2025年12月31日水曜日

2026年元旦に

 年末年始に帰るべきところもなくなり、スープの冷めない距離にいた娘一家も、自転車で30分ほどのところへ引っ越してしまったが、とりあえず元気に新年を迎えることができた。昨夜は近くに住む姉夫婦が天ぷらと年越し蕎麦の夕食に誘ってくれたので、何年かぶりにテレビで紅白歌合戦も見ることになった。 

 その後、孫がどうしてもまた除夜の鐘を撞きに行きたいと言うので、夜中に駅で待ち合わせて、今年も近所のお寺にお参りすることができた。帰りの電車の時間があったので、ゆっくりはできなかったが、3年連続はちょっとした快挙だ。娘が絵本『じょやのかね』の舞台にした船橋の飯山満の光明寺には何度くらい詣でただろうか。初日の出を拝みに行くほどの気力はなかったので、今年は省略した。 

 昨秋は2冊の本の校正が見事に重なって、初校、再校が入れ替わり立ち替わりやってきて、紙に埋もれるような毎日だった。そのうちの1冊『〈平等〉の人類史』は500ページ超の思想史の大作だったので、なおさらだ。12月なかばからは年末が締め切りの「忠固研」史料集のための原稿をどうにか書き上げた。  

 そんななかで、孫の労作「わたしのイネかずかん」(イネ科図鑑)が木原記念こども科学賞の低学年の部で最優秀賞をいただいたため、先月なかばには横浜市役所のアトリウムで行なわれた表彰式には顔を出し、晴れ姿を目に焼きつけておいた。考えてみれば、私はこの年齢まで何かまともな賞を受賞した経験がない。翌週には姉のピアノ教室の発表会があったので、それも聴きに行った。ふだんちっとも練習しない孫は、今年は自分の力量をはるかに超えたブルクミュラーの「牧歌」と「バラード」をそれなりに弾き、「きょしこの夜」を娘と連弾をした。上手な生徒さんの演奏に刺激を受けたのか、終わってから急に「タランテラ」を自分で練習しているらしい。 

 太陽の位置が低いこの時期は、15年ほど前に建った隣家の大きな二階のせいで日中は家のなかが暗く、寒々としている。それでも、冬至を過ぎるころから、細い陽の光が「冷たい水の中の小さな太陽」さながらに入るようになり、冬の午後、家のなかに長く射し込む西陽をありがたがっていた母を思いだす。昨年の日本庭園の本の仕事で谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだおかげで、暗いからこそわずかな光が大切に思えるのかとも思えるようになった。 

 一連の仕事が片づくと、休む間もなく、本来は年末に仕上がる予定だったはずが、まだ3分の1程度という次の仕事に必死に取り掛かった。当然ながら正月休みも返上で、残りの半分ほどまでにきたこの物理本を少しでも先に進めなければならない。遠心調速機の仕組みだの、太陽歯車と遊星歯車の動きだのを、動画を見たり、解説を読んだりしながら理解しようと努めている。 

 どこにも行けず、寒い家のなかでPCにかじりついていなければならない日々は、どうしてもストレスが溜まる。最近は、私のフェイスブックにやたらレゴの動画が流れてくるので、ストレス発散に眺めると、いろいろアイデアが浮かび、歯車の仕組みの勉強だとか、あれこれ言い訳をしつつ、何度もパーツを買い込んでしまった。娘には完全に呆れられ、使えなかったパーツを孫のレゴ箱に追加すると、「また撒菱が増える!」と怒られている。実際、私に似て整理整頓が苦手な孫は、床中にレゴを散らばしたままにしているので、抜き足差し足で歩かなければならない。 

 こんな調子で、何ともパッとしない毎日を送っておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本庭園の本に刺激され、この半年ほど育てていミニチュア苔庭と、長年集めた?馬たち。ステップの馬とチャリオットの10年前の紙工作もまだ健在。日本人形たちは結局、何にもならずに終わっているが、花と幸は上田紬の着物で正月を迎えることに。虫眼鏡でコケを観察するわが姿は、子どものころ苦手だったヘムレンさんにそっくり。「雑多な苔」は、フリント船長の書いている本のタイトルだったか

いつもに増してピンボケになったが、除夜の鐘の記念に

午後になると少しだけ差し込む陽射し

2025年12月18日木曜日

 橘、タチバナという名称を知らない人はまずいないと思うが、雛壇の下に飾られる「右近の橘」を思い浮かべる程度で、実際に橘を見たことや食べたことのある人は少ないのではないだろうか。 

 以前にも書いたように、母の実家の家紋は菱井桁に橘で、柑橘類は基本的に暖かい地方のものだし、何かしらルーツを知るヒントが得られるのではないかと漠然と思ってきた。墓地にある江戸時代前期の墓標に、線刻ながら、橘とわかる紋が彫られているのは以前から気づいていたし、幕末に書かれた史料に「家紋井桁菱之内橘」の文字を確認できたことで、その思いは強まった。 

 春に調べたときはすでに季節的に遅く、苗木の販売サイトしか見つからなかった。酸味が強くて生食用には向かないとの説明もあったので、12月になるのを待って、1900年をさかのぼる橘の歴史があるという和歌山県の橋本神社の橘の実を、その近所の果樹園のサイトから2個だけ(!)購入してみた。 一つはお供え用に綺麗にパッケージに入っており、もう一つは味見用となっていた。

 由緒書きによれば、11代目の垂仁天皇の家来の田道間守が不老長寿の妙薬を探して常世の国まで10年間旅をしてもち帰った「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)の種から芽生えた苗を、和歌山県海南市下津町に移植したのだという。橋本神社の近くには六本樹橘創植の地という碑があるそうだ。 垂仁天皇は、実在したとすれば3、4世紀ごろの人で、田道間守のほうは伝説上の人物らしい。内容からすると、不老長寿の薬という点が徐福伝説ともどこか被るものがあり、こちらも九州のほか、和歌山や三重、愛知などにも伝説が残る。右近の橘が京都御所の紫宸殿前に植えられたのは10世紀後半のことだった。 

 果物としてのタチバナ(ヤマトタチバナ)は、沖縄原産のタニブターとアジア大陸産のマンダリンオレンジの交配種で、日本産の柑橘類の親の一つと考えられている。九州、四国、和歌山、三重などに「自生地」が若干あり、北限は伊豆半島の戸田だという。戸田は幕末にロシア軍艦ディアナ号が沈没し、ヘダ号が建造された地でもあり、タチバナ狩りもできるらしいので、いつか行ってみたい。 

 橘の歴史からも、科学的研究からも、先祖のルーツ解明につながりそうなヒントは見つからなかったが、購入した貴重な2個の橘は、一つを孫にあげて、絵を描いて欲しいと頼み、もう一つを自分の試食用とした。木の上で完熟した実を送ってくれたのか、柔らかめで、酸味は強いものの、十分に生食にも耐える味だった。10個の種が入っていたので、植えてみることにしよう。うまく発芽して育ったら、姉宅に移植してみよう。京都でも育つなら、横浜でも十分にいけそうだ。 先日、娘宅に行ったら、孫だけでなく、娘も忙しいのにちゃんと絵を描いてくれ、しかも小さな額に入れてプレゼントしてくれた! 

