2025年5月3日土曜日

深谷・本庄の旅

 大型連休のはざまの5月1日、思い切って遠出をしてきた。といっても、高崎線岡部まで行って、駅近くのカフェで自転車を500円で借りて、深谷市と本庄市の境界あたりを延々4時間余り走り回るという、ささやかな遠出だ。昨秋、ファミリー・ヒストリアン仲間の方が貴重な史料を見つけてくださり、年末に叔母に手伝ってもらって最初のページはおおむね解読していたのだが、それ以来、まとまった時間が取れず、どうつながるのか皆目見当のつかない雑多な情報が増えつづけていた。  

 史料に書かれていた関連の地名、横瀬村、阿賀野村、牧西村をグーグル・マップで検索すると、ひたすら農地が広がる一帯だった。しかも、渋沢栄一の血洗島と隣り合わせの地域だ。門倉姓との関連で見つかった本庄市の四方田を含めても、どうにか自転車で回れそうな距離で、驚くほど平坦な土地のようだが、埼玉のこのあたりは炎天下に走ったら熱中症になること請け合いの地域だ。下調べは十分とは言い難かったが、比較的自由に動ける連休中の晴れ間に決行した。  

 以前にもコウモリ通信に書いたように、この史料には「本氏 桃井」とか「桃井播磨守直常之後胤」などと書かれていたほか、「家紋井桁菱之内橘 抱桃」ともあった。「抱桃」はよくわからないが、前者は祖父の家(門倉)の紋であり、しかも上田に行く以前の古い墓碑にも刻まれていた。ほかに出自を探るうえで大きな手がかりとなるのは、江戸時代まで戸籍代わりの役目をはたしていた寺であり、少なくとも元禄時代に上田に行って以来、門倉家は真言宗智山派に属していた。こうした断片的な情報と、桃井直常と一緒に戦った新田義宗(義貞三男)などに関する生半可な知識だけを携えての現地調査となった。  

 ネット上で得られた情報は、横瀬神社とその隣にある渋沢家の菩提寺の華蔵寺のものが大半で、遠い祖先が仕えた主人と思われる新田義貞の「末男横瀬新六郎貞氏」がこの神社と寺にかかわっていた。横瀬神社の拝殿の彫刻、渋沢栄一揮毫の扁額などは見られたが、もっと凝った彫刻が施されていたはずの本殿のほうは見逃してしまった。華蔵寺には、新田義貞の祖父に当たる義兼が植えた「樹齢七百余年」の枝垂れ桜が昭和18年に枯死したあとの碑や、代わりに植えられた2代目の木、朱塗りの大日堂などは見られたが、境内には人影もなく、よくわからないまま退散した。それでも、私の曽祖父が各地の墓地から集めてきたとされ、まだ現存する4基の古い墓碑とよく似たものが、華蔵寺の裏手の墓地に多数並んでいることは確認できた。おそらく無縁仏となったものを集めたのだろう。  

 華蔵寺は真言宗でも豊山派なので、この付近で智山派の寺として目星をつけていた大福院にも途中立ち寄ってみたが、ここでも歴代住職の墓碑などによく似た形のものがあったほかは、収穫はなかった。この地域は南阿賀野らしく、南北の阿賀野村は別々の小藩の領地になるなどして、いくらか分断されていたようだ。  

 すぐ近くに、渋沢栄一の「中の家」があったので、短い時間ながらそこも寄らせてもらった。深谷のこの付近は、まさに「サザエさんの家」のような昭和もしくは、それ以前からある家が立ち並んでいる。ところどころにある墓地には、渋沢家と書かれたものもあった。地元のボランティアと思しき人たちが何人も来訪者の対応をしており、深谷市民がいまも渋沢に大きな期待を寄せていることが感じられた。そう言えば、往路で見た深谷駅は1996年竣工の赤煉瓦風の立派な駅舎で、隣の岡部駅とはずいぶんな違いがあった。渋沢が深谷に創設した日本煉瓦製造株式会社を記念したものだそうだ。渋沢の生誕地である「中の家」は、明治28年に建て替えた豪邸で、アンドロイドの栄一が語る藍玉にまつわるエピソードを拝聴したほか、流水の心地よい音が聞こえる庭を縁側越しに眺めるなど、無料で楽しませていただいた。  

