2024年10月25日金曜日

草木染め、工作物

 何やら落ち着かない日々がつづいている。本業の締切りを来年に延ばしていただいたので、多少気は楽になったが、なかなか手強い作品なので遅々として進まない。その間にも雑用は増えつづける一方だ。 

 その大半は、娘が来月、一週間弱ながらブッカルーという児童書のフェスティバルに招かれてインドに行くためで、それに合わせて「万障お繰り合わせ」をしているからだ。ただでさえ多忙な娘は、ほかの多数の仕事や用事を前倒しで進めねばならないうえに、今年から厳しくなったというインドのビザ取得でも手こずり、パンク寸前だ。同じ期間に弘明寺の子どもの本専門店クーベルチップで、「おさんぽ絵本原画展」を開いていただくことが以前から決まっていたので、そのための準備も出発前にすべて終わらせなければならない。額装の仕事は毎度のことながら、私に回ってくる。いつもは娘が引き受けてくれている姉のピアノリサイタルのチラシづくりも、今回は私がせざるをえなくなった。 

 やらねばならないことだらけでストレスが溜まると、私の場合、逃避行動で妙な工作を始めることが多い。孫の面倒を見ている時間につくるものが大半なので、「ベビーシッターが勝手に遊んでいる!」と娘によくからかわれている。ときには休日の朝から、一時間だけ、と自分に言い聞かせながらつくり始めることもある。娘からの要望に応えて、この数年ときおり実験している草木染めなどは、できる季節が限られているので、優先度を上げて仕事に割り込ませている。 

 前回のコウモリ通信にちらりと書いた黒染めも、あのあとザクロが使えることを思いだし、近所の小学校の高台にある木から実が落ちてくるのを待ってみた。よく道路に潰れた実が落ちているのを横目で見ていたからだ。ところが、いざ欲しいときには、一向に落ちてこない。しびれを切らして染色用のザクロを注文した矢先に、ポトリと2個も落ちているのを見つけたときは、何とも悔しかった。草木染めの面白さは、身近な場所で材料を拾い集めてできることにあると思っているからだ。 道端に落ちていた実でもザクロはかなり黒く染まったが、私の適当なやり方では多少緑味のある焦茶止まりだった。それでも、これまでに試したどの素材よりも黒髪に近く、それでとりあえず満足することにした。

 先日は、ルーマー・ゴッデンの『人形の家』がストップモーションで撮影した古い映画(Totti: The Story of a Doll’s House)がネットで公開されていることに気づき、何回かに分けて孫と一緒に観た。ことりさんがピンクの羽ぼうきで掃除をしながら歌う場面が大いに気に入ったようだった。ならば羽をピンクに染めてつくってみようと思いたち、道端のヨウシュヤマゴボウを失敬して、孫が拾い集めた羽のコレクションから数本抜いて染めてみた。羽もタンパク質だからきっと染まるだろうと予想したとおり、濃いピンクに染まったときはちょっと嬉しかった。孫は喜んで「Dusting, dusting……」と歌いながら、それを使って私が昔つくった埃だらけの人形の家の掃除を始めた。もっとも、羽ぼうきはその後すぐに行方不明になり、数日後にまた見つかったそうだ。 

『かぶとむしランドセル』(ふくべあきひろ作、おおのこうへい絵、PHP研究所)という本を娘が図書館で借りたところ、カブトムシをこよなく愛する孫が気に入って何度も読まされたこともあった。なかなかよく考えられたランドセルで、イラストを眺めているうちに、ふと思いだしたものがあった。その昔、焦茶色のバックスキンで娘につくってやったムーミンに出てくるルビーの王様入りの小さなトランクだ。いかにもカブトムシ色のその革の残りはまだ裁縫箱の底に入っていた。翌日それを持参して、娘宅の裁縫セットでつくり始めたものの、針と糸の太さがミスマッチで、糸通しもなく、おまけに焦茶色の革ではどこを縫っているのかよくわからず、往生した。 家にもち帰って少しだけ修正した際に、ランドセルに爪楊枝の鉛筆と筆箱を入れてやったところ、孫はえらく喜んでくれたが、これまたすぐになくしてしまった。孫は私に似たのか、ものの管理が悪い。後日、爪楊枝を差しだして、これを3つに切って、先端を削ってくれというので、そのとおりにしたら、自分で色を塗って人形用の鉛筆をつくっていた。 

 こんな調子でひとしきり何かをつくると、仕事しなくちゃっ、という罪悪感だかエネルギーだかが湧き、またパソコンの前に座れるようになる。工作は私にとって大きな息抜きなので、もうしばらくつづけられるように、ひと段落がついたら眼科に行くなり、ハズキルーペを買うなりしよう。

ようやく黒髪がついた人形。左にあるのは、髪用に買ってみて失敗したいろいろな糸。手縫糸は届いてみたら紺色で、日本刺繍用の糸は墨色が美しかったが、撚りがかかっておらず、髪の毛には使えなかった

道路に落ちて潰れたザクロ。これで立派に染料になる

 試した草木染めのごく一部

ヨウシュヤマゴボウで染めた羽ぼうきと、ことりさん。 

 人形用かぶとむしランドセルと筆箱セット

2024年9月28日土曜日

2024年9月上田旅行

 ブログを長らく放置してしまった。最低、月に一本は書こうと決めていたので、ない時間をひねりだして短い近況報告だけ書いておく。 

 先週末は「忠固研」の研究会があったので、また上田に行ってきた。連休初めの新幹線があれほど混むとは予想しておらず、指定が取れなかったため早めに出たところ、運良く自由席に座れたので、集合時間までの数時間を利用して、前回、訪ね損ねた佐久間象山の師である活文禅師が隠居後に移ってきたという毘沙門堂跡に寄ったあと、藤本つむぎ工房を訪ねた。自費出版した『埋もれた歴史』の表紙に、この工房で購入した切り売りの反物の画像を使わせていただき、その後、献本だけして、お礼に伺っていなかったためだ。 

