2025年7月14日月曜日

『西洋の敗北:日本と世界に何が起きるのか』を読んで

 平等をテーマとする大部の校正がようやく始まったところに、タイミング悪く、図書館で長らくリクエスト待ちしていた本がまた回ってきてしまった。いま話題のエマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(大野舞訳、文藝春秋、2024年)で、私のところに届いた図書館の本は、2025年3月の第8刷だった! 昨年11月に佐藤優の書評を読み、すぐにリクエストを入れたのにすでに200人以上待ちという凄まじい状況で、それを半年以上待ったからには読まねばと、読書時間をひねり出して目を通したので、備忘録を兼ねて書いておく。 

  トッドの著作は、はるか昔に『新ヨーロッパ大全』をやはり図書館で借りて読んで以来だ。イングランドやフランス、デンマークは平等主義的、個人主義的な絶対核家族型、日本やドイツは権威主義的な直系家族型などと、世界の民族を家族構成から分析したトッドの手法は斬新な視点を与えてはくれたが、上下2冊の大部のなかで繰り返しその類型がもちだされ、最後のほうは辟易した記憶がある。確かに、長子相続にたいする次男以下不満が、明治維新の原動力の一つではないかとこの数年とみに思うし、戦後、民法が改正されて子ども間で等分に相続することになっても、「長男の嫁」という言葉は、おおむね老親の介護や盆暮の義務などの否定的な意味ながら残りつづけ、二世帯住宅が決してなくならないことを考えれば、「直系家族型」は日本社会の本質的な側面を表わしているのだろう。とはいえ、世の中の雑多な人びとをいくつかの家族構造に分類して理解しようとする手法は、7つの性格タイプに人を当てはめるような性格診断と同じくらい、私にはどうも胡散臭く思えた。

   以来、新聞などでときおり彼の論評などを読むことはあり、ウクライナ戦争について彼が一般とは違う冷静な意見を発していることはそれなりに承知していても、『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋、2022年)や『問題はむしろロシアよりも、アメリカだ』(池上彰との対談、朝日新聞、2023年)にも食指は動かなかった。それにもかかわらず今作に興味をもったのは、この10年ほど、アメリカは言うにおよばず、ヨーロッパの衰退を感じることが非常に増えたためだ。 

  従来の家族構成分類に加えて、宗教の崩壊が自身の分析モデルの中心にあると書く著者は、今作では宗教が「活動的状態」から「ゾンビ状態」に移行し、やがて「宗教のゼロ状態」になるという具合に時代ごとの分類も加えているので、なおさらややこしい。しかも、文脈によって微妙にその年代がずれているようでもあり、気になった。ちなみに、「ゼロ状態」になれば、社会が個人単位に解体され、国家機関が特別な重要性を担うようになる。いずれ宗教の絶対的虚無状態のなかで国民国家は解体され、グローバル化が勝利するのだともいう。

   原書が執筆されたのは2023年夏のあいだで、その年10月に始まったイスラエルとハマースのあいだの戦争に関する追記と、日本語版に寄せた2024年7月のあとがきはあるが、基本的にはウクライナとロシアの戦争にたいする分析を軸に、それを取り巻くアメリカとヨーロッパ諸国の近い未来の敗北を予測している。著者は大国に限定した場合の広義の西洋になぜか日本を含めており、日本がその他西洋諸国と運命を共にするのかについては、この先の進路しだいと言葉を濁している。

  2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻直後に西欧諸国で言論の自由がなくなった事態に、私も非常に危機感を覚えた一人だったが、本書の日本語版刊行に際して書かれた序文に、フランスでも「およそ八カ月間、沈黙を保たなければならなかった」とトッドが書いていることは多くを語る。 

 ロシアとウクライナ問題で彼が指摘していることは、侵攻当初にマイダン革命のころのBBCの動画や、本書でも言及されているジョン・ミアシャイマーの動画、プーチンを悪魔化するなと訴えるフランスのジャーナリストの動画などをかなり視聴した私には、さほど目新しいものではなかった。それでも、人口統計学者でもあり、各国の統計に詳しいトッドならではと思う指摘はいくつもあった。たとえば、ロシアが2020年に近年で初めて農産物の純輸出国になったこと、ロシアの工学専攻率は23.4%にたいし、アメリカは7.2%、イギリスは8.9%、ドイツは24.2%(2020年)で、ロシアが多くの技術者を輩出しており、ゆえに製造業が健在であること、ロシアの女性一人当たりの出生率は1.5人であり、動員可能な男性人口が40%も縮小しているのに、国土は1700万平方キロもあり、「ロシアにとっては、新たな領土の征服などもってのほか」であり、ゆえにウクライナを倒したあとヨーロッパを侵略するというのは「単なる幻想かプロパガンダ以外の何物でもない」ことなどだ。 

 ついでながら、ルイス・ダートネルが『この身体がつくってきた文明の本質』(河出書房新社、2024年)でロシアの人口ピラミッドを提示しており、第2次世界大戦の大きな爪痕がほぼ25年おきにいちじるしく人口の少ない世代となって現われているため、10代後半から30歳以下の人口が極端に少ないことを指摘していた。ソ連の一員であったウクライナにも、同じことが言えるはずだ。 

 ウクライナについては、独立時の大都市はキーウを除けば、ロシア語話者が多かった南部と東部オデーサ、ドニプロ、ハルキウしかなく、西部にはある程度の規模のリヴィウがあるのみという。ウクライナの航空産業、軍事産業などの最先端産業は東部に位置し、ロシアと結びついていたが、ロシア語話者の中流階級は、ウクライナ語話者のナショナリストの敵意の対象となるなかでロシアへ移住してしまい、1989年から2010年にかけて人口の20%を失った東部の町が多いそうだ。 ナショナリズムの活発な西部は歴史的に長年ポーランド貴族に支配され、ウクライナ人は農奴として扱われていた土地で、確かに「ネオナチ」の拠点ではあったが、トッドによれば、それ以上に、侵攻前からウクライナ全土に広がっていた「ロシア嫌い」こそ解明が必要な現象という。

 フランス語で原書を読めるほどのフランス語能力がないので、確認していないが、「ロシア嫌い」は日本では「反露」と訳されることが多いrussophobieの訳語のはずだ。通常は高所恐怖症のように、「恐怖症」と訳されるフォビアという言葉は、ゼノフォビアやイスラムフォビアを含め、「〜嫌い」「反〜」と訳され、いまは意味的にも敵対心、反感を表わすようだが、語源的にはもっと心理的、歴史的な恐怖心があると思う。 

 ウクライナ社会では「〈ロシアに対するルサンチマン〉が最終的には指針となり、展望となり」、この戦争こそが、ウクライナにとっての「生きる意味」になり「生きる手段」となりうるとし、ウクライナは真の「国家」ではなく「ワシントンからの資金に依存する軍・警察組織」でしかないといった説明を読むと、「ロシア嫌い」にかろうじて国としてのアイデンティティを見出している、末期状態を感じさせた。アンチにしろ、フォビアにしろ、自分ではないもの、敵との区別や抵抗が自分の存在理由になるのは、哀れな状況だ。  

 トッド自身はカトリックの家庭出身らしいが、彼自身の宗教観は本書ではいま一つわからなかった。ただし、西洋の発展の中心と根源にある特殊な宗教、プロテスタント諸派に関しては面白い言及がいろいろあった。プロテスタントの教会はすべての国民が土着語で聖書を読むことを求めたため、大衆の識字化が進んだほか、「国民」も早くから誕生していた。「ある者は選ばれ、ある者は地獄に落ちる」とするカルヴァン派の予定説は、キリスト教本来の「人間はみな平等」という概念に戻ることはなく、トッドは「黒人排除こそがアメリカの自由民主主義を定義し、機能させていた」とし、「共産主義的普遍主義に道徳面で太刀打ちするために必要」となった「黒人の解放は、予期せぬ負の結果の一つとして、アメリカ民主主義の混乱をもたらした」などと書く。「共産主義は、正教会後のロシアの〈宗教〉となり、社会を結束させる集団的信念になっていた」という指摘も興味深い。 

