2025年10月12日日曜日

大宮さん

 数日前、校正作業への集中力が切れてしまい、眠気覚ましに久々に国会図書館デジコレで高祖父の大宮萬吉の名前で検索したところ、1996年に千代田区教育委員会が発行した『千代田区の民具 3』という一見、無関係のような書籍が新たに公開されているのに気づいた。そこには大宮家が寄贈したいくつかの古い食器類の画像のほかに、「大宮家土蔵調査報告」という詳しい報告書があり、驚くべき事実が次々に判明した。眠気が吹き飛んだのは言うまでもない。 

 報告書によれば、明治20年に高祖父が神田小川町に建てた大宮家の土蔵・文庫蔵が、昭和63年(1988)に調査が実施されるまで残っていて、「新たに重層の建物を建築すること」となって解体されたというのだ。当時の間取りの記録は残されていないものの、関東大震災でも「この土蔵のみ辛うじて災害から免かれた。大火災によって破損した土蔵を大修理改造してこれに現存の住宅が再建されたのは、大震災後の昭和3年のことであった。その再建の後、16年を過ぎた昭和19年から20年におよぶ、今次対戦[ママ]における数次にわたる東京大空襲に際しては、幸いにして難を免れたのであった」と、報告書はつづく。 

 しかも、調査時の所有者は大宮たづ子、正義ほか共有となっており、「大宮材木店の初代から数えて4代目にあたる」という。俄然、興味が湧いて大宮正義氏の名前で検索すると、自民党選出の千代田区議会議員を長年務めたあと、2004年に亡くなっていたことが判明した。大宮さんは、てっきり小川町を離れて材木を扱うのに適した木場へ移ったのだと思っていたが、少なくとも20年前まで子孫の誰かがこの地に住みつづけて、千代田区議などになっていたのだ。30年ほど前の情報では、職業は材木関連ではなく飲食店経営となっていた。祖先探しで小川町は何度か歩いたことがあるのに、なぜこの事実にもっと早く気づかなかったのか。 

 翌日も気になって、2019年に千代田区役所でもらった除籍謄本を引っ張りだし、萬吉さん長男の徳太郎氏をはじめ、そこに書かれている大勢の名前を検索してみた。昭和4年刊の『神田区人物誌』には、これまた神田区会議員だったという徳太郎氏の項に、「代々和泉屋と号して木材商を営めり。此の度、復興事業に際会して、木材の需要頗る増大せり。氏は生粋の神田っ児にして、意地と張りを有し、義侠心に富み、公共事業の為には何ものをも惜まず[中略]氏は特に一宗派を信仰する者に非ざるも、社会人として道徳を根底に置き、久遠なる宇宙に思を寄せ」と大いに誉めそやしたあと、「和泉屋の門戸は牢として動かざる地盤と、顧客を有し、都下斯業界の重鎮たりしが、現在は廃業の状態に在り」などと書かれていた。関東大震災のあと、一時的に材木業も盛んになったが、小川町のような街中ではやはりつづけにくかったのだろう。 

 このページに掲載された徳太郎氏の写真は40代くらいに見えるが、2年前に同氏の長男精一氏のご子孫を探り当て、訪ねた際に見せていただいた白い長い鬚を生やした写真の人物と同一であることは疑いない。昭和11年刊の『土木建築業並関係業者信用録』の大宮精一氏の項には、「当家は先代大宮萬吉氏が愛知県下より上京し、神田丸太河岸佐藤由兵衛氏経営の材木店にて修業後、現業を以て独立せしに始り」とある。大一木材の大宮巨統さんからは、深川の材木屋で丁稚奉公と伺っていたので、下積み生活が長かったのかもしれない。 

 昭和2年刊の『国民自治総覧』の徳太郎氏の項には、「抑も同家は維新前愛知県海原郡より上京、多年材木業界に刻苦精励して独立、今日の基礎を築ける大宮萬吉氏の苦闘苦心の結晶なり」と書かれていたほか、萬吉さんは「八十歳の高齢を保ちて今尚矍鑠たり。老来益々勇躍淋凛[ママ]町内の夜警衛生等に尽瘁して殊功あり」と絶賛されていた。祖父母のアルバムに残された葬儀の写真に、神田公友会などと読める花輪が所狭しと並んでいた理由がわかる気がした。 

「海原郡」は正確には海東郡だろう。除籍謄本によれば、私の高祖父に当たる萬吉さんは尾張国海東郡勝幡村で弘化4年に生まれている。その後、深川熊井町に住んだのち、明治8年3月に神田小川町1番地に越し、徳太郎氏はその1カ月後に生まれていた。徳太郎氏の生母は産後まもなく亡くなったと思われ、翌9年に私の高祖母に当たる志げさんを後妻に迎えている。昭和3年に志げさんが先に中野で死去していたので、てっきり小川町は引き払ったものと思っていたため、今回の発見はまったく意外だった。

  100年にわたって存在した土蔵があったのであれば、萬吉さんの店がそこにあったと考えてよいだろう。萬吉さんの次女である私の曽祖母タケさんは「神田区小川町壱番地」生まれだが、この「1番地」は、山城淀藩の稲葉丹後守正邦の上屋敷跡で、かなり広大な一画すべてに「1番地」の番号が振られていた。明治32年ごろに作成された『東京名所図会』では、大宮萬吉木材店は「一番地の西方即ち戸田邸前通りにあり」となっているが、いまの靖国通りの南側にあった戸田忠行邸は、小川町一番地の向かいではなく、いまの小川町3丁目(幕末にはただ「御用屋敷」)の向かいに位置していた。私の学生時代には、3丁目付近までスキー用品店がびっしり並んでおり、記憶が正しければニッピンの神田店などもあった。 

 明治9年の「明治東京全図」では、「壱番」はまだ「稲葉正邦」となっているが、その前年に高祖父がその一角に店を構えていることから、淀藩のこの屋敷も没収され、分割されて新たに台頭してきた大宮さんのような庶民に売られていたのだろう。土蔵は「大宮材木店の東側に隣接する同一敷地内」だという『千代田区の民具』の記述と図から、場所を特定すると、その名も大宮ビルという2棟の建物がグーグルマップ等から確認できた。これらが新たな「重層の建物」に違いない。 

「明治東京全図」には、小川町の「壱番」と通りを挟んだ向い側の錦町に、「九條道孝 区務所」と書かれたかなり大きな区画がある。この数年、九条家について散々調べて論文まで書いた身としては、興味を抱かずにはいられない。大正天皇妃となった九条節子はこの別宅で明治17年に誕生したらしい。私の曽祖母タケさんはその前年に生まれている。 

   明治の小川町界隈は、仏文会(現法政大)の跡地に東京物理学校(現理科大)が入るなど、新しい東京の文化の中心地のような場所であったことは、以前に調べた際に知っていたが、改めて地図を見ると、東京英語学校や開成学校があるし、神田川方面に坂を上った先には「魯国公使附属ニコライス」の文字も見える。いまのニコライ堂(1891年竣工)の場所だろう。少し右手の筋違橋門の手前には、上田藩が1世紀以上にわたって上屋敷をもっていたが、幕末にその地にあったはずの青山下野守の屋敷なども、明治9年の地図では跡形もない。 

『神田区人物誌』はタケさんの異母兄である徳太郎さんが、「子福長者にして家庭には九人の子女あり」とも書く。除籍謄本では7男4女の名前が確認できるが、息子のうち2名は早世したのかもしれない。長男が精一氏で、『木材総覧』(1976年)などから、小川町の店は3男の松三氏が継いだものと思われる。残る3人の息子と思しき人物は、それぞれ関東逓信病院の医師、電電公社の職員、茨城大学の心理学教授に見つかった。娘たちの行方は、残念ながらたどれない。大宮さんは材木問屋と思い込んできたが、それぞれに多様な道を歩んでいたこともわかり驚いた。 

 折しも、10月25・26日に神保町ブックフェスティバルの「本の得々市」で、拙著『埋もれた歴史』(2020年刊)の版元であるパレードブックスさんが出店し、在庫が減らずに困っている拙著も売ってくださるというお知らせをいただいていたところなので、校正中で気持ちの余裕はまったくないが、現地調査を兼ねて小川町・神保町を大急ぎで歩き回ってみようかと思っている。うちの親族はみなそれぞれに忙しく、一族の歴史などにほとんど興味を示さないのだが、母のいとこがお付き合いくださるとのことなので、雨天でない限り、いずれかの日に決行しようと思っている。何か新たに判明したら、この記事に付け足すなり、改めて報告を書くなりしよう。