 よほど奇妙なお願いをした客だったからか、ご主人は私のことをちゃんと覚えていてくださり、今回は縦糸をつくる大きな機械がある紬の工房のなかも案内していただいた。湿度管理が難しいことから、国内ではもう紡ぎ糸がつくれない現状や、草木染めは扱わないことまで、多岐にわたる話題で長々と話し込んでしまった。同じ生地があればもう少し欲しいと思っていたのだが、店内にあったのは多少色味が異なったので、今回は違う模様の生地を2種類、またごくわずかな長さで購入した。 

 研究会の一日目は昼から夜の八時まで、途中でお弁当を食べながら、延々と各自の論文の発表があった。翌日は、現地の明倫会の方々などのご手配で、マイクロバスを貸し切って別所温泉に入浴でも宴会でもなく、倉沢運平という大正期に蚕種産業を発展させた人の産業遺構を「視察」に行った。二階建ての旅館にしか見えない大きな蚕室は、解体される寸前だったそうだ。明治期に倉沢が朝鮮、ロシア、大陸ヨーロッパなどを視察して得た知識をもとに、独自に考案したオンドルというか、セントラル・ヒーティングのようなものが設置されていた。川の合流点の傾斜地に建つこの建物の土台部分には、川からの涼しい風を取り込める石積みの地下室があり、桑を新鮮な状態に保つための貯蔵庫にしていたという。 

 保存運動をなさっている地元の先生方から蚕室で解説していただいたあと、蚕の孵化を遅らせるための人造の氷沢風穴まで細い山道をマイクロバスで登り、天然冷風扇のようなものを体験した。火成岩がところどころ陥入した地形で、ヒン岩という礫が堆積した場所に、さらに岩を隙間を残して積んだ地下倉庫のようなもので、階段を数段下りるだけで周囲の気温が数度は下がり、驚くほどひんやりとしていた。かつては上に建物があり、夏でも10度以下に保つことで、孵化時期を調整し、夏、秋まで、桑のある限り数度に分けて養蚕ができるようになったとか。 

 このあと曹洞宗安楽寺の鎌倉期の八角三重塔も見学した。いかにも中国由来の建築物で、寄木細工のように細い木材を重ねることで、曲線が描きだされていた。こけら葺きの屋根は、さすがに何度も葺き替えているとのこと。活文禅師は中国に密航したわけではなく、長崎で中国人から学んだようだが、上田のこの一帯には鎌倉時代にも中国人技術者がきていたのかもしれない。

  研究会はお昼で解散だったので、上田電鉄とバスを乗り継いで戦没画学生慰霊美術館「無言館」まで足を延ばした。学生時代に窪島誠一郎の『父への手紙』を読み、その後、無言館が開設されてまもない時期に、母が同窓会の帰りに寄って、素晴らしかったと話すのを聞いて以来なので、四半世紀を経てようやく、という感じだった。コンクリート打ちっぱなしの外観は、ベルリンのリベスキンドのユダヤ博物館を連想させ、館内にはそれなりの数の来館者がいたにもかかわらず、誰もが無言で作品と若い画学生たちの遺品に見入っていた。享年が27歳から29歳の人が多く、フィリピンで戦死した人が多く、病死、餓死、沈没事故などで命を落とした人もいた。

  入ってすぐの一角に芳賀準録という23歳でフィリピンのルソン島で亡くなった若者の静物画があり、雑然と積まれた本の上に置かれた人形に目が釘づけになった。じつは旅行前からちょっとした計画を立てて小さな日本人形をつくっており、紬のはぎれはその着物をつくろうと購入したものだった。絵のなかの人形は、おさげ髪でズボンを穿いているのだが、仕事の合間に工作を始めることの多い私には、自分の机の絵を見たようで、虚を突かれた気がした。  

 ミニサイズの着物を縫うのは、老眼の私には厳しいものがあったが、とりあえずそれらしきものはできた。日本人形は苦手なほうで、黒々とした髪がもっさりとした市松人形はとくに好きになれない。ガラスの目が埋め込まれたという設定なので、粘土に手持ちの天然石ビーズを埋め込みはしたが、目鼻はできる限り単純なものにし、動かせるようになかに針金を入れた。人毛かと思うような真っ黒の細い糸は怖いので、手持ちの太めの生糸を染められたらと試行錯誤し、ヤシャブシ、コーヒーなどを鉄媒染し、あれこれ掛け合わせてみたが、藤本つむぎ工房のご主人が言われたように、どれも「いろんなグレーか茶色にしかならない」。調べてみると、黒染めは最初は墨で、のちに輸入のビンロウジが藍染に重ねて使われたらしく、容易でないことがわかった。紋付の黒の羽織は、非常に高価なものだったのだろう。幕末に黒いラシャ地がたくさん輸入され、軍服などに仕立てられた理由が見えた気がする。その名残が詰襟の学生服、学ランに違いない。これまでこの言葉の語源を調べたことはなかったが、「ラン」はオランダらしい!  

 茶色い髪の日本人形でもいいかとも思ったが、もう少しだけ濃い色が欲しい。冷凍ブルーベリーまで使って重ね染めしたのに失敗に終わった生糸は、細い紐にして帯留めにし、黒染めは諦めて、刺繍糸を買うことにした。いつか髪のある姿でお披露目したい。

藤本つむぎ工房で買った反物の着物を着た人形。無言館で見た芳賀準録の静物画を真似て

倉沢運平の蚕室地下。練炭で火を焚くと、温風が室内に行き渡るようになっていた

 氷沢風穴

 安楽寺の八角三重塔

 無言館

 グレーや茶色にしかならない

2024年8月3日土曜日

『この身体がつくってきた文明の本質』

 昨秋から取り組んだルイス・ダートネルの新刊『この身体がつくってきた文明の本質』(原題:Being Human: How Our Biology Shaped World History、河出書房新社)の見本が本日届いた。これまでたびたび、仕事で出合った本に影響されて暮らし方を変えたことに言及してきたが、今回の本でも私の生活にささやかながら、重要な変化があった。  