 1957年のスプートニクの衝撃から科学面でソ連と対決しなければならなかったWASPエリートたちは、ハーヴァード、プリンストン、イェールという三大名門大学へのユダヤ人入学者数を限定する「ヌメルス・クラウズス」制度を実質的に廃止されたとも述べている。このあたりは、ちょうどマイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』で、マンハッタン計画の科学顧問だったコナントがSATを導入した経緯などを読んだばかりだったので、フムフムそういうことかと思いながら読んだ。  

 アメリカの「WASPの終焉」、「ユダヤ系知性の消滅?」といった小見出しで述べた状況や、東欧について書いた章に関連して、トッドは自身の出自についても言及しており、曽祖父がブダペスト出身のユダヤ人で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系でもあるとする。そのことと多少関連するのか、彼の同性婚にたいする見解、とくにトランスジェンダーへの姿勢はかなり一方的だ。フェミニズムに関する近著、Où en sont-elles?もあり、ウクライナ戦争絡みで非常に好戦的な姿勢を見せた女性たちについて書いたものと思われる。大野舞訳で文芸春秋より近刊と書かれていたが、こちらはまだ刊行されていないようだ。ウィキペディアによると、トッドはポール・ニザンの孫で、父親はジャーナリスト、息子は歴史家で、最初の歴史書は一家の友人であったル・ロワ・ラデュリからもらったとのこと。 

 トッドのいくつかの主張にはほかにも疑問が残るものがあった。2012年開通と2021年に竣工した天然ガスパイプライン・ノルドストリーム1と2の破壊工作について、攻撃はアメリカによって決定され、ノルウェー人の協力を得て実行されたとするアメリカの著名ジャーナリスト、シーモア・ハーシュの見解を「唯一真実味のある説明」だとして受け入れているところなどだ。ただ、これだけの内容の本を数カ月で書き上げるのは超人技と思うので、自身の思い込みから抜けだせない部分や、読者におもねった部分なども、当然ながらあるのだろう。「西洋」の分析のなかで、自国のフランスにたいする批判が少ないのは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(2016年、文春新書)であらかた述べてしまったからなのか。 

 「〈国家ゼロ〉に突き進む英国」という章は、翻訳の仕事や娘の留学を通じて、この20年余りの変遷をそれなりに見てきたので、興味深く読んだ。2016年のブレグジットは国民の復活ではなく、国民の崩壊の帰結であり、それによってイギリスはアメリカを選んで、みずからの独立を失いつつあるのだという。この章には「亡びよ、ブリタニア!」という強烈な副題がついている。原文はRule, BritanniaをもじったCroule Britanniaらしく、カンマがないのは気なるが、ChatGPTによれば、なくとも命令形と解釈してよいらしい。

 アメリカの国家安全保障局(NSA)がインターネットの普及とともに西洋のエリートたちを監視下に置いたという指摘や、そのもとコンピューター技術者であったエドワード・スノーデンがロシアに亡命したことが、アメリカ人がプーチンを許せない理由の一つだろうという推測もなるほどと思った。ウクライナが必要とする兵器をアメリカが生産できずにいる理由などは、アメリカの工業の衰退ぶりを明らかにし、GDPからは見えない経済の実体を明らかにする。アメリカは「世界通貨を最小限のコスト、あるいはコストゼロで生産できてしまうため、信用創造以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的はないものになってしまう」とも書く。

 集中できない状態で読むには複雑極まりない本で、一読した程度では半分わかった程度でしかない。終章に時系列で追ったまとめがあり、一応の頭の整理にはなる。ブレジンスキーが1997年刊行の著書で「共産主義の崩壊によってアメリカが用なしになれば、日本、そしてドイツという二つの極がロシアと手を結ぶ可能性がある」と恐れていたこと、2004年のウクライナのオレンジ革命はアメリカが中心的役割をはたしたが、2013年末からのマイダン革命はドイツに率いられたEUが裏で操作していた、といった指摘が印象に残った。再読したくなるころには、古本の値段も下がるだろうから、そうなったら入手してみよう。

2025年6月29日日曜日

『孤城春たり』を読んで

 新聞の書評で面白そうだと思い、長らくリクエスト待ちしていた澤田瞳子の歴史小説『孤城春たり』を読み終えた。幕末の老中板倉勝静は生麦事件の後始末などでよく名前が登場する人なので、それなりに知っていたし、山田方谷も少なくとも名前だけは記憶にあった。だが、松山藩については、立派な城があることで有名な伊予松山藩だと思い込んでおり、読み始めてしばらくして「山間の小藩だけに、海がない」という記述に頭をひねり、そのうちに「あれっ、備中ということは岡山県??」と気づくという間抜けぶりでわれながら情けない。伊予のほうは親藩で、備中松山藩は当然ながら譜代藩だった。幕末の藩主の板倉勝静は桑名藩主の8男、松山藩に養子入りした人で、松平定信の孫に当たるとのこと。備中松山のほうの城は、「天空の山城」としてネット上でちらりと見たことのある城だった。 

 まったく知識のない方面の話で、登場人物もそれなりに多く、最初のうちは戸惑ったが、非常にわかりやすく、テンポよく書かれた小説なので、するすると読み進められた。歴史小説はよほどのことがないと読まないほうなので、澤田瞳子の著作も今作が初めてだったが、母親の澤田ふじ子がやはり歴史小説家だそうで、かなりの書き手であることは間違いない。何と言っても、明治維新でいちばん割を食った譜代の、それも小藩から見た幕末史など、これまでほとんど書かれていないし、いろいろな意味で私の祖先がいた上田藩の状況とも重なるものがあって参考になった。京都出身の著者が幕末の譜代藩について書いたということも、画期的ではなかろうか。京都は公家のほかは、職人、町人の町だったし、幕末には尊皇攘夷の中心地となった土地柄だからだ。  

 本書の中心となる人物は、備中松山藩の精神的指導者のような儒者、山田方谷である。当時の松山藩は5万石とはいえ、実際の石高が2万石に満たず、借金だけは大大名並みに10万両もあり、「貧乏板倉」と揶揄されていたらしい。その藩政を立て直したのが方谷で、無駄の多い大坂の蔵屋敷を廃止し、大名貸しを行なう豪商である銀主に藩の財政事情を包み隠さずに伝え、頭を下げて返済を数年待ってくれるように頼んで回ったという。本書では大坂屈指の両替商である加島屋久右衛門の名前が上がっていた。少し前にこの加島屋の親戚である銀商から、上田藩が借金をしていた記録を見ていたし、重い腰を上げて読み始めているE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』にも、こうした問題に関する鋭い指摘があったので、興味深く読んだ。  

 山田方谷は藩の財政を建て直しただけではない。「義を明らかにして、利を計らず」と、正論を唱えつづけたそうだ。勝手不如意になると、利に聡い侍ばかりが増え、結果、世は衰微すると主張していたという。国のトップがことあるごとにディールだと言って憚らず、選挙民でなく資金源でもない人間など眼中になく、人の尊厳も幼い命もお構いなしで、損得がすべての判断基準のように振る舞ういまの世の中には、方谷のような人物は絶滅危惧種、いやすでに絶滅種なのかもしれない。道徳的、倫理的な説教が苦手な私ですら、「義はどこへ行ったのか」と言いたくなる昨今、本書を読むと、胸のつかえが下りるような感がある。 

