2025年6月12日木曜日

十河家のピアノ

「二女が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました」  

 これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。

「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。 

 生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。  

 ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。

 ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。  

 本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。  

 母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。

 母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。  

 私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。 

 寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。

『十年会々誌』と祖母の下書き原稿

2025年6月5日木曜日

長野の日赤病院

 2年前、母の遺品の写真を整理した際に、1948年3月に松代小学校の卒業式に撮影された集合写真を見つけた。まだ下駄履きの子もいる、戦後まもない時期の写真だ。母は長野師範付属小学校(現信州大学付属小)に通っていたが、その前年に父親が松代で開業したために6年生で転校し、1952年に屋代に再度引っ越すまでの5年間を松代で過ごした。  

 長野の日赤病院外科部長で副院長を務めていた祖父が、松代で開業することになった経緯は、母からそれなりに聞かされていた。副院長という立場ながら率先して労働組合をつくり、ゼネストに参加したために解雇され、誰かの伝手を頼って、松代の鈴本とかいう料亭跡を買い取って医院に改造した、というものだ。もっとも、母が好んで語ったのは、信州なのに雨戸のない家で、廊下に雪が積もり、そこで曽祖母が滑って転んで手の骨を折ったという気の毒な笑い話だった。朝起きると、吐息が凍って布団の端がバリバリになったと付け加えるのも忘れなかった。  

 ネット上の過去の情報はどんどん増えるので、先日、久々に国会図書館のデジタルコレクションで祖父の情報を検索したら、これまで十二指腸潰瘍の論文など、読んでもよくわからないものしか見つからなかったのに、『長野県地方労働委員会年報』という書籍が引っかかってきた。開いてみたらどんぴしゃり、祖父が日赤を辞めさせられた経緯が「長野日赤病院事件」として詳述されていた。  

 このページ自体には書かれていなかったが、祖父がクビになった背景には1947年2月21日に計画され、ダグラス・マッカーサーの指令によって中止になった「二・一ゼネスト」があった。長野の日赤でも1946年3月に病院の民生化を目的に組合が結成されているので、日本全国で労働争議が起こっていたのだろう。当時の院長がその結成を阻止しようとすると、組合側が院長の退職を要求して追いだしたのだそうだ。院長の後任には副院長だった祖父を推す声が多く、請願書が出されたが、日赤支部長の物部薫郎氏が反対して、別の人が院長として赴任してきた。それを受けて労組内部ももめて事態が紛糾し、物部氏が同年11月に紛争の責任者処罰を主張し、矢面に立たされた祖父が辞任を要求された。「馘首を取り消した後改めて辞表を提出」と体裁だけ繕われ、この事件は「昭和二十二年二月一日解決した」。ゼネストが予定された当日に「事件」は幕切りとなっていた。  

 祖父をクビにした日赤支部長は、内務・厚生官僚から県知事に任命された人でもあった。「事件」一か月後の3月に実施された知事選では、「官僚の物部か県民の林か」と訴えた林虎雄氏に敗北していた。もう少し時期がずれていれば、祖父は日赤に残れたのかとも思うが、物部氏はおそらく日赤支部長のポストには居座りつづけただろう。初の民選知事となった林氏は、長野で布教していたダニエル・ノーマン(ノルマン牧師)の教育を受けた人だったようだ。  

 その3月に祖母は6人目の子を出産したばかりで、育ち盛りの大勢の子どもを抱えた祖父母は途方に暮れたに違いない。戦争末期には40代前半で5人の子持ち、かつ日赤の外科部長として、松代大本営の工事現場から運ばれてくる負傷者の治療などにも当たっていた祖父も最後は一兵卒として召集され、甲府連隊に送られたと母からは聞いた。 

 伯母が晩年に朝日新聞の「女の気持ち」に投稿した文章によると、祖父は開戦の朝、子どもたちに「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と語ったらしい。そう書いた作文が地元紙に掲載されることになったために、先生からこの箇所を、「『日本は必ず勝つ』とお父さんはおっしゃいました。私はうれしくてたまりせん」と、書き直しさせられた。伯母はそのときのわだかまりを、70年間心の奥に閉じ込めていたという。 

 今回の検索では、長野県地方労働委員会のこの記録のほか、『日本窒素への証言』という冊子も引っかかってきた。直接見つかったのは、脳卒中で倒れて以来、右半身不自由となった祖父に代わっての祖母の投稿だったが、そこから祖父が一時期勤務していた朝鮮窒素肥料の病院が「興南病院」であることも判明した。水俣病訴訟のニュースを読むたびに、いつかこうしたことも調べなくてはと思う。

1948年3月松代小学校の卒業式

1941年11月 長野日赤時代

2025年5月24日土曜日

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』

 遅まきながら、マイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(早川書房、2021/2023年)を図書館で借りて読んでみた。じつは、初めてのサンデルの本だ。訳者の鬼澤忍さんは、鈴木主税先生のところで短期間ながら一緒に勉強した仲間であり、サンデルは何かと話題になるので興味はあったものの、ベストセラーは順番待ちが長く、そこまでして読まなくてもと後回しになっていた。また、コミュニティの一員というアイデンティティ(自己認識)をその構成員に押しつけがちなコミュニタリアニズム(共同体主義)に、アマルティア・センが非常に懐疑的であり、サンデルの著書も批判の対象として挙げていたために、二の足を踏んでいたこともある。  

 今回、長い順番待ちをして読んでみたのは、日本では能力主義とか実力主義と訳されるメリトクラシーについてサンデルが書いていることを、平等の思想史を翻訳中に知ったからだ。鬼澤さんとは違い、私は哲学も思想史も苦手なほうで、少しでも多く参考書を読んでおかねば、というのが正直なところだ。読んだと言っても、寝る前のわずかな時間に細切れに読んだので、どれほど理解できたかはなはだ怪しいが、文庫版巻末にあった本田由紀さんの解説なども参考にしながら、備忘録代わりに書評を書いてみた。  