 著者ダートネルはまだ40代前半の宇宙生物学者で、1作目の『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(2015年)は、文明崩壊後の未来という奇抜な想定が多くの人の心をつかんだらしく、日本でも大ヒット作となった。その点、2作目の『世界の起源:人類を決定づけた地球の歴史』(2019年)は地質学が中心であったためか、気候科学の本を多く訳してきた私にはたいへん興味深い作品だったが、読者層は限定的だったようだ。  

 3作目の本作は、著者本来の生物学が切り口であるうえに、著者自身も多少は年齢を重ねたこともあって、安定した筆致で、歴史家が語らない世界の歴史の裏事情を次々と明らかにする。人間はヒトという動物であり、身体上のさまざまな特徴と制約がおのずと歴史にも反映されてきたという、考えてみれば当然なのに、誰も注目してこなかった事実を本書は教えてくれる。  

 検討するテーマは人口問題から認知バイアスまで多岐にわたるが、個人的にとくに面白かったのは、植民地に関連する多くの問題と、それらの地からの産物である嗜好品や薬物に関する章、および大航海時代の水事情だった。イギリス人はよくも悪くも、数百年にわたる帝国主義の歴史のうえにいまの生活が成り立っていることをよく認識しており、このところグローバルサウス(南半球を中心とする発展途上国)の問題にかかわることの多かった私には、今回の作品は大いに参考になった。前2作ではほとんど政治色のない、いかにも科学者的な著者だと思っていたが、昨今の若者世代の意識変化も反映するのか、今回はずいぶん突っ込んだ分析もしていた。  

 一口に植民地と言っても、実際には大きく2種類に分けられていた事実を、私は本書から初めて知った。人口が増え過ぎて、本国では成功できる望みのない次男以下や貧困者が移住するためのsettler colony(入植植民地)と、ヨーロッパ人が移り住める環境ではないが、資源は豊富なextractive colony(収奪的植民地)である。いろいろ調べたが、どちらも定訳はまだないようだった。両者を分けたのが風土病であり、シュヴァイツァーの研究と活動によって、その敷居がある程度は取り払われたことなどを知ると、複雑な思いになった。 

「気分を変える」と題された章では、おおむね後者タイプの植民地が輸出用に産出するアルカロイドを含む嗜好品や薬物がテーマとなっていた。例外はアメリカ南部で栽培され、放棄される寸前にあったジェイムズタウンを救ったタバコくらいだ。タバコがアメリカ経済にどれほど大きな位置を占めていたかを再認識させられると、タバコ産業と広告産業の癒着について『気候変動と環境危機』でナオミ・オレスケスやビル・マッキベンが指摘していたことが痛烈な意味をもつことに気づかされた。  

 個人的に衝撃を受けたのは、カフェインに関する問題だった。目覚めているあいだ脳内に蓄積するアデノシンが、12時間から16時間起きていると強い衝動で眠りに誘うのに、カフェインを摂取するとその信号が妨害されるのだという。この原稿を書いているいまは夜の9時過ぎで、まさしくそのような時間帯であり、私はあくびをしながら執筆中だ。そういった仕組みがわかると、カフェインを摂りながら、日々それに抵抗する生活をすることに疑問が湧いてきた。  

 とはいえ、コーヒーは仕事の必需品なので、まずは量を減らすことにして、惰性で何杯も飲むのをやめ、いまから飲むぞと自覚するようにした。コーヒータイムは午前のみにし、かつ母宅から引き上げてきた手動のミルで豆を挽く面倒臭さを加え、手軽な粉を利用するのはやめた。コーヒーの原産地がエチオピアで、モカが原種に近いことも本書でようやく知ったので、近所のカルディで「フローラル・モカ」という豆も一度だけ試しに買ってみた。ドリップするのを待つあいだに、ぼんやりと袋の裏側を眺めていたら、その少し前に訳したコーヒー発見の逸話に登場するヤギ遣いの名前が「カルディ」だと書かれていて、拍子抜けしてしまった。コーヒーは相変わらず一定量飲んでいるが、チョコレートはカカオ豆が高騰していることもあって買わなくなったので、カフェインの摂取量は多少減ったはずだ。 

 訳し終えた2月にタイに旅行した際、友人が偶然にもウタイタニー県サケークラン川沿いの街のナイトマーケットで、阿片窟跡を利用した展示館に連れて行ってくれた。一見して中国人経営だったとわかる建物のなかに横になってアヘンを吸う人形などが置かれており、当時の雰囲気が再現されていた。アヘンは痛み止めや咳止めとして遅くとも江戸時代には日本でも服用されていたが、吸引した場合には依存性が高くなるそうで、その習慣をもち込ませずに済んだのは、アメリカ総領事ハリスのおかげだったと思われる。中国やタイが20世紀なかばになるまでアヘンを使用禁止にできずに苦しんだことを考えれば、日本は幸運だった。もっとも、ハリス自身は日本滞在中に重病になった際にアヘンをタバコと混ぜたものを薬用で吸引していた。オピオイド薬は実際にはいまでも多くの人を中毒にしている。最近、薬局で風邪薬を買うときに、あれこれ質問されるようになった背景には、依存症にたいする懸念があるらしい。 

 本書ではアルコールに関しても、あれこれ論じられている。日本は一年中、雨が適度に降るため、飲み水にはあまり苦労しない。だが、世界の大半の地域では飲み水は簡単には手に入らない。アルコール飲料はそのために発達したと言っても過言ではないだろう。きれいな飲み水が得られることと、日本人に下戸遺伝子が多く見られることには何かしら関連があるのではないだろうか。つまり、日本では下戸でも生き延びられたのだと。 大航海時代には飲料水は文字どおり命綱となり、水の代わりにビールやワインが積まれ、それすら劣化するため、生ホップを加えたインドのペールエール、IPAが誕生した、などという脚注を訳すたびに、あれこれ飲んでみたくなり、酒類の売り場をうろつき、ラム酒やジンなどを購入することにもなった。壊血病についても多くのページが割かれていたので、レモンの輪切りも添えてみた。 

