数カ月で書き上げるのは超人技と思うので、自身の思い込みから抜けだせない部分や、読者におもねった部分なども、当然ながらあるのだろう。「西洋」の分析のなかで、自国のフランスにたいする批判が少ないのは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(2016年、文春新書)であらかた述べてしまったからなのか。 

 「〈国家ゼロ〉に突き進む英国」という章は、翻訳の仕事や娘の留学を通じて、この20年余りの変遷をそれなりに見てきたので、興味深く読んだ。2016年のブレグジットは国民の復活ではなく、国民の崩壊の帰結であり、それによってイギリスはアメリカを選んで、みずからの独立を失いつつあるのだという。この章には「亡びよ、ブリタニア!」という強烈な副題がついている。原文はRule, BritanniaをもじったCroule Britanniaらしく、カンマがないのは気なるが、ChatGPTによれば、なくとも命令形と解釈してよいらしい。

 アメリカの国家安全保障局(NSA)がインターネットの普及とともに西洋のエリートたちを監視下に置いたという指摘や、そのもとコンピューター技術者であったエドワード・スノーデンがロシアに亡命したことが、アメリカ人がプーチンを許せない理由の一つだろうという推測もなるほどと思った。ウクライナが必要とする兵器をアメリカが生産できずにいる理由などは、アメリカの工業の衰退ぶりを明らかにし、GDPからは見えない経済の実体を明らかにする。アメリカは「世界通貨を最小限のコスト、あるいはコストゼロで生産できてしまうため、信用創造以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的はないものになってしまう」とも書く。

 集中できない状態で読むには複雑極まりない本で、一読した程度では半分わかった程度でしかない。終章に時系列で追ったまとめがあり、一応の頭の整理にはなる。ブレジンスキーが1997年刊行の著書で「共産主義の崩壊によってアメリカが用なしになれば、日本、そしてドイツという二つの極がロシアと手を結ぶ可能性がある」と恐れていたこと、2004年のウクライナのオレンジ革命はアメリカが中心的役割をはたしたが、2013年末からのマイダン革命はドイツに率いられたEUが裏で操作していた、といった指摘が印象に残った。再読したくなるころには、古本の値段も下がるだろうから、そうなったら入手してみよう。

2025年6月29日日曜日

『孤城春たり』を読んで

 新聞の書評で面白そうだと思い、長らくリクエスト待ちしていた澤田瞳子の歴史小説『孤城春たり』を読み終えた。幕末の老中板倉勝静は生麦事件の後始末などでよく名前が登場する人なので、それなりに知っていたし、山田方谷も少なくとも名前だけは記憶にあった。だが、松山藩については、立派な城があることで有名な伊予松山藩だと思い込んでおり、読み始めてしばらくして「山間の小藩だけに、海がない」という記述に頭をひねり、そのうちに「あれっ、備中ということは岡山県??」と気づくという間抜けぶりでわれながら情けない。伊予のほうは親藩で、備中松山藩は当然ながら譜代藩だった。幕末の藩主の板倉勝静は桑名藩主の8男、松山藩に養子入りした人で、松平定信の孫に当たるとのこと。備中松山のほうの城は、「天空の山城」としてネット上でちらりと見たことのある城だった。 

 まったく知識のない方面の話で、登場人物もそれなりに多く、最初のうちは戸惑ったが、非常にわかりやすく、テンポよく書かれた小説なので、するすると読み進められた。歴史小説はよほどのことがないと読まないほうなので、澤田瞳子の著作も今作が初めてだったが、母親の澤田ふじ子がやはり歴史小説家だそうで、かなりの書き手であることは間違いない。何と言っても、明治維新でいちばん割を食った譜代の、それも小藩から見た幕末史など、これまでほとんど書かれていないし、いろいろな意味で私の祖先がいた上田藩の状況とも重なるものがあって参考になった。京都出身の著者が幕末の譜代藩について書いたということも、画期的ではなかろうか。京都は公家のほかは、職人、町人の町だったし、幕末には尊皇攘夷の中心地となった土地柄だからだ。  

 本書の中心となる人物は、備中松山藩の精神的指導者のような儒者、山田方谷である。当時の松山藩は5万石とはいえ、実際の石高が2万石に満たず、借金だけは大大名並みに10万両もあり、「貧乏板倉」と揶揄されていたらしい。その藩政を立て直したのが方谷で、無駄の多い大坂の蔵屋敷を廃止し、大名貸しを行なう豪商である銀主に藩の財政事情を包み隠さずに伝え、頭を下げて返済を数年待ってくれるように頼んで回ったという。本書では大坂屈指の両替商である加島屋久右衛門の名前が上がっていた。少し前にこの加島屋の親戚である銀商から、上田藩が借金をしていた記録を見ていたし、重い腰を上げて読み始めているE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』にも、こうした問題に関する鋭い指摘があったので、興味深く読んだ。  