 孫の絵は紙一枚だったので、母宅から引き上げてきた100均の額にとりあえず入れてみた。娘が毎年制作してきた孫のミニ版画を入れられるように私が買って渡した額で、裏を開けてみたら、そこにもう2枚赤ん坊のころからのミニ版画が入っていた。表に入っていたのは、幼稚園に入ってブランコを立ち漕ぎできるようになった孫の図柄で、それが母の最後に見た「ひ孫」の姿ということになる。 

 日常にはまず見ることのない果物となった橘だが、じつは十大家紋の一つらしい。柏、片喰、桐、蔦、藤、茗荷、木瓜、澤瀉と並ぶ植物の紋で、残る一つは鷹の羽紋だった。カシワやキリ、フジはわかるとしても、カタバミ、ミョウガ、オモダカなど、随分とささやかな植物を家紋に選んだものだ。酒井雅楽頭家は片喰紋で、前橋の龍海院の墓地でこの紋をたくさん見た。 

   うちの父方は木瓜紋(もっこうもん)であることを、先日ようやく画像検索機能で確認した。灌木のボケのことかとも思ったが、読んで字のごとく、本当にキュウリらしい! 瓜の輪切りや鳥の巣を図案化したもの……となれば、これまた孫に絵を描いてもらわねばならない。キュウリはどうか知らないが、鳥の巣は大好きだから、楽しい絵になりそうだ。

 そう言えば、橘もずいぶん小さな果物なので、もう少し大きな果物にすればよかったのにねと話していたら、孫が「ドリアンとかね!」とすかさず言うので大爆笑した。ドリアン紋、強そうでいいかも。でも、考えてみたら、桃や柿なども、昔はずっと小さな実だったに違いない。山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ」というのは、メロンの祖先のマクワウリのことらしい。若い実はカラスウリのような縞があって可愛いが、マクワウリは地面で実をつけるので、木瓜はやはりキュウリか(12月20日加筆)。
 

 左)娘作、右)孫作

2025年12月4日木曜日

七五三 7歳

 今月朔日に、舞岡八幡宮という神社に七五三のお参りに行ってきた。三歳の七五三のときは一緒に祝ったじいちゃん、ばあちゃんたちが、この間に皆、鬼籍に入ってしまったことを思うと年月の経過を感じる。2年前の春に逝ってしまった母にはとりわけ、ひ孫の晴れ姿を見せたかった。というのも、孫が着た着物は、亡母のお宮参りのときの着物だからだ。 

 私たちのころは、ちょうど祖父が倒れたりして余裕がなかったのか、千歳飴をもらったくらいだった。年の離れたいとこの七五三のときになって、この古い着物があることを祖母が思いだしたらしく、いとこのおばあちゃんが子ども用に仕立て直してくれたのだそうだ。いとこ姉妹が着たあと、その着物は別のいとこの娘や、うちの娘、姪たちが代々着て、七歳の七五三を祝った。3歳のときの写真に加えて娘がまた、同じ着物姿で勢揃いした合成写真をつくってくれた。それぞれの成長ぶりが一目でわかって、何とも楽しい写真だ。 

 この秋は仕事が重なり、多忙になることが以前からわかっていたので、夏前から髪飾りを用意するなどして、少しずつ準備を始めた。といっても、お金をかける気はなかったので、ヤフオクやメルカリで中古品を探したあとで、自分でつくれるのではないかと考え、手持ちの木のビーズに拾った枝をつけて、家にあったセタカラーを塗って簪をこしらえ、着物の柄に併せて牡丹もどきを描いた。櫛は数百円の白木のものを買って色を塗り、絵付けは「絵師」の娘に任せた。孫の好きなカブトムシとエノコログサ、それにアオスジアゲハをえらく上手に描いてくれた。あとは娘の成人式のときに私がつくったホロホロチョウの羽付きのビーズの髪飾りに、孫がこれまで拾い集めたヤマシギなどの羽を付け足すことでよしとした(娘同様、孫にも羽収集癖があるので、羽はいくらでもある)。  

 着物類はこの四半世紀ほど姉宅で保管されていた。1か月ほど前にそれを受け取りに行き、恐る恐る着物の状態を確認したところ、小さな染みは随所にあるものの、90年前の着物とは思えないほど良好な状態だった。母よりも着物のほうが長生きしたなと感慨深い。母はいまの北朝鮮の興南で生まれており、お宮参りの写真が現地の写真館で撮影されていることは判明していたので、この着物は曽祖母が縫って、曽祖父が段飾りのお雛様とともに送ったのではないか、などと叔母とともに推測している。その後、日本にもち帰られた着物は、何度も引越しを繰り返すなかでも捨てられることなく、90年間、戦火にも災害にも遭うことなく保管されてきたわけで、子ども用の着物に仕立て直されてからは、合計7人の子の晴れの日に活用された。絹織物の伝播についてはたびたび訳す機会があったし、この数年は幕末の絹織物や生糸貿易について研究会で勉強してきたこともあって、絹地がこれほど長持ちすることに感嘆している。死んでいったカイコガたちも、少しは浮かばれるだろうか。 
 
 帯は3歳のときのお被布同様、大丸に勤めていた叔父の社員割引を使って、いとこの家が奮発して誂えたという立派な全通帯だ。小物類もおおよそ残っていた。娘の七五三のときは近所のおばあちゃんが着付けをしてくれ、髪は私が適当に結って済ませたのだが、いまはそんなことを頼める人も近くにいない。髪と着物を着せるのはともかく、袋帯を結ぶのは、どれだけ動画を見ても素人では難しいので、結局、美容院にお願いすることにした。  

 着付け動画から腰紐、帯枕、前板、三本仮紐等々、まだまだ細々としたものが必要であることがわかり、手持ちの端切れや椅子の張り替えの残りのウレタンフォームで手作りした。やはり超多忙な娘の代わりに、美容院の事前打ち合わせに行ってみると、先に用意した手作り小物類は無事に「合格」したものの、さらにまだ伊達帯と髪につける鹿の子が必要だという。伊達帯のほうは15分工作で出来上がったが、鹿の子なる髪飾りはどうするか悩んだ。「そんな変なもの本当にいるの?」と、娘は懐疑的だった。調べてみると、もともとは手絡という日本髪を結うのに使った布で、それに京鹿の子がよく使われたのが七五三の風習に残り、名前も鹿の子になってしまったことがわかった。ならば、別に絞りでなくても構わないわけだ。母の遺品に細かい青海波柄のついたオレンジ色の帛紗があったので、それを細く切ってつなぎ合わせ、なかに綿を詰めてヘビのぬいぐるみのような代物をつくった。 

 そんなこんなで迎えたお参りの日は、新嘗祭と兼ねて横濱水天宮から神主さんがきて祈祷をしてくださり、ありがたいことに穏やかな暖かい一日となった。周囲を田んぼに囲まれた鎮守の森のなかにひっそりと佇むような神社だが、境内の銀杏が見事に色づいていて、着物の色ともぴったり合い、これ以上は望めないほどの背景となっていた。創建は1302年と言われているが、千木や鰹木のある神社が明治期に多くつくられたようなので、そのころ再建されたのではないだろうか。拝殿は吹き抜けの舞台になっているので、嵐の日とかでなくて本当によかった。 