 本書ではもちろん、霊長類としてのヒトに関するもっと根源的なテーマも追究されている。何がヒトを、その他の動物とは異なる存在にしたのか、という問いだ。近縁のチンパンジーやボノボ、ゴリラなどと比較して、ヒトで際立っていたのは「協力」なのだと、ニコラ・ライハニの説を引いた箇所を最初に訳したときは、何やら意外な気がしたが、現在取り組み中のまるで別分野の本でも、この「協力」というキーワードがたびたび出てくる。どうも世の中はその正反対の方向に進んでいるような気がするが、それは取りも直さず、人間が人間であることをやめつつあるという意味なのだろうか。 本書に掲載されたロシアの人口ピラミッドは非常に衝撃的なものだった。

 生物学という一風変わったレンズを通して人類の歴史を振り返ることで、人間とは何なのか、人類は今後どの方向へ進もうとしているのかを考えさせる一冊だと思う。何しろ今回のテーマはいちばんな身近な「人間」なので、従来のダートネル・ファンだけでなく、誰にでも広く一読をお勧めしたい作品である。

 発売は8月20日です。下旬に書店で見かけたら、ぜひお手に取ってみてください。

(左)原書、
(右)『この身体がつくってきた文明の本質』、ルイス・ダートネル著、河出書房新社

  カルディで買ったモカの豆

 タイのウタイタニー県にある阿片窟の展示館


2024年7月28日日曜日

『天の笛』

 最近はだいぶ改善したようだが、暑さとともに自分の水筒から大量の水を飲むようになったせいか、孫がおねしょをする事態が頻発し、娘が参っていた。そこでふと思いだしたのが、子どものころ大好きだった『モチモチの木』の絵本だった。  

 私にとってこの絵本は、宇野重吉の朴訥とした語りと一体化して、記憶の底に定着している。母の家を整理した際に『天の笛』というソノシート入りの本はもち帰ってはおらず、どうも処分してしまったと思われ、そうなると無性に聴きたくなる。ネットで音源を探してみたが、簡単には見つからず、結局、ヤフオクで出品されていたものを購入した。  

 しかし、姉のところのレコード・プレーヤーも壊れているとのことで、ソノシートを聴くこともままならず、いろいろ検討したあげくに、ココナラというサイトでレコードをデジタル化してくれるところを見つけ、そこにお願いしてMP3のファイルに変換してもらった。久々に聴く宇野重吉の声は本当に懐かしく聴き入ってしまった。『天の笛:宇野重吉の語り聞かせ』というこの斎藤隆介の作品集は、初版が1967年で、うちにあった『モチモチの木』は1971年の初版だった。現物がないので確かではないが、『天の笛』収録の語りを絵本に先駆けて、何度も聴いていた可能性が高い。  

 滝平二郎の切り絵は、当時、購読していた朝日新聞にたぶん毎週、見事な作品が掲載されており、母がいつもそれを切り取っては黒い画用紙に切り込みを入れた簡易額に入れて飾るほどのファンだった。おそらくそのためか、うちには『八郎』という絵本もあった。  

 どうせなら、デジタル化してもらった音源に、絵本の絵を合わせて動画をつくろうと考え、図書館からいろいろ借りてみた。『ひばりの矢』は1985年刊、『ソメコとオニ』は1987年刊で、どちらも今回初めて絵本になっていることを知った。『ひばりの矢』の切り絵は非常に美しい。 

『モチモチの木』のおくびょうな豆太は何と五つ。孫も5歳なので、いま読まなくていつ読む!というタイミングだった。孫はとくに最後の一文がお気に入りだ。爺さまのほうは、ずいぶん年寄りだと思っていたが、64歳だった……。豆太のお父は、「クマとくみうちして、あたまをブッさかれて死んだほどのキモ助だった」。再びクマが身近な存在となりつつあるいま、まさに読むべき絵本だ。  

 トチ餅を買ってやりたいと思っているのだが、本格的なものは手に入りにくい。お話のなかでは簡単につくっているが、実際にはどんぐりと同様に水で長時間さらしてアク抜きをしなければならない、手間のかかる食べ物だ。娘が小学生のころ、トチノキを知らなかった私は、エゴの実を見つけてこれに違いないと早合点し、砕いて舐めてみてやめたことがある。エゴはサポニンが入っているので、団子にしなかったのは幸いだった。  

 ソメコも五つだった。忙しい大人たちに「あっちゃ行って遊べ」とたらい回しにされ、泥団子まで食べて遊んでくれる鬼に連れ去られるのだが、「カクレンボするべエ」と鬼を悩ますソメコは、まさにいまの孫の現状で、読みながら当の孫もニヤニヤしていた。 

『天の笛』に収録されていた『ベロ出しチョンマ』は、私の記憶のなかではキリシタンの迫害とごちゃ混ぜになっていたが、読み返してみると、年貢を納められずに直訴して、一家が磔刑になったという内容だった。三つのウメまでという設定に疑問が湧き、調べてみると、当時、斎藤隆介が住んでいた千葉県若葉区を舞台に選んだだけの、まったくの空想作品とのことだった。  

 やはり収録されていた『東・太郎と西・次郎』は、まるで記憶になかったが読み返してみたところ、水源をめぐる竜の出てくる話で、日照りつづきの東の国と、大雨つづきの西の国の境にいる竜を太郎と次郎が対峙する内容で、気候変動で水文学的な変化がいちじるしい現代を象徴するような話だった。長いお話で、滝平二郎の挿絵も数点しか見つからないが、宇野重吉の語りでぜひ孫に聴かせてやりたい。  

 となれば頑張るしかないと思い、iMovieなる動画編集ソフトが入っていることに気づき、試行錯誤でとりあえず『モチモチの木』と『ソメコとオニ』だけは動画をつくった。ただし、まだ著作権に引っかかるため公開はできないので、絵本好きの知り合いにだけ必要かどうか連絡しようと思っている。