 山田方谷は藩の財政を建て直しただけではない。「義を明らかにして、利を計らず」と、正論を唱えつづけたそうだ。勝手不如意になると、利に聡い侍ばかりが増え、結果、世は衰微すると主張していたという。国のトップがことあるごとにディールだと言って憚らず、選挙民でなく資金源でもない人間など眼中になく、人の尊厳も幼い命もお構いなしで、損得がすべての判断基準のように振る舞ういまの世の中には、方谷のような人物は絶滅危惧種、いやすでに絶滅種なのかもしれない。道徳的、倫理的な説教が苦手な私ですら、「義はどこへ行ったのか」と言いたくなる昨今、本書を読むと、胸のつかえが下りるような感がある。 

 方谷は郷土の英雄として多少美化されてきたところもありそうだが、本書は方谷自身には多くを語らせず、教えを受けた藩士などの口から師の理念を代弁させて、いくらか客観性をもたせているので、さほど不自然なく受け入れられる。舞台を備中松山、江戸、京都、大坂と移動しながら、嘉永年間から戊辰戦争まで比較的長い年代を扱うので、時代ごとにそれぞれの登場人物の視点から物語を進め、大勢の口から方谷を語らせる手法が効いている。もっとも、それらの人物が語り手であるわけではなく、人数も枝葉も多く、一読したくらいでは、すべてのエピソードが頭のなかでしっくり収まらない。この書評を書くに当たって検索してみたら、山田方谷だけでなく、熊田恰のような印象的な藩士に関する情報もネット上にかなりあったので、全国的な知名度は低くとも、小説を書けるだけの十分な材料はそれなりに揃っていたのかもしれない。 

 いくつか印象に残ったことや気になった点を挙げておく。山田方谷が唯一の女の弟子、福西繁に陽明学について語る場面がある。「誰かを自らの思いのままに為さんとはすなわち、世を従わせ、己を傲岸に振る舞わせる行いです[……]それは同時に、人間とは究極的には、自らの声にのみ耳を傾けるべき存在であることを意味します」と語る方谷が、それが陽明学なのだと言う場面だ。ならば朱子学ではなく、陽明学を学ばせてくれとすがる繁に、方谷は「陽明学は優れた点も多いですが、これのみを学ぶと偏りが生じます」と答え、朱子学を理解してから学ぶようにと諭す。ちなみに、福西志計子は岡山の女子教育に大きく貢献した実在の人物で、ウィキペディアによれば、彼女が創設した順正女学校がのちに順正短期大学となったようだが、その創始者は加計学園グループ創始者だった! 

 方谷の名前を最初に知ったのは、記憶どおり、松本健一の『評伝 佐久間象山』からだった。象山と方谷は斎藤一斎の門下で学んでいる。一斎が陽明学に傾倒していることに納得できなかった象山が師に向かって「文章詩賦は学ぶけれども、経学の教授は受けない」と宣言したエピソードはよく知られている。象山は陽明学者であった大塩平八郎にも批判的で、陽明学の思想は治政を乱すと考えていた。象山はいち早く西洋の技術を取り込んだ人だったが、つねに為政者の立場に立つ元祖ナショナリストであり、保守本流的なところがある。ちなみに、ノーマンは大塩平八郎に関する注に陽明学は個人主義的、民主的思想だと書いていた。 象山より6歳年上だった方谷は、象山の覇気に辟易していたらしい。一応、象山の門人だった河井継之助に「佐久間に、温良恭謙(倹)の一字、何れ阿(有)ると」と漏らしたという『孤城春たり』に書かれたエピソードを、松本も引用していた。これは河井の全国遊歴の日記『塵壺』に書かれているようだ。河井もこの小説に少しばかり登場する。長岡にいた親戚が、長岡市街を火の海にしたので、地元では河井は人気がないと言っていたことなどを思いだす。象山とは意見が対立することの多かった方谷だが、京都・木屋町で象山が殺されたときは、丸二日間ものあいだ自室に籠り、家の者たちを心配させたと澤田は書いている。 

 この小説には、藩主が板倉家の分家だった安中藩の新島七五三太(新島襄)も登場し、藩の許し得ぬままおそらく万延元年に蘭方医杉田玄端のもとに勝手に入門し叱責を受けたと書かれていた。杉田玄端のもとに、嘉永6年か7年に私の祖先が蘭書の訳本を購入しに行った記録があるので、同じ譜代藩でも上田藩は早期から蘭学を奨励していたことなどがよくわかった。 