   なお、土蔵に保存されていた「数々の貴重な民俗資料」は、1995年創立の千代田区立四番町歴史民俗資料館に寄贈されたと報告書には書かれていたが、調べてみると、市ヶ谷にあったこの資料館は早くも2011年には閉館し、日比谷図書文化館に機能移転していた! 日比谷公園内のこの三角の建物は、ここ数年、毎秋、赤松小三郎研究会の講演会の会場となっており、考えてみれば、展示室のようなものを見たことがある。大宮さんからの器などは、おそらく倉庫に仕舞い込まれているだろうが、この11月3日にも河合敦氏の講演会「赤松小三郎に影響を与えた人々〜最新の幕末史研究を踏まえて〜」(14:00開演)に行く予定にしているので、ダメ元で一応覗いてみることにしよう。私の曽祖母タケさんが使っていたかもしれない器であれば、ぜひ見てみたいものだ。

2025年10月5日日曜日

『軽井沢物語』

 前回のコウモリ通信をお読みくださった赤松小三郎研究会の方が、「故郷の地名がでてくるたびに懐かしさもヒトシオ」という感想とともに、研究会でご一緒だったノンフィクション作家の故宮原安春さんが『軽井沢物語』(講談社、1991年)のなかで、ダニエル・ノーマン(ノルマン)について書いておられたことを教えてくださった。研究会にお邪魔したてのころ、高祖父について判明していた若干のことを報告したところ、宮原さんからメールを頂戴し、何度かやりとりをしたことがあった。ただし、ご著書を読んだことはなかった。早速、図書館から借りてみると、軽井沢に外国人墓地を発見したのを機に、この避暑地の歴史を紐解いた力作だった。しかも、相当なページ数がノーマン一家に割かれていた。

  私自身は軽井沢には数度しか行ったことがなく、姪の結婚式に出席した2016年に訪ねたのが最後だ。式の前日だったか、母と旧碓氷峠まで足を伸ばし、そこでラビンドラナート・タゴールの碑を見つけて驚いたことがあった。タゴールはアマルティア・センの名づけ親でもあったからだ。1913年に詩集『ギタンジャリ』でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞している。軽井沢には日本の女子高等教育に尽力した日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きできたことは認識していたが、現地の案内板の写真を読み返してみたら、1916年(大正5)、「当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した」と書かれていた。ふむ、なるほど。

 『軽井沢物語』にはタゴールのことは書かれていなかったが、碓氷峠の変遷については詳しく説明されていた。当時、私はきちんと理解していなかったが、この旧碓氷峠こそが江戸時代からの中山道上の難所で、群馬県の坂本宿と軽井沢宿を結んでおり、幕末の戊辰戦争中にウィリアム・ウィリス医師が馬で越え、上田で私の高祖父に会ったあと、高田、新潟、新発田などを経て会津まで従軍した際に通った峠である。

 『軽井沢物語』によると、1883年(明治16)から翌年にかけてこの碓氷峠の南側に明治政府が勾配の緩い国道を、渓谷には橋を架けて建設したのだそうだ。国道とともにアプト式の鉄道も開通したために、軽井沢の宿場は一気に寂れたが、そこへ外国人がやってきて、避暑地として旧軽井沢が再発展したらしい。この国道18号旧道のほうは、私が子どものころ屋代の祖父母の家に行くために母の運転する車に乗って、184回のカーブを登った道だ。車酔いする私は後部座席に寝転がってひたすら耐えていたが、助手席の姉がカーブ数をかぞえて母を励ましていたのを覚えている。1971年には碓氷バイパスが開通している。私はいつか祖先やウィリスが通った中山道を歩いてみたいと思っているのだが、国道18号やバイパスですらサルやクマが出没するようなので、何やら難しくなってきた。 

 軽井沢の「発見者」であり、聖公会宣教師だったカナダ人のアレクサンダー・ショーゆかりの地も、このとき訪ねた。宮原さんはショーが最初に軽井沢にきて別荘第1号を構えたのは、1886年(明治19)の可能性が高いとしている。中山道沿いにあった旅籠を改築した家を買うか、借りるかしたもので、善光寺参りの旅行者が旅籠と間違えて、夜昼かまわずドアをノックするのでたまりかねたという逸話が紹介されていた。 

 同書によると、 1899年(明治32)8月になって文部省からキリスト教教育の禁止が発令された。その2年前に来日していたカナダ・メソジスト教会牧師のダニエル・ノーマンは、東洋英和学校(のちの麻布高校)が経営難からキリスト教教育を放棄したことを本国カナダに書き送っていた。ダニエル牧師は1902年に(明治35)長野に赴任すると、長野市で伝道を始める前に軽井沢に土地を買い、別荘を建てていた。長野市県町の宣教師館「ノルマン館」で暮らすようになってからも、夏は例年、軽井沢で過ごしていたという。1909年(明治42)9月1日に、末っ子のハーバートが軽井沢で誕生している。

 その日の信濃毎日新聞に軽井沢に別荘を構える内外人約150戸が会議を開き、「本邦人よりは二名すなわち新渡戸・青山両博士を、また外国人側よりは三名をいずれも委員にあげ」、年々増えつづける土地や資産にたいする県税に抗議をした記事が掲載されたという。外国人代表の名前は書かれていないが、「軽井沢の村長さん」と呼ばれたダニエル・ノーマンもその一人だろうと宮原さんは推測する。避暑外国人と現地の人のあいだにさまざまな摩擦があり、ノーマン牧師は20以上にわたって「軽井沢避暑団」の問題解決に尽力したのだという。 日本人代表2名については、東京帝国大学医科大(のちの東大医学部)学長の青山胤通、もう一人は新渡戸稲造だという。青山胤通は、その娘婿が祖父の恩師であったことを少し前に知った人で、新渡戸稲造のほうは、1984年から2007年まで五千円札だった人だ。同時期に一万円札になった福沢諭吉の陰になって認知度は低かったが、お札の顔になったころかその前か、祖母が得意げに新渡戸稲造のサインか何かを私に見せてくれた記憶がある。それが何だったのか、どこに行ってしまったのか、情けないことにまったく思いだせない。 

 祖母は1926年以降に東京女子大に入学しており、その時分には学長は新渡戸から安井てつに代わっていたはずだ。国際的に活躍していた新渡戸が学生一人ひとりに何か渡したりしただろうか。新渡戸は1917年(大正6)に拓殖大学の学監に就任しており、同時期に曽祖父が同大で教えていたため、曽祖父がもらったものだった可能性もある。いずれにせよ、私にとってはお札の人以上の存在ではあった。当時の軽井沢は政財界の大物や華族、知識人などが大勢集まっていたので、さほど驚くべきことではないのかもしれないが、世の中は狭いとつくづく思う。 

 1930年代後半になるとキリスト教私立校でも「御真影」が掲げられ、拝礼が義務づけられたことや、1940年になると学校長、部課長、学校を経営する財団法人の理事長および過半数の理事を日本人とし、学校財政の外国布教本部(ミッション)からの独立を定めたことなどが『軽井沢物語』には綴られる。同年末、ダニエル・ノーマン一家は離日したが、博士号を授与されたのちも日本史研究をしていたハーバートはこの年、軽井沢で羽仁五郎から著書『明治維新』を音読してもらう学究生活を送っていたそうだ。ハーバートはIPR(太平洋問題調査会)国際事務局の研究員であったため、高木八尺、丸山眞男、大窪愿二(『日本における近代国家の成立』翻訳者)らとも交流をもったともある。 