宇野重吉の語りが入っている『天の笛』と図書館から借りた斎藤隆介作品

姉宅から借りてきた初版の『モチモチの木』

2024年7月21日日曜日

メスナーテントをもって編笠山へ

 15年ぶりに、泊まりがけの登山に行ってきた。娘が6歳で初めて登った本格的な山である八ヶ岳の編笠山に、5歳の孫を連れて1泊2日で行ってきたのだ。娘が子どものころの登山にはいつも母が同行してくれ、食材等を背負って登り、調理の大半を手際よくこなしてくれた。今回はそれが私の役目となり、母が使っていたリュックを背負って登った。  

 私はふだん運動らしきことをほとんどせず、中学以来の腰痛もちであるうえに、膝の調子も万全ではなかった。鳳凰三山の縦走時に膝を故障してみんなに迷惑をかけた苦い経験が、山から足が遠のいた原因だったので、直前に膝用のテーピングも注文したのだが配送の遅れで届かず、結局、YouTubeで見つけた膝のストレッチ体操だけを頼りに出発することになった。  

 今回、娘が担いでくれたテントは、まだ秋葉原で会社勤めをしていたころ、昼休みに抜けだしてニッピンで店員の勧めに乗せられて購入した3kg強の軽量の同店オリジナルの製品だった。記憶が不確かなのだが、最初に編笠に登った1994年は麓の泉郷あたりに前泊して日帰りで行ったため、薄暗い森のなかをヘンゼルとグレーテルさながらに下山するはめになり、疲労困憊して駐車場(たぶん観音平口)にたどり着いたところにソフトクリームのスタンドがあり、それを食べたことだけはやけに鮮明に覚えている。  

 初めてテントで寝たのはその翌年のようだ。これまた無謀な計画を立てて権現から赤岳まで登るつもりが、途中で道に迷って藪漕ぎをしてどうにか前年と同じ登山道に出て青年小屋で張らせてもらったのだ。その同じテントを押し入れから引っ張りだしてみたところ、縫い目を覆うシーリングは剥がれかけていたが、生地そのものの状態はよく、加水分解しているようには見えず、ネット情報を頼りに自分でアイロンを使って張り替えてみたのだ。  

 秋葉原のニッピンが撤退したのは風の頼りに聞いていたが、神田店もコロナ禍とともに閉店しいたことを今回初めて知った。しかも、ニッピンのテントと検索してみるうちに、うちのはメスナーテントと呼ばれるもので、1978年にラインホルト・メスナーがペーター・ハベラーとともに人類初のエベレスト無酸素登頂を達成した際に携行したものだったことを古いブログ記事などから知った。ニッピンの社長がミュンヘンのIPSOスポーツ見本市でメスナーと意気投合して、軽量で簡単に設営できるドライエッケンシステム(ポールと本体をロープで巻きつけるもの)のテントを開発したのだそうだ。  

 この先、どれだけ山に登るかどうかもわからないので、今回とりあえずトレッキングシューズだけは購入し、その他ウォータージャグ、銀マット、ガスバーナー用のガスを買う程度で、あとは古い登山グッズを掻き集めて出かけた。とにかく天候がよく、みんなの体調が許せるレベルで、予定の入っていない週末となると、選択肢はほとんどない。「明日行くよ〜」というメールが娘からきた翌日午後、娘一家は車で一足先に出発し、私は土曜の朝、小淵沢駅で落ち合うために、えきねっとで残っていたおそらく唯一のグリーン席を購入した。全席指定の臨時列車だったので、快適なシートで2時間ちょっと身体を休められたのはよかった。

 孫はふだんから自然公園などはよく歩いているし、低山には何度か登っているが、本格的な登山は今回が初めてだった。自分の寝袋と水、若干の食料など1.5kgほどの荷物を背負っているので、途中でダメになったら引き返すという前提で登り始めた。しかし、得てして子どもは身が軽いため登りは得意で、途中あちこちで鳥や花を見つけるたびに立ち止まっていた割には、地図に記されているコースタイムをいくらかオーバーする程度の速さで昼過ぎには青年小屋にたどり着いた。道中、行き合う人たちから口々に、「えらいねえ、何年生?」などと聞かれるたびに、「何年生でもないの。5歳」と得意げに答えており、到着した際には、小屋前でくつろいでいた人たちから拍手で迎えられていた。実際、今回の山行では子どもどころか、10代の姿すらほとんど見かけることがなかった。  

 青年小屋のテント場は所狭しと40近いテントが張られていて、まるで行者小屋のようだった。山に行く話が本格化し始めたこの一か月ほど、孫のお気に入りの遊びは「キャンプごっこ」だったので、テントを建てる作業も嬉々として手伝い、なかに入ると早速、寝袋を広げて寝転がり、「一緒におしゃべりしようよ〜」と誘われて参った。「乙女の水」という水場に水を汲みに行くごっこ遊びも、家でさんざんやっていたので、ウォータージャグに水を汲む作業も自分がやると言って聞かなかった。孫はどうやら「乙女の水」は、きれいなお姉さんがいる神秘の場所と思っていたようだったが。  

 事前に使えるかどうか確かめてみてはいたのだが、ガスバーナーが着火しなかったのは今回の失敗の一つだった。小屋からチャッカマンを借りて点火してから、コーヒーのためのお湯を沸かし、ご飯を炊き、レトルトカレー用を温める作業をつづけることで事なきを得たが、ライターでも持参すればよかった。水に浸す時間が足りず、お米は若干芯が残ってしまったが、食べられる程度には炊け、カレーを温めているあいだに、半分は翌日の昼食用おにぎりにした。孫はおにぎりも自分で握ると言って聞かず、その挙句に出来上がったおにぎりを地面に落として怒られるはめに。そんなドタバタがキャンプ場中に笑いを提供していたらしく、一つしかないトイレを待っているあいだも「ご飯炊いていましたよね」と声をかけられてしまった。  