 この日、娘のママ友で写真家のなみちゃんが撮影にきてくださり、夢のような午後のひとときを、その空気まで見事に記録してくださった。孫は最後にはくたびれはてて、着物の裾をたくし上げて長い階段を降り、車に乗る前に帯揚げをむしり取ってしまったが、それもまたよい思い出となるだろう。 

 次にいつ誰が着るのか、それまでこの着物が原型を留めるのかどうかも怪しいが、取り敢えずクリーニングには出そうと思って干しておいた着物を畳む段になって、裏地の薄い絹が随所で破れかかっていることに気づいた。表地はいまのところまだ形状を保っているが、次に誰かが着るとすれば、裏地は一部仕立て直さなければならないだろう。

同じ着物で2度の七五三を祝った代々の子どもたち。これは、7歳の着物だけ着たもう一人の親戚の子も含めた勢揃い写真。













 Photo @なみちゃん

2025年11月4日火曜日

大宮さん その2

 先週、あいにくの小雨模様で神保町ブックフェスティバルは中止となってしまったが、ご先祖調査のほうは決行してきた。大宮さんの直接のご子孫はご旅行中とのことでお会いできなかったが、突然お訪ねしたにもかかわらず、ご年配のお嫁さんお二方とお話することができ、代々、皆さんお祭り好きだったことなどがわかり、心温まる一日となった。私が国会図書館デジタルコレクションでお名前を見つけていた方々(私の曽祖母の甥たち)も、実際まさにご本人たちであることが判明し、早速、心理学者だった録郎さんのご著書も図書館から借りてみた。同行してくださった母のいとこは、長年、下町のいろいろな活動に携わり、神田祭りはもちろん、「東京ビエンナーレ2025」というアートをテーマにした東京散策イベントですぐ近くの額縁屋優美堂をカフェに改装するプロジェクトなどにもかかわってこられたので、これもDNAのなせるわざなのかと不思議な気がした。 

 地図からはよくわからなかったが、現地を訪れた結果、高祖父が始めた材木店は、いまの靖国通りからお茶の水仲通りをわずかに入ったところにあったことが判明した。明治16年の「東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯島近傍」という地図(国際日本文化研究センター・所蔵地図データベース)では、この通りの突き当たりの甲賀町に「戸田邸」と書かれた大きな屋敷がある。明治32年の『東京名所図会』が高祖父の店を「戸田邸前通りにあり」と書いていたのは、お茶の水仲通りを指していたのだった。しかも、このお屋敷は戸田伯爵、つまり大垣藩の戸田氏共の邸宅だった! ラトガーズの留学生の古写真を調べるなかで、譜代藩主でありながら早々に新政府軍に恭順し、のちに鹿鳴館の華となった岩倉具視の三女を妻にした若者、戸田氏共は印象に残った一人だった。ウィキペディアの「戸田氏」によると、いわば維新の勝ち組であるこの家だけが、戸田氏のなかで伯爵に叙せられたという。靖国通り沿いの戸田忠行は足利藩主で、宇都宮藩戸田家の分家だった。曽祖母が嫁いだ門倉の家は上田藩に入る前、佐倉藩時代のこちらの戸田家に仕えていたことが判明している。 

 明治16年刊のこの非常に詳しい一連の地図は、2019年にこの高祖父が初め深川熊井町に住んでいたことがわかった際に、図書館で何枚かコピーしていたもので、いまはネット上でも簡単に見られる。「麹町区大手町及神田区錦町近傍」では、いまの靖国通り沿いに長屋のようなものがあり、「戸田邸前通り」に入った先に2軒ほど家がある。材木店はそのいずれかではないかと思われる。  

 図書館から『神田まちなみ沿革図集』(Kandaルネッサンス出版部編、1996年)という大型本を借りてみたところ、昭和10年ごろの小川町の再現地図のほか、明治20年ごろ、建設途中のニコライ堂から撮影された360度のパノラマ写真が掲載されていた。撮影者は写真師の田中武ではないかと同書は書く。ニコライ堂は、私の曽祖母が2歳のころに建設工事が始まり、高祖父が土蔵を建てたのはちょうど明治20年だった。13枚に分けて撮影されたパノラマ写真のうち、小川町のこの一角が写っているはずの写真は1枚しかなく、同書では第8葉がそれに当たる。このパノラマ写真は国会図書館デジコレの『明治二一年撮影全東京展望写真粘』(昭和7年)でもかなり鮮明な画像を拡大して見られ、こちらでは7葉となっている。 

 双方の書籍の説明からすると、手前にある広大な長屋門のある屋敷が甲賀町5番地の住友控邸で、その隣にわずかに戸田伯爵邸の庭が写っている。住友控邸はその後、「首相西園寺公望の邸宅となり、国木田独歩が居候していた時期も」あり、「ちなみに公望の秘書は同じ駿河台の原田熊雄男爵」だと『神田まちなみ沿革図集』は解説する。あれっ?確かこの人は、と思って調べると、記憶どおり蕃書調書や開成所で教えた原田敬策(一道)の孫だった。私の別の高祖父、門倉伝次郎は幕末に西洋馬術関連の「蘭書ネツテント」を訳したと言われていたが、実際にはこの原田敬策に依頼し、「翻訳せしめ」たらしいことが、拙著『埋もれた歴史』の刊行直前に判明していた。原田はその後、大いに出世している。この西園寺邸と戸田邸を譲り受けた場所に中央大学が大正13年から1980年代まであったが、現在は三井住友海上火災本社ビルとなっている。住友に戻ったということか。

 パノラマ写真の画面中央奥にある大きな建物は英吉利法律学校(創立時の中央大学)で、手前が小川町である。そのさらに先の広い敷地は学習院焼跡、霞んでよく見えないその先には、陸軍軍馬局や大蔵省、内務省、富士見三重櫓などがある。小川町と書かれた一帯へ、右下から斜めに通じる道が見え、それが「戸田邸前通り」だろう。いまの靖国通りに突き当たる辺りには、小ぶりながら黒っぽくて目立つ建物がある。その特徴的な建物は、『東京名所図会』の「神田小川町通りの図」のほぼ中央に描かれていた建物と同一と考えてよさそうだ。ということは、高祖父の材木店は「戸田邸前通り」を挟んだ左手の屋根のどれか、ということになる!  

 小川町北部2丁目町会のサイトによると、『東京名所図会』の絵図の右から3軒目の門柱のある建物は、明治2年創業の銭湯だという。山城淀藩、稲葉丹後守の重臣がお屋敷の一角を譲り受けて開業し、「稲」は稲葉から、「川」は小川町から取って命名したそうだ。稲川楼はのちに裏通りに移ったらしく、実際、1992年に閉店したころの稲川楼の写真の右隣には大宮ビルが写っていた。跡地は平和堂ビル駐車場となり、野田忍著・写真『銭湯へ行こう・旅情編』(TOTO出版、1993年)によると、「稲川楼の地主でもある平和堂靴店がビルを建設することになり、そのため稲川楼は廃業」したそうだ。この本では、平和堂の主人の佐宗家がこの地にもともといた武家となっており、一方、田村隆一著『ぼくの憂き世風呂』は、稲川楼の経営者は山田剛平氏と書いていて、どちらも淀藩士の子孫なのかはよくわからない。大正12年創業という平和堂靴店は、昭和10年ごろを再現した『神田まちなみ沿革図集』では靖国通りとお茶の水仲通りの角地にあった。この地図には、大宮さんの土蔵らしきものも描かれているが、材木店は廃業していたのか、跡地には喫茶、床屋、酒店が書き込まれている。ウェブ・マガジン『ミューゼオ・スクエア』によれば、平和堂靴店は1993年には10階建ての平和堂ビルに建て替えられたものの、お店は2006年に閉店し、いまはビル名も「いちご神田小川町ビル」と改名されている。 