 羽仁五郎は桐生生まれだが、説子夫人が自由学園創設者の羽仁吉一・もと子夫妻の娘で、羽仁家の祖先は長州藩士である。ついでに言えば、成瀬仁蔵の祖先は代々、吉敷毛利家の祐筆だった。うちの母は、羽仁夫妻が1903年に創刊した『婦人之友』という雑誌をかなり長いこと定期購読していたのだが、ダニエル・ノーマンの妻キャサリンが1949年(昭和24)の第43巻第2月号に寄稿していることを知って、今春、古書を入手していた。戦争中、追われるように日本を去ったにもかかわらず、キャサリン夫人は「長野にいた殆ど四十年の歳月が、私の生涯の中でも一番幸福な時だった[……]息子が二人とも今日本に居りますことを喜んでいます」と書いていた。長男のハワードは当時、関西学院大学で教えていた。じつはこの春、絵本作家の娘のなりさに120年以上の歴史をもつこの『婦人之友』誌から野鳥観察についての座談会というお仕事が舞い込んでおり、不思議な縁を感じていたためでもあった。

 『軽井沢物語』には、1941年(昭和16)8月19日にダニエル牧師の追悼会が軽井沢で開かれたときの集合写真も掲載されていた。中央で遺影を掲げるのはハーバートで、この年まだ残っていた外国人宣教師や、軽井沢避暑団団長のウィリアム・ボーリス、羽仁五郎ら日本人関係者100人近くが、まだ国民服ではなく、スーツ姿で勢揃いしたと宮原さんは書く。 軽井沢では太平洋戦争中も終戦の年までテニスやゴルフに明け暮れていた特権階級がいたそうで、この地は外交の中心にもなっていた。松代大本営の準備が進むなかで皇室の人びとは日光や伊香保、塩原に疎開し、軽井沢には貞明皇后の疎開先が用意されたという。軽井沢の常連だった近衛文麿は、「華族のトップに位置するのだから天皇の地位を守ることを自分の任務と考えて」おり、「日米開戦を避ける努力を最後まで行い、軍部に対抗してきたという自負があった」ため、自分の立場を楽観視していた。「だが、マスコミの論調は逆転した。三国同盟を結んだ首相が、敗戦後も副首相格で活動しているのはおかしい。かつての関白政治と同じつもりではないか……」と書く宮原さんの分析は鋭い。近衛文麿の死は、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げたのだという。

  終戦後は9月になると、軽井沢にもアメリカ兵が入ってきたが、なかには少年時代を軽井沢で過ごし日本語のできるアメリカ兵もいたらしい。長年、軽井沢に疎開していた仏文学者の朝吹登水子が「平和が戻ったんだわと目頭がじーんと熱くなりました」と書いている。「この時期に、軽井沢から国際的スターが出現した。画家のポール・ジャクレーである」とも、宮原さんは書く。4歳から日本に住み、浮世絵の手法で木版画を制作していたフランス人だという。あれっ、と思って確認したら案の定、赤松小三郎研究会の別の方から、少し前に頂戴した1957年刊の和綴本が、フローレンス・ウェルズが書いた『Paul Jacoulet Wood-block Artist 木版画』だった! ちらりと拝見しただけで仕舞い込んであったので、こちらもちゃんと読まねば。  

 アメリカ兵とともに、ハーバート・ノーマンも日本に駐日カナダ代表部首席として戻ってきて、途中、4カ月ほどはGHQにも勤務していた。「長野の人たちは、『ノルマンさんのせがれがえらくなって来た』と驚きの声で迎えたという」。ハーバートは1945年11月にGHQ政治顧問のJ・K・エマソンと長野視察旅行に短い旅行をしたあと、1947年6月に再び長野を訪れている。6月22日に父ダニエル追悼集会の席でハーバートが日本語で講演した冒頭部分が引用されていた。のちに彼がマッカーシズムの犠牲となり、カイロで不幸な最期を遂げたことについて、宮原さんはケンブリッジ留学中にマルクス主義に接近したことを唯一の原因として挙げていた。 

 しかし、兄ハワードが書いた『長野のノルマン』には、父ダニエルも若いころ社会主義に触れていたことを示唆する箇所があるし、そもそも原始キリスト教が共産主義とよく似ていたことを考えれば、ハーバートがマルクス主義に何かしら共感を抱いたとしても不思議ではない。しかしだからと言って、証拠もなくハーバートをソ連のスパイだと決めつけ、彼を死に追いやったのは冷戦時代の狂気としか言いようがない。『軽井沢物語』の執筆当時はベルリンの壁が崩れて間もなく、インターネットも普及していなかったので、まだその冷戦期を引きずっていたように思う。同じことは、同年に刊行された工藤美代子の『悲劇の外交官:ハーバート・ノーマンの生涯』(のちに加筆され、改題された)にも言える。

  執筆の契機になったという軽井沢の外国人墓地については、宮原さんはあまり触れておられない。カナダ・メソジスト派の宣教師として赴任していたキャンベル牧師夫妻が、1916年に就寝中に強盗に押し入られて殺害された事件について書いておられるが、この夫妻は東京の青山霊園に葬られたようだ。ダニエル牧師の後継者として長野に赴任してきたアルフレッド・ストーンは1954年青函連絡船の洞爺丸が転覆し、救命胴衣をつけていない日本人に自分が着ていたものを渡し、祈りながら波にさらわれたという。ウィキによれば、同行したYMCAの宣教師ディーン・リーパーとともに、日本人の子ども2人を救うためにみずからが犠牲になったようだ。ネット時代なら、こうした細々としたことは瞬時に検索できるが、1990年代には各地に散逸している史料を読みあさるしか、すべがなかっただろう。 

 速読した程度では、消化できない、じつに多くのことがこの本には書かれていた。宮原さんがお元気なうちに読んで、いろいろお尋ねしてみたかった。それでも、書物として残され、読むことができるのはたいへんありがたい。このような出会いを提供していただいた赤松小三郎研究会にも、大いに感謝している。
 
 宮原安春著『軽井沢物語』講談社、1991年

軽井沢旧碓氷峠見晴台のタゴール記念碑案内板(2016年撮影)

 軽井沢ショー記念礼拝堂前(2016年撮影)

(左)『婦人之友』昭和24年第43巻第2号
「開拓者精神の流れ」在カナダ カサリン・ノルマンの寄稿文が掲載されている
(右)木版画家ポール・ジャクレーの木版画という和綴本

なかに、浮世絵式に刷られた木版画のが一枚入っていた

2025年9月23日火曜日

信州旅行2025年

 9月20 ・21日に上田で「市民のための歴史講座」が開かれ、幕末の老中松平忠固と上田藩の人びとについての研究発表に、15人の発表者の一人として参加してきた。先に発行された論文集に沿って、私は「松平忠固と関白九条尚忠の関わり」という突拍子もないテーマで発表したので、その内容を20分でまとめて話すのは至難の業となった。 ふだんMacを使っているので、フォントには注意したつもりだったが、当日使用したWindowsのPCでは文字化けしたものがあった。老眼で手元がよく見えないので、原稿は別途用意せず、しゃべる内容や難しい読みはすべてパワーポイントの発表者ツールに入れたのに、それが表示されない機種であることが土壇場でわかり、タイマーも見えないまま、うろ覚えで話すはめになった。それでもどうにかおおむね時間内にスライドにしたがって発表を終えられ、心の底から安堵した。 

 2日間とも100名前後の方が参加してくださったそうで、年齢層は高めであるにもかかわらず、入れ替わり立ち替わりで発表がつづくなか、居眠りもせず、皆さんじつに熱心に、メモを取ったりしながら聞いていただき、たいへんありがたかった。忠固のご子孫の方々にも、2017年に上田の願行寺で開かれたトークセッション以来でお会いすることができて、この間の研究成果をお見せできて嬉しかった。地元の明倫会の皆さまには、お弁当の手配や送迎といった細々としたことまでご手配くださり、臨機応変に対応していただいた。「忠固研」の3年にわたる活動が、忠固の地元の上田だけでなく、よい意味で幕末史を見直す起爆剤となれば、苦労した甲斐があったというものだ。 

 今回、じつはこの上田出張の前に長野市にも立ち寄っていた。なかなか自由時間の取れない私にとって、この機会を逃しては次にいつ行けるか定かではないと思ったため、思い切って駆け足調査を実施した。いちばんの目的は飯綱高原に移築されている旧ダニエル・ノルマン邸を訪ねることだった。ところが、最寄りの飯綱登山口バス停行きのバスは極端に本数が少なく、仕方なくだいぶ手前のバス停からバードライン沿いを歩くことにした。この付近は8月にツキノワグマの目撃情報のあった場所だ。例年9月は出没件数が増えるようなので、万一のことを考えて事前にクマ鈴と笛を購入し、ネット情報から蚊取り線香まで持参していったが、幸い杞憂に終わった。 