 方谷は郷土の英雄として多少美化されてきたところもありそうだが、本書は方谷自身には多くを語らせず、教えを受けた藩士などの口から師の理念を代弁させて、いくらか客観性をもたせているので、さほど不自然なく受け入れられる。舞台を備中松山、江戸、京都、大坂と移動しながら、嘉永年間から戊辰戦争まで比較的長い年代を扱うので、時代ごとにそれぞれの登場人物の視点から物語を進め、大勢の口から方谷を語らせる手法が効いている。もっとも、それらの人物が語り手であるわけではなく、人数も枝葉も多く、一読したくらいでは、すべてのエピソードが頭のなかでしっくり収まらない。この書評を書くに当たって検索してみたら、山田方谷だけでなく、熊田恰のような印象的な藩士に関する情報もネット上にかなりあったので、全国的な知名度は低くとも、小説を書けるだけの十分な材料はそれなりに揃っていたのかもしれない。 

 いくつか印象に残ったことや気になった点を挙げておく。山田方谷が唯一の女の弟子、福西繁に陽明学について語る場面がある。「誰かを自らの思いのままに為さんとはすなわち、世を従わせ、己を傲岸に振る舞わせる行いです[……]それは同時に、人間とは究極的には、自らの声にのみ耳を傾けるべき存在であることを意味します」と語る方谷が、それが陽明学なのだと言う場面だ。ならば朱子学ではなく、陽明学を学ばせてくれとすがる繁に、方谷は「陽明学は優れた点も多いですが、これのみを学ぶと偏りが生じます」と答え、朱子学を理解してから学ぶようにと諭す。ちなみに、福西志計子は岡山の女子教育に大きく貢献した実在の人物で、ウィキペディアによれば、彼女が創設した順正女学校がのちに順正短期大学となったようだが、その創始者は加計学園グループ創始者だった! 

 方谷の名前を最初に知ったのは、記憶どおり、松本健一の『評伝 佐久間象山』からだった。象山と方谷は斎藤一斎の門下で学んでいる。一斎が陽明学に傾倒していることに納得できなかった象山が師に向かって「文章詩賦は学ぶけれども、経学の教授は受けない」と宣言したエピソードはよく知られている。象山は陽明学者であった大塩平八郎にも批判的で、陽明学の思想は治政を乱すと考えていた。象山はいち早く西洋の技術を取り込んだ人だったが、つねに為政者の立場に立つ元祖ナショナリストであり、保守本流的なところがある。ちなみに、ノーマンは大塩平八郎に関する注に陽明学は個人主義的、民主的思想だと書いていた。 象山より6歳年上だった方谷は、象山の覇気に辟易していたらしい。一応、象山の門人だった河井継之助に「佐久間に、温良恭謙(倹)の一字、何れ阿(有)ると」と漏らしたという『孤城春たり』に書かれたエピソードを、松本も引用していた。これは河井の全国遊歴の日記『塵壺』に書かれているようだ。河井もこの小説に少しばかり登場する。長岡にいた親戚が、長岡市街を火の海にしたので、地元では河井は人気がないと言っていたことなどを思いだす。象山とは意見が対立することの多かった方谷だが、京都・木屋町で象山が殺されたときは、丸二日間ものあいだ自室に籠り、家の者たちを心配させたと澤田は書いている。 

 この小説には、藩主が板倉家の分家だった安中藩の新島七五三太(新島襄)も登場し、藩の許し得ぬままおそらく万延元年に蘭方医杉田玄端のもとに勝手に入門し叱責を受けたと書かれていた。杉田玄端のもとに、嘉永6年か7年に私の祖先が蘭書の訳本を購入しに行った記録があるので、同じ譜代藩でも上田藩は早期から蘭学を奨励していたことなどがよくわかった。 

 同じころ江川太郎左衛門英敏の塾に入門した松山藩士2人の話が一つの章となっている。松本健一の評伝から、英敏の父である英龍によい印象のなかった私には、『孤城春たり』を読んで江川家の苦労がわかり、見直すものがあった。新島襄はのちに、松山藩が購入した洋式帆船に乗せてもらって箱館まで行き、そこから密航していた。この章は、英敏の後ろ盾となってきた初代外国奉行の一人、堀利煕の自害についても少々触れており、老中首座の安藤信正に叱責された程度で切腹するはずがないという台詞を、英敏に吐かせている。堀利煕はいとこの岩瀬忠震に比べて地味な人だが、はるかに芯の通った人物に思われ、彼の自害の理由について少しばかり調べたことがあった。

 同じ章に桜田門外の変に関する記述もあり、事件現場の地図を再び探しだしてみたら、松山藩邸は現場となった杵築藩邸前より、一本東の通りを入った先にあった。著者はこれまでおもに平安時代の作品を書いてきたらしく、桜田門外の変については全体的に、近年、判明してきた諸々の事実は考慮されない展開となっていた。とはいえ、個人的には小説ならではの、面白い箇所もあった。事件に出くわして慌てふためいた松山藩士の塩田虎尾が「長屋門の脇の番所へと駆け込んだ。[……]往来に面した出格子窓に顔を押し付ければ、様子見を決め込んだのは近隣の屋敷も同じらしい」という件で、向いに立つ長州藩上屋敷も表門を閉ざしていると描写されていた。ちょうど、上田藩の藩邸門の素人工作模型をつくったばかりで、番所の格子窓はどうなっているのかと繁々と眺めたあとだったので、なるほど、門を開けずにここから覗くわけだな、などとわかり、楽しくなった。ただし、古地図を見る限りでは、事件当時の松山藩邸は表通りに面していないので、梁受けで突きだした出格子窓からどれだけ覗いても、現場は見えなかっただろう。 

 鳥羽伏見後に佐幕派の藩が受けた扱いはさまざまだったと思われる。藩主の板倉勝静が老中首座を務め、徳川慶喜が大坂を脱出した際にも同行したとあっては、新政府軍として備中松山藩は見逃せない相手だったようだ。隣の岡山藩は外様の大藩で、幕末の9代藩主、池田茂政は水戸の徳川斉昭の子であり、「実父の影響から藩論を尊皇攘夷に傾け、長州とも誼を通じた男である」と、小説には書かれていた。こういうことを知るとますます、幕府を崩壊させた重大要因の一つは斉昭だと思わざるをえない。もっとも、兄である慶喜の東帰後はさすがに茂政は隠居したようで、ウィキペディアによれば、支藩から池田家の藩主を迎えるに当たって岡山藩は「倒幕の旗幟を鮮明にした」そうだ。この時期の松山藩の苦難は、やはり藩主が幕末に大老や老中を務めた姫路藩がくぐり抜けた事情と似ている。姫路城や松山城が日本を代表する城として現存するのは、当事者や関係者が衝突回避に尽力した結果の、奇跡のようなものだ。 

 岡山藩の矛先は備中松山藩に向けられ、京都・大坂に出向いていた松山藩士150名が、藩主の命令で帰国すると、国元ではすでに徹底抗戦を唱える主戦派を穏健派が抑えて城を明け渡すことが決まり、城下から立ち去る準備が進んでいた。折悪しくそこへ戻ってきた150名の恭順の意を示すために、その部隊を率いた熊田恰という藩士が切腹して首を差し出すことになった。上田藩は、若年の藩主が家臣の説得等もあって慶応4年3月という、それなり早い時期に上京して恭順したため、江戸屋敷こそ立ち退きさせられたが、こうした苛烈な扱いを受けることはなかった。 

 小説自体は、読者を泣かせるこのクライマックスで終わるが、ウィキペディアによれば、方谷は維新後の松山藩の再興にかなり尽力したようだ。榎本武揚らと蝦夷地で戦いつづける藩主板倉勝静を、プロイセン人を使ってなかば騙し討ちで引き戻し、自首させたらしい。このドラマも読んでみたかった。方谷は小説の最初から老人として登場していたが、晩年も陽明学を教えつづけ、明治10年に72歳で亡くなっていた。