 この記事を書くために、銭湯のエッセイなどを読んでいたら、小川町2-8という、大宮さんの隣のブロックに、1954年から1989年まで筑摩書房があったことなどもわかった。そのさらに隣のブロックには、以前にお世話になった別の編集者の事務所があったことは、十年以上前に小川町を最初に探検した際に気づいていた。夏目漱石のゆかりの地でもあるので、いずれ小説を読み返してみよう。 

 ついでながら、高祖父が小川町に引っ越す前に住んでいた深川熊井町という町名も、明治16年の地図の「日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」に確認できる。番地が書かれていないので、正確にどこに住んでいたかは不明だが、2022年にこの付近は歩いてみたことがある。佃島のマンション群が目の前に見え、すぐ上流には永代橋が架かる。運河が張り巡らされたこの一帯なら、材木問屋業にはお誂え向きだ。

  最後に、大宮さんの土蔵から千代田区に寄贈された古い食器類については、日比谷図書文化館の常設展を見てみたが、もっと古い発掘品のようなものばかりで、それはそれで面白かったが、案の定、見られなかった。日を改めて文化財事務室を訪ねてみることにしよう。

「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍」(部分)明治16年
平和堂靴店があった角。現在はいちごビルがあり、隣が大宮ビル

「東京府武蔵国日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」(部分)明治16年

熊井町だった付近 撮影2022年3月

佃島を望む 撮影2022年3月

2025年10月12日日曜日

大宮さん

 数日前、校正作業への集中力が切れてしまい、眠気覚ましに久々に国会図書館デジコレで高祖父の大宮萬吉の名前で検索したところ、1996年に千代田区教育委員会が発行した『千代田区の民具 3』という一見、無関係のような書籍が新たに公開されているのに気づいた。そこには大宮家が寄贈したいくつかの古い食器類の画像のほかに、「大宮家土蔵調査報告」という詳しい報告書があり、驚くべき事実が次々に判明した。眠気が吹き飛んだのは言うまでもない。 

 報告書によれば、明治20年に高祖父が神田小川町に建てた大宮家の土蔵・文庫蔵が、昭和63年(1988)に調査が実施されるまで残っていて、「新たに重層の建物を建築すること」となって解体されたというのだ。当時の間取りの記録は残されていないものの、関東大震災でも「この土蔵のみ辛うじて災害から免かれた。大火災によって破損した土蔵を大修理改造してこれに現存の住宅が再建されたのは、大震災後の昭和3年のことであった。その再建の後、16年を過ぎた昭和19年から20年におよぶ、今次対戦[ママ]における数次にわたる東京大空襲に際しては、幸いにして難を免れたのであった」と、報告書はつづく。 

 しかも、調査時の所有者は大宮たづ子、正義ほか共有となっており、「大宮材木店の初代から数えて4代目にあたる」という。俄然、興味が湧いて大宮正義氏の名前で検索すると、自民党選出の千代田区議会議員を長年務めたあと、2004年に亡くなっていたことが判明した。大宮さんは、てっきり小川町を離れて材木を扱うのに適した木場へ移ったのだと思っていたが、少なくとも20年前まで子孫の誰かがこの地に住みつづけて、千代田区議などになっていたのだ。30年ほど前の情報では、職業は材木関連ではなく飲食店経営となっていた。祖先探しで小川町は何度か歩いたことがあるのに、なぜこの事実にもっと早く気づかなかったのか。 

 翌日も気になって、2019年に千代田区役所でもらった除籍謄本を引っ張りだし、萬吉さん長男の徳太郎氏をはじめ、そこに書かれている大勢の名前を検索してみた。昭和4年刊の『神田区人物誌』には、これまた神田区会議員だったという徳太郎氏の項に、「代々和泉屋と号して木材商を営めり。此の度、復興事業に際会して、木材の需要頗る増大せり。氏は生粋の神田っ児にして、意地と張りを有し、義侠心に富み、公共事業の為には何ものをも惜まず[中略]氏は特に一宗派を信仰する者に非ざるも、社会人として道徳を根底に置き、久遠なる宇宙に思を寄せ」と大いに誉めそやしたあと、「和泉屋の門戸は牢として動かざる地盤と、顧客を有し、都下斯業界の重鎮たりしが、現在は廃業の状態に在り」などと書かれていた。関東大震災のあと、一時的に材木業も盛んになったが、小川町のような街中ではやはりつづけにくかったのだろう。 

 このページに掲載された徳太郎氏の写真は40代くらいに見えるが、2年前に同氏の長男精一氏のご子孫を探り当て、訪ねた際に見せていただいた白い長い鬚を生やした写真の人物と同一であることは疑いない。昭和11年刊の『土木建築業並関係業者信用録』の大宮精一氏の項には、「当家は先代大宮萬吉氏が愛知県下より上京し、神田丸太河岸佐藤由兵衛氏経営の材木店にて修業後、現業を以て独立せしに始り」とある。大一木材の大宮巨統さんからは、深川の材木屋で丁稚奉公と伺っていたので、下積み生活が長かったのかもしれない。 

 昭和2年刊の『国民自治総覧』の徳太郎氏の項には、「抑も同家は維新前愛知県海原郡より上京、多年材木業界に刻苦精励して独立、今日の基礎を築ける大宮萬吉氏の苦闘苦心の結晶なり」と書かれていたほか、萬吉さんは「八十歳の高齢を保ちて今尚矍鑠たり。老来益々勇躍淋凛[ママ]町内の夜警衛生等に尽瘁して殊功あり」と絶賛されていた。祖父母のアルバムに残された葬儀の写真に、神田公友会などと読める花輪が所狭しと並んでいた理由がわかる気がした。 

「海原郡」は正確には海東郡だろう。除籍謄本によれば、私の高祖父に当たる萬吉さんは尾張国海東郡勝幡村で弘化4年に生まれている。その後、深川熊井町に住んだのち、明治8年3月に神田小川町1番地に越し、徳太郎氏はその1カ月後に生まれていた。徳太郎氏の生母は産後まもなく亡くなったと思われ、翌9年に私の高祖母に当たる志げさんを後妻に迎えている。昭和3年に志げさんが先に中野で死去していたので、てっきり小川町は引き払ったものと思っていたため、今回の発見はまったく意外だった。

  100年にわたって存在した土蔵があったのであれば、萬吉さんの店がそこにあったと考えてよいだろう。萬吉さんの次女である私の曽祖母タケさんは「神田区小川町壱番地」生まれだが、この「1番地」は、山城淀藩の稲葉丹後守正邦の上屋敷跡で、かなり広大な一画すべてに「1番地」の番号が振られていた。明治32年ごろに作成された『東京名所図会』では、大宮萬吉木材店は「一番地の西方即ち戸田邸前通りにあり」となっているが、いまの靖国通りの南側にあった戸田忠行邸は、小川町一番地の向かいではなく、いまの小川町3丁目(幕末にはただ「御用屋敷」)の向かいに位置していた。私の学生時代には、3丁目付近までスキー用品店がびっしり並んでおり、記憶が正しければニッピンの神田店などもあった。 