 メリトクラシーという用語は、1959年にイギリスの社会学者マイケル・ヤングがよい意味ではなく、ディストピアを表わすために生みだした言葉なのだという。デモクラシー(民主主義)が定着してきたかのような20世紀なかばになって、この言葉が批判と警告を込めて生まれたわけだ。実際には旧来のアリストクラシー(貴族社会)が、メリトクラシーに取って代わっただけではないかと長年思ってきたので、今回、この本を読んだことで非常に得るものがあった。  

 解説でも指摘されていたように、英語のmeritは「能力」よりは「功績」に近い言葉なので、本来は「功績主義」という訳語が定着すべきだったのだろう。どれだけ手柄を立てたかという実力の結果主義、といったところだろうか。いずれにせよ、この言葉は旧来の家柄や血筋ではなく、本人の能力、実力しだいで出世が約束される社会を意味する。  

 一見、よさそうに聞こえるメリトクラシー、能力主義だが、その背景には旧世界のしがらみを断ち切って、誰もが平等に出世できる社会をつくったと自負するアメリカ人の建国理念が深くかかわっているのだろうと思う。もっとも、サンデルは「アメリカが偉大なのは、アメリカが善だから」とか、「われわれは歴史の正しい側にいる」といった近年、繰り返し聞かされてきた主張は、実際には20世紀後半以降に盛んに言われるようになったと指摘し、こうした言葉は国家に応用された能力主義的信仰なのだとする。 

「2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た」というような分析を引用し、学歴偏重が現代の政治におよぼしてきた影響と反動を鋭く指摘している点で本書は注目されてきた。再選されたトランプがハーバード大学を目の敵にしていることでも、いままた新たな読者を惹きつけているだろうと思う。反エリート的な傾向はアメリカに限らず、日本でもヨーロッパでも顕著になっており、先日も「韓国男性に被害者意識」と題した見出しが毎日新聞の一面を飾っていた(5月23日朝刊)。 

 では、能力主義のどこに問題があったのだろうか。本書は、1933〜53年にハーバード大学学長を務め、マンハッタン計画の科学顧問でもあった能力主義の推進役ジェームズ・ブライアント・コナントについて詳述する。戦前までハーバード、イェール、プリンストンの御三家には、プロテスタントの白人エリートの子弟で、プレップスクール出身の男子学生であれば、成績が悪くとも入学できていたそうだ。映画『ある愛の詩』(1970年)でライアン・オニールが演じたオリヴァーは確かにそんなプレッピーだった。原作者のエリック・シーガルはラビの息子で1958年にハーヴァードを卒業しているので、ユダヤ系アメリカ人としてハーヴァードを出た最初の世代だったと思われる。 

 プロテスタントの世襲エリートを打ち倒し、能力主義エリートに置き換えようと画策したコナントは、「既存の非民主的なアメリカ人エリートを退陣させ、代わりに頭脳明晰で、行き届いた教育を受け、公共精神を持つ新しいエリートをあらゆる分野と経歴の人材から集める」目標を立てたという。これはサンデルが引用していたニコラス・レマン(『ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度』)の言葉だ。このビッグ・テストがSAT(旧称:大学進学適正試験)であり、コナントがこだわったのは「測定するのは生まれつきの知能であり、学科の習熟度ではないことだった」。

  IQであれば、プロテスタント、白人、金持ちといった属性との相関関係はとくになく、それ以外の属性をもつ有能な学生に教育の機会を提供できるだろう。だが、IQも遺伝や幼少期の教育に影響されるのではないだろうか。出来の悪いエリートの子弟が、親から将来の成功を約束する狭き門に入れと強いプレッシャーをかけられれば、精神的に追い詰められることにもなる。アメリカでは「大学生の五人に一人が前年に自殺を考えたことがあり、四人に一人が精神的障害の診断あるいは治療を受けた」そうだ。私の知る1980年ごろのんびりしたアメリカ社会は様変わりしたようだ。 

 しかも、「成功すれば自分自身の手柄であり、失敗しても自分以外の誰も責められない」自己責任論が、人生の勝者には驕りを、敗者には屈辱を与える。「あなたは〜に値する」(you deserve)という言い回しは、レーガン時代から盛んに使われるようになり、ビル・クリントンはレーガンの2倍、オバマは3倍多く使っていたという。自分を主語に「I deserve〜」と言われると、正当化やおこがましさを感じ、どこかひっかかるものがあったのだが、本書の説明を読んで納得するものがあった。この言葉は失敗したときにも、自業自得という意味で使われる。 

   能力主義も万能ではなく、弊害のほうが大きくなった昨今は、脱落した人びとの不満や恨みを巧みに利用したポピュリストが台頭している。その構図は、20世紀前半にファシズムが台頭したときと、じつによく似ている。サンデルは能力主義の欠点を補う方法として、機会の平等ではなく条件の平等を、消費者的共通善ではなく市民的共通善を尊重すべきと主張しているが、一読したくらいでは、何やらよくわからない。解説も「何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない」と書いているので、私の理解力がいちじるしく劣るわけではなさそうだ。  

   そもそも、共通善(common good)などという言葉は日本人には非常に理解しにくい。以前にこの言葉については憲法絡みで調べたことがあるが、それでも具体的イメージはさっぱり浮かばない。こうした議論でよく思いだすのは、マルクスの『ゴータ綱領批判』(1875年)の有名な一節「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」だ。当面はまだそれぞれの能力に応じて報酬を受け取ったとしても、将来的には、各人が生きるのに必要なものを受け取れる社会を目指すべき、という見解だった。ようやく貴族社会から脱しつつあったこの時代に、よくそこまで見通せたなと思う。

  つまり、各人の必要に応じて分配できる社会にするには、共通善なり公共の福祉なり、公益、公共財等々として富をプールしなければならない。そのためには、能力の秀でた個人がどれだけ目覚ましい働きをしようが、国家予算に匹敵するような富を蓄積させてはいけない。経済的には何の貢献もせず、足を引っ張るだけの人にも何らかの存在意義があるのだから、生きるために必要な糧は社会として与えなければならない、ということだろう。  