澤田瞳子『孤城春たり』(徳間書店)
初出は「山陽新聞」2024年2月3日から12月10日号で、刊行にあたり大幅に加筆修正とのこと

サザエさんの家と同様の、紙工作版。格子そのものは開かず、その内側に雨・風避けで、油障子があったのではないかと推測中。極小サイズなので、番所の出格子窓があまり「出」ていない

アイスクリームの棒と竹ひごで、多少大きめにつくった裏門。『孤城春たり』を読んで、アイスの棒の見張り番も加えてみた。棒のストックがなくなり、残りはアイスを食べてからつづける予定

2025年6月12日木曜日

十河家のピアノ

「二女が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました」  

 これは祖父が死去した半年後に、『十年会々誌』という大学の同窓会誌に祖母が寄稿した追悼文に書かれていたものだった。祖父は子どものころに学校のピアノに自分の名前を彫るいたずらをして大目玉をくらった人で、それ以来、ピアノに悪感情を抱いていたのか、結婚相手の条件は、目と歯がよくて、ピアノを弾かない女性だったと以前、叔母から聞かされていた。そのため、母の遺品を整理するなかで、祖母が推敲を重ねた下書きとともにこの寄稿文を読んだときは、ほろりとするとともに、意外な思いがした。「二女」と書かれているのが母で、小学生のころから習っていたピアノで、音大を出たわけでもないのに、80過ぎまで生計を立てていたからだ。実際、ピアノを教えればいいと母に勧めたのも祖父であったはずなので、祖父のピアノ嫌いはいつしか解消していたのだろう。

「ノーマンさんのピアノ」と勘違いされていたピアノについては以前に書いたことがあるが、先日、長野の日赤の記録を見つけて以来、あれこれ気になって調べるうちに、びっくりする事実をいくつか発見したので、メモ代わりに書いておく。 

 生前に母が記憶違いを正して、国鉄総裁になった十河信二氏がピアノを疎開させていたことを突き止めてくれたとき、キク夫人が東京音楽学校、つまりいまの芸大出身であることは私も気づいたものの、それ以上は調べなかった。苗字が「とがわ」ではなく、「そごう」と読むことも今回初めて気づいたくらいだ。十河信二という人は、「新幹線の父」とも呼ばれた人らしいが、この名前を聞いてすぐに頭に浮かぶのは、「鉄ちゃんでも相当な人です」と言われるくらい、有名な人ではなかったはずだからだ。  

 ところが、数年前から十河氏の出身である新居浜市を中心にこの夫妻を朝ドラの主人公にする運動が繰り広げられているらしく、ネット上の情報が増えていた。音楽家としてのキクさんではなく、内助の功を強調するストーリーらしいが、そのキクさんのピアノで母たち姉妹は練習していたことになる。私たちが子どものころも、まだ屋代の祖父母宅にこの小型ピアノはあったが、長いこと調律されておらず、音が狂っていたことだけは私もよく覚えている。

 ウィキペディアによると、十河氏は1938年11月に華北の興中公司を離れ、1945年7月から翌年4月まで1年未満、西条市市長を務めたのち、鉄道弘済会会長となっているので、戦後は都内に在住していたと思われるが、肝心の戦争中どこにいたのかはわからなかった。はたして本当に十河家のピアノが長野に疎開されていたのか、疑問に思いながら調べているうちに、本郷にあった十河信二邸について書いているサイトがいくつか見つかった。「鉄ちゃん」云々はそこに書かれていた。昭和12年築の邸宅は、戦後は一時期、進駐軍に接収されていたそうで、ステンドグラス入りの玄関の間や、応接間のマントルピースなどの写真を見ると、かなりの豪邸だ。あの小型ピアノはそこにあったのか、と不思議な思いがした。この建物はあいにく取り壊されて現存しないようだが、そこにはもう一つ意外なことが書かれていた。  

 本郷のこの場所が、「内科学の権威青山胤通邸跡」だったというものだ。祖父の恩師が青山先生であったはずなので、やはり母宅から引き上げてきた本の題名を確認したら『青山徹蔵先生生誕百年記念会誌』となっていた。人違いだったかと思ったが、調べてみると青山胤通の娘婿が徹蔵であることがわかった。この本は母の死後、祖父について書かれている箇所だけは目を通したものの、青山先生の経歴の部分は飛ばしていた。改めて読んでみると、青山家の自宅は本郷弓町にあったという。本郷弓町!と思ったのは、幕末に上田藩が唐津藩の屋敷をもらう形で中屋敷をもっていたからだが、青山家のあとにここに住んだ十河家のピアノが、どういう経緯で祖父母の家に回ってきたのかは、直接の疎開先であったはずの大滝さんが誰だったのかわからず、結局のところは不明である。  

 母の記憶では、大滝さんはノルマン牧師館に戦争当時住んでいた人だった。飯綱高原に移築されて現存するこの牧師館は、1902年に建てられ、息子のハワードが著書『長野のノルマン』に「五十七年間宣教師団の所有であったが、今は売却されてしまった」と書いている。ノルマン牧師自身は1934年に引退して軽井沢に移っており、長野市県町12番地にあった牧師館には後任の宣教師たちが住んでいたそうだ。となると、1959年まではカナダ・メソジスト教会が所有していたことになり、大滝さんは教会関係者であった可能性が強い。ノルマン牧師や、その長女、長男の家族は政治情勢が悪化してきた1940年末にカナダへ引き上げているので、後任の宣教師たちも同様に一時帰国し、その留守を預かっていたのかもしれない。

 母は6年生で松代に引っ越したのちも電車で長野市内の先生のところまでレッスンに通っていたので、ラジオ放送が正確には何年の出来事なのかわからない。終戦時、十河氏は新居浜市長で、本郷の自宅は接収されていたといった事情を考えれば、わざわざ疎開させていたピアノを手放し、それを母の実家が譲り受けたのは、やはり戦後のことかもしれない。母は4年生で終戦を迎えている。となると、ラジオで放送された演奏は、習い始めてまもない時期の話になる。祖母がドキドキしたのも無理はない。祖父は1946年4月に同居していた実母を亡くし、その前月からは勤務先の日赤病院の労働争議に巻き込まれていたので、娘の拙いピアノ演奏を聴いて流した涙には、複雑な思いが込められていたに違いない。  

 私を感動させた祖母の追悼文には、母のピアノのエピソードにつづいて、「また四女が小さい頃なかなかピアノの練習をしないのを見て、自分と競争しようと言いだし、それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」とも書かれていた。仕事一筋の人と思っていたが、祖父は案外子煩悩だったようだ。 

 寄稿文はそのあと、祖父が脳梗塞で倒れたのちも不自由な体ながら、「歩くことが脳によいと信じていたようで」毎日2時間くらい歩いていたことが綴られていた。「尤も終わりの頃は、近くにおります二女が後からついて行っておりました。それがどうも気に入らないようで次第に行きたくないと申すようになりました」の件では苦笑せざるをえなかった。下書きには、その散歩の話しか書かれていなかったので、ピアノのエピソードは最終稿で付け足してくれたようだ。祖父は晩年、散歩の途中で転倒するなどしてなかなか帰宅せず、母が探し回るはめになっていた。忙しい母を見かねて、私も一度だけ散歩のお供を代わり、公園のベンチに座って祖父がアリの行列をステッキで突く様子を眺めたのを覚えている。私としてはそれなりに面白い経験だったが、祖父はそれ以降、散歩に出かけなくなった気がする。