 同じころ江川太郎左衛門英敏の塾に入門した松山藩士2人の話が一つの章となっている。松本健一の評伝から、英敏の父である英龍によい印象のなかった私には、『孤城春たり』を読んで江川家の苦労がわかり、見直すものがあった。新島襄はのちに、松山藩が購入した洋式帆船に乗せてもらって箱館まで行き、そこから密航していた。この章は、英敏の後ろ盾となってきた初代外国奉行の一人、堀利煕の自害についても少々触れており、老中首座の安藤信正に叱責された程度で切腹するはずがないという台詞を、英敏に吐かせている。堀利煕はいとこの岩瀬忠震に比べて地味な人だが、はるかに芯の通った人物に思われ、彼の自害の理由について少しばかり調べたことがあった。

 同じ章に桜田門外の変に関する記述もあり、事件現場の地図を再び探しだしてみたら、松山藩邸は現場となった杵築藩邸前より、一本東の通りを入った先にあった。著者はこれまでおもに平安時代の作品を書いてきたらしく、桜田門外の変については全体的に、近年、判明してきた諸々の事実は考慮されない展開となっていた。とはいえ、個人的には小説ならではの、面白い箇所もあった。事件に出くわして慌てふためいた松山藩士の塩田虎尾が「長屋門の脇の番所へと駆け込んだ。[……]往来に面した出格子窓に顔を押し付ければ、様子見を決め込んだのは近隣の屋敷も同じらしい」という件で、向いに立つ長州藩上屋敷も表門を閉ざしていると描写されていた。ちょうど、上田藩の藩邸門の素人工作模型をつくったばかりで、番所の格子窓はどうなっているのかと繁々と眺めたあとだったので、なるほど、門を開けずにここから覗くわけだな、などとわかり、楽しくなった。ただし、古地図を見る限りでは、事件当時の松山藩邸は表通りに面していないので、梁受けで突きだした出格子窓からどれだけ覗いても、現場は見えなかっただろう。 

 鳥羽伏見後に佐幕派の藩が受けた扱いはさまざまだったと思われる。藩主の板倉勝静が老中首座を務め、徳川慶喜が大坂を脱出した際にも同行したとあっては、新政府軍として備中松山藩は見逃せない相手だったようだ。隣の岡山藩は外様の大藩で、幕末の9代藩主、池田茂政は水戸の徳川斉昭の子であり、「実父の影響から藩論を尊皇攘夷に傾け、長州とも誼を通じた男である」と、小説には書かれていた。こういうことを知るとますます、幕府を崩壊させた重大要因の一つは斉昭だと思わざるをえない。もっとも、兄である慶喜の東帰後はさすがに茂政は隠居したようで、ウィキペディアによれば、支藩から池田家の藩主を迎えるに当たって岡山藩は「倒幕の旗幟を鮮明にした」そうだ。この時期の松山藩の苦難は、やはり藩主が幕末に大老や老中を務めた姫路藩がくぐり抜けた事情と似ている。姫路城や松山城が日本を代表する城として現存するのは、当事者や関係者が衝突回避に尽力した結果の、奇跡のようなものだ。 

 岡山藩の矛先は備中松山藩に向けられ、京都・大坂に出向いていた松山藩士150名が、藩主の命令で帰国すると、国元ではすでに徹底抗戦を唱える主戦派を穏健派が抑えて城を明け渡すことが決まり、城下から立ち去る準備が進んでいた。折悪しくそこへ戻ってきた150名の恭順の意を示すために、その部隊を率いた熊田恰という藩士が切腹して首を差し出すことになった。上田藩は、若年の藩主が家臣の説得等もあって慶応4年3月という、それなり早い時期に上京して恭順したため、江戸屋敷こそ立ち退きさせられたが、こうした苛烈な扱いを受けることはなかった。 

 小説自体は、読者を泣かせるこのクライマックスで終わるが、ウィキペディアによれば、方谷は維新後の松山藩の再興にかなり尽力したようだ。榎本武揚らと蝦夷地で戦いつづける藩主板倉勝静を、プロイセン人を使ってなかば騙し討ちで引き戻し、自首させたらしい。このドラマも読んでみたかった。方谷は小説の最初から老人として登場していたが、晩年も陽明学を教えつづけ、明治10年に72歳で亡くなっていた。

澤田瞳子『孤城春たり』(徳間書店)
初出は「山陽新聞」2024年2月3日から12月10日号で、刊行にあたり大幅に加筆修正とのこと

サザエさんの家と同様の、紙工作版。格子そのものは開かず、その内側に雨・風避けで、油障子があったのではないかと推測中。極小サイズなので、番所の出格子窓があまり「出」ていない

アイスクリームの棒と竹ひごで、多少大きめにつくった裏門。『孤城春たり』を読んで、アイスの棒の見張り番も加えてみた。棒のストックがなくなり、残りはアイスを食べてからつづける予定