 明治9年の「明治東京全図」では、「壱番」はまだ「稲葉正邦」となっているが、その前年に高祖父がその一角に店を構えていることから、淀藩のこの屋敷も没収され、分割されて新たに台頭してきた大宮さんのような庶民に売られていたのだろう。土蔵は「大宮材木店の東側に隣接する同一敷地内」だという『千代田区の民具』の記述と図から、場所を特定すると、その名も大宮ビルという2棟の建物がグーグルマップ等から確認できた。これらが新たな「重層の建物」に違いない。 

「明治東京全図」には、小川町の「壱番」と通りを挟んだ向い側の錦町に、「九條道孝 区務所」と書かれたかなり大きな区画がある。この数年、九条家について散々調べて論文まで書いた身としては、興味を抱かずにはいられない。大正天皇妃となった九条節子はこの別宅で明治17年に誕生したらしい。私の曽祖母タケさんはその前年に生まれている。 

   明治の小川町界隈は、仏文会(現法政大)の跡地に東京物理学校(現理科大)が入るなど、新しい東京の文化の中心地のような場所であったことは、以前に調べた際に知っていたが、改めて地図を見ると、東京英語学校や開成学校があるし、神田川方面に坂を上った先には「魯国公使附属ニコライス」の文字も見える。いまのニコライ堂(1891年竣工)の場所だろう。少し右手の筋違橋門の手前には、上田藩が1世紀以上にわたって上屋敷をもっていたが、幕末にその地にあったはずの青山下野守の屋敷なども、明治9年の地図では跡形もない。 

『神田区人物誌』はタケさんの異母兄である徳太郎さんが、「子福長者にして家庭には九人の子女あり」とも書く。除籍謄本では7男4女の名前が確認できるが、息子のうち2名は早世したのかもしれない。長男が精一氏で、『木材総覧』(1976年)などから、小川町の店は3男の松三氏が継いだものと思われる。残る3人の息子と思しき人物は、それぞれ関東逓信病院の医師、電電公社の職員、茨城大学の心理学教授に見つかった。娘たちの行方は、残念ながらたどれない。大宮さんは材木問屋と思い込んできたが、それぞれに多様な道を歩んでいたこともわかり驚いた。 

 折しも、10月25・26日に神保町ブックフェスティバルの「本の得々市」で、拙著『埋もれた歴史』(2020年刊)の版元であるパレードブックスさんが出店し、在庫が減らずに困っている拙著も売ってくださるというお知らせをいただいていたところなので、校正中で気持ちの余裕はまったくないが、現地調査を兼ねて小川町・神保町を大急ぎで歩き回ってみようかと思っている。うちの親族はみなそれぞれに忙しく、一族の歴史などにほとんど興味を示さないのだが、母のいとこがお付き合いくださるとのことなので、雨天でない限り、いずれかの日に決行しようと思っている。何か新たに判明したら、この記事に付け足すなり、改めて報告を書くなりしよう。

   なお、土蔵に保存されていた「数々の貴重な民俗資料」は、1995年創立の千代田区立四番町歴史民俗資料館に寄贈されたと報告書には書かれていたが、調べてみると、市ヶ谷にあったこの資料館は早くも2011年には閉館し、日比谷図書文化館に機能移転していた! 日比谷公園内のこの三角の建物は、ここ数年、毎秋、赤松小三郎研究会の講演会の会場となっており、考えてみれば、展示室のようなものを見たことがある。大宮さんからの器などは、おそらく倉庫に仕舞い込まれているだろうが、この11月3日にも河合敦氏の講演会「赤松小三郎に影響を与えた人々〜最新の幕末史研究を踏まえて〜」(14:00開演)に行く予定にしているので、ダメ元で一応覗いてみることにしよう。私の曽祖母タケさんが使っていたかもしれない器であれば、ぜひ見てみたいものだ。

2025年10月5日日曜日

『軽井沢物語』

 前回のコウモリ通信をお読みくださった赤松小三郎研究会の方が、「故郷の地名がでてくるたびに懐かしさもヒトシオ」という感想とともに、研究会でご一緒だったノンフィクション作家の故宮原安春さんが『軽井沢物語』(講談社、1991年)のなかで、ダニエル・ノーマン(ノルマン)について書いておられたことを教えてくださった。研究会にお邪魔したてのころ、高祖父について判明していた若干のことを報告したところ、宮原さんからメールを頂戴し、何度かやりとりをしたことがあった。ただし、ご著書を読んだことはなかった。早速、図書館から借りてみると、軽井沢に外国人墓地を発見したのを機に、この避暑地の歴史を紐解いた力作だった。しかも、相当なページ数がノーマン一家に割かれていた。

  私自身は軽井沢には数度しか行ったことがなく、姪の結婚式に出席した2016年に訪ねたのが最後だ。式の前日だったか、母と旧碓氷峠まで足を伸ばし、そこでラビンドラナート・タゴールの碑を見つけて驚いたことがあった。タゴールはアマルティア・センの名づけ親でもあったからだ。1913年に詩集『ギタンジャリ』でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞している。軽井沢には日本の女子高等教育に尽力した日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きできたことは認識していたが、現地の案内板の写真を読み返してみたら、1916年(大正5)、「当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した」と書かれていた。ふむ、なるほど。

 『軽井沢物語』にはタゴールのことは書かれていなかったが、碓氷峠の変遷については詳しく説明されていた。当時、私はきちんと理解していなかったが、この旧碓氷峠こそが江戸時代からの中山道上の難所で、群馬県の坂本宿と軽井沢宿を結んでおり、幕末の戊辰戦争中にウィリアム・ウィリス医師が馬で越え、上田で私の高祖父に会ったあと、高田、新潟、新発田などを経て会津まで従軍した際に通った峠である。

 『軽井沢物語』によると、1883年(明治16)から翌年にかけてこの碓氷峠の南側に明治政府が勾配の緩い国道を、渓谷には橋を架けて建設したのだそうだ。国道とともにアプト式の鉄道も開通したために、軽井沢の宿場は一気に寂れたが、そこへ外国人がやってきて、避暑地として旧軽井沢が再発展したらしい。この国道18号旧道のほうは、私が子どものころ屋代の祖父母の家に行くために母の運転する車に乗って、184回のカーブを登った道だ。車酔いする私は後部座席に寝転がってひたすら耐えていたが、助手席の姉がカーブ数をかぞえて母を励ましていたのを覚えている。1971年には碓氷バイパスが開通している。私はいつか祖先やウィリスが通った中山道を歩いてみたいと思っているのだが、国道18号やバイパスですらサルやクマが出没するようなので、何やら難しくなってきた。 

 軽井沢の「発見者」であり、聖公会宣教師だったカナダ人のアレクサンダー・ショーゆかりの地も、このとき訪ねた。宮原さんはショーが最初に軽井沢にきて別荘第1号を構えたのは、1886年(明治19)の可能性が高いとしている。中山道沿いにあった旅籠を改築した家を買うか、借りるかしたもので、善光寺参りの旅行者が旅籠と間違えて、夜昼かまわずドアをノックするのでたまりかねたという逸話が紹介されていた。 