 ノルマン邸にこだわった経緯は以前に「ノーマンさん」「十河家のピアノ」の記事で書いたが、神奈川近代文学館まで行ってダニエル・ノルマン牧師の長男W. ハワード・ノルマンが書いた『長野のノルマン』を読み、工藤美代子の『スパイと言われた外交官』の古本を入手して次男ハーバートの生涯もおさらいするなどして、ハーバート本人の著作『日本における近代国家の成立』もおよそ読んだ。ハーバートがハーヴァード大学の博士論文として執筆し、太平洋問題調査会(IPR)の調査シリーズの一冊として1940年に刊行されたものという。 旅行直前にはもう一度、『長野県町教会百年史』を国会図書館デジコレで読み直した。1905年にノルマン邸と呼ばれる宣教師館を設計したダニエル・ノルマンは、1934年に引退する形で軽井沢の教会に移るまでこの家に住み、その後は後任の牧師が居住したものと思われる。日米関係の悪化からノルマン夫妻は最終的に1940年末に長男ハワードの一家とともにカナダに帰国し、ダニエル牧師は半年後に亡くなっている。 

 工藤美代子によれば、次男ハーバートは同年5月に博士号を取得後、語学官として日本に赴任しており、1941年12月8日、太平洋戦争が勃発すると、ハーバートはカナダ公使館に抑留され、翌年7月に交換戦で離日した。終戦後の9月にはカナダの外務省の仕事で再び来日し、12月にGHQが設置されるとそちらに異動したと考えられている。 祖父の転勤によって母の一家が鳥取から長野に引っ越したのは1941年ごろと推測されるので、その当時、ノルマン(ノーマン)一家はこの家にも長野市内にも、誰もいなかったことになる。太平洋戦争中の出来事に関する『百年史』の記述はやや曖昧だが、敗戦1カ月前に教会堂は強制疎開として取り壊され、時期は不明ながら「ノルマン館は敵性財産として没収され、これを買った人が住んでいたので、教会の自由にはならなかった」とする。つまり、母の一家がお付き合いしていた大滝さん一家こそが、戦争中にノルマン邸に住んでいた人たちということになる。母が記憶していた大滝邦雄という名前で検索したところ、野辺山の開発を手掛けた高原開発報国社の代表であったことが判明した。『大衆人事録』には「宗教基督教」と書かれていたので、教会の関係者であったのかもしれない。大滝家は数年後には軽井沢へ引っ越したそうで、ノルマン館は1960年ごろに北野建設の所有となり、しばらくは専務の自宅として使われ、1971年に飯綱高原の現在地に移築された。 

 かなり改築も繰り返されたと見え、古写真に残るノルマン邸とはやや印象が違った。窓の鎧戸などもなくなり、戦後に増築されたと思われる部分もある。「平常多く使われる部屋はすべて南側にとってあった。サンルーム、リビングルーム、食堂、炊事場は一階に、寝室と子ども部屋は二階にあった」と、『長野のノルマン』には書かれていたが、肝心の南側のすぐそばに木立があるため、裏手に回ってもじっくり眺めることはできず、なかも覗けなかった。次のバスまで少し時間があったので、隣に移築されている旧長野師範学校教師館の入り口に座って少々スケッチも試みたが、どんどんパースがずれてしまった。建物は難しい。 

 長野県町(あがたまち)教会には、1898年にそこを園舎にして始められた旭幼稚園があった。この教会はカナダ・メソジスト教会の宣教師によるもので、幼稚園は東洋英和女学校(現在は女学院)と関係があるという。関連の書を斜め読みした程度で詳しくはないが、上田、屋代、松代など、私と関連のある場所がいずれもこの教会と密接に関連していた。しかも、東洋英和女学校の高等科が1918年に東京女子大学と合併とあり、祖母は東女卒なので、何かしら関係があるかもしれない。 

 というのも、祖父母のアルバムにあった集合写真の裏面に母の字で「長野 旭幼稚園」と書かれており、居並ぶ着物姿の女性たちのなかに祖母が写っていたからだ。母の妹たちがこの幼稚園に通った可能性もあるが、いまのところその確証はない。母の記憶では旭幼稚園の裏が大滝さんの住んでいたノルマン邸のはずだった。『長野の百年史』も「ノルマン宣教師館の隣りに旭幼稚園があった」とする。1919年2月7日の『官報』には「長野市縣町十二番地英領加那陀人ダニエル・ノルマン」という記述があったが、戦前の長野の市街地図はどこにも見つからなかった。 

 これはもう県町教会に聞いてみるしかないと考え、荷物をホテルに置いたあと、訪ねてみた。突然お邪魔したにもかかわらず、ホームページで拝見していた若い牧師さんご夫婦がじっくり話を聞いてくださり、旭幼稚園の百年史を繰って、1953、54年の卒園式の写真がまさに同じ場所で撮影されていることを確認してくださった。後ろに並ぶ職員のなかには外国人の姿も見られ、戦争中に一時期途切れていた教会との関係が戦後はまた復活していたらしいことがわかった。旭幼稚園とノルマン邸は実際にはどこにあったのかお尋ねしてみたところ、いまのホテル国際21付近とのお答えで、私は思わず声をあげた。どこかでそんな記述を目にした気もするが、まさにそのホテルに宿をとっており、私が泊まった南館の部屋の窓からは三角形の印象的な山が目の前に見えていたからだ。「それが旭山です」とのこと。 

 ハワード・ノルマンは屋根裏部屋の窓から、「ゲジゲジ山」と呼んでいた山道がジグザグにつづく山がよく見え、長野市街は南に向かってその山の裾野に展開しているとしていた。それと並んで石切場のある「ゴロゴロ山」もあったとするが、どれを指すのか判然としない。県宝に指定されているのに、ノルマン邸の元の場所は県町としか書かれていないのだが、県庁前の道路拡張工事で移転したことなどは確認できるので、このホテル付近と見て間違いないだろう。 

 近くにある長野市立図書館で司書さんに聞いてみたところ、昭和初めの地図を教えてくださり、その地図に県会議事堂(現県庁)と道路を挟んだ向かい側に旭幼稚園だけは記載されていた。幼稚園の北東には現存する犀北館も書かれているが、なぜか県町教会も記されていない。母の一家は当時、南県町の一角である徳永町に住んでおり、その斜めの通り沿いの家は1980年代くらいまでは存在したようだ。母たちが通った付属小学校は善光寺の近くにあり、子どもの足で通うにはそれなりの距離があったことなども、その地図からわかった。 

 グーグルマップを拡大してみところ、犀北館に「重森庭園」なるものを発見し、館内を覗きに行ったところ、すでに夕食時間帯だったのに、親切なウェイターさんがガラス戸を開けて庭に通してくださり、重森三玲の孫の千青氏作庭の石庭を見学させてくれた。北野建設が創設した北野美術館に重森三玲の庭があり、その関係で犀北館にお孫さんが庭をつくることになったらしい。三玲の庭には砂利に際に印象的なコンクリートの細い縁があるものがあったが、こちらの庭では代わりにスプリンクラーにもなる黒いチューブが使われていた。長くなった夏の期間、苔を保つのは容易ではないので、庭も進化しているのかと感心した。 

 じつはこの日、飯綱高原に行ったあと、善光寺の納骨堂、雲上殿にまで足を運んでいた。帰りのバスが善光寺北で止まってくれれば楽だったのだが、もう一度駅前まで戻り、別の路線バスで滝東まで行くはめになった。そこからグーグルマップを頼りに歩いたのだが、その登りのきついこと。重たい本の詰まったリュックをもち歩いていたため、すでに飯綱高原でくたびれていた身には辛かった。 