『十年会々誌』と祖母の下書き原稿

2025年6月5日木曜日

長野の日赤病院

 2年前、母の遺品の写真を整理した際に、1948年3月に松代小学校の卒業式に撮影された集合写真を見つけた。まだ下駄履きの子もいる、戦後まもない時期の写真だ。母は長野師範付属小学校(現信州大学付属小)に通っていたが、その前年に父親が松代で開業したために6年生で転校し、1952年に屋代に再度引っ越すまでの5年間を松代で過ごした。  

 長野の日赤病院外科部長で副院長を務めていた祖父が、松代で開業することになった経緯は、母からそれなりに聞かされていた。副院長という立場ながら率先して労働組合をつくり、ゼネストに参加したために解雇され、誰かの伝手を頼って、松代の鈴本とかいう料亭跡を買い取って医院に改造した、というものだ。もっとも、母が好んで語ったのは、信州なのに雨戸のない家で、廊下に雪が積もり、そこで曽祖母が滑って転んで手の骨を折ったという気の毒な笑い話だった。朝起きると、吐息が凍って布団の端がバリバリになったと付け加えるのも忘れなかった。  

 ネット上の過去の情報はどんどん増えるので、先日、久々に国会図書館のデジタルコレクションで祖父の情報を検索したら、これまで十二指腸潰瘍の論文など、読んでもよくわからないものしか見つからなかったのに、『長野県地方労働委員会年報』という書籍が引っかかってきた。開いてみたらどんぴしゃり、祖父が日赤を辞めさせられた経緯が「長野日赤病院事件」として詳述されていた。  

 このページ自体には書かれていなかったが、祖父がクビになった背景には1947年2月21日に計画され、ダグラス・マッカーサーの指令によって中止になった「二・一ゼネスト」があった。長野の日赤でも1946年3月に病院の民生化を目的に組合が結成されているので、日本全国で労働争議が起こっていたのだろう。当時の院長がその結成を阻止しようとすると、組合側が院長の退職を要求して追いだしたのだそうだ。院長の後任には副院長だった祖父を推す声が多く、請願書が出されたが、日赤支部長の物部薫郎氏が反対して、別の人が院長として赴任してきた。それを受けて労組内部ももめて事態が紛糾し、物部氏が同年11月に紛争の責任者処罰を主張し、矢面に立たされた祖父が辞任を要求された。「馘首を取り消した後改めて辞表を提出」と体裁だけ繕われ、この事件は「昭和二十二年二月一日解決した」。ゼネストが予定された当日に「事件」は幕切りとなっていた。  

 祖父をクビにした日赤支部長は、内務・厚生官僚から県知事に任命された人でもあった。「事件」一か月後の3月に実施された知事選では、「官僚の物部か県民の林か」と訴えた林虎雄氏に敗北していた。もう少し時期がずれていれば、祖父は日赤に残れたのかとも思うが、物部氏はおそらく日赤支部長のポストには居座りつづけただろう。初の民選知事となった林氏は、長野で布教していたダニエル・ノーマン(ノルマン牧師)の教育を受けた人だったようだ。  

 その3月に祖母は6人目の子を出産したばかりで、育ち盛りの大勢の子どもを抱えた祖父母は途方に暮れたに違いない。戦争末期には40代前半で5人の子持ち、かつ日赤の外科部長として、松代大本営の工事現場から運ばれてくる負傷者の治療などにも当たっていた祖父も最後は一兵卒として召集され、甲府連隊に送られたと母からは聞いた。 

 伯母が晩年に朝日新聞の「女の気持ち」に投稿した文章によると、祖父は開戦の朝、子どもたちに「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と語ったらしい。そう書いた作文が地元紙に掲載されることになったために、先生からこの箇所を、「『日本は必ず勝つ』とお父さんはおっしゃいました。私はうれしくてたまりせん」と、書き直しさせられた。伯母はそのときのわだかまりを、70年間心の奥に閉じ込めていたという。 

 今回の検索では、長野県地方労働委員会のこの記録のほか、『日本窒素への証言』という冊子も引っかかってきた。直接見つかったのは、脳卒中で倒れて以来、右半身不自由となった祖父に代わっての祖母の投稿だったが、そこから祖父が一時期勤務していた朝鮮窒素肥料の病院が「興南病院」であることも判明した。水俣病訴訟のニュースを読むたびに、いつかこうしたことも調べなくてはと思う。

1948年3月松代小学校の卒業式

1941年11月 長野日赤時代

2025年5月24日土曜日

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』

 遅まきながら、マイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(早川書房、2021/2023年)を図書館で借りて読んでみた。じつは、初めてのサンデルの本だ。訳者の鬼澤忍さんは、鈴木主税先生のところで短期間ながら一緒に勉強した仲間であり、サンデルは何かと話題になるので興味はあったものの、ベストセラーは順番待ちが長く、そこまでして読まなくてもと後回しになっていた。また、コミュニティの一員というアイデンティティ(自己認識)をその構成員に押しつけがちなコミュニタリアニズム(共同体主義)に、アマルティア・センが非常に懐疑的であり、サンデルの著書も批判の対象として挙げていたために、二の足を踏んでいたこともある。  

 今回、長い順番待ちをして読んでみたのは、日本では能力主義とか実力主義と訳されるメリトクラシーについてサンデルが書いていることを、平等の思想史を翻訳中に知ったからだ。鬼澤さんとは違い、私は哲学も思想史も苦手なほうで、少しでも多く参考書を読んでおかねば、というのが正直なところだ。読んだと言っても、寝る前のわずかな時間に細切れに読んだので、どれほど理解できたかはなはだ怪しいが、文庫版巻末にあった本田由紀さんの解説なども参考にしながら、備忘録代わりに書評を書いてみた。  

 メリトクラシーという用語は、1959年にイギリスの社会学者マイケル・ヤングがよい意味ではなく、ディストピアを表わすために生みだした言葉なのだという。デモクラシー(民主主義)が定着してきたかのような20世紀なかばになって、この言葉が批判と警告を込めて生まれたわけだ。実際には旧来のアリストクラシー(貴族社会)が、メリトクラシーに取って代わっただけではないかと長年思ってきたので、今回、この本を読んだことで非常に得るものがあった。  

 解説でも指摘されていたように、英語のmeritは「能力」よりは「功績」に近い言葉なので、本来は「功績主義」という訳語が定着すべきだったのだろう。どれだけ手柄を立てたかという実力の結果主義、といったところだろうか。いずれにせよ、この言葉は旧来の家柄や血筋ではなく、本人の能力、実力しだいで出世が約束される社会を意味する。  

 一見、よさそうに聞こえるメリトクラシー、能力主義だが、その背景には旧世界のしがらみを断ち切って、誰もが平等に出世できる社会をつくったと自負するアメリカ人の建国理念が深くかかわっているのだろうと思う。もっとも、サンデルは「アメリカが偉大なのは、アメリカが善だから」とか、「われわれは歴史の正しい側にいる」といった近年、繰り返し聞かされてきた主張は、実際には20世紀後半以降に盛んに言われるようになったと指摘し、こうした言葉は国家に応用された能力主義的信仰なのだとする。 

「2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た」というような分析を引用し、学歴偏重が現代の政治におよぼしてきた影響と反動を鋭く指摘している点で本書は注目されてきた。再選されたトランプがハーバード大学を目の敵にしていることでも、いままた新たな読者を惹きつけているだろうと思う。反エリート的な傾向はアメリカに限らず、日本でもヨーロッパでも顕著になっており、先日も「韓国男性に被害者意識」と題した見出しが毎日新聞の一面を飾っていた(5月23日朝刊)。 