 同書によると、 1899年(明治32)8月になって文部省からキリスト教教育の禁止が発令された。その2年前に来日していたカナダ・メソジスト教会牧師のダニエル・ノーマンは、東洋英和学校(のちの麻布高校)が経営難からキリスト教教育を放棄したことを本国カナダに書き送っていた。ダニエル牧師は1902年に(明治35)長野に赴任すると、長野市で伝道を始める前に軽井沢に土地を買い、別荘を建てていた。長野市県町の宣教師館「ノルマン館」で暮らすようになってからも、夏は例年、軽井沢で過ごしていたという。1909年(明治42)9月1日に、末っ子のハーバートが軽井沢で誕生している。

 その日の信濃毎日新聞に軽井沢に別荘を構える内外人約150戸が会議を開き、「本邦人よりは二名すなわち新渡戸・青山両博士を、また外国人側よりは三名をいずれも委員にあげ」、年々増えつづける土地や資産にたいする県税に抗議をした記事が掲載されたという。外国人代表の名前は書かれていないが、「軽井沢の村長さん」と呼ばれたダニエル・ノーマンもその一人だろうと宮原さんは推測する。避暑外国人と現地の人のあいだにさまざまな摩擦があり、ノーマン牧師は20以上にわたって「軽井沢避暑団」の問題解決に尽力したのだという。 日本人代表2名については、東京帝国大学医科大(のちの東大医学部)学長の青山胤通、もう一人は新渡戸稲造だという。青山胤通は、その娘婿が祖父の恩師であったことを少し前に知った人で、新渡戸稲造のほうは、1984年から2007年まで五千円札だった人だ。同時期に一万円札になった福沢諭吉の陰になって認知度は低かったが、お札の顔になったころかその前か、祖母が得意げに新渡戸稲造のサインか何かを私に見せてくれた記憶がある。それが何だったのか、どこに行ってしまったのか、情けないことにまったく思いだせない。 

 祖母は1926年以降に東京女子大に入学しており、その時分には学長は新渡戸から安井てつに代わっていたはずだ。国際的に活躍していた新渡戸が学生一人ひとりに何か渡したりしただろうか。新渡戸は1917年(大正6)に拓殖大学の学監に就任しており、同時期に曽祖父が同大で教えていたため、曽祖父がもらったものだった可能性もある。いずれにせよ、私にとってはお札の人以上の存在ではあった。当時の軽井沢は政財界の大物や華族、知識人などが大勢集まっていたので、さほど驚くべきことではないのかもしれないが、世の中は狭いとつくづく思う。 

 1930年代後半になるとキリスト教私立校でも「御真影」が掲げられ、拝礼が義務づけられたことや、1940年になると学校長、部課長、学校を経営する財団法人の理事長および過半数の理事を日本人とし、学校財政の外国布教本部(ミッション)からの独立を定めたことなどが『軽井沢物語』には綴られる。同年末、ダニエル・ノーマン一家は離日したが、博士号を授与されたのちも日本史研究をしていたハーバートはこの年、軽井沢で羽仁五郎から著書『明治維新』を音読してもらう学究生活を送っていたそうだ。ハーバートはIPR(太平洋問題調査会)国際事務局の研究員であったため、高木八尺、丸山眞男、大窪愿二(『日本における近代国家の成立』翻訳者)らとも交流をもったともある。 

 羽仁五郎は桐生生まれだが、説子夫人が自由学園創設者の羽仁吉一・もと子夫妻の娘で、羽仁家の祖先は長州藩士である。ついでに言えば、成瀬仁蔵の祖先は代々、吉敷毛利家の祐筆だった。うちの母は、羽仁夫妻が1903年に創刊した『婦人之友』という雑誌をかなり長いこと定期購読していたのだが、ダニエル・ノーマンの妻キャサリンが1949年(昭和24)の第43巻第2月号に寄稿していることを知って、今春、古書を入手していた。戦争中、追われるように日本を去ったにもかかわらず、キャサリン夫人は「長野にいた殆ど四十年の歳月が、私の生涯の中でも一番幸福な時だった[……]息子が二人とも今日本に居りますことを喜んでいます」と書いていた。長男のハワードは当時、関西学院大学で教えていた。じつはこの春、絵本作家の娘のなりさに120年以上の歴史をもつこの『婦人之友』誌から野鳥観察についての座談会というお仕事が舞い込んでおり、不思議な縁を感じていたためでもあった。

 『軽井沢物語』には、1941年(昭和16)8月19日にダニエル牧師の追悼会が軽井沢で開かれたときの集合写真も掲載されていた。中央で遺影を掲げるのはハーバートで、この年まだ残っていた外国人宣教師や、軽井沢避暑団団長のウィリアム・ボーリス、羽仁五郎ら日本人関係者100人近くが、まだ国民服ではなく、スーツ姿で勢揃いしたと宮原さんは書く。 軽井沢では太平洋戦争中も終戦の年までテニスやゴルフに明け暮れていた特権階級がいたそうで、この地は外交の中心にもなっていた。松代大本営の準備が進むなかで皇室の人びとは日光や伊香保、塩原に疎開し、軽井沢には貞明皇后の疎開先が用意されたという。軽井沢の常連だった近衛文麿は、「華族のトップに位置するのだから天皇の地位を守ることを自分の任務と考えて」おり、「日米開戦を避ける努力を最後まで行い、軍部に対抗してきたという自負があった」ため、自分の立場を楽観視していた。「だが、マスコミの論調は逆転した。三国同盟を結んだ首相が、敗戦後も副首相格で活動しているのはおかしい。かつての関白政治と同じつもりではないか……」と書く宮原さんの分析は鋭い。近衛文麿の死は、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げたのだという。

  終戦後は9月になると、軽井沢にもアメリカ兵が入ってきたが、なかには少年時代を軽井沢で過ごし日本語のできるアメリカ兵もいたらしい。長年、軽井沢に疎開していた仏文学者の朝吹登水子が「平和が戻ったんだわと目頭がじーんと熱くなりました」と書いている。「この時期に、軽井沢から国際的スターが出現した。画家のポール・ジャクレーである」とも、宮原さんは書く。4歳から日本に住み、浮世絵の手法で木版画を制作していたフランス人だという。あれっ、と思って確認したら案の定、赤松小三郎研究会の別の方から、少し前に頂戴した1957年刊の和綴本が、フローレンス・ウェルズが書いた『Paul Jacoulet Wood-block Artist 木版画』だった! ちらりと拝見しただけで仕舞い込んであったので、こちらもちゃんと読まねば。  

 アメリカ兵とともに、ハーバート・ノーマンも日本に駐日カナダ代表部首席として戻ってきて、途中、4カ月ほどはGHQにも勤務していた。「長野の人たちは、『ノルマンさんのせがれがえらくなって来た』と驚きの声で迎えたという」。ハーバートは1945年11月にGHQ政治顧問のJ・K・エマソンと長野視察旅行に短い旅行をしたあと、1947年6月に再び長野を訪れている。6月22日に父ダニエル追悼集会の席でハーバートが日本語で講演した冒頭部分が引用されていた。のちに彼がマッカーシズムの犠牲となり、カイロで不幸な最期を遂げたことについて、宮原さんはケンブリッジ留学中にマルクス主義に接近したことを唯一の原因として挙げていた。 