 熟読せずに言うのも何だが、サンデルの場合、私にはどうも1950年代以前の、コミュニティや愛国心や労働の尊厳を取り戻せば、コナント以降の能力主義への間違った方向への進路は是正されると主張しているように感じられる。このところ、アメリカの建国史の影の部分に触れることの多かった私には、能力主義どころか、共和主義や民主主義ですら、その根底から揺らいでいるような気がしてならない。

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021/2023年

2025年5月18日日曜日

「ムジナ」ほか

〈東京の赤坂の道に紀伊国坂と呼ばれる坂があった。この坂がなぜ紀伊の国坂と呼ばれるのか、私は知らない。この坂の一方には古いお濠がある。かなり幅が広く深い濠で、緑の土手が高くそびえた上に庭園などがある。通りの反対側は離宮の高い塀がずっとつづいている。街灯や人力車が登場する前の時代には、この界隈は日が暮れるとじつに寂しい場所となった。遅い時間に歩いて通る人は、日が沈んだあと一人で紀伊国坂を上るよりは、何里でも遠回りをするのだった。
 それもすべて、そこを歩くムジナがいたからだった。  

 最後にムジナを見たのは京橋地区の年寄りの商人で、三〇年ほど前に亡くなっている。これは彼が語ったその話である。  
 ある晩のこと、遅い時間に紀伊国坂を急いで上っているとき、お濠端に女がたった一人でしゃがみ込み、ひどく泣いているのに気づいた。身投げしようとしているのではないかと案じた商人は足を止め、何か自分に助けられることか、慰められることはないかと尋ねた。女はほっそりとした上品な人と思われ、美しい着物を着ていた。髪は良家の娘らしく結っていた。「お女中」と、彼は女に近づきながら声を上げた。「お女中、そんなに泣くもんじゃない! 何があったのか話しておくれ。何か助けられることがあれば、喜んで手を貸そう」(商人は本当にそのつもりだった。彼は心根の優しい人間だったのだ)。だが、女はすすり泣きつづけ、片方の長い袖で顔が見えないように隠していた。「お女中」と、彼はまたできる限り優しく声をかけた。「どうか、どうか聞いておくれ! ここは夜に若い女性のいる場所じゃない! 泣くのをおやめ、後生だから! ただどうすれば助けてやれるのか話しておくれ!」女はおもむろに立ち上がったが、商人に背を向け、袖の陰でうめき、むせび泣きつづけた。商人は彼女の肩にそっと手を置いて畳み掛けた。「お女中! お女中! お女中!……聞いておくれ、ほんの少しでいいから! お女中! お女中!」そのとき、お女中が振り返り、袖を下ろして、手で顔を撫でた。そのとき男が見たものは、目がなく、鼻もなく、口もない女の姿だった。彼は叫び声を上げて逃げだした。〉  

 一昨日、何気なく開いたアルバムのなかに、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ムジナ(狢)」の訳文を見つけた。中学か高校時代に姉が最初に訳し始めたと思われるものだ。もしやと思って本棚を探すと、記憶どおりの緑色の表紙のテキストが出てきた。昭和49年(1974)刊の第26版の開拓社発行の英語の教材のようだった。なかを見ると、びっしりきちんとした字で書き込みがあったので、このテキストを使って勉強したのは姉に違いない。冒頭部分のあと、雑な筆跡に変わっているので、記憶は不確かだが、たぶん私が残りを後日、完成させたのだろう。  

 ただ、「ムジナ」を読んだことだけは覚えていた。というのも、大学時代のスキー・サークルで迎賓館一周コースをそれなりの頻度で走らされ、息を切らしながら紀伊国坂を上るたびに、「ムジナの坂だ」と思っていたからだ。私の学生時代から、坂の左手は迎賓館のある赤坂御用地の高い塀がつづき、右手は外堀通りと首都高、そしてその向こうに弁慶濠があり、いまもその景観は変わらないようだ。弁慶濠でも、練習と称してよくボート漕ぎをした。大学が借りている真田濠の土手で滑る真似をするイメージトレーニングと並んで、私の好きな遊び半分のトレーニングだった。  

 弁慶濠の上にはホテル・ニューオータニがそびえる。ここの広い日本庭園も学生時代に何度か入ったし、新入社員時代に誰かの応援添乗をした際に、庭園内のレストランでご馳走になり、そのとき初めてヴィシソワーズを飲んで感動した記憶がある。ニューオータニの敷地が彦根藩中屋敷だったことは、「紀尾井町」の由来を聞かされた学生時代から知っていた気がするが、明治以降、ここが戦後まで伏見宮本邸となっていたことは、今回調べて初めて知った。ちなみに、赤坂御用地の場所は紀州藩中屋敷で、上智大学は尾張藩下屋敷だった。

 「ムジナ」は、私にとって馴染みのある場所を舞台にした怪談であり、おそらく高校時代の自分の拙い訳文を読んだこともあり、土地勘がないとわかりづらい「with high green banks rising up to some place of gardens」の部分を多少工夫しながら、昨夜遅くについ前半部分だけ訳してみたのが、この記事の最初の部分である。 

 もちろん、ラフカディオ・ハーンの略歴もウィキペディアで確認してみた。1890年に来日、その後、何とアメリカで出会った服部一三の斡旋で島根に行ったのだという。長州藩士の服部一三は明治期にラトガーズ大学に留学し、上田藩の最後の殿様松平忠礼より一足先に理学部を卒業した人なので、調べたことがあった。ハーンは1904年に西大久保で没しており、日本に滞在していた10年余りのあいだに、妻となった松江藩士の娘小泉節子が語った伝承などを参考に『怪談』を執筆したようだ。物語の内容をそのまま信じるとすれば、30年前に死去した京橋の商人が語った話という設定なので、ムジナが出た時代背景は、実際には幕末で、商人の死亡時期は明治初年と考えるべきだろう。 

 といったことまであれこれ調べてしまうのは、長年、ノンフィクションを翻訳してきたためだが、この十数年、幕末史をかじってきたからでもある。そんなこんなで、時間もないのに、朝っぱらからこんな記事を書くはめになった。 