 考えてみれば、うちのように煮炊きしている人はあまりおらず、最近は調理不要のレトルト食品で済ませてしまう人も多いのかもしれない。昔はキャンプと言えば飯盒炊爨だったので、やはりご飯は手を突っ込んで水加減を調整して炊かないとね、と私は思っている。もちろんコッヘルは使うが。お湯が沸くのにやたら時間がかかった割に、ご飯は意外に早く炊けたので、そう口にすると孫が、「うちではご飯はああいうので(電気炊飯器)炊いて、お湯はピッと(電気ケトル)と沸くでしょ。だからじゃない?」と、何やら鋭い指摘をするので驚いた。電気製品に慣らされてきた感覚なのかもしれない。  

 テントもフライシートのないものがかなりあったうえに、グラウンドシートとテントが一体になっておらず、5cmほどの隙間が空いている簡易テントすら見受けられて驚いた。あれで風雨や夜露に耐えるのだろうか。雨こそ降らなかったが、フライシートの内側はびっしょり濡れていたし、夜間にはテントが揺れるほど風が一時的に強まった。周囲のテントの大半はポールがスリーブと呼ばれる筒状の場所を通す形になっており、その出し入れに結構手間がかかりそうだった。  

 青年小屋では降るような満天の星空を見た思い出があったが、就寝するころは曇っており、月が昇ると満月に近くてあまりにも煌々としていて、ときおり霧も発生したため、星は明るいものしか見えなかった。娘もいつもテントで熟睡する子だったが、孫も結局、明け方まで一度も目を覚まさずに寝通し、私が夜中にヨタカが飛びながら鳴いていたと話すと、「なんで起こしてくれなかったのよ〜」とむくれていた。私は周囲のテントの物音や話し声が気になって細切れの睡眠しか取れなかった。  

 翌朝、古いバーナーを再度試してみると、今度はうまく着火したので、娘が好きなオートミールの朝食を食べたあと、7時ごろ出発して編笠山の山頂を目指した。自分の身長をはるかに超えるような岩塊がごろごろする場所を、孫は怖がる様子もなく果敢に登っていった。少し前までジャングルジムもてっぺんまで登れない怖がりだったのに、随分成長したものだ。私はと言えば、前日の登りで足が疲れていたことや、二晩つづきの睡眠不足、それに薄い空気なども重なって遅れがちとなり、一緒に登れるのはもうあと何年もないなと思った。こんな岩場を、60 代後半になるまでよく母が何度も登ったなと思う。登山ブームの昨今、70代後半のような人を含む年配者のパーティにも何回も出会ったので、日頃から運動して体力を維持できれば、あと10年くらいは登れるのだろうか。  

 2524mの山頂に立った私たちを迎えるように、富士山から南アルプス、そして権現、ギボシ、赤岳、阿弥陀岳など、昔登った山々がぐるりと見えて壮観だった。娘と孫がスケッチを楽しむあいだ、私は山頂でコーヒー、ココアを用意する係を命じられ、カフェを開くことに。5歳でこの山のてっぺんでココアを飲んだことを、四半世紀後、半世紀後にでも孫が思いだしてくれるなら、お安いご用だ。背負ってきた予備の水が軽くなるのもありがたい。  

 下山は、山頂から押手川まで一気に下るルートを通ったため、脚の短い孫はかなり苦戦し、この区間はコースタイムの2.5倍もかかってしまった。朝4時半から起きだしてしまったこともあって途中で眠くもなり、つい無駄口ばかり多くなる孫を励ましながら、何とか観音平まで2時過ぎにたどり着いた。ストレッチ体操が効いたと見え、私の膝も最後まで元気に働いてくれた。  

 編笠のあとはソフトクリームでしょ、とばかりに、そのあとは清里の清泉寮まで有名なソフトクリームを食べに行った。清泉寮は、清里と大泉から一字ずつ取ってつけた名称だそうで、ポール・ラッシュの名前はたぶん澤田美喜さんの本で読んだなと思い出した。復路は娘一家の車に同乗させてもらった。途中、中央高速が大渋滞していたため迂回路を通り、8時半過ぎに帰宅し、「無事に帰ってきたよ」と、母の遺影に報告した。


 青年小屋の朝のテント場

 押手川付近

1995年に青年小屋でテント泊したあとギボシから。

1994年に編笠山の頂上で

1998年ごろか

編笠山頂上。まだ同じ標識が立っていた

 編笠山頂上

 乙女の水を汲む孫

 登りの途中で出会ったメスのシカ
今回の旅での唯一のスケッチ

2024年7月3日水曜日

上田日帰り調査

 忙しかったうえに体調も思わしくなかったため、ブログをサボってしまっていたが、ようやく先月なかばの日帰り上田調査のことなどを備忘録程度に書いた。やる気になったきっかけの一つは、先日たまたま上田の「松平神社文書」が話題になり、その後、以前にお世話になったことがある和根崎剛氏の「史跡上田城址整備事業の現状と課題」(平成28年度 遺跡整備・活用研究集会報告書)の論考を見つけことだった。  

 7年ほど前に上田市立博物館で閲覧した祖先の記録に「松平神社文書」と書かれており、その後、何かの折に「しょうへい」神社と読むことを教えていただいたはずなのだが、そんなことすら私の記憶からすっぽり抜けてしまっていた。松平神社がいつのまにか真田神社になってしまったことは、松平家のご子孫が以前に嘆いておられたので記憶に残っていたが、神社そのものが明治12(1879)年に松平氏の祖先を祀る松平神社として創建されたことはしっかり認識していなかった。  

 和根崎氏によると、廃藩置県後、城郭は大蔵省に引き渡されて払い下げられ、本丸の土地を取得した上田藩御用達商人の丸山平八郎直義が神社用地として寄付したのが始まりで、氏子のいないこの神社は、松平氏旧臣とその子孫が管理運営しているという。丸山氏はその後、現在も西櫓として残る本丸隅櫓を旧藩主の松平忠礼に献納するとともに、遊園地用地として本丸の残り部分も寄付し、明治20年ごろから上田市が公園として整備するようになったらしい。神社そのものは、戦後の1953年に上田神社となり、さらに1963年には眞田神社と改称されているが、一応、真田氏、仙石氏、松平氏の歴代城主を祀っている。  