 雲上殿に着いたのは閉門の30分ほど前。前回きたのは、おそらく1992年秋だと思われる。祖母の衰えが目立ってきたので、納骨堂に永代供養されている両親に最後にお参りさせてあげようと一念発起して、幼稚園児だった娘と信州旅行をしたのである。といっても、私は荷物持ちに付いていったようなもので、すべて祖母任せだったため、タクシーを使ったのかどうかすら記憶にない。受付で曽祖父母の死亡日と俗名を告げてもわからず、一人娘だった祖母の名前を伝えたところ、該当するものがあった。「遺骨があるのでお出しすることができます」と言われ、祭壇のある小さな部屋に通され、そこに位牌ではなく、ミニチュアのような木箱が2つ運ばれてきた。木箱の表に短めの戒名と祖母の俗名が書かれ、管理番号が振られていた。どちらも戦後すぐの貧しい時代に亡くなったので、当時はそれが一般的だったとのこと。分骨したのだろうか。祖母とお参りしたときはお経を上げてもらったように思うが、今回は時間もなく、用意してきた最低限のお布施では足りなかったので、お線香だけ上げてきた。70年以上にわたり、不信心な子孫に代わって遺骨を守ってくださった善光寺さんには感謝している。祖母は賢明な判断をしてくれたに違いない。 

 3日間の旅のことだけで、やたら長くなってしまったので、ハーバート・ノーマンの『日本における近代国家の成立』の書評は、もう少しよく読み直してから、別の機会に書くことにする。上田での研究発表の帰りの新幹線でこの本を読みながら、考えさせられることが多々あったからだ。それにしても今回の信州の旅では行く先々で本当に多くの親切な人たちに出会うことができた。充実したよい3日間となった。

 旧ダニエル・ノルマン邸

 ノルマン邸の南面

肝心の玄関がひどく寸詰まりになってしまった。師範学校教師館からだと立木越しでよく見えなかったことを言い訳としよう。

 長野県町教会

 ホテル国際21からの眺め

 長野旭幼稚園、1940年代

 善光寺雲上殿からの眺め

 犀北館の重森庭園

 市民のための歴史講座パンフレット

2025年9月2日火曜日

伊勢町八田家

 ようやく本業が一段落したため、『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』を読み進めていたところ、塚越俊志先生の「松平忠固と横浜開港」というコラムで目が点になった。忠固の目指した政策概要がわかる史料が、「松代藩領伊勢町八田家文書のなかに見出せる」と書かれていたのだ。八田家は、産物会所取締役という立場にあったという。

   祖先探しの一環で『象山全集』にはかなり目を通していたので、松代の八田という名前はよく登場することもあって以前から気になっていた。というのも、母の実家が戦後、松代で医院を開業しており、「はったさん」という名前を祖母がよく口にしていたからだ。同コラムによると、本町八田家が本家で、伊勢町八田家は分家だそうだ。その名称にピンときたのは、母たちの住んでいた場所は伊勢町だったと聞いていたためだ。 

   母の末弟に問い合わせてみると、八田家は松代藩の御用商人で、戦後の時代は金物屋を営んでおり、そこの女主人と祖母が仲良くなり、叔父も連れて行かれたとのことだった。いまもまだ家が残っているはずだという叔父の言葉どおり、検索すると八田家住宅が保存されているのが確認できた。戦後早々に単身東京に戻った曽祖父が急死し、西大久保の家は空襲で焼失したため、曽祖母は信州に疎開したまま、娘一家の近くに家を借りて一人暮らしをするようになったが、松代時代は町の東部にある東条にいたという。その家も、叔父によると、八田さんの別荘の一部だったらしい。  

   2014年に母と松代を訪ねた際に、祖父の医院があったという「御使者屋」前の場所に行ってみたのだが、ただの駐車場になっていた。御使者屋というのは松代藩のゲストハウスのようなもので、佐久間象山がしばらく暮らしていたことでも知られる。全集のなかでは「御使者屋時代」などと呼ばれていたし、すぐ裏手にある松代藩鐘楼と御使者屋のあいだで本邦初の電信実験がなされたとも言い伝えられている。残念ながら本邦初でもなければ、本当に実験したのかどうかも定かでないらしいが、現地には少なくともそのような案内板が立っていた。

 象山と言えば、その弟子だった高祖父に関して、これまで気づいていなかった重要な事実が『象山全集』巻1から一つ判明していたので、横道に逸れるが、忘れないようここに書いておく。今年初めに国会図書館のデジタルコレクションの検索機能が拡充したおかげで、象山の年譜の頭注に、ゴマ粒のような文字で象山の甥の北山安世が山田権之助という人物とともに書いた書状が引用されていたことがわかったのだ。ペリー来航時の吉田松陰の下田踏海事件に連座して伝馬町に収監されていた象山が、国許である松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、「九月廿四日門弟門倉、桜井へ宛て象山の江戸退去を通知せる文(頭注)あり。察するに門弟中親しき者へは一様に通知を発せるものか」と年譜本文にも書かれていた。書状には「二白、内密は白山辺にて被懸御目候様子に御座候」とあり、宛名は「松平伊賀守様 御上屋敷 門倉伝次郎様、桜井純蔵様」になっていた。知らせを受けて、高祖父と桜井が白山まで駆けつけたかどうかはわからない。 

 嘉永7年当時の上田藩上屋敷は西の丸下の役宅だろう。この当時は馬場などもある扇橋の抱屋敷か、のちにいた瓦町藩邸に住んでいたのではないかと推測していたが、この役宅にいたというのも新発見だった。高祖父が幕臣とトラブルになって追われ、桜田門から入って塀を乗り越えて役宅に逃げ込んだという逸話が曽祖父の追悼文に書かれていたが、まったくのホラ話ではないかもしれない。伝次郎の孫に当たる祖父が松代で開業したのは、日赤をクビになった際に知り合いが斡旋してくれたためと聞いているが、御使者屋の前に医院を構えたことの意味を、祖父がどう感じていたのかは、気になるところだ。何しろ、私が先祖探しをするまで、高祖父が象山の弟子だったという話は誰からも聞いたことがなかったからだ。

   11年前に母と訪ねた医院跡の駐車場は、グーグルマップでいくら見てもどこだかわからず、叔父にもう一度聞いてみると、伊勢町の「メイン通り」沿いにあったと記憶していると返答してくれた。そこでふと母の遺品に、この旅のときの写真をプリントアウトして簡易アルバムに入れて渡してあったものがあったのを思いだした。開いてみたら、母の字でそれぞれの写真に丁寧にキャプションと説明が書かれていた。まるで自分の死後に、記憶力の悪い娘が困るのを見越したかのような母の周到さに、思わず涙が込み上げてきた。 

   叔父の記憶と母の説明、それに写真に映る背景を手がかりに、ストリート・ビューで確認すると、現在、「秘密基地アトリエ wanaka」がある場所、またはその隣の駐車場が、鈴木という料亭跡に開業したという祖父の医院および自宅があった場所であることがわかった。 

「秘密基地アトリエ」とは何ぞやと思ってさらに検索すると、2019年に信州を襲った台風19号で廃業した築60年の布団店倉庫を、地元のアーティストがリノベーションした多目的スペースのようなものだった。この台風で上田電鉄別所線の赤い千曲川橋梁が崩落したことはニュースで知っていたが、松代の甚大な被害については恥ずかしながら知らなかった。長野県が作成した被害一覧のようなものを見ると、八田家住宅も長土蔵の一部が破損したほか、飯綱高原のダニエル・ノルマン邸も倒木によるかなりの被害を受けたようだった。  

   松平忠固の論文集からは、思いがけずいろいろな発見があった。じつはまだ全部読み終えていないのだが、最後までしっかり読みつづけよう。

 母のキャプションが残る旅のアルバム

2025年8月1日金曜日

硫黄岳2025年

 今年も、30年もののメスナーテントを担いで1泊2日で八ヶ岳に行ってきた。このところずっと多忙だったため、山へ行くのは1年ぶりだ。毎週、娘宅まで片道30分ほどの距離を自転車で通っているとはいえ、それ以外は毎朝の短時間の体操くらいで、この数週間は原稿の見直しやら校正やらで座りつづけていたため、腰の調子も悪かった。トリプル台風の影響もあったのか、天気も絶好とは言えず、多少は降られるのを覚悟のうえで出かけた。というのも、この夏は娘の仕事などの予定がいろいろ入っており、出かけられる週末が非常に限られていたからだ。  