 実際には、この数日間、姉宅で見つかった祖父と母が翻訳した絵本2冊を借りてきてスキャンし、手書きの訳文を打ち直し、パワーポイントで簡易に編集したものをカラーコピーして、子どもが読めるように簡単に製本していた。手書きの文字をたどる作業は楽しかった。祖父も母も踊り字の「ゝ」を多用しており、祖父にいたっては「ゐました」「云ひました」「しまふのです」「おさむいでせう」といった旧仮名遣いで、「㐂」、「驛」、「𫞂」、「廿」などの旧字満載で、時の流れを感じさせた。孫などは当分読めないだろうが、こうした文字もできる限り忠実に活字にしてみた。

  祖父は私が幼児のころに脳卒中で倒れ、最晩年まで頭はしっかりしていたが麻痺が残っていたので、母がリハビリを兼ねて、ドイツ語の絵本(Ach lieber Schneemann『あゝ雪だるま君』)の翻訳を勧めていた。ドイツ留学の夢を戦争で絶たれながら、晩年になってもラジオのドイツ語会話を聴きつづけていた祖父が、便箋13枚にほとんど書き直しの跡もなく綴った訳文を読む作業は、胸の熱くなるものがあった。翻訳してくれたことは覚えているのに、子どものころは「読めない! わからん!」と読まなかったことが悔やまれる。文体は古めかしく、昭和初期の童話に影響されたような妙な会話も多く、「ストーブへくめました」など、祖父が生涯間違えて覚えていたのではと思う言葉もあるが、言葉に出して読みながら、子どもたちが楽しんでくれたらいいなと思う。ついでながら、この題名で検索してみたら、アニメ仕立ての動画が発見された! 有名な話なのだろうか。 
 
 母が訳したジョン・バーニンガムの『Harquin』は、『ハーキン:谷へおりたキツネ』として童話館出版から2003年に邦訳版が刊行されているようだ。いつか借りてみよう。バーニンガムの絵は子どものころから大好きで、母の「ハークィン」は上手に訳してあったこともあり、それなりに読んでいたと思う。ただ、細かい字で行間にびっしりと書き込まれていたため、子どものころは集中して読めなかった。改めて読んでみると、ストーリーも面白く、赤い上着が印象的なキツネ狩りの場面は、私には何やらクリミア戦争のバラクラヴァの戦いなども思いださせ、よくも悪くもイギリスの絵本だなと感慨深いものがあった。 

 偶然なのか、ドイツ語の『あゝ雪だるま君』にはOberförster(祖父は森番頭と訳していた)が登場し、「ハークィン」にはgamekeeper(母は狩り番と訳していた)が出てくる。どちらもおそらく、『ハリー・ポッター』のハグリッドのような人だろうな、と読みながら思った。いまなら公園を管理するレンジャーのようなものか。日本で言えば、マタギに近い存在かもしれない。完全に人間の支配下に置かれた地域と自然界の境目にいた人びと、と言えるかもしれない。 

 本棚の隅を探せば、まだまだ何か出てきそうだ。ゴミとして処分される前に、掘り返しておきたい。

Lafcadio Hearn KWAIDAN、清水貞助編、開拓社、1962/1974

姉と私の合作と思われる昔の訳文

祖父と母の訳文を入れて簡易製本した絵本  

2025年5月3日土曜日

深谷・本庄の旅

 大型連休のはざまの5月1日、思い切って遠出をしてきた。といっても、高崎線岡部まで行って、駅近くのカフェで自転車を500円で借りて、深谷市と本庄市の境界あたりを延々4時間余り走り回るという、ささやかな遠出だ。昨秋、ファミリー・ヒストリアン仲間の方が貴重な史料を見つけてくださり、年末に叔母に手伝ってもらって最初のページはおおむね解読していたのだが、それ以来、まとまった時間が取れず、どうつながるのか皆目見当のつかない雑多な情報が増えつづけていた。  

 史料に書かれていた関連の地名、横瀬村、阿賀野村、牧西村をグーグル・マップで検索すると、ひたすら農地が広がる一帯だった。しかも、渋沢栄一の血洗島と隣り合わせの地域だ。門倉姓との関連で見つかった本庄市の四方田を含めても、どうにか自転車で回れそうな距離で、驚くほど平坦な土地のようだが、埼玉のこのあたりは炎天下に走ったら熱中症になること請け合いの地域だ。下調べは十分とは言い難かったが、比較的自由に動ける連休中の晴れ間に決行した。  

 以前にもコウモリ通信に書いたように、この史料には「本氏 桃井」とか「桃井播磨守直常之後胤」などと書かれていたほか、「家紋井桁菱之内橘 抱桃」ともあった。「抱桃」はよくわからないが、前者は祖父の家(門倉)の紋であり、しかも上田に行く以前の古い墓碑にも刻まれていた。ほかに出自を探るうえで大きな手がかりとなるのは、江戸時代まで戸籍代わりの役目をはたしていた寺であり、少なくとも元禄時代に上田に行って以来、門倉家は真言宗智山派に属していた。こうした断片的な情報と、桃井直常と一緒に戦った新田義宗(義貞三男)などに関する生半可な知識だけを携えての現地調査となった。  

 ネット上で得られた情報は、横瀬神社とその隣にある渋沢家の菩提寺の華蔵寺のものが大半で、遠い祖先が仕えた主人と思われる新田義貞の「末男横瀬新六郎貞氏」がこの神社と寺にかかわっていた。横瀬神社の拝殿の彫刻、渋沢栄一揮毫の扁額などは見られたが、もっと凝った彫刻が施されていたはずの本殿のほうは見逃してしまった。華蔵寺には、新田義貞の祖父に当たる義兼が植えた「樹齢七百余年」の枝垂れ桜が昭和18年に枯死したあとの碑や、代わりに植えられた2代目の木、朱塗りの大日堂などは見られたが、境内には人影もなく、よくわからないまま退散した。それでも、私の曽祖父が各地の墓地から集めてきたとされ、まだ現存する4基の古い墓碑とよく似たものが、華蔵寺の裏手の墓地に多数並んでいることは確認できた。おそらく無縁仏となったものを集めたのだろう。  