 北阿賀野は、目指すものがないまま一帯を走ったのだが、途中で桃井可堂の碑があることに気づいて、そこも立ち寄った。本名、福本儀八というこの人物は、私がだいぶ以前にずいぶん調べた横浜の外国人居留地襲撃未遂事件の首謀者の一人であることがわかった。文久3年(1863)4月に清河八郎らが最初に襲撃を計画したものの、このときは幕府が清河を暗殺して未遂に終わった。その後、同年11月に渋沢栄一らの一派70人余りと、桃井可堂らによる300人余りの二つの集団が再び襲撃を計画した。だが、「挙兵は失敗した。可堂は挙兵計画を幕府に訴えた仲間の裏切りを知り天朝組を解散。自ら一切の責任を負って自首し、元治元年(1864)7月22日絶食して死去した」と、碑の横の説明には書かれていた。碑文のなかで渋沢は「故ありて事を共にせず」と、このときのいきさつを明治になってから書いたそうだ(裏面を確認しなかったので碑文はわからず)。  

 帰宅後、桃井可堂について調べ直すなかで、横瀬村に桃井直常創建とされる暦応2年(1339)創立の寺があったことを知った。直常は1376年死去とされるので、50代後半までは生きた人ということになりそうだ。この寺は赤城山多門院福王寺という新義真言宗の寺だったが、昭和の初めごろ廃寺になったと思われる。真言宗智山派も豊山派も、新義真言宗から派生した宗派で、それぞれ戦国時代、江戸時代初期に創建されていた。となると、曽祖父が大正期に古いお墓を整理しにやってきたのは、その福王寺だった可能性がありそうだ。 

 憶測ながら、深谷のこの一帯は利根川に近く、利根川と都内の小名木川は水路でつながっていたはずなので、大正期なら墓石を運んでくれる船も探せたのではないだろうか。茨城県谷田部で没した高祖父の遺骨と墓標もその手を使った可能性がある。自家用車も宅急便もない時代に、どうやって重い石を運んだのかという謎は、解けたかもしれない。上田のお墓からは遺骨だけ集めて、1893年に開通したアプト式鉄道で碓氷峠を通って運んだのではないかと、想像をたくましくしている。 

 北阿賀野を回ったあと、牧西に向かうと、周囲が一面、青々とした麦畑になった。ところどころ収穫が終わったらしい区画では、取水口からボコボコと水があふれていた。どうやら冬大麦か小麦と米の二毛作地帯のようだ。何しろ、スマホを片手に村内の狭い道や農道をぐねぐねと走り、曲がり角ではいちいち老眼鏡をかけて画面を拡大し、確かめながら走行したので、この田園風景を楽しむ余裕はあまりなかったが、何度かヒバリが目の前で飛び立ち、頭上まで高く上がって鳴く光景にも遭遇した。だいぶ以前に、娘が麦畑とヒバリのイラストを描く仕事を請け負ったのを思いだし、もしやこの付近がモデルだったのではと思った。 

 牧西は本庄市にあり、深谷市とは雰囲気がだいぶ変わる。農村であっても近代的だ。大きな道路沿いには大型店舗が点在する。私の祖先はこの牧西の郷士となったのち、どういう経緯か戸田忠昌の家臣となり、その息子が出石藩時代の藤井松平家3代目の忠周に仕えるようになった。出石は兵庫県北部なので、なぜと頭をひねるばかりだが、戸田忠昌も松平忠周も岩槻藩主だった時期があるので、いつかそのあたりを調べてみたい。 牧西は、武蔵七党の一つ児玉党を構成していた氏族の名前でもあり、同じく児玉党の四方田氏の本貫地に門倉という家があることがネット検索からわかっていた。この門倉さんは深谷や本庄の歴史書にもときおり名前があったし、上田藩に四方田という家臣がいるのも知っていた。