 では、能力主義のどこに問題があったのだろうか。本書は、1933〜53年にハーバード大学学長を務め、マンハッタン計画の科学顧問でもあった能力主義の推進役ジェームズ・ブライアント・コナントについて詳述する。戦前までハーバード、イェール、プリンストンの御三家には、プロテスタントの白人エリートの子弟で、プレップスクール出身の男子学生であれば、成績が悪くとも入学できていたそうだ。映画『ある愛の詩』(1970年)でライアン・オニールが演じたオリヴァーは確かにそんなプレッピーだった。原作者のエリック・シーガルはラビの息子で1958年にハーヴァードを卒業しているので、ユダヤ系アメリカ人としてハーヴァードを出た最初の世代だったと思われる。 

 プロテスタントの世襲エリートを打ち倒し、能力主義エリートに置き換えようと画策したコナントは、「既存の非民主的なアメリカ人エリートを退陣させ、代わりに頭脳明晰で、行き届いた教育を受け、公共精神を持つ新しいエリートをあらゆる分野と経歴の人材から集める」目標を立てたという。これはサンデルが引用していたニコラス・レマン(『ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度』)の言葉だ。このビッグ・テストがSAT(旧称:大学進学適正試験)であり、コナントがこだわったのは「測定するのは生まれつきの知能であり、学科の習熟度ではないことだった」。

  IQであれば、プロテスタント、白人、金持ちといった属性との相関関係はとくになく、それ以外の属性をもつ有能な学生に教育の機会を提供できるだろう。だが、IQも遺伝や幼少期の教育に影響されるのではないだろうか。出来の悪いエリートの子弟が、親から将来の成功を約束する狭き門に入れと強いプレッシャーをかけられれば、精神的に追い詰められることにもなる。アメリカでは「大学生の五人に一人が前年に自殺を考えたことがあり、四人に一人が精神的障害の診断あるいは治療を受けた」そうだ。私の知る1980年ごろのんびりしたアメリカ社会は様変わりしたようだ。 

 しかも、「成功すれば自分自身の手柄であり、失敗しても自分以外の誰も責められない」自己責任論が、人生の勝者には驕りを、敗者には屈辱を与える。「あなたは〜に値する」(you deserve)という言い回しは、レーガン時代から盛んに使われるようになり、ビル・クリントンはレーガンの2倍、オバマは3倍多く使っていたという。自分を主語に「I deserve〜」と言われると、正当化やおこがましさを感じ、どこかひっかかるものがあったのだが、本書の説明を読んで納得するものがあった。この言葉は失敗したときにも、自業自得という意味で使われる。 

   能力主義も万能ではなく、弊害のほうが大きくなった昨今は、脱落した人びとの不満や恨みを巧みに利用したポピュリストが台頭している。その構図は、20世紀前半にファシズムが台頭したときと、じつによく似ている。サンデルは能力主義の欠点を補う方法として、機会の平等ではなく条件の平等を、消費者的共通善ではなく市民的共通善を尊重すべきと主張しているが、一読したくらいでは、何やらよくわからない。解説も「何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない」と書いているので、私の理解力がいちじるしく劣るわけではなさそうだ。  

   そもそも、共通善(common good)などという言葉は日本人には非常に理解しにくい。以前にこの言葉については憲法絡みで調べたことがあるが、それでも具体的イメージはさっぱり浮かばない。こうした議論でよく思いだすのは、マルクスの『ゴータ綱領批判』(1875年)の有名な一節「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」だ。当面はまだそれぞれの能力に応じて報酬を受け取ったとしても、将来的には、各人が生きるのに必要なものを受け取れる社会を目指すべき、という見解だった。ようやく貴族社会から脱しつつあったこの時代に、よくそこまで見通せたなと思う。

  つまり、各人の必要に応じて分配できる社会にするには、共通善なり公共の福祉なり、公益、公共財等々として富をプールしなければならない。そのためには、能力の秀でた個人がどれだけ目覚ましい働きをしようが、国家予算に匹敵するような富を蓄積させてはいけない。経済的には何の貢献もせず、足を引っ張るだけの人にも何らかの存在意義があるのだから、生きるために必要な糧は社会として与えなければならない、ということだろう。  

 熟読せずに言うのも何だが、サンデルの場合、私にはどうも1950年代以前の、コミュニティや愛国心や労働の尊厳を取り戻せば、コナント以降の能力主義への間違った方向への進路は是正されると主張しているように感じられる。このところ、アメリカの建国史の影の部分に触れることの多かった私には、能力主義どころか、共和主義や民主主義ですら、その根底から揺らいでいるような気がしてならない。

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021/2023年

2025年5月18日日曜日

「ムジナ」ほか

〈東京の赤坂の道に紀伊国坂と呼ばれる坂があった。この坂がなぜ紀伊の国坂と呼ばれるのか、私は知らない。この坂の一方には古いお濠がある。かなり幅が広く深い濠で、緑の土手が高くそびえた上に庭園などがある。通りの反対側は離宮の高い塀がずっとつづいている。街灯や人力車が登場する前の時代には、この界隈は日が暮れるとじつに寂しい場所となった。遅い時間に歩いて通る人は、日が沈んだあと一人で紀伊国坂を上るよりは、何里でも遠回りをするのだった。
 それもすべて、そこを歩くムジナがいたからだった。  

 最後にムジナを見たのは京橋地区の年寄りの商人で、三〇年ほど前に亡くなっている。これは彼が語ったその話である。  
 ある晩のこと、遅い時間に紀伊国坂を急いで上っているとき、お濠端に女がたった一人でしゃがみ込み、ひどく泣いているのに気づいた。身投げしようとしているのではないかと案じた商人は足を止め、何か自分に助けられることか、慰められることはないかと尋ねた。女はほっそりとした上品な人と思われ、美しい着物を着ていた。髪は良家の娘らしく結っていた。「お女中」と、彼は女に近づきながら声を上げた。「お女中、そんなに泣くもんじゃない! 何があったのか話しておくれ。何か助けられることがあれば、喜んで手を貸そう」(商人は本当にそのつもりだった。彼は心根の優しい人間だったのだ)。だが、女はすすり泣きつづけ、片方の長い袖で顔が見えないように隠していた。「お女中」と、彼はまたできる限り優しく声をかけた。「どうか、どうか聞いておくれ! ここは夜に若い女性のいる場所じゃない! 泣くのをおやめ、後生だから! ただどうすれば助けてやれるのか話しておくれ!」女はおもむろに立ち上がったが、商人に背を向け、袖の陰でうめき、むせび泣きつづけた。商人は彼女の肩にそっと手を置いて畳み掛けた。「お女中! お女中! お女中!……聞いておくれ、ほんの少しでいいから! お女中! お女中!」そのとき、お女中が振り返り、袖を下ろして、手で顔を撫でた。そのとき男が見たものは、目がなく、鼻もなく、口もない女の姿だった。彼は叫び声を上げて逃げだした。〉  

 一昨日、何気なく開いたアルバムのなかに、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの『怪談』のなかの「ムジナ(狢)」の訳文を見つけた。中学か高校時代に姉が最初に訳し始めたと思われるものだ。もしやと思って本棚を探すと、記憶どおりの緑色の表紙のテキストが出てきた。昭和49年(1974)刊の第26版の開拓社発行の英語の教材のようだった。なかを見ると、びっしりきちんとした字で書き込みがあったので、このテキストを使って勉強したのは姉に違いない。冒頭部分のあと、雑な筆跡に変わっているので、記憶は不確かだが、たぶん私が残りを後日、完成させたのだろう。  

 ただ、「ムジナ」を読んだことだけは覚えていた。というのも、大学時代のスキー・サークルで迎賓館一周コースをそれなりの頻度で走らされ、息を切らしながら紀伊国坂を上るたびに、「ムジナの坂だ」と思っていたからだ。私の学生時代から、坂の左手は迎賓館のある赤坂御用地の高い塀がつづき、右手は外堀通りと首都高、そしてその向こうに弁慶濠があり、いまもその景観は変わらないようだ。弁慶濠でも、練習と称してよくボート漕ぎをした。大学が借りている真田濠の土手で滑る真似をするイメージトレーニングと並んで、私の好きな遊び半分のトレーニングだった。  