 華蔵寺は真言宗でも豊山派なので、この付近で智山派の寺として目星をつけていた大福院にも途中立ち寄ってみたが、ここでも歴代住職の墓碑などによく似た形のものがあったほかは、収穫はなかった。この地域は南阿賀野らしく、南北の阿賀野村は別々の小藩の領地になるなどして、いくらか分断されていたようだ。  

 すぐ近くに、渋沢栄一の「中の家」があったので、短い時間ながらそこも寄らせてもらった。深谷のこの付近は、まさに「サザエさんの家」のような昭和もしくは、それ以前からある家が立ち並んでいる。ところどころにある墓地には、渋沢家と書かれたものもあった。地元のボランティアと思しき人たちが何人も来訪者の対応をしており、深谷市民がいまも渋沢に大きな期待を寄せていることが感じられた。そう言えば、往路で見た深谷駅は1996年竣工の赤煉瓦風の立派な駅舎で、隣の岡部駅とはずいぶんな違いがあった。渋沢が深谷に創設した日本煉瓦製造株式会社を記念したものだそうだ。渋沢の生誕地である「中の家」は、明治28年に建て替えた豪邸で、アンドロイドの栄一が語る藍玉にまつわるエピソードを拝聴したほか、流水の心地よい音が聞こえる庭を縁側越しに眺めるなど、無料で楽しませていただいた。  

 北阿賀野は、目指すものがないまま一帯を走ったのだが、途中で桃井可堂の碑があることに気づいて、そこも立ち寄った。本名、福本儀八というこの人物は、私がだいぶ以前にずいぶん調べた横浜の外国人居留地襲撃未遂事件の首謀者の一人であることがわかった。文久3年(1863)4月に清河八郎らが最初に襲撃を計画したものの、このときは幕府が清河を暗殺して未遂に終わった。その後、同年11月に渋沢栄一らの一派70人余りと、桃井可堂らによる300人余りの二つの集団が再び襲撃を計画した。だが、「挙兵は失敗した。可堂は挙兵計画を幕府に訴えた仲間の裏切りを知り天朝組を解散。自ら一切の責任を負って自首し、元治元年(1864)7月22日絶食して死去した」と、碑の横の説明には書かれていた。碑文のなかで渋沢は「故ありて事を共にせず」と、このときのいきさつを明治になってから書いたそうだ(裏面を確認しなかったので碑文はわからず)。  

 帰宅後、桃井可堂について調べ直すなかで、横瀬村に桃井直常創建とされる暦応2年(1339)創立の寺があったことを知った。直常は1376年死去とされるので、50代後半までは生きた人ということになりそうだ。この寺は赤城山多門院福王寺という新義真言宗の寺だったが、昭和の初めごろ廃寺になったと思われる。真言宗智山派も豊山派も、新義真言宗から派生した宗派で、それぞれ戦国時代、江戸時代初期に創建されていた。となると、曽祖父が大正期に古いお墓を整理しにやってきたのは、その福王寺だった可能性がありそうだ。 

 憶測ながら、深谷のこの一帯は利根川に近く、利根川と都内の小名木川は水路でつながっていたはずなので、大正期なら墓石を運んでくれる船も探せたのではないだろうか。茨城県谷田部で没した高祖父の遺骨と墓標もその手を使った可能性がある。自家用車も宅急便もない時代に、どうやって重い石を運んだのかという謎は、解けたかもしれない。上田のお墓からは遺骨だけ集めて、1893年に開通したアプト式鉄道で碓氷峠を通って運んだのではないかと、想像をたくましくしている。 

 北阿賀野を回ったあと、牧西に向かうと、周囲が一面、青々とした麦畑になった。ところどころ収穫が終わったらしい区画では、取水口からボコボコと水があふれていた。どうやら冬大麦か小麦と米の二毛作地帯のようだ。何しろ、スマホを片手に村内の狭い道や農道をぐねぐねと走り、曲がり角ではいちいち老眼鏡をかけて画面を拡大し、確かめながら走行したので、この田園風景を楽しむ余裕はあまりなかったが、何度かヒバリが目の前で飛び立ち、頭上まで高く上がって鳴く光景にも遭遇した。だいぶ以前に、娘が麦畑とヒバリのイラストを描く仕事を請け負ったのを思いだし、もしやこの付近がモデルだったのではと思った。 

 牧西は本庄市にあり、深谷市とは雰囲気がだいぶ変わる。農村であっても近代的だ。大きな道路沿いには大型店舗が点在する。私の祖先はこの牧西の郷士となったのち、どういう経緯か戸田忠昌の家臣となり、その息子が出石藩時代の藤井松平家3代目の忠周に仕えるようになった。出石は兵庫県北部なので、なぜと頭をひねるばかりだが、戸田忠昌も松平忠周も岩槻藩主だった時期があるので、いつかそのあたりを調べてみたい。 牧西は、武蔵七党の一つ児玉党を構成していた氏族の名前でもあり、同じく児玉党の四方田氏の本貫地に門倉という家があることがネット検索からわかっていた。この門倉さんは深谷や本庄の歴史書にもときおり名前があったし、上田藩に四方田という家臣がいるのも知っていた。

 すでに日も高くなり、暑さでだいぶくたびれてはいたが、本庄早稲田駅の先の四方田にある臨済宗の光明寺という寺まで、自転車を漕ぎ進めた。墓地には確かに門倉家のお墓がたくさん並んでいたが、どの家も家紋が揚羽蝶だった。臨済宗のこのお寺にも、うちの門倉のお墓とよく似た古い墓碑が多数あって、まとめて供養されているようだったが、梵字が刻まれているものはなかった。宗派によって、いろいろ違いがあるようだ。 

 結局、あちこち走り回った割には大きな収穫はなかったと言わざるをえない。同じ家紋の門倉さんの生き残りはもういないのだろうか。家紋について検索するうちに、橘にもいくつかのバージョンがあることがわかった。15年ほど前に建て替えられたお墓の家紋が正確に刻まれていたとすればだが、うちの門倉の紋は実の部分に筋が多く入る「久世橘」だった。ついでながら、井伊家と日蓮宗が井桁に橘紋だが、うちのは向きが違って菱井桁というらしい。 

 その紋を調べているうちに、大生部多(おおふべのおお)という飛鳥時代の宗教家が、橘の葉を食べる青虫を「常世神」と崇めたという妙な記述に出合った。柑橘類の葉を食べるならアゲハか、と考えたら、四方田の門倉さんはやはり遠い遠い親戚かも、と思えてきた。大生部多の「常世神」は柑橘類の葉も食草とし、繭をつくるシンジュサンの幼虫で、古代日本の最初の養蚕はこの種ではないかと推測する論考まで見つかった! 中世に生きた祖先の足跡をたどったことで、あれこれ思いがけない発見があり、頑張って遠出をした甲斐はあったかもしれない。

北阿賀野付近の農道。ひたすら平らな農地が広がる。

渋沢栄一の「中の家」のアンドロイド!