 しかし、兄ハワードが書いた『長野のノルマン』には、父ダニエルも若いころ社会主義に触れていたことを示唆する箇所があるし、そもそも原始キリスト教が共産主義とよく似ていたことを考えれば、ハーバートがマルクス主義に何かしら共感を抱いたとしても不思議ではない。しかしだからと言って、証拠もなくハーバートをソ連のスパイだと決めつけ、彼を死に追いやったのは冷戦時代の狂気としか言いようがない。『軽井沢物語』の執筆当時はベルリンの壁が崩れて間もなく、インターネットも普及していなかったので、まだその冷戦期を引きずっていたように思う。同じことは、同年に刊行された工藤美代子の『悲劇の外交官:ハーバート・ノーマンの生涯』(のちに加筆され、改題された)にも言える。

  執筆の契機になったという軽井沢の外国人墓地については、宮原さんはあまり触れておられない。カナダ・メソジスト派の宣教師として赴任していたキャンベル牧師夫妻が、1916年に就寝中に強盗に押し入られて殺害された事件について書いておられるが、この夫妻は東京の青山霊園に葬られたようだ。ダニエル牧師の後継者として長野に赴任してきたアルフレッド・ストーンは1954年青函連絡船の洞爺丸が転覆し、救命胴衣をつけていない日本人に自分が着ていたものを渡し、祈りながら波にさらわれたという。ウィキによれば、同行したYMCAの宣教師ディーン・リーパーとともに、日本人の子ども2人を救うためにみずからが犠牲になったようだ。ネット時代なら、こうした細々としたことは瞬時に検索できるが、1990年代には各地に散逸している史料を読みあさるしか、すべがなかっただろう。 

 速読した程度では、消化できない、じつに多くのことがこの本には書かれていた。宮原さんがお元気なうちに読んで、いろいろお尋ねしてみたかった。それでも、書物として残され、読むことができるのはたいへんありがたい。このような出会いを提供していただいた赤松小三郎研究会にも、大いに感謝している。
 
 宮原安春著『軽井沢物語』講談社、1991年

軽井沢旧碓氷峠見晴台のタゴール記念碑案内板(2016年撮影)

 軽井沢ショー記念礼拝堂前(2016年撮影)

(左)『婦人之友』昭和24年第43巻第2号
「開拓者精神の流れ」在カナダ カサリン・ノルマンの寄稿文が掲載されている
(右)木版画家ポール・ジャクレーの木版画という和綴本

なかに、浮世絵式に刷られた木版画のが一枚入っていた

2025年9月23日火曜日

信州旅行2025年

 9月20 ・21日に上田で「市民のための歴史講座」が開かれ、幕末の老中松平忠固と上田藩の人びとについての研究発表に、15人の発表者の一人として参加してきた。先に発行された論文集に沿って、私は「松平忠固と関白九条尚忠の関わり」という突拍子もないテーマで発表したので、その内容を20分でまとめて話すのは至難の業となった。 ふだんMacを使っているので、フォントには注意したつもりだったが、当日使用したWindowsのPCでは文字化けしたものがあった。老眼で手元がよく見えないので、原稿は別途用意せず、しゃべる内容や難しい読みはすべてパワーポイントの発表者ツールに入れたのに、それが表示されない機種であることが土壇場でわかり、タイマーも見えないまま、うろ覚えで話すはめになった。それでもどうにかおおむね時間内にスライドにしたがって発表を終えられ、心の底から安堵した。 

 2日間とも100名前後の方が参加してくださったそうで、年齢層は高めであるにもかかわらず、入れ替わり立ち替わりで発表がつづくなか、居眠りもせず、皆さんじつに熱心に、メモを取ったりしながら聞いていただき、たいへんありがたかった。忠固のご子孫の方々にも、2017年に上田の願行寺で開かれたトークセッション以来でお会いすることができて、この間の研究成果をお見せできて嬉しかった。地元の明倫会の皆さまには、お弁当の手配や送迎といった細々としたことまでご手配くださり、臨機応変に対応していただいた。「忠固研」の3年にわたる活動が、忠固の地元の上田だけでなく、よい意味で幕末史を見直す起爆剤となれば、苦労した甲斐があったというものだ。 

 今回、じつはこの上田出張の前に長野市にも立ち寄っていた。なかなか自由時間の取れない私にとって、この機会を逃しては次にいつ行けるか定かではないと思ったため、思い切って駆け足調査を実施した。いちばんの目的は飯綱高原に移築されている旧ダニエル・ノルマン邸を訪ねることだった。ところが、最寄りの飯綱登山口バス停行きのバスは極端に本数が少なく、仕方なくだいぶ手前のバス停からバードライン沿いを歩くことにした。この付近は8月にツキノワグマの目撃情報のあった場所だ。例年9月は出没件数が増えるようなので、万一のことを考えて事前にクマ鈴と笛を購入し、ネット情報から蚊取り線香まで持参していったが、幸い杞憂に終わった。 

 ノルマン邸にこだわった経緯は以前に「ノーマンさん」「十河家のピアノ」の記事で書いたが、神奈川近代文学館まで行ってダニエル・ノルマン牧師の長男W. ハワード・ノルマンが書いた『長野のノルマン』を読み、工藤美代子の『スパイと言われた外交官』の古本を入手して次男ハーバートの生涯もおさらいするなどして、ハーバート本人の著作『日本における近代国家の成立』もおよそ読んだ。ハーバートがハーヴァード大学の博士論文として執筆し、太平洋問題調査会(IPR)の調査シリーズの一冊として1940年に刊行されたものという。 旅行直前にはもう一度、『長野県町教会百年史』を国会図書館デジコレで読み直した。1905年にノルマン邸と呼ばれる宣教師館を設計したダニエル・ノルマンは、1934年に引退する形で軽井沢の教会に移るまでこの家に住み、その後は後任の牧師が居住したものと思われる。日米関係の悪化からノルマン夫妻は最終的に1940年末に長男ハワードの一家とともにカナダに帰国し、ダニエル牧師は半年後に亡くなっている。 

 工藤美代子によれば、次男ハーバートは同年5月に博士号を取得後、語学官として日本に赴任しており、1941年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、ハーバートはカナダ公使館に抑留され、翌年7月に交換戦で離日した。終戦後の9月にはカナダの外務省の仕事で再び来日し、12月にGHQが設置されるとそちらに異動したと考えられている。 祖父の転勤によって母の一家が鳥取から長野に引っ越したのは1941年ごろと推測されるので、その当時、ノルマン(ノーマン)一家はこの家にも長野市内にも、誰もいなかったことになる。太平洋戦争中の出来事に関する『百年史』の記述はやや曖昧だが、敗戦1カ月前に教会堂は強制疎開として取り壊され、時期は不明ながら「ノルマン館は敵性財産として没収され、これを買った人が住んでいたので、教会の自由にはならなかった」とする。つまり、母の一家がお付き合いしていた大滝さん一家こそが、戦争中にノルマン邸に住んでいた人たちということになる。母が記憶していた大滝邦雄という名前で検索したところ、野辺山の開発を手掛けた高原開発報国社の代表であったことが判明した。『大衆人事録』には「宗教基督教」と書かれていたので、教会の関係者であったのかもしれない。大滝家は数年後には軽井沢へ引っ越したそうで、ノルマン館は1960年ごろに北野建設の所有となり、しばらくは専務の自宅として使われ、1971年に飯綱高原の現在地に移築された。 