 すでに日も高くなり、暑さでだいぶくたびれてはいたが、本庄早稲田駅の先の四方田にある臨済宗の光明寺という寺まで、自転車を漕ぎ進めた。墓地には確かに門倉家のお墓がたくさん並んでいたが、どの家も家紋が揚羽蝶だった。臨済宗のこのお寺にも、うちの門倉のお墓とよく似た古い墓碑が多数あって、まとめて供養されているようだったが、梵字が刻まれているものはなかった。宗派によって、いろいろ違いがあるようだ。 

 結局、あちこち走り回った割には大きな収穫はなかったと言わざるをえない。同じ家紋の門倉さんの生き残りはもういないのだろうか。家紋について検索するうちに、橘にもいくつかのバージョンがあることがわかった。15年ほど前に建て替えられたお墓の家紋が正確に刻まれていたとすればだが、うちの門倉の紋は実の部分に筋が多く入る「久世橘」だった。ついでながら、井伊家と日蓮宗が井桁に橘紋だが、うちのは向きが違って菱井桁というらしい。 

 その紋を調べているうちに、大生部多(おおふべのおお)という飛鳥時代の宗教家が、橘の葉を食べる青虫を「常世神」と崇めたという妙な記述に出合った。柑橘類の葉を食べるならアゲハか、と考えたら、四方田の門倉さんはやはり遠い遠い親戚かも、と思えてきた。大生部多の「常世神」は柑橘類の葉も食草とし、繭をつくるシンジュサンの幼虫で、古代日本の最初の養蚕はこの種ではないかと推測する論考まで見つかった! 中世に生きた祖先の足跡をたどったことで、あれこれ思いがけない発見があり、頑張って遠出をした甲斐はあったかもしれない。

北阿賀野付近の農道。ひたすら平らな農地が広がる。

渋沢栄一の「中の家」のアンドロイド!

「中の家」はまさに伝統的日本家屋だった

 桃井可堂の碑

 牧西に向かう途中の麦畑

2025年4月25日金曜日

モペットねこちゃん

「ママが訳したモペットねこちゃんが見つかったよ!」  
 2週間ほど前、姉宅で孫のピアノのレッスンに付き合った際に、姉から懐かしい小さな本を手渡された。母はとくに英語が得意なわけではなかったが、私たちが子どものころ、ときおり日本橋の丸善に行って外国の絵本を買い、そこに鉛筆で訳文を書き込んでくれていた。

  ベアトリクス・ポターのこの作品は、石井桃子訳で『モペットちゃんのおはなし』(1971年)としてよく知られる。この原書は私が幼児のころからうちにあったと思うので、母が購入したのは邦訳が出る以前のことだろうと思う。東西線の東陽町−西船橋間が開通して、日本橋や銀座に簡単に出られるようになった1969年3月ごろだろうか。

 母の訳文で読んだ絵本は、母の口調そっくりだったせいか、どれも記憶に深く残っている。レオ・レオニのLittle Blue and Little Yellowは、母訳では「あおちゃん、きいろちゃん」とジェンダーレスだった。藤田圭雄訳の『あおくんときいろちゃん』(至光社)は1967年刊なので、原書を購入した当時、邦訳が出ていることに気づかなかったのかもしれない。レオニの『フレデリック』(好学社、1969年)は谷川俊太郎訳のものがうちにあったと思う。父が訳した本も1冊あったと思うし、脳溢血で倒れた祖父がリハビリを兼ねてドイツ語から訳してくれた本もあったが、どちらも読みづらかったせいか、あまり好きではなかった。  

 鉛筆書きの訳文は、私の娘や、甥・姪たちが代々読んだためか、薄くなって読みづらくなっていたが、置き手紙などの走り書きでも、決して崩れることのなかった母の字で綴られていた。訳文を残しておくためにスキャンしてPDF化した折に読み返してみたら、原文に忠実ではないものの、癖のない、それゆえに古臭くない、読みやすい翻訳になっていた。 