「中の家」はまさに伝統的日本家屋だった

 桃井可堂の碑

 牧西に向かう途中の麦畑

2025年4月25日金曜日

モペットねこちゃん

「ママが訳したモペットねこちゃんが見つかったよ!」  
 2週間ほど前、姉宅で孫のピアノのレッスンに付き合った際に、姉から懐かしい小さな本を手渡された。母はとくに英語が得意なわけではなかったが、私たちが子どものころ、ときおり日本橋の丸善に行って外国の絵本を買い、そこに鉛筆で訳文を書き込んでくれていた。

  ベアトリクス・ポターのこの作品は、石井桃子訳で『モペットちゃんのおはなし』(1971年)としてよく知られる。この原書は私が幼児のころからうちにあったと思うので、母が購入したのは邦訳が出る以前のことだろうと思う。東西線の東陽町−西船橋間が開通して、日本橋や銀座に簡単に出られるようになった1969年3月ごろだろうか。

 母の訳文で読んだ絵本は、母の口調そっくりだったせいか、どれも記憶に深く残っている。レオ・レオニのLittle Blue and Little Yellowは、母訳では「あおちゃん、きいろちゃん」とジェンダーレスだった。藤田圭雄訳の『あおくんときいろちゃん』(至光社)は1967年刊なので、原書を購入した当時、邦訳が出ていることに気づかなかったのかもしれない。レオニの『フレデリック』(好学社、1969年)は谷川俊太郎訳のものがうちにあったと思う。父が訳した本も1冊あったと思うし、脳溢血で倒れた祖父がリハビリを兼ねてドイツ語から訳してくれた本もあったが、どちらも読みづらかったせいか、あまり好きではなかった。  

 鉛筆書きの訳文は、私の娘や、甥・姪たちが代々読んだためか、薄くなって読みづらくなっていたが、置き手紙などの走り書きでも、決して崩れることのなかった母の字で綴られていた。訳文を残しておくためにスキャンしてPDF化した折に読み返してみたら、原文に忠実ではないものの、癖のない、それゆえに古臭くない、読みやすい翻訳になっていた。 

 石井桃子の翻訳作品は総じて古めかしい。ブルーナの『うさこちゃんと うみ』が好きだった孫は、しゃべり始めてまもないころ、「ちいさ さこちゃん うみ いくわ〜」と、石井桃子の訳文そっくりの口調でよく真似ていた。モペットちゃんはどんなふうに訳していたのかと検索したら、福音館から2ページ分だけが公開されていた。ちょうど母が誤訳していたページでもあったので、青空文庫のおおくぼゆう訳とも比べてみた。ネット検索中、早川書房から2023年に川上未映子による新訳が出ていることも知った。訳文の比較などめったにやらないのだが、この際だから比べてみようかと、新訳を図書館から借り、福音館の石井桃子訳も先ほど姉から借りてきた。  

 原文では3ページにわたって「THIS is」という言葉が繰り返される。最初はモペットちゃんの紹介、2回目はねずみの紹介、そして3回目は再びモペットちゃんの話だが、ややくどい。そのため、石井訳は2回目まで「これは」を繰り返し、大久保訳は初回を「このこは」、2回目を「こちらは」と変化をつけ、3回目は両者とも省略している。母は初回のみ「これは」と訳し、2回目からは省略していた。川上の新訳は原文にかなり忠実に、3回目に当たるこのページも「これは」と訳していた。 

 原文には姿の見えない語り手がいて、現在形と現在完了で状況が簡潔に説明される。日本語ではお話は過去形で語られることが多いので、石井桃子と母は構わず過去形に直してしまい、大久保訳、川上訳は現在形を活かそうと試みていた。やや淡々とした原文に臨場感をもたせようと、擬音や感嘆符、「〜しまう」、擬音語止め、活動弁士風のナレーションなど、それぞれに工夫が凝らされている。だが、やり過ぎると原文の文体を損なうし、鼻にもつくうえに、訳文がやたら長くなる。あれこれ考えたうえで、私も訳してみた。結果的に母の訳とさほど変わらないものとなり、自分の言葉だと思ってきたものは、母の言葉だったのかと、いまさらながら気づかされた。 

 原文:THIS is Miss Moppet jumping just too late; she misses the Mouse and hits her own head. 

 石井訳:モペットちゃんは、ねずみにとびかかりました。でも、ちょっとおそかった! ねずみはにげてしまうし、モペットちゃんは、あたまを とだなに、こつんと ぶつけてしまいました。 