 孫の楽しみは、登頂すること以上にテントで寝ることにあるので、今年はオーレン小屋をテン場に選んだ。娘が小学校5年生ごろ、3人のいとこたちとオーレン小屋に流れる渓流で遊んで大いに楽しんだ記憶があったためだ。 古い写真も未整理で、記憶が定かではないのだが、古い手帳に残る私の手書きの標高グラフを見ると、最初にオーレン小屋へ行ったのは娘が小学校3年の夏と思われる。美濃戸口から登って赤岩の経由でオーレン小屋でテン泊し、今回同様に夏沢峠経由で標高2760mの硫黄岳に初めて登り、そこから横岳を抜けて行者小屋に降り、阿弥陀岳を登って御小屋尾根から下山していた。おそらくまだ白灯油を入れてポンピングしてから使うかなり巨大なバーナーを使っていた時代で、私は全行程を13kgくらいの荷物を背負っての苦しい山行だった。阿弥陀岳の登りが恐ろしかったことや、下山途中で道に迷い、林業の人が使うような急坂を下ってしまい、暗い森のなかでギンリョウソウを初めて見てぎょっとしたことを覚えている。沢に出たところ、対岸を歩く登山者が見えたため浅瀬を渡り、何とか無事に帰ることができた。その前年もキレットで恐怖の体験をさせてしまったため、娘はこの親は当てにならないと思ったらしく、私が25000分の1の地図のほか唯一の頼りとしていたガイドブック『山小屋の主人がガイドする八ガ岳を歩く』(山と渓谷社、1995年五刷)を、ふりがなを振って自分で読んで勉強するようになった。  

 記憶を正してみると、オーレン小屋には桜平まで車で行けることをのちに発見し、姉一家と車2台でそこまで登ったようだ。桜平のどの駐車場に停めたのか記憶にないが、ガタゴト道の登りがうちのオンボロ車にはきつかったことだけは覚えていた。今回は娘の夫の4WDで登山ゲートまで送ってもらったので、その点は非常にお気楽だった。ただし、そこから夏沢鉱泉までの登りが恐ろしく急で、日頃の運動不足は言うにおよばず、暑いうえに標高にも慣れておらずで、身の軽い孫がすたすた先を行くのを、必死で追うはめになった。途中、かなりの水量で勢いよく流れる川と見事な苔の森を横目で眺めながらも、それを楽しむ余裕もないほどだった。  

 昼過ぎにオーレン小屋に着いた途端、土砂降りになり、コンビニのおにぎりを食べながら小屋前のパラソルの下で雨をやり過ごした。テン場には簀が敷かれていて、大雨のときなどは川が流れることもあると言われた。オーレン小屋は、雨の多い北八ヶ岳と乾燥した南八ヶ岳の中間地点にあり、近年、降水量にいくらか変化があるのかもしれない。このところ私が日本庭園の本でやたら苔庭に興味をもつようになったせいか、本当に降水量が増えているせいか、いたるところに生えている珍しいコケやシダについ目が行く。テン場付近にはウソが何度もやってきて、そのたびに作業を中断してみんなで双眼鏡を覗いた。  

 テント設営後、すぐにご飯を炊き始めたのは、17時半からテン泊者も1000円でお風呂に入れると言われていたからだったが、それが正解で、レトルトカレーを温め始めたころにはまた本降りになった。山小屋でシャワーを使わせてもらったことはあったが、お風呂は初めての経験で、興味津々でドアを開けてみたら、立派な檜風呂で、まるで温泉気分。いま検索してみたら「檜展望風呂」と呼ばれるそうで、窓を開けてみればよかったと残念に思っている。オーレン小屋は自動で水洗する清潔なトイレがたくさんあり、キャンプ場の片隅に簡易トイレが一つあるだけの青年小屋とは段違いだった。中高年のガイド付き登山グループが何組もいたのは、そのためだろう。
  
 暗くなって早々に就寝したときは、星が数個見える程度だったが、真夜中に起きてフライシートを開けてみると天の川も埋もれるくらいの満天の星空で、どれがどの星座かわからないほどだった。小屋のトイレまで行った娘と孫は途中でシカの鳴く声をたくさん聞いたそうで、そのあと3人でテントから顔だけ出してしばらく降るような星空と流星を堪能した。孫も生まれて初めて流れ星をしっかり2度見ることができた。硬い地面に、狭いテントと寝袋で身動きもままならず、私は腰が痛くてほとんど眠れなかったが、またシカが鳴いたので声をかけたのに、誰も起きなかったと娘が朝言っていたので、少しは眠っていたのかもしれない。  

 翌朝は、4時過ぎに起きて恒例のオートミールの朝食を済ませたあと、テントを残して軽装で硫黄岳を目指した。私と娘は硫黄岳に登るのはこれで4回目だったようだ。頂上付近は多少ざれているが、山頂はなだらかで広く、何と言っても展望がいい。テネリフェでピアッツィ・スマイスが雲海を「標高四〇〇〇フィート〔約一二二〇メートル〕で空中に漂う水蒸気の大平原」と表現したこと(『地球を支配する水の力』)や、木曽谷にある興禅寺に重森三玲が雲海にひらめきを得た庭を造築したことなどを思いだすと、はるか下方に見える雲海が何やら特別なものに思えた。途中、かなりの数のイワヒバリを近くで見られたのもよかった。高山植物には少し遅かったが、まだコマクサは咲いていると聞いて、硫黄岳山荘まで往復した。最近、やたら植物に詳しくなっている孫は、自分の知らない高山植物を見つけるたびに、「これ写真に撮って!」と娘に頼んでいた。  

 昼から降るという予報だったので、それまでにテントを撤収したくて早々に下山したが、とくに降られることもなく済んだ。オーレン小屋では小学生以下には500円で「登頂証明書」を出してくれるというので、御朱印のようなものかと思ってお願いしたところ、表彰式までしてくださる盛大なもので、山小屋の人たちだけでなく、周囲にいた登山客たちからも拍手してもらい、孫には忘れられない体験となった。今回、20代、30代と思われる登山客にはそれなりの数で出会ったが、中高年が大多数であることには変わりなく、子どもは2日間で2、3人しか見かけなかった。それだけ子育て世代に余裕がないのだろうか。「登頂証明書」は、次世代の登山者を増やすための山小屋の地道な試みのようだ。たとえ年に一回でも、元気なうちは登りつづけたい。

硫黄岳頂上付近

頂上の火口跡(今回は時間がなくて周囲は歩かなかった)

テント設営中

登頂証明書の授与式!

小学生だった娘がふりがなを振って勉強したガイドブックと、当時の私の手帳

滞在中のスケッチ

2025年7月29日火曜日

『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』

 このたび東洋大学の岩下哲典教授を編者に、吉川弘文館から『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——』という論文集が刊行された。3年前、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」が発足した折に、若手史学者が大半を占めるこの研究会に、気まずいながらも、何であれ多様性は重要と自分に言い聞かせ、参加させていただいた。以来、月一のオンライン・ミーティングを重ね、上田での史料調査も何度かご一緒し、この論文集ために論文とコラムを1本ずつ担当した。  

 松平忠固(ただかた)については、このブログでも何度か書いたので、繰り返すことになるが、最初のきっかけは、十数年前に上田藩士だった自分の先祖のルーツ探しを始め、幕末史にはまったことだった。もっとも、私の先祖の足跡が最初に見つかったのが1861年11月に横浜にやってきたイギリスの騎馬護衛隊や、1862年5月に来日したイギリス公使館付の医師ウィリス関連の記録であったため、1859年10月(安政6年9月)に死去していた忠固は長らく私の興味の対象とはならなかった。  

 2014年に、私の母が子ども時代を過ごした松代や屋代を一緒に訪ねたあと、上田にも立ち寄り、上田市立博物館刊行の『松平氏史料集』と『松平忠固・赤松小三郎』を購入したものの、斜め読みしただけでしばらく積読状態となっていた。 

 その後、『横浜市誌稿』や『史談会速記録』などに忠固の名前をわずかに発見することはあったものの、それ以上は調べあぐねていたところ、2017年11月に上田の願行寺で開催された「松平忠固公を語る講演会&トークセッション」に、忠固のご子孫の方からお誘いいただき、参加してみた。このイベントでは、赤松小三郎研究会でお会いしていた関良基先生や地元史家の尾崎行也先生、貿易会社の経営者として日本の貿易史を研究され、松平忠固に強い関心をもたれていた本野敦彦氏などが、ご子孫の方々とともに登壇され、いろいろなお話を伺うことができた。その帰りに、関先生が猪坂直一の小説『あらしの江戸城』(上田市立博物館、1958年)を紹介して下さったのが一つの転機となった。  