 石井桃子の翻訳作品は総じて古めかしい。ブルーナの『うさこちゃんと うみ』が好きだった孫は、しゃべり始めてまもないころ、「ちいさ さこちゃん うみ いくわ〜」と、石井桃子の訳文そっくりの口調でよく真似ていた。モペットちゃんはどんなふうに訳していたのかと検索したら、福音館から2ページ分だけが公開されていた。ちょうど母が誤訳していたページでもあったので、青空文庫のおおくぼゆう訳とも比べてみた。ネット検索中、早川書房から2023年に川上未映子による新訳が出ていることも知った。訳文の比較などめったにやらないのだが、この際だから比べてみようかと、新訳を図書館から借り、福音館の石井桃子訳も先ほど姉から借りてきた。  

 原文では3ページにわたって「THIS is」という言葉が繰り返される。最初はモペットちゃんの紹介、2回目はねずみの紹介、そして3回目は再びモペットちゃんの話だが、ややくどい。そのため、石井訳は2回目まで「これは」を繰り返し、大久保訳は初回を「このこは」、2回目を「こちらは」と変化をつけ、3回目は両者とも省略している。母は初回のみ「これは」と訳し、2回目からは省略していた。川上の新訳は原文にかなり忠実に、3回目に当たるこのページも「これは」と訳していた。 

 原文には姿の見えない語り手がいて、現在形と現在完了で状況が簡潔に説明される。日本語ではお話は過去形で語られることが多いので、石井桃子と母は構わず過去形に直してしまい、大久保訳、川上訳は現在形を活かそうと試みていた。やや淡々とした原文に臨場感をもたせようと、擬音や感嘆符、「〜しまう」、擬音語止め、活動弁士風のナレーションなど、それぞれに工夫が凝らされている。だが、やり過ぎると原文の文体を損なうし、鼻にもつくうえに、訳文がやたら長くなる。あれこれ考えたうえで、私も訳してみた。結果的に母の訳とさほど変わらないものとなり、自分の言葉だと思ってきたものは、母の言葉だったのかと、いまさらながら気づかされた。 

 原文:THIS is Miss Moppet jumping just too late; she misses the Mouse and hits her own head. 

 石井訳:モペットちゃんは、ねずみにとびかかりました。でも、ちょっとおそかった! ねずみはにげてしまうし、モペットちゃんは、あたまを とだなに、こつんと ぶつけてしまいました。 

 大久保訳:モペットちゃんが とびかかるも とき すでに おそし。ねずみを とりにがし、おまけに あたまを ごつん。 

 川上訳:これは、とびかかっているモペットちゃん。でも、まにあわなくて、ねずみをのがしてしまったうえに、頭をぶつけてしまいます。 

 母訳:もぺっとちゃんは とびかかりましたが、おそすぎました。ねずみをつかまえられず、おまけに あたまをうちました。 

 拙訳:モペットちゃん、とびかかりますが、ちょっとおそすぎました。ねずみを にがしたうえに、あたまを ぶつけてしまいます。  

 公開されていたもう1つのページは、最後の「not nice of …」を母が勘違いしたところだが、全体を通して、明らかな誤訳はここだけだった。このページの原文はやや複雑な構造で、モペットちゃんの心理を語り手が間接話法で伝える中間部分の「will」の処理に、訳者はそれぞれに頭を悩ませたようだ。石井と母は、モペットちゃんの意志を、モペットちゃんの言葉で語らせることで伝える方法をとったが、大久保・川上両名は客観的な表現に変え、その結果、「だまそう」、「しかえしをしよう」という、ちょっときつい言葉になっている。モペットちゃんの言葉にしたほうが、日本の幼い読者にはよくわかると思うが、そうするとナレーションである冒頭部分とのつなぎが悪くなる。冒頭部分もモペットちゃんの言葉にした母の訳し方もありと思うが、ここは石井訳のように2文に分けるほうが賢明と思う。英語の「tease」は通常「からかう」程度がぴったりの言葉だが、猫がネズミを捕食することを考えれば、「いじめる」と訳すのは悪くないアイデアだと母の訳文を見て思った。 

原文: AND because the Mouse has teased Miss Moppet – Miss Moppet thinks she will tease the Mouse; which is not at all nice of Miss Moppet. 