 大久保訳:モペットちゃんが とびかかるも とき すでに おそし。ねずみを とりにがし、おまけに あたまを ごつん。 

 川上訳:これは、とびかかっているモペットちゃん。でも、まにあわなくて、ねずみをのがしてしまったうえに、頭をぶつけてしまいます。 

 母訳:もぺっとちゃんは とびかかりましたが、おそすぎました。ねずみをつかまえられず、おまけに あたまをうちました。 

 拙訳:モペットちゃん、とびかかりますが、ちょっとおそすぎました。ねずみを にがしたうえに、あたまを ぶつけてしまいます。  

 公開されていたもう1つのページは、最後の「not nice of …」を母が勘違いしたところだが、全体を通して、明らかな誤訳はここだけだった。このページの原文はやや複雑な構造で、モペットちゃんの心理を語り手が間接話法で伝える中間部分の「will」の処理に、訳者はそれぞれに頭を悩ませたようだ。石井と母は、モペットちゃんの意志を、モペットちゃんの言葉で語らせることで伝える方法をとったが、大久保・川上両名は客観的な表現に変え、その結果、「だまそう」、「しかえしをしよう」という、ちょっときつい言葉になっている。モペットちゃんの言葉にしたほうが、日本の幼い読者にはよくわかると思うが、そうするとナレーションである冒頭部分とのつなぎが悪くなる。冒頭部分もモペットちゃんの言葉にした母の訳し方もありと思うが、ここは石井訳のように2文に分けるほうが賢明と思う。英語の「tease」は通常「からかう」程度がぴったりの言葉だが、猫がネズミを捕食することを考えれば、「いじめる」と訳すのは悪くないアイデアだと母の訳文を見て思った。 

原文: AND because the Mouse has teased Miss Moppet – Miss Moppet thinks she will tease the Mouse; which is not at all nice of Miss Moppet. 

 石井訳:ねずみは、さっき、モペットちゃんを からかいました。だから、こんどは、じぶんが ねずみをからかってやる——と、モペットちゃんはかんがえました。そんなことをかんがえるなんて、モペットちゃんのやりかたは、あまりかんしんできませんね。 

 大久保訳:なんと これまでだしぬかれていた モペットちゃん——とうとう じぶんから あいてを だまそうとしたのです。まったく いじわるな モペットちゃん。 

 川上訳:ねずみにからかわれたモペットちゃんは、しかえしをしようと考えているのです。でも、そんなことをするなんて、かんしんできませんね。 

 母訳:ねずみはまえに わたしのことを いじめたんだもの——こんどは わたしがねずみを いじめてやろうと もぺっとちゃんは おもいました。こうかんがえたことが しっぱいだったんですよ。 

 拙訳:そもそも、ねずみがモペットちゃんをいじめたのです。こんどはこっちがねずみをいじめてやろうと、モペットちゃんは かんがえます。そんなことは、ちっともいいことではありませんが。  

 細かいことだが、頭をぶつけたモペットちゃんがかぶる布、dusterは、ダスキンのように家具を拭いたりする雑巾も指すようだが、頭にかぶるからには、グラス磨きなどに使う布巾と考えたほうがよさそうなので、大久保・川上訳で使われていた「ふきん」が正解かなと思う。石井は「きれ」、母は「ほこりよけ」としていた。私が記憶する限りでは、母はコンサイス英和辞典のようなもの1冊しかもっていなかったので、想像力を働かすしかないこともあっただろう。 

 最後にねずみが戸棚の上で嬉しそうに踊る場面は「he is dancing a jig」となっており、母は「ジーグをおどっていました」と訳していた。ほかの訳者たちは、アイルランドやスコットランド起源のこの軽快な踊りは、幼い読者には意味が通じないと考えたのか、ただ「おどりをおどっていました!」(石井)、「たったったっと ひとおどり!」(大久保)、「のりにのって、ダンスをひろうしています」(川上)などとなっていた。英語でジグと短く発音するこの踊りは、jigueと綴るとバロック音楽舞踏形式のジーグになり、母はピアノ曲から「ジーグ」のほうは馴染みがあったので、そう訳したものと思われる。動画を検索してみると、それこそねずみが踊りそうな踊りで、私なら「小躍りしています!」と訳すかもしれない。  

 短いお話の、ごく一部を比較検討しただけだが、私たちには「モペットねこちゃん」の話だったものを、言葉を教えてくれた母の訳文で、改めて味わうことができたのは幸いだった。今日は母の2回目の命日だ。いまだに最後の日々を冷静に振り返ることはできないが、母のいない日常には慣れてきたように思う。


左:The Story of Miss Moppet原書、右:早川書房から出た川上未映子による新訳

母が書き込んでくれた訳文

2025年4月17日木曜日

万屋の日々

 また長らくブログを放置してしまった。この間、何とも多忙で、確定申告をはじめ次々に雑用をこなしていたうえに、3月後半は体調も悪かった。熱は最高でも38度前後だったが、咳がひどく、息苦しさもあったのでさすがに心配になり、近所のクリニックを受診したところ、大きな病院に回され、CTまで受けたが、結局は肺炎の治りかけとの診断で、抗生剤も処方されず、散財して終わった。  

 その間も卒園式にお墓参り、姉のリサイタルとあちこち出かけ、娘も細々とした仕事で多忙だったので、月末まで幼稚園の預かり保育のお迎えもあった。3 年間つづけたこのお迎えは、重たい電動アシスト付き自転車に乗って、急坂を上り下りしなければならないもので、雨の日や雪の日は徒歩で孫と延々と歩くことになった。それでも、具合が悪くて行けなかった日もなく、無事故のままお役御免となった。年少時にはブランコを漕ぐのもぎこちなかった孫も、年長時には帰り際によく園庭で高く漕ぎながら延々と乗るようになった。同じ時間にお迎えがきた友達と一緒に逆上がりや雲梯、登り棒なども練習した。  

 平日はほぼ毎日、何時間か一緒に過ごしてきた孫だったが、4月初めに娘一家が、文字どおり足の踏み場もなかった手狭な賃貸を離れ、同じ区内とはいえ、隣駅が最寄りとなるところへ引っ越したため、私の生活圏からは離れていった。荷造りが始まり、空になった本棚に、幼稚園の帰りがけに摘んだ花を小さなカップに入れて一心に飾っている孫を見て、胸が痛んだ。孫はショーン・タンの「エリック」になったつもりで、生まれ育った家に別れを告げていたようだった。私自身、孫の世話に追われた6年間が終わり、急に解放されたらどうなることやらと不安だった。桜が咲くころには、いなくなってしまうのだと思うと、春になるのが恨めしかった。日本人の桜にたいする特別な思いは、年度の節目となる季節と重なって美しい光景が深く記憶に刻まれ、「去年は一緒に見たのに」とか、「来年の桜は……」と考えてしまうこととも関係するかもしれない。  