 以後、小説を書くうえで猪坂氏が典拠としたと思われる史料が次々に見つかったが、上田に残るもの以外は、大半が忠固の政敵が残した記録であることがわかった。そのため、最初は開国をめぐって、のちに将軍継嗣問題に巻き込まれて、水戸、福井、彦根などの大藩だけでなく、岩瀬忠震ら幕臣からも忠固は嫌われ者として語られるようになった。大量に残るそれらの史料が何度も引用されることで彼の評価は地に落ち、やがて忘れ去られた。上田に残された記録を読む限り、忠固は非常に聡明で冷静、かつ潔癖な人物に思われた。ただし、おそらく気難し屋で、自分の意見をはっきり述べるなど、日本の根回し社会には馴染まない側面があったのだろう。 

 私なりに探り当てた忠固像は、2020年に自費出版した『埋もれた歴史——幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)で、一章を割いてまとめてみた。この本で追究しきれなかったテーマは、のちにブログで何度か記事にした。その一つとして日米和親条約締結時の森山栄之助の役割について書いたことなどから、岩下先生のご紹介で横須賀の『開国史研究』21号に論文を投稿したこともあった。 

 こうした諸々のご縁から、本野氏が寄付された研究費を岩下先生が受けて立ち上がった忠固研究のプロジェクトに、ファミリー・ヒストリアンの延長でしかない私にもお声がかかった、という次第だ。ひとえに、研究会発足時には上田の歴史家以外に、忠固を研究した人がほとんどいなかったからだろう。 

 せっかく本格的な研究会に参加させていただいたのだからと、論文のテーマには自分のなかでいちばん大きな謎だと思っていた関白九条尚忠と忠固の関係を選んだ。九条尚忠も幕末の重大な時期に朝廷の最高位の役職に就いていた人物でありながら、政敵が残した記録ばかりが残り、忠固同様に歴史の脚注に片づけられてきた。2人の直接のやりとりを示す史料が見つからないなか、専門家の方々からは無謀ではないかと忠告も受けたし、自分でも背伸びどころか、竹馬に乗ったような不安はあった。それでも、これまで翻訳してきた科学書で学んだように、なくした鍵を街灯の下だけ探すのではなく、不完全なりに、部屋のなかの象にも挑んだつもりだ。また、自著を執筆した過程で、忠固の子どもたちについてかなり調べていた経緯もあって、もう一本、忠固自身の家族についてコラムも執筆した。拙稿を踏み台にして、いずれ何かしら違う展望が開けたらたいへん嬉しい。 

 もちろん、本論文集には、専門家の方々が同じだけの期間、上田をはじめ各地に史料調査に赴いて、それぞれの研究テーマと掛け合わせながら構想を練られた論文やコラムがぎっしり詰まっている。たとえば、忠固老中日記から忠固が平均して何人の対客をしたかを調べ、彼の仕事ぶりを数値で可視化を試みた、鈴木乙都さんの研究などは、毎日新聞の「首相日々」を思わせ、彼の性格の知られざる側面を明らかにする。

 論文集ということで、発行部数も限られ、高額の本となってしまったが、お近くの図書館にリクエストいただくなりして、お読みいただけたら嬉しい。浦賀に来航したペリー一行にたいし、船に乗り込んで歓待するふりをしながら「船将」を突き殺し、残りの船員も斬り殺せと水戸藩の徳川斉昭が主張した時期に、開国を主張した松平忠固。攘夷を主張する孝明天皇のもと、ハリスとの条約締結は不許可という最終回答が朝廷側から下ったにもかかわらず、井伊大老に強引に調印を迫った松平忠固。日本の近代化はいまや、過度のグローバル化によって輝かしいものでもなくなり、単純な過去への回帰を願う声すら聞かれる。排外主義が選挙の争点にまでなり始め、長年の常識がどんどん崩れてきている昨今だが、世界から孤立して島国として生きるわけにもいかない。いま一度、幕末の原点に立ち戻ってみることは非常に有意義なはずだ。

『幕末の老中 松平忠固——政治・生糸貿易・上田藩——」岩下哲典編、吉川弘文館、2025年

2025年7月14日月曜日

『西洋の敗北:日本と世界に何が起きるのか』を読んで

 平等をテーマとする大部の校正がようやく始まったところに、タイミング悪く、図書館で長らくリクエスト待ちしていた本がまた回ってきてしまった。いま話題のエマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(大野舞訳、文藝春秋、2024年)で、私のところに届いた図書館の本は、2025年3月の第8刷だった! 昨年11月に佐藤優の書評を読み、すぐにリクエストを入れたのにすでに200人以上待ちという凄まじい状況で、それを半年以上待ったからには読まねばと、読書時間をひねり出して目を通したので、備忘録を兼ねて書いておく。 

  トッドの著作は、はるか昔に『新ヨーロッパ大全』をやはり図書館で借りて読んで以来だ。イングランドやフランス、デンマークは平等主義的、個人主義的な絶対核家族型、日本やドイツは権威主義的な直系家族型などと、世界の民族を家族構成から分析したトッドの手法は斬新な視点を与えてはくれたが、上下2冊の大部のなかで繰り返しその類型がもちだされ、最後のほうは辟易した記憶がある。確かに、長子相続にたいする次男以下不満が、明治維新の原動力の一つではないかとこの数年とみに思うし、戦後、民法が改正されて子ども間で等分に相続することになっても、「長男の嫁」という言葉は、おおむね老親の介護や盆暮の義務などの否定的な意味ながら残りつづけ、二世帯住宅が決してなくならないことを考えれば、「直系家族型」は日本社会の本質的な側面を表わしているのだろう。とはいえ、世の中の雑多な人びとをいくつかの家族構造に分類して理解しようとする手法は、7つの性格タイプに人を当てはめるような性格診断と同じくらい、私にはどうも胡散臭く思えた。

   以来、新聞などでときおり彼の論評などを読むことはあり、ウクライナ戦争について彼が一般とは違う冷静な意見を発していることはそれなりに承知していても、『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋、2022年)や『問題はむしろロシアよりも、アメリカだ』(池上彰との対談、朝日新聞、2023年)にも食指は動かなかった。それにもかかわらず今作に興味をもったのは、この10年ほど、アメリカは言うにおよばず、ヨーロッパの衰退を感じることが非常に増えたためだ。 

  従来の家族構成分類に加えて、宗教の崩壊が自身の分析モデルの中心にあると書く著者は、今作では宗教が「活動的状態」から「ゾンビ状態」に移行し、やがて「宗教のゼロ状態」になるという具合に時代ごとの分類も加えているので、なおさらややこしい。しかも、文脈によって微妙にその年代がずれているようでもあり、気になった。ちなみに、「ゼロ状態」になれば、社会が個人単位に解体され、国家機関が特別な重要性を担うようになる。いずれ宗教の絶対的虚無状態のなかで国民国家は解体され、グローバル化が勝利するのだともいう。

   原書が執筆されたのは2023年夏のあいだで、その年10月に始まったイスラエルとハマースのあいだの戦争に関する追記と、日本語版に寄せた2024年7月のあとがきはあるが、基本的にはウクライナとロシアの戦争にたいする分析を軸に、それを取り巻くアメリカとヨーロッパ諸国の近い未来の敗北を予測している。著者は大国に限定した場合の広義の西洋になぜか日本を含めており、日本がその他西洋諸国と運命を共にするのかについては、この先の進路しだいと言葉を濁している。

  2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻直後に西欧諸国で言論の自由がなくなった事態に、私も非常に危機感を覚えた一人だったが、本書の日本語版刊行に際して書かれた序文に、フランスでも「およそ八カ月間、沈黙を保たなければならなかった」とトッドが書いていることは多くを語る。 