 石井訳:ねずみは、さっき、モペットちゃんを からかいました。だから、こんどは、じぶんが ねずみをからかってやる——と、モペットちゃんはかんがえました。そんなことをかんがえるなんて、モペットちゃんのやりかたは、あまりかんしんできませんね。 

 大久保訳:なんと これまでだしぬかれていた モペットちゃん——とうとう じぶんから あいてを だまそうとしたのです。まったく いじわるな モペットちゃん。 

 川上訳:ねずみにからかわれたモペットちゃんは、しかえしをしようと考えているのです。でも、そんなことをするなんて、かんしんできませんね。 

 母訳:ねずみはまえに わたしのことを いじめたんだもの——こんどは わたしがねずみを いじめてやろうと もぺっとちゃんは おもいました。こうかんがえたことが しっぱいだったんですよ。 

 拙訳:そもそも、ねずみがモペットちゃんをいじめたのです。こんどはこっちがねずみをいじめてやろうと、モペットちゃんは かんがえます。そんなことは、ちっともいいことではありませんが。  

 細かいことだが、頭をぶつけたモペットちゃんがかぶる布、dusterは、ダスキンのように家具を拭いたりする雑巾も指すようだが、頭にかぶるからには、グラス磨きなどに使う布巾と考えたほうがよさそうなので、大久保・川上訳で使われていた「ふきん」が正解かなと思う。石井は「きれ」、母は「ほこりよけ」としていた。私が記憶する限りでは、母はコンサイス英和辞典のようなもの1冊しかもっていなかったので、想像力を働かすしかないこともあっただろう。 

 最後にねずみが戸棚の上で嬉しそうに踊る場面は「he is dancing a jig」となっており、母は「ジーグをおどっていました」と訳していた。ほかの訳者たちは、アイルランドやスコットランド起源のこの軽快な踊りは、幼い読者には意味が通じないと考えたのか、ただ「おどりをおどっていました!」(石井)、「たったったっと ひとおどり!」(大久保)、「のりにのって、ダンスをひろうしています」(川上)などとなっていた。英語でジグと短く発音するこの踊りは、jigueと綴るとバロック音楽舞踏形式のジーグになり、母はピアノ曲から「ジーグ」のほうは馴染みがあったので、そう訳したものと思われる。動画を検索してみると、それこそねずみが踊りそうな踊りで、私なら「小躍りしています!」と訳すかもしれない。  

 短いお話の、ごく一部を比較検討しただけだが、私たちには「モペットねこちゃん」の話だったものを、言葉を教えてくれた母の訳文で、改めて味わうことができたのは幸いだった。今日は母の2回目の命日だ。いまだに最後の日々を冷静に振り返ることはできないが、母のいない日常には慣れてきたように思う。


左:The Story of Miss Moppet原書、右:早川書房から出た川上未映子による新訳

母が書き込んでくれた訳文

2025年4月17日木曜日

万屋の日々

 また長らくブログを放置してしまった。この間、何とも多忙で、確定申告をはじめ次々に雑用をこなしていたうえに、3月後半は体調も悪かった。熱は最高でも38度前後だったが、咳がひどく、息苦しさもあったのでさすがに心配になり、近所のクリニックを受診したところ、大きな病院に回され、CTまで受けたが、結局は肺炎の治りかけとの診断で、抗生剤も処方されず、散財して終わった。  

 その間も卒園式にお墓参り、姉のリサイタルとあちこち出かけ、娘も細々とした仕事で多忙だったので、月末まで幼稚園の預かり保育のお迎えもあった。3 年間つづけたこのお迎えは、重たい電動アシスト付き自転車に乗って、急坂を上り下りしなければならないもので、雨の日や雪の日は徒歩で孫と延々と歩くことになった。それでも、具合が悪くて行けなかった日もなく、無事故のままお役御免となった。年少時にはブランコを漕ぐのもぎこちなかった孫も、年長時には帰り際によく園庭で高く漕ぎながら延々と乗るようになった。同じ時間にお迎えがきた友達と一緒に逆上がりや雲梯、登り棒なども練習した。  