 このあたりには、上田の人びとの複雑な思いが反映されていそうだ。わずか40年しか城主でなかった真田家にとくに縁があるわけでなくとも、上田市民のアイデンティティとして歴史は残したい。ただし、明治になってようやく武士の世から解放されたのだから、166年間も圧政を敷いた松平家はご免こうむりたい、という感じなのだろうか。最後の2代の藩主、松代忠固・忠礼がほぼ江戸にいたことも関係しそうだ。母方の家は戦後の数年間を松代で過ごしており、祖母が「真田の奥さま」の主催する会にいそいそと出かけていたとも聞いている。真田家は地元を離れなかったのかもしれない。ちなみに、仙石氏の世は85年間だった。

 上田市立博物館そのものは、博物館のホームページも参照すると、昭和4(1929)年に西櫓を「徴古館」として開館した。太平洋戦争直前の1941年に、市内の遊郭に移築されていた本丸隅櫓2棟が東京の料亭に転売される話が出て、市民がこれを買い戻して戦後の1949年に南櫓、北櫓として再建され、上田神社と改名された同年の1953年にこの2棟を加えて「上田市立博物館」として登録された。現在の本館は1965年に落成した。  

 先日、私が拝見した数々の史料は、こうした紆余曲折を経て現在に残る記録だったのだ。なかには虫食いだらけでページとページがこびりついて、なかなか開けない史料もあったが、それらは松平神社の倉庫の片隅で激動の一世紀間、ひっそりと保存されていたのかもしれない。戊辰戦争をはじめ、その後の大震災や空襲等で過去の記録が一切失われてしまった地域も多々あるなかで、上田が比較的平和な時代を過ごしてきたおかげでもある。  

 調査そのものは、短い時間を有効に活用しようと、事前に研究者の方々からいろいろな情報を仕入れ、入念に用意していった甲斐あって、予定していた史料は調べあげ、その他いくつか当てずっぽうに選んで閲覧した史料のなかにも、思いがけない発見があった。  

 直接の祖先に関しては、今回新たに得られた情報は残念ながらわずかで、だいぶ昔の祖先が、いったん妻の弟を養子にしたものの、妾に子ができたため、そちらを後継にしたという拍子抜けする記述だけだった。ただし、前回の調査で偶然に嘉永5年の地図で見つけた祖先の家の場所は、いまの地図とよく照らし合わせた結果、ここと思う場所をもう一度訪ねてみた。  

 画期的だったのは、博物館での調査後、事前にダウンロードしておいた「バイクシェア」なるアプリを使って電動アシスト自転車を借りて、願行寺を経由しつつ、佐久間象山が若いころ松代から馬で通ったという活門禅師の遺跡を訪ねたことだ。こちらは事前の下調べ不足で、遺跡が実際には3か所もあることに気づかず、わざわざ遠い岩門大日堂跡に迷い込むはめになったが、観光地とは程遠い農村地帯で、ちょうど田植え後の美しい田園風景のなかを、夕陽を浴びながら自転車ですいすいと走ることができた。  

 借りた自転車は、しなの鉄道の信濃国分寺駅で乗り捨てし、そこからさらに数駅電車に乗って滋野まで足を伸ばした。前回のコウモリ通信に書いたように、そこに高祖父が何かしらかかわった可能性がある「力士雷電之碑」が現存するからだ。グーグルマップで上田からの自転車ルートが出てこなかったため、しなの鉄道に乗ったのは正解だったが、地図上では駅から石碑まで数百メートの距離のはずが、往路はひたすら登りの坂道で、民家の正面に忽然と現われた2基の石碑にたどり着いて、何か手掛かりはないかと周囲を足早にめぐったころには、復路の電車時刻まであと5分しかなくなっていた。前後の乗り継ぎを調べておらず、とにかく駅まで走ろうと下り坂を猛ダッシュした。どうにか発車間際の電車に飛び乗ったものの、あまりに息が上がってしまい、滋野駅にあった力士雷電の大看板も、全国の田中さんが詣でるという隣の田中駅に着いたころもまだ回復せず、写真を撮り損ねてしまった。

 その後、新幹線の乗り継ぎが悪くて、結局、上田駅の六文銭の下でおやきを食べながら、だいぶ時間をつぶすことになった。それでも、9時過ぎには無事に帰宅することができ、実りある1日となった。

上田城址公園の時の鐘。数百年にわたって上田で時を告げてきた鐘だったが、戦時中の金属供出させられ、戦後に新しく鋳造したもの。

城址公園内に翻る各家の幟旗。後方に見えるのが南櫓と北櫓。

嘉永年間に祖先が住んでいたと思われる一帯(右手)。『上田歴史地図』には、「道に面したところは門倉門蔵ら三名の住居があり、鈴木六郎家の横から細い道をつけ、中央と奥の部分に長屋が置かれている」と書かれていた。

電動アシスト自転車で田園地帯を走った。

活文禅師の岩門大日堂跡
力士雷電之碑。手前にあるのが表面がすべて削られて判読不能になったという古い碑

2024年5月28日火曜日

国会図書館デジタルコレクション

 国会図書館のデジタルコレクションは、私が祖先探しを始めたころからありがたく使わせていただいているものだが、今年になって約75万点が新たにテキスト化されたとのことで、全文の検索が可能になっている。そう教えてもらっていたものの、ずっと忙しくて十分に活用していなかったが、昨夜、別の検索をしたついでにふと高祖父の門倉伝次郎の名前も入れてみたところ、思いがけない発見が多々あった。あまり興奮したせいか、今朝はやたら早く目が覚めたので、とりあえず見つけたものを書いておく。  

 高祖父は維新後、陸軍の馬医になって横浜などにいて、従七位という低い官位も一応もらい、西南の役にも駆りだされているのに、そうした記録はこれまでほとんど見つからなかったが、この新しい検索機能のおかげで、官報や陸軍の記録が上田関連の資料とともにいくつか出てきた。  