 ところが、引っ越しの日が迫っているというのに、娘宅は一向に片づく様子がない。前後の数日間は、しんみりとする間もなく、荷造りやら掃除やらに追われ、合間には隠れん坊や忍者修行にも付き合わされた。小学生になっても、相変わらずのソメコぶりだ。挙句の果てに、娘からは本棚に入り切らず、床に積まれていた本を入れる本棚をつくってくれと頼まれる始末。服でも玩具でも、大半のものはそれらしきものを手作りして誤魔化しながら子育てをしたので、娘はいまだに私が何でもつくってくれると信じている。近所のホームセンターで購入した板はいったんうちのアパートに運んでもらい、格子に組むための溝を切ったり、やすりをかけたり、ドリルで穴を開けたりといった音の出る作業を仕事の合間に済ませることにした。だが、うちには電動工具は一つもなく、万力のついた作業台などももちろんない。古い鋸一本でギコギコと中腰で切ったので、数日間、腰痛に苛まれる羽目になった。二年ほど前にやはり娘に頼まれて樹洞を広げるために鑿のセットも購入していたので、今回はそれが役立った。  

 こうした肉体作業と並行して、「忠固研」の論文集のために執筆した論文とコラムの初校という、頭の痛い作業もあった。割り当てられた字数ぎりぎりで原稿を提出していたのに、多数の修正を求められ、そのたびに文字数をちまちまと数え、あっちを削って、こっちを足しての繰り返しとなった。 

 第50回を迎えた赤松小三郎研究会で短い発表をすることにもなっていたため、忘れかけていた参考文献を読み直してレジュメを作成し、さらに当日のためのパワーポイントのスライドもつくらねばならなかった。この時期、十分な時間が取れないことは最初からわかっていたので、発表のほうは簡単に絵図の紹介で終わらせるつもりだった。ところが、いざ調べ直すと、以前に生麦事件の謎解きに取り組んだときのことが甦り、事件発生時ですら人はそれぞれの立場でまるで異なった証言をすることや、時代とともに話が書き手の都合に合わせてどんどん変化し、「藪の中」状態になっている面白さに夢中になり、どんどん深入りしてしまった。そのため、毎度のことなのだが、早口で発表時間の枠を目一杯使うことにはなったし、先に提出してあったレジュメの間違いがあちこちで見つかったが、何かしら新しい視点は提示できたと思う。長年、先祖探しでお世話になってきたこの研究会に、多少なりとも恩義がはたせたのであれば嬉しい。  

 この発表後は、ほとんど手をつけられていなかったリーディングの仕事を突貫工事で終えなければならなかった。さほど厚い本ではなく、私のよく知る分野も含まれていたので、楽勝に違いないと踏んだのが間違いのもとだった。物理が苦手は私は、自分の想像を超える宇宙空間での目に見えない運動の力について説明されたりすると、頭がフリーズする。前回の物理の本は、ありがたいことに宇宙物理を専攻した娘の夫が、コロナ以来、うちのアパートで「在宅勤務」していたので、気軽にその都度、質問することができたのだが、これからはそうもいかない。もしこの企画がめでたく通ったら、また孫と一緒にブランコを漕いでその力学を体感しながら、一度しっかり基礎を勉強し直そう。 

 幸い、娘の夫は何を思ったのか、引っ越しに際して誰にも相談することなく折りたたみ式の軽めの電動アシスト付き自転車を買い、それを私に貸与してくれた。娘一家の新居まで公共の交通機関で行こうと思えば、電車とバスを乗り継がなければならず、往復で八〇〇円近くかかる。私はグーグルマップのルート検索でいちばん起伏のないルートを探して、自分のママチャリで通う気満々だったのだが、この文明の利器をありがたく利用させていただくことにした。自由にどこにでも行ける自転車は私のいちばん好きな乗り物なので、真夏と大雨のとき以外は、あと数年はこれに乗って足繁く通うことにしよう。 

 孫は知り合いが一人もいなかった新しい学校で、初日から数人の同級生に声をかけ、先生から紙までもらって、その先生の似顔絵を描いたらしい。先日、本棚を組み立てに行った折には、その先生に引率されて、友達と手をつなぎながら、楽しげに集団下校してきた。夕方には、近隣の大きな自然公園までの道をすでに覚えていた孫の先導で、自転車を2台連ねてちょっとしたサイクリングもした。板を買った際にホームセンターで見つけた小さな魚獲り網を背中のリュックに入れて、上り坂を懸命に漕ぐ孫は、先日、その網でドジョウをすくったらしい。ドタバタで始まった娘一家の新生活だが、少しずつ新しい環境に適応しているようだった。 

 この間、本業のほうは幸いにも(?)ゲラ待ち状態がつづき、しかも、ありがたいことに次の仕事も決まり、速攻で原稿が送られてきた。まだ月末にオンラインの研究会で発表するために、レジュメを作成し直さなければならないが、先月からつづいたドタバタの万屋の日々はそろそろ一段落して、もとの平穏な翻訳業に戻ることになる。 

 今後はおそらく週一くらいのペースで娘宅に通うほか、姉宅での孫のピアノのレッスンに付き合うことになると思うが、それも低学年のうちだろう。小学校4年にもなれば、友達優先になり、親とだってあまり外出したがらなくなる。婆さんの出る幕はさらにないだろう。よちよち歩きだったころ一緒に遊んだ公園や、ストライダーの練習をした尾根道、バドミントンで遊んだ駐車場などを見るたびに寂しくはなるが、遠隔地や外国に引っ越したわけでもなく、まして事故や病気や戦争でもう二度と会えないわけでもない。すべてのことは移ろい、変化する。ようやく少しばかり自由な時間ができるのであり、自分にあとどれだけ時間が残されているのかもわからない。やり残していることを、元気なうちに一つずつ片づけていこう。

孫の「エリック」遊び。このあと春夏秋冬を再現していた

幼稚園の帰りに立ち寄った秘密の小道で、思いがけず見た満開のエドヒガンと思われる大木

久々の大工仕事で、これまでになく大きな本棚をつくった

愛用の魚獲り網で獲物を探す孫