 ロシアとウクライナ問題で彼が指摘していることは、侵攻当初にマイダン革命のころのBBCの動画や、本書でも言及されているジョン・ミアシャイマーの動画、プーチンを悪魔化するなと訴えるフランスのジャーナリストの動画などをかなり視聴した私には、さほど目新しいものではなかった。それでも、人口統計学者でもあり、各国の統計に詳しいトッドならではと思う指摘はいくつもあった。たとえば、ロシアが2020年に近年で初めて農産物の純輸出国になったこと、ロシアの工学専攻率は23.4%にたいし、アメリカは7.2%、イギリスは8.9%、ドイツは24.2%(2020年)で、ロシアが多くの技術者を輩出しており、ゆえに製造業が健在であること、ロシアの女性一人当たりの出生率は1.5人であり、動員可能な男性人口が40%も縮小しているのに、国土は1700万平方キロもあり、「ロシアにとっては、新たな領土の征服などもってのほか」であり、ゆえにウクライナを倒したあとヨーロッパを侵略するというのは「単なる幻想かプロパガンダ以外の何物でもない」ことなどだ。 

 ついでながら、ルイス・ダートネルが『この身体がつくってきた文明の本質』(河出書房新社、2024年)でロシアの人口ピラミッドを提示しており、第2次世界大戦の大きな爪痕がほぼ25年おきにいちじるしく人口の少ない世代となって現われているため、10代後半から30歳以下の人口が極端に少ないことを指摘していた。ソ連の一員であったウクライナにも、同じことが言えるはずだ。 

 ウクライナについては、独立時の大都市はキーウを除けば、ロシア語話者が多かった南部と東部オデーサ、ドニプロ、ハルキウしかなく、西部にはある程度の規模のリヴィウがあるのみという。ウクライナの航空産業、軍事産業などの最先端産業は東部に位置し、ロシアと結びついていたが、ロシア語話者の中流階級は、ウクライナ語話者のナショナリストの敵意の対象となるなかでロシアへ移住してしまい、1989年から2010年にかけて人口の20%を失った東部の町が多いそうだ。 ナショナリズムの活発な西部は歴史的に長年ポーランド貴族に支配され、ウクライナ人は農奴として扱われていた土地で、確かに「ネオナチ」の拠点ではあったが、トッドによれば、それ以上に、侵攻前からウクライナ全土に広がっていた「ロシア嫌い」こそ解明が必要な現象という。

 フランス語で原書を読めるほどのフランス語能力がないので、確認していないが、「ロシア嫌い」は日本では「反露」と訳されることが多いrussophobieの訳語のはずだ。通常は高所恐怖症のように、「恐怖症」と訳されるフォビアという言葉は、ゼノフォビアやイスラムフォビアを含め、「〜嫌い」「反〜」と訳され、いまは意味的にも敵対心、反感を表わすようだが、語源的にはもっと心理的、歴史的な恐怖心があると思う。 

 ウクライナ社会では「〈ロシアに対するルサンチマン〉が最終的には指針となり、展望となり」、この戦争こそが、ウクライナにとっての「生きる意味」になり「生きる手段」となりうるとし、ウクライナは真の「国家」ではなく「ワシントンからの資金に依存する軍・警察組織」でしかないといった説明を読むと、「ロシア嫌い」にかろうじて国としてのアイデンティティを見出している、末期状態を感じさせた。アンチにしろ、フォビアにしろ、自分ではないもの、敵との区別や抵抗が自分の存在理由になるのは、哀れな状況だ。  

 トッド自身はカトリックの家庭出身らしいが、彼自身の宗教観は本書ではいま一つわからなかった。ただし、西洋の発展の中心と根源にある特殊な宗教、プロテスタント諸派に関しては面白い言及がいろいろあった。プロテスタントの教会はすべての国民が土着語で聖書を読むことを求めたため、大衆の識字化が進んだほか、「国民」も早くから誕生していた。「ある者は選ばれ、ある者は地獄に落ちる」とするカルヴァン派の予定説は、キリスト教本来の「人間はみな平等」という概念に戻ることはなく、トッドは「黒人排除こそがアメリカの自由民主主義を定義し、機能させていた」とし、「共産主義的普遍主義に道徳面で太刀打ちするために必要」となった「黒人の解放は、予期せぬ負の結果の一つとして、アメリカ民主主義の混乱をもたらした」などと書く。「共産主義は、正教会後のロシアの〈宗教〉となり、社会を結束させる集団的信念になっていた」という指摘も興味深い。 

 1957年のスプートニクの衝撃から科学面でソ連と対決しなければならなかったWASPエリートたちは、ハーヴァード、プリンストン、イェールという三大名門大学へのユダヤ人入学者数を限定する「ヌメルス・クラウズス」制度を実質的に廃止されたとも述べている。このあたりは、ちょうどマイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』で、マンハッタン計画の科学顧問だったコナントがSATを導入した経緯などを読んだばかりだったので、フムフムそういうことかと思いながら読んだ。  

 アメリカの「WASPの終焉」、「ユダヤ系知性の消滅?」といった小見出しで述べた状況や、東欧について書いた章に関連して、トッドは自身の出自についても言及しており、曽祖父がブダペスト出身のユダヤ人で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系でもあるとする。そのことと多少関連するのか、彼の同性婚にたいする見解、とくにトランスジェンダーへの姿勢はかなり一方的だ。フェミニズムに関する近著、Où en sont-elles?もあり、ウクライナ戦争絡みで非常に好戦的な姿勢を見せた女性たちについて書いたものと思われる。大野舞訳で文芸春秋より近刊と書かれていたが、こちらはまだ刊行されていないようだ。ウィキペディアによると、トッドはポール・ニザンの孫で、父親はジャーナリスト、息子は歴史家で、最初の歴史書は一家の友人であったル・ロワ・ラデュリからもらったとのこと。 

 トッドのいくつかの主張にはほかにも疑問が残るものがあった。2012年開通と2021年に竣工した天然ガスパイプライン・ノルドストリーム1と2の破壊工作について、攻撃はアメリカによって決定され、ノルウェー人の協力を得て実行されたとするアメリカの著名ジャーナリスト、シーモア・ハーシュの見解を「唯一真実味のある説明」だとして受け入れているところなどだ。ただ、これだけの内容の本を数カ月で書き上げるのは超人技と思うので、自身の思い込みから抜けだせない部分や、読者におもねった部分なども、当然ながらあるのだろう。「西洋」の分析のなかで、自国のフランスにたいする批判が少ないのは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(2016年、文春新書)であらかた述べてしまったからなのか。 

 「〈国家ゼロ〉に突き進む英国」という章は、翻訳の仕事や娘の留学を通じて、この20年余りの変遷をそれなりに見てきたので、興味深く読んだ。2016年のブレグジットは国民の復活ではなく、国民の崩壊の帰結であり、それによってイギリスはアメリカを選んで、みずからの独立を失いつつあるのだという。この章には「亡びよ、ブリタニア!」という強烈な副題がついている。原文はRule, BritanniaをもじったCroule Britanniaらしく、カンマがないのは気なるが、ChatGPTによれば、なくとも命令形と解釈してよいらしい。

 アメリカの国家安全保障局(NSA)がインターネットの普及とともに西洋のエリートたちを監視下に置いたという指摘や、そのもとコンピューター技術者であったエドワード・スノーデンがロシアに亡命したことが、アメリカ人がプーチンを許せない理由の一つだろうという推測もなるほどと思った。ウクライナが必要とする兵器をアメリカが生産できずにいる理由などは、アメリカの工業の衰退ぶりを明らかにし、GDPからは見えない経済の実体を明らかにする。アメリカは「世界通貨を最小限のコスト、あるいはコストゼロで生産できてしまうため、信用創造以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的はないものになってしまう」とも書く。

 集中できない状態で読むには複雑極まりない本で、一読した程度では半分わかった程度でしかない。終章に時系列で追ったまとめがあり、一応の頭の整理にはなる。ブレジンスキーが1997年刊行の著書で「共産主義の崩壊によってアメリカが用なしになれば、日本、そしてドイツという二つの極がロシアと手を結ぶ可能性がある」と恐れていたこと、2004年のウクライナのオレンジ革命はアメリカが中心的役割をはたしたが、2013年末からのマイダン革命はドイツに率いられたEUが裏で操作していた、といった指摘が印象に残った。再読したくなるころには、古本の値段も下がるだろうから、そうなったら入手してみよう。