 かなり改築も繰り返されたと見え、古写真に残るノルマン邸とはやや印象が違った。窓の鎧戸などもなくなり、戦後に増築されたと思われる部分もある。「平常多く使われる部屋はすべて南側にとってあった。サンルーム、リビングルーム、食堂、炊事場は一階に、寝室と子ども部屋は二階にあった」と、『長野のノルマン』には書かれていたが、肝心の南側のすぐそばに木立があるため、裏手に回ってもじっくり眺めることはできず、なかも覗けなかった。次のバスまで少し時間があったので、隣に移築されている旧長野師範学校教師館の入り口に座って少々スケッチも試みたが、どんどんパースがずれてしまった。建物は難しい。 

 長野県町(あがたまち)教会には、1898年にそこを園舎にして始められた旭幼稚園があった。この教会はカナダ・メソジスト教会の宣教師によるもので、幼稚園は東洋英和女学校(現在は女学院)と関係があるという。関連の書を斜め読みした程度で詳しくはないが、上田、屋代、松代など、私と関連のある場所がいずれもこの教会と密接に関連していた。しかも、東洋英和女学校の高等科が1918年に東京女子大学と合併とあり、祖母は東女卒なので、何かしら関係があるかもしれない。 

 というのも、祖父母のアルバムにあった集合写真の裏面に母の字で「長野 旭幼稚園」と書かれており、居並ぶ着物姿の女性たちのなかに祖母が写っていたからだ。母の妹たちがこの幼稚園に通った可能性もあるが、いまのところその確証はない。母の記憶では旭幼稚園の裏が大滝さんの住んでいたノルマン邸のはずだった。『長野の百年史』も「ノルマン宣教師館の隣りに旭幼稚園があった」とする。1919年2月7日の『官報』には「長野市縣町十二番地英領加那陀人ダニエル・ノルマン」という記述があったが、戦前の長野の市街地図はどこにも見つからなかった。 

 これはもう県町教会に聞いてみるしかないと考え、荷物をホテルに置いたあと、訪ねてみた。突然お邪魔したにもかかわらず、ホームページで拝見していた若い牧師さんご夫婦がじっくり話を聞いてくださり、旭幼稚園の百年史を繰って、1953、54年の卒園式の写真がまさに同じ場所で撮影されていることを確認してくださった。後ろに並ぶ職員のなかには外国人の姿も見られ、戦争中に一時期途切れていた教会との関係が戦後はまた復活していたらしいことがわかった。旭幼稚園とノルマン邸は実際にはどこにあったのかお尋ねしてみたところ、いまのホテル国際21付近とのお答えで、私は思わず声をあげた。どこかでそんな記述を目にした気もするが、まさにそのホテルに宿をとっており、私が泊まった南館の部屋の窓からは三角形の印象的な山が目の前に見えていたからだ。「それが旭山です」とのこと。 

 ハワード・ノルマンは屋根裏部屋の窓から、「ゲジゲジ山」と呼んでいた山道がジグザグにつづく山がよく見え、長野市街は南に向かってその山の裾野に展開しているとしていた。それと並んで石切場のある「ゴロゴロ山」もあったとするが、どれを指すのか判然としない。県宝に指定されているのに、ノルマン邸の元の場所は県町としか書かれていないのだが、県庁前の道路拡張工事で移転したことなどは確認できるので、このホテル付近と見て間違いないだろう。 

 近くにある長野市立図書館で司書さんに聞いてみたところ、昭和初めの地図を教えてくださり、その地図に県会議事堂(現県庁)と道路を挟んだ向かい側に旭幼稚園だけは記載されていた。幼稚園の北東には現存する犀北館も書かれているが、なぜか県町教会も記されていない。母の一家は当時、南県町の一角である徳永町に住んでおり、その斜めの通り沿いの家は1980年代くらいまでは存在したようだ。母たちが通った付属小学校は善光寺の近くにあり、子どもの足で通うにはそれなりの距離があったことなども、その地図からわかった。 

 グーグルマップを拡大してみところ、犀北館に「重森庭園」なるものを発見し、館内を覗きに行ったところ、すでに夕食時間帯だったのに、親切なウェイターさんがガラス戸を開けて庭に通してくださり、重森三玲の孫の千青氏作庭の石庭を見学させてくれた。北野建設が創設した北野美術館に重森三玲の庭があり、その関係で犀北館にお孫さんが庭をつくることになったらしい。三玲の庭には砂利に際に印象的なコンクリートの細い縁があるものがあったが、こちらの庭では代わりにスプリンクラーにもなる黒いチューブが使われていた。長くなった夏の期間、苔を保つのは容易ではないので、庭も進化しているのかと感心した。 

 じつはこの日、飯綱高原に行ったあと、善光寺の納骨堂、雲上殿にまで足を運んでいた。帰りのバスが善光寺北で止まってくれれば楽だったのだが、もう一度駅前まで戻り、別の路線バスで滝東まで行くはめになった。そこからグーグルマップを頼りに歩いたのだが、その登りのきついこと。重たい本の詰まったリュックをもち歩いていたため、すでに飯綱高原でくたびれていた身には辛かった。 

 雲上殿に着いたのは閉門の30分ほど前。前回きたのは、おそらく1992年秋だと思われる。祖母の衰えが目立ってきたので、納骨堂に永代供養されている両親に最後にお参りさせてあげようと一念発起して、幼稚園児だった娘と信州旅行をしたのである。といっても、私は荷物持ちに付いていったようなもので、すべて祖母任せだったため、タクシーを使ったのかどうかすら記憶にない。受付で曽祖父母の死亡日と俗名を告げてもわからず、一人娘だった祖母の名前を伝えたところ、該当するものがあった。「遺骨があるのでお出しすることができます」と言われ、祭壇のある小さな部屋に通され、そこに位牌ではなく、ミニチュアのような木箱が2つ運ばれてきた。木箱の表に短めの戒名と祖母の俗名が書かれ、管理番号が振られていた。どちらも戦後すぐの貧しい時代に亡くなったので、当時はそれが一般的だったとのこと。分骨したのだろうか。祖母とお参りしたときはお経を上げてもらったように思うが、今回は時間もなく、用意してきた最低限のお布施では足りなかったので、お線香だけ上げてきた。70年以上にわたり、不信心な子孫に代わって遺骨を守ってくださった善光寺さんには感謝している。祖母は賢明な判断をしてくれたに違いない。 

 3日間の旅のことだけで、やたら長くなってしまったので、ハーバート・ノーマンの『日本における近代国家の成立』の書評は、もう少しよく読み直してから、別の機会に書くことにする。上田での研究発表の帰りの新幹線でこの本を読みながら、考えさせられることが多々あったからだ。それにしても今回の信州の旅では行く先々で本当に多くの親切な人たちに出会うことができた。充実したよい3日間となった。

 旧ダニエル・ノルマン邸

 ノルマン邸の南面

肝心の玄関がひどく寸詰まりになってしまった。師範学校教師館からだと立木越しでよく見えなかったことを言い訳としよう。

 長野県町教会

 ホテル国際21からの眺め

 長野旭幼稚園、1940年代

 善光寺雲上殿からの眺め

 犀北館の重森庭園

 市民のための歴史講座パンフレット