 弁慶濠の上にはホテル・ニューオータニがそびえる。ここの広い日本庭園も学生時代に何度か入ったし、新入社員時代に誰かの応援添乗をした際に、庭園内のレストランでご馳走になり、そのとき初めてヴィシソワーズを飲んで感動した記憶がある。ニューオータニの敷地が彦根藩中屋敷だったことは、「紀尾井町」の由来を聞かされた学生時代から知っていた気がするが、明治以降、ここが戦後まで伏見宮本邸となっていたことは、今回調べて初めて知った。ちなみに、赤坂御用地の場所は紀州藩中屋敷で、上智大学は尾張藩下屋敷だった。

 「ムジナ」は、私にとって馴染みのある場所を舞台にした怪談であり、おそらく高校時代の自分の拙い訳文を読んだこともあり、土地勘がないとわかりづらい「with high green banks rising up to some place of gardens」の部分を多少工夫しながら、昨夜遅くについ前半部分だけ訳してみたのが、この記事の最初の部分である。 

 もちろん、ラフカディオ・ハーンの略歴もウィキペディアで確認してみた。1890年に来日、その後、何とアメリカで出会った服部一三の斡旋で島根に行ったのだという。長州藩士の服部一三は明治期にラトガーズ大学に留学し、上田藩の最後の殿様松平忠礼より一足先に理学部を卒業した人なので、調べたことがあった。ハーンは1904年に西大久保で没しており、日本に滞在していた10年余りのあいだに、妻となった松江藩士の娘小泉節子が語った伝承などを参考に『怪談』を執筆したようだ。物語の内容をそのまま信じるとすれば、30年前に死去した京橋の商人が語った話という設定なので、ムジナが出た時代背景は、実際には幕末で、商人の死亡時期は明治初年と考えるべきだろう。 

 といったことまであれこれ調べてしまうのは、長年、ノンフィクションを翻訳してきたためだが、この十数年、幕末史をかじってきたからでもある。そんなこんなで、時間もないのに、朝っぱらからこんな記事を書くはめになった。 

 実際には、この数日間、姉宅で見つかった祖父と母が翻訳した絵本2冊を借りてきてスキャンし、手書きの訳文を打ち直し、パワーポイントで簡易に編集したものをカラーコピーして、子どもが読めるように簡単に製本していた。手書きの文字をたどる作業は楽しかった。祖父も母も踊り字の「ゝ」を多用しており、祖父にいたっては「ゐました」「云ひました」「しまふのです」「おさむいでせう」といった旧仮名遣いで、「㐂」、「驛」、「𫞂」、「廿」などの旧字満載で、時の流れを感じさせた。孫などは当分読めないだろうが、こうした文字もできる限り忠実に活字にしてみた。

  祖父は私が幼児のころに脳卒中で倒れ、最晩年まで頭はしっかりしていたが麻痺が残っていたので、母がリハビリを兼ねて、ドイツ語の絵本(Ach lieber Schneemann『あゝ雪だるま君』)の翻訳を勧めていた。ドイツ留学の夢を戦争で絶たれながら、晩年になってもラジオのドイツ語会話を聴きつづけていた祖父が、便箋13枚にほとんど書き直しの跡もなく綴った訳文を読む作業は、胸の熱くなるものがあった。翻訳してくれたことは覚えているのに、子どものころは「読めない! わからん!」と読まなかったことが悔やまれる。文体は古めかしく、昭和初期の童話に影響されたような妙な会話も多く、「ストーブへくめました」など、祖父が生涯間違えて覚えていたのではと思う言葉もあるが、言葉に出して読みながら、子どもたちが楽しんでくれたらいいなと思う。ついでながら、この題名で検索してみたら、アニメ仕立ての動画が発見された! 有名な話なのだろうか。 
 
 母が訳したジョン・バーニンガムの『Harquin』は、『ハーキン:谷へおりたキツネ』として童話館出版から2003年に邦訳版が刊行されているようだ。いつか借りてみよう。バーニンガムの絵は子どものころから大好きで、母の「ハークィン」は上手に訳してあったこともあり、それなりに読んでいたと思う。ただ、細かい字で行間にびっしりと書き込まれていたため、子どものころは集中して読めなかった。改めて読んでみると、ストーリーも面白く、赤い上着が印象的なキツネ狩りの場面は、私には何やらクリミア戦争のバラクラヴァの戦いなども思いださせ、よくも悪くもイギリスの絵本だなと感慨深いものがあった。 

 偶然なのか、ドイツ語の『あゝ雪だるま君』にはOberförster(祖父は森番頭と訳していた)が登場し、「ハークィン」にはgamekeeper(母は狩り番と訳していた)が出てくる。どちらもおそらく、『ハリー・ポッター』のハグリッドのような人だろうな、と読みながら思った。いまなら公園を管理するレンジャーのようなものか。日本で言えば、マタギに近い存在かもしれない。完全に人間の支配下に置かれた地域と自然界の境目にいた人びと、と言えるかもしれない。 

 本棚の隅を探せば、まだまだ何か出てきそうだ。ゴミとして処分される前に、掘り返しておきたい。

Lafcadio Hearn KWAIDAN、清水貞助編、開拓社、1962/1974

姉と私の合作と思われる昔の訳文

祖父と母の訳文を入れて簡易製本した絵本  

2025年5月3日土曜日

深谷・本庄の旅

 大型連休のはざまの5月1日、思い切って遠出をしてきた。といっても、高崎線岡部まで行って、駅近くのカフェで自転車を500円で借りて、深谷市と本庄市の境界あたりを延々4時間余り走り回るという、ささやかな遠出だ。昨秋、ファミリー・ヒストリアン仲間の方が貴重な史料を見つけてくださり、年末に叔母に手伝ってもらって最初のページはおおむね解読していたのだが、それ以来、まとまった時間が取れず、どうつながるのか皆目見当のつかない雑多な情報が増えつづけていた。  

 史料に書かれていた関連の地名、横瀬村、阿賀野村、牧西村をグーグル・マップで検索すると、ひたすら農地が広がる一帯だった。しかも、渋沢栄一の血洗島と隣り合わせの地域だ。門倉姓との関連で見つかった本庄市の四方田を含めても、どうにか自転車で回れそうな距離で、驚くほど平坦な土地のようだが、埼玉のこのあたりは炎天下に走ったら熱中症になること請け合いの地域だ。下調べは十分とは言い難かったが、比較的自由に動ける連休中の晴れ間に決行した。  

 以前にもコウモリ通信に書いたように、この史料には「本氏 桃井」とか「桃井播磨守直常之後胤」などと書かれていたほか、「家紋井桁菱之内橘 抱桃」ともあった。「抱桃」はよくわからないが、前者は祖父の家(門倉)の紋であり、しかも上田に行く以前の古い墓碑にも刻まれていた。ほかに出自を探るうえで大きな手がかりとなるのは、江戸時代まで戸籍代わりの役目をはたしていた寺であり、少なくとも元禄時代に上田に行って以来、門倉家は真言宗智山派に属していた。こうした断片的な情報と、桃井直常と一緒に戦った新田義宗(義貞三男)などに関する生半可な知識だけを携えての現地調査となった。  