2025年6月12日木曜日

十河家のピアノ

「二女が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました」  

 これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。

「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。 

 生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。  

 ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。

 ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。  

 本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。  

 母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。

 母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。  

 私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。 

 寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。

『十年会々誌』と祖母の下書き原稿

2025年6月5日木曜日

長野の日赤病院

 2年前、母の遺品の写真を整理した際に、1948年3月に松代小学校の卒業式に撮影された集合写真を見つけた。まだ下駄履きの子もいる、戦後まもない時期の写真だ。母は長野師範付属小学校(現信州大学付属小)に通っていたが、その前年に父親が松代で開業したために6年生で転校し、1952年に屋代に再度引っ越すまでの5年間を松代で過ごした。  

 長野の日赤病院外科部長で副院長を務めていた祖父が、松代で開業することになった経緯は、母からそれなりに聞かされていた。副院長という立場ながら率先して労働組合をつくり、ゼネストに参加したために解雇され、誰かの伝手を頼って、松代の鈴本とかいう料亭跡を買い取って医院に改造した、というものだ。もっとも、母が好んで語ったのは、信州なのに雨戸のない家で、廊下に雪が積もり、そこで曽祖母が滑って転んで手の骨を折ったという気の毒な笑い話だった。朝起きると、吐息が凍って布団の端がバリバリになったと付け加えるのも忘れなかった。  

 ネット上の過去の情報はどんどん増えるので、先日、久々に国会図書館のデジタルコレクションで祖父の情報を検索したら、これまで十二指腸潰瘍の論文など、読んでもよくわからないものしか見つからなかったのに、『長野県地方労働委員会年報』という書籍が引っかかってきた。開いてみたらどんぴしゃり、祖父が日赤を辞めさせられた経緯が「長野日赤病院事件」として詳述されていた。  

 このページ自体には書かれていなかったが、祖父がクビになった背景には1947年2月21日に計画され、ダグラス・マッカーサーの指令によって中止になった「二・一ゼネスト」があった。長野の日赤でも1946年3月に病院の民生化を目的に組合が結成されているので、日本全国で労働争議が起こっていたのだろう。当時の院長がその結成を阻止しようとすると、組合側が院長の退職を要求して追いだしたのだそうだ。院長の後任には副院長だった祖父を推す声が多く、請願書が出されたが、日赤支部長の物部薫郎氏が反対して、別の人が院長として赴任してきた。それを受けて労組内部ももめて事態が紛糾し、物部氏が同年11月に紛争の責任者処罰を主張し、矢面に立たされた祖父が辞任を要求された。「馘首を取り消した後改めて辞表を提出」と体裁だけ繕われ、この事件は「昭和二十二年二月一日解決した」。ゼネストが予定された当日に「事件」は幕切りとなっていた。  

 祖父をクビにした日赤支部長は、内務・厚生官僚から県知事に任命された人でもあった。「事件」一か月後の3月に実施された知事選では、「官僚の物部か県民の林か」と訴えた林虎雄氏に敗北していた。もう少し時期がずれていれば、祖父は日赤に残れたのかとも思うが、物部氏はおそらく日赤支部長のポストには居座りつづけただろう。初の民選知事となった林氏は、長野で布教していたダニエル・ノーマン(ノルマン牧師)の教育を受けた人だったようだ。  

 その3月に祖母は6人目の子を出産したばかりで、育ち盛りの大勢の子どもを抱えた祖父母は途方に暮れたに違いない。戦争末期には40代前半で5人の子持ち、かつ日赤の外科部長として、松代大本営の工事現場から運ばれてくる負傷者の治療などにも当たっていた祖父も最後は一兵卒として召集され、甲府連隊に送られたと母からは聞いた。 

 伯母が晩年に朝日新聞の「女の気持ち」に投稿した文章によると、祖父は開戦の朝、子どもたちに「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と語ったらしい。そう書いた作文が地元紙に掲載されることになったために、先生からこの箇所を、「『日本は必ず勝つ』とお父さんはおっしゃいました。私はうれしくてたまりせん」と、書き直しさせられた。伯母はそのときのわだかまりを、70年間心の奥に閉じ込めていたという。 

 今回の検索では、長野県地方労働委員会のこの記録のほか、『日本窒素への証言』という冊子も引っかかってきた。直接見つかったのは、脳卒中で倒れて以来、右半身不自由となった祖父に代わっての祖母の投稿だったが、そこから祖父が一時期勤務していた朝鮮窒素肥料の病院が「興南病院」であることも判明した。水俣病訴訟のニュースを読むたびに、いつかこうしたことも調べなくてはと思う。

1948年3月松代小学校の卒業式

1941年11月 長野日赤時代