 しかし、驚いたのは『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』という明治32年刊の陸軍騎兵実施学校が刊行した書籍に、調馬師の目賀田雅周述として仙台産馬に関する例が数例並ぶなかにこう書かれていたことだ。 

「元治年間、松平伊賀守の家臣に門倉伝次郎あり。許可を得て横浜在留の英獣医某に就きて其術を学びしとき(獣医の項参照)常に一頭の三春馬に乗て通ひたり(此馬は目賀田調馬師の自ら調教したるものにして河野対馬守の所有なりしを、伊賀守に売却したるものなり。青毛にして体尺五尺一寸五分)しに、□(言偏に夾)英人懇望止まさるに至りたるを、遂に伊賀守より之を贈与せられたる欣喜、措かすして本国に牽帰り御ち其返礼として馬具一式に添ふるに若干の獣医治療器械(現今の価格に積り約三千円のもの)を以てせり」  

 おおよそ同文のものが、昭和3年刊の『日本馬政史』第3巻(帝国競馬協会)にも書かれていた。この英人はまず間違いなくアプリン大尉だ。青毛の馬は飛雲と思われ、上田の最後の藩主松平忠礼が乗り、伝次郎が横に立つ写真が残る黒馬と推測される。拙著『埋もれた歴史』の表紙に使わせてもらった貴重な古写真だ。体高は約156cmだったことになる。アプリンが日本滞在中に自分の持ち馬の黒いポニーで競馬に興じていたことは、彼の長男が自著に書いており、前髪がもさもさした日本馬にアプリンが乗って猟をする戯画をワーグマンが描いている。ただし、上田側の記録では一年間、アプリンに預けて調教してもらい、アプリンが帰国した1866年または67年に藩に戻されている。そもそも、アプリンはアロー戦争時からの愛馬で日本に連れてきたアラブ種の馬も帰国時に売却せざるをえず、彼の鞍ですら伝次郎が「買った」と、アプリンとともにイギリス公使館にいた医師のウィリアム・ウィリスが書き残している。帰国後にアプリンが薩摩藩などに鞍を贈った記録は、横浜開港博物館で見たことがあるので、こうした諸々のことが混同されて書かれた文書かもしれない。それでも、高祖父の確かな足跡を見つけた気がした。  

 昨夜のもう一つの大発見は、『新体育37』12月号という1967年刊の雑誌に、どういうわけか伝次郎の名前が書かれていたものだ。そこには「力士雷電之碑」と書かれた拓本が写り、佐久間象山が「此碑嘉永五(1852)年所建」とあり、そのあとに「信州上田人門倉伝次郎君所贈」とだけあった。夜中に眠い目をこすりながら説明を読むと、石黒忠悳が「珍蔵」していた拓本だという。「此碑信州上田在大石村に建る所にして、土人此碑の石片を懐中すれば勝敗事に勝ち、殊に無尽講に利ありとして石以て碑面を打撃し、其石粉を持帰るを以て全碑面完膚なく一字も読む能はず、此榻本の如き極めて珍襲するに足るものなり。況や余少時初めて象山先生に謁する時、此碑文を暗誦して先生を驚したる事あるおや、家に蔵して珍襲す。 現斎石黒忠悳識」とも書かれていた。  

 石黒忠悳が文久3(1863)年に象山に会ったときのエピソードは、松本健一が『評伝 佐久間象山』に書いており、拙著でも19歳だった石黒の攘夷思想を象山が嗜めたエピソードは引用していたが、力士雷電の件は朧げにしか記憶していなかった。今朝になって該当箇所を読み直してみたら、かつて中之条にいた際に、大石村の路端で雷電為右衛門(1767〜1825年)という力士の碑文をいつも見ていたため、その全文を暗記していると言ってそれを誦じたと書かれていた。「この碑文の終わりにあります『今、余雷電のためにこの碑に識して、またまさに殆ど泣かんとするなり』というその御顔を拝見に参りました」と言うと、象山は「面白い、面白い」と笑って答えたというものだ。  

 伝次郎は象山塾に嘉永4年8月に入門している。『上田市史』の伝次郎の項目には「象山其の馬術に精妙なるを見、自らは学によりて、様式馬術を教え、彼よりは技によりて騎術を習える程なりき」と書かれていたが、どんな交流があったのか詳しく記すものは残っていない。石黒忠悳の話を信じるとすれば、この碑は少なくとも文久3年以前に前に建てられていたはずで、その碑の建立に伝次郎がかかわっていたということだろうか? 伝次郎は、弘化年間は大坂、嘉永年間以降はずっと江戸詰めで、石碑を建てる費用を捻出できるほど裕福ではなかったと思うのだが。  

 象山は嘉永7年のペリー来航後、弟子である吉田松陰の密航未遂に連座して蟄居になった。『象山全集』では未確認だが、文久元年4月に象山が雷電の容貌を問うた記録があるそうで、古い碑はこの年の建立とされている。そうだとすれば、蟄居中の象山と伝次郎のあいだでまだ親しく交流があった証左になりそうだ。 設置場所は多少移動したらしいが、東御市滋野乙牧家にいまも現存するという石碑の画像を見ると、『新体育』に掲載された拓本は明治28年に勝海舟や山岡鉄舟らによって建てられたという新しい立派なほうの碑のもののようだ。近くに立つ古いほうの碑は、確かに「完膚なく一字も読む能はず」というほど、ただの石の塊に戻っている。蟄居中の象山の「明撰并書」による碑を文久元年に建てたことには、何らかの深い意味があったに違いない。 

 昨夜は、デジコレでほかにも曽祖父たちの新たな記録が多数見つかった。テキスト化され、検索機能が加わったことで、どれほど多くの新史実が自宅に居ながらにして発見されることだろうか。日本語の古い文献をテキスト化する作業は並大抵のことではない。その技術を開発し、膨大な点数の文書に対処してくれた人びとに感謝したい。

『宮崎鹿児島両県産馬調査報告』(陸軍騎兵実施学校刊)
 国会図書館デジタルコレクションより