 ネット上で得られた情報は、横瀬神社とその隣にある渋沢家の菩提寺の華蔵寺のものが大半で、遠い祖先が仕えた主人と思われる新田義貞の「末男横瀬新六郎貞氏」がこの神社と寺にかかわっていた。横瀬神社の拝殿の彫刻、渋沢栄一揮毫の扁額などは見られたが、もっと凝った彫刻が施されていたはずの本殿のほうは見逃してしまった。華蔵寺には、新田義貞の祖父に当たる義兼が植えた「樹齢七百余年」の枝垂れ桜が昭和18年に枯死したあとの碑や、代わりに植えられた2代目の木、朱塗りの大日堂などは見られたが、境内には人影もなく、よくわからないまま退散した。それでも、私の曽祖父が各地の墓地から集めてきたとされ、まだ現存する4基の古い墓碑とよく似たものが、華蔵寺の裏手の墓地に多数並んでいることは確認できた。おそらく無縁仏となったものを集めたのだろう。  

 華蔵寺は真言宗でも豊山派なので、この付近で智山派の寺として目星をつけていた大福院にも途中立ち寄ってみたが、ここでも歴代住職の墓碑などによく似た形のものがあったほかは、収穫はなかった。この地域は南阿賀野らしく、南北の阿賀野村は別々の小藩の領地になるなどして、いくらか分断されていたようだ。  

 すぐ近くに、渋沢栄一の「中の家」があったので、短い時間ながらそこも寄らせてもらった。深谷のこの付近は、まさに「サザエさんの家」のような昭和もしくは、それ以前からある家が立ち並んでいる。ところどころにある墓地には、渋沢家と書かれたものもあった。地元のボランティアと思しき人たちが何人も来訪者の対応をしており、深谷市民がいまも渋沢に大きな期待を寄せていることが感じられた。そう言えば、往路で見た深谷駅は1996年竣工の赤煉瓦風の立派な駅舎で、隣の岡部駅とはずいぶんな違いがあった。渋沢が深谷に創設した日本煉瓦製造株式会社を記念したものだそうだ。渋沢の生誕地である「中の家」は、明治28年に建て替えた豪邸で、アンドロイドの栄一が語る藍玉にまつわるエピソードを拝聴したほか、流水の心地よい音が聞こえる庭を縁側越しに眺めるなど、無料で楽しませていただいた。  

 北阿賀野は、目指すものがないまま一帯を走ったのだが、途中で桃井可堂の碑があることに気づいて、そこも立ち寄った。本名、福本儀八というこの人物は、私がだいぶ以前にずいぶん調べた横浜の外国人居留地襲撃未遂事件の首謀者の一人であることがわかった。文久3年(1863)4月に清河八郎らが最初に襲撃を計画したものの、このときは幕府が清河を暗殺して未遂に終わった。その後、同年11月に渋沢栄一らの一派70人余りと、桃井可堂らによる300人余りの二つの集団が再び襲撃を計画した。だが、「挙兵は失敗した。可堂は挙兵計画を幕府に訴えた仲間の裏切りを知り天朝組を解散。自ら一切の責任を負って自首し、元治元年(1864)7月22日絶食して死去した」と、碑の横の説明には書かれていた。碑文のなかで渋沢は「故ありて事を共にせず」と、このときのいきさつを明治になってから書いたそうだ(裏面を確認しなかったので碑文はわからず)。  

 帰宅後、桃井可堂について調べ直すなかで、横瀬村に桃井直常創建とされる暦応2年(1339)創立の寺があったことを知った。直常は1376年死去とされるので、50代後半までは生きた人ということになりそうだ。この寺は赤城山多門院福王寺という新義真言宗の寺だったが、昭和の初めごろ廃寺になったと思われる。真言宗智山派も豊山派も、新義真言宗から派生した宗派で、それぞれ戦国時代、江戸時代初期に創建されていた。となると、曽祖父が大正期に古いお墓を整理しにやってきたのは、その福王寺だった可能性がありそうだ。 

 憶測ながら、深谷のこの一帯は利根川に近く、利根川と都内の小名木川は水路でつながっていたはずなので、大正期なら墓石を運んでくれる船も探せたのではないだろうか。茨城県谷田部で没した高祖父の遺骨と墓標もその手を使った可能性がある。自家用車も宅急便もない時代に、どうやって重い石を運んだのかという謎は、解けたかもしれない。上田のお墓からは遺骨だけ集めて、1893年に開通したアプト式鉄道で碓氷峠を通って運んだのではないかと、想像をたくましくしている。 

 北阿賀野を回ったあと、牧西に向かうと、周囲が一面、青々とした麦畑になった。ところどころ収穫が終わったらしい区画では、取水口からボコボコと水があふれていた。どうやら冬大麦か小麦と米の二毛作地帯のようだ。何しろ、スマホを片手に村内の狭い道や農道をぐねぐねと走り、曲がり角ではいちいち老眼鏡をかけて画面を拡大し、確かめながら走行したので、この田園風景を楽しむ余裕はあまりなかったが、何度かヒバリが目の前で飛び立ち、頭上まで高く上がって鳴く光景にも遭遇した。だいぶ以前に、娘が麦畑とヒバリのイラストを描く仕事を請け負ったのを思いだし、もしやこの付近がモデルだったのではと思った。 

 牧西は本庄市にあり、深谷市とは雰囲気がだいぶ変わる。農村であっても近代的だ。大きな道路沿いには大型店舗が点在する。私の祖先はこの牧西の郷士となったのち、どういう経緯か戸田忠昌の家臣となり、その息子が出石藩時代の藤井松平家3代目の忠周に仕えるようになった。出石は兵庫県北部なので、なぜと頭をひねるばかりだが、戸田忠昌も松平忠周も岩槻藩主だった時期があるので、いつかそのあたりを調べてみたい。 牧西は、武蔵七党の一つ児玉党を構成していた氏族の名前でもあり、同じく児玉党の四方田氏の本貫地に門倉という家があることがネット検索からわかっていた。この門倉さんは深谷や本庄の歴史書にもときおり名前があったし、上田藩に四方田という家臣がいるのも知っていた。

 すでに日も高くなり、暑さでだいぶくたびれてはいたが、本庄早稲田駅の先の四方田にある臨済宗の光明寺という寺まで、自転車を漕ぎ進めた。墓地には確かに門倉家のお墓がたくさん並んでいたが、どの家も家紋が揚羽蝶だった。臨済宗のこのお寺にも、うちの門倉のお墓とよく似た古い墓碑が多数あって、まとめて供養されているようだったが、梵字が刻まれているものはなかった。宗派によって、いろいろ違いがあるようだ。 

 結局、あちこち走り回った割には大きな収穫はなかったと言わざるをえない。同じ家紋の門倉さんの生き残りはもういないのだろうか。家紋について検索するうちに、橘にもいくつかのバージョンがあることがわかった。15年ほど前に建て替えられたお墓の家紋が正確に刻まれていたとすればだが、うちの門倉の紋は実の部分に筋が多く入る「久世橘」だった。ついでながら、井伊家と日蓮宗が井桁に橘紋だが、うちのは向きが違って菱井桁というらしい。 

 その紋を調べているうちに、大生部多(おおふべのおお)という飛鳥時代の宗教家が、橘の葉を食べる青虫を「常世神」と崇めたという妙な記述に出合った。柑橘類の葉を食べるならアゲハか、と考えたら、四方田の門倉さんはやはり遠い遠い親戚かも、と思えてきた。大生部多の「常世神」は柑橘類の葉も食草とし、繭をつくるシンジュサンの幼虫で、古代日本の最初の養蚕はこの種ではないかと推測する論考まで見つかった! 中世に生きた祖先の足跡をたどったことで、あれこれ思いがけない発見があり、頑張って遠出をした甲斐はあったかもしれない。

北阿賀野付近の農道。ひたすら平らな農地が広がる。

渋沢栄一の「中の家」のアンドロイド!

「中の家」はまさに伝統的日本家屋だった

 桃井可堂の碑

 牧西に向かう途中の麦畑