 平日はほぼ毎日、何時間か一緒に過ごしてきた孫だったが、4月初めに娘一家が、文字どおり足の踏み場もなかった手狭な賃貸を離れ、同じ区内とはいえ、隣駅が最寄りとなるところへ引っ越したため、私の生活圏からは離れていった。荷造りが始まり、空になった本棚に、幼稚園の帰りがけに摘んだ花を小さなカップに入れて一心に飾っている孫を見て、胸が痛んだ。孫はショーン・タンの「エリック」になったつもりで、生まれ育った家に別れを告げていたようだった。私自身、孫の世話に追われた6年間が終わり、急に解放されたらどうなることやらと不安だった。桜が咲くころには、いなくなってしまうのだと思うと、春になるのが恨めしかった。日本人の桜にたいする特別な思いは、年度の節目となる季節と重なって美しい光景が深く記憶に刻まれ、「去年は一緒に見たのに」とか、「来年の桜は……」と考えてしまうこととも関係するかもしれない。  

 ところが、引っ越しの日が迫っているというのに、娘宅は一向に片づく様子がない。前後の数日間は、しんみりとする間もなく、荷造りやら掃除やらに追われ、合間には隠れん坊や忍者修行にも付き合わされた。小学生になっても、相変わらずのソメコぶりだ。挙句の果てに、娘からは本棚に入り切らず、床に積まれていた本を入れる本棚をつくってくれと頼まれる始末。服でも玩具でも、大半のものはそれらしきものを手作りして誤魔化しながら子育てをしたので、娘はいまだに私が何でもつくってくれると信じている。近所のホームセンターで購入した板はいったんうちのアパートに運んでもらい、格子に組むための溝を切ったり、やすりをかけたり、ドリルで穴を開けたりといった音の出る作業を仕事の合間に済ませることにした。だが、うちには電動工具は一つもなく、万力のついた作業台などももちろんない。古い鋸一本でギコギコと中腰で切ったので、数日間、腰痛に苛まれる羽目になった。二年ほど前にやはり娘に頼まれて樹洞を広げるために鑿のセットも購入していたので、今回はそれが役立った。  

 こうした肉体作業と並行して、「忠固研」の論文集のために執筆した論文とコラムの初校という、頭の痛い作業もあった。割り当てられた字数ぎりぎりで原稿を提出していたのに、多数の修正を求められ、そのたびに文字数をちまちまと数え、あっちを削って、こっちを足しての繰り返しとなった。 

 第50回を迎えた赤松小三郎研究会で短い発表をすることにもなっていたため、忘れかけていた参考文献を読み直してレジュメを作成し、さらに当日のためのパワーポイントのスライドもつくらねばならなかった。この時期、十分な時間が取れないことは最初からわかっていたので、発表のほうは簡単に絵図の紹介で終わらせるつもりだった。ところが、いざ調べ直すと、以前に生麦事件の謎解きに取り組んだときのことが甦り、事件発生時ですら人はそれぞれの立場でまるで異なった証言をすることや、時代とともに話が書き手の都合に合わせてどんどん変化し、「藪の中」状態になっている面白さに夢中になり、どんどん深入りしてしまった。そのため、毎度のことなのだが、早口で発表時間の枠を目一杯使うことにはなったし、先に提出してあったレジュメの間違いがあちこちで見つかったが、何かしら新しい視点は提示できたと思う。長年、先祖探しでお世話になってきたこの研究会に、多少なりとも恩義がはたせたのであれば嬉しい。  

 この発表後は、ほとんど手をつけられていなかったリーディングの仕事を突貫工事で終えなければならなかった。さほど厚い本ではなく、私のよく知る分野も含まれていたので、楽勝に違いないと踏んだのが間違いのもとだった。物理が苦手は私は、自分の想像を超える宇宙空間での目に見えない運動の力について説明されたりすると、頭がフリーズする。前回の物理の本は、ありがたいことに宇宙物理を専攻した娘の夫が、コロナ以来、うちのアパートで「在宅勤務」していたので、気軽にその都度、質問することができたのだが、これからはそうもいかない。もしこの企画がめでたく通ったら、また孫と一緒にブランコを漕いでその力学を体感しながら、一度しっかり基礎を勉強し直そう。 

 幸い、娘の夫は何を思ったのか、引っ越しに際して誰にも相談することなく折りたたみ式の軽めの電動アシスト付き自転車を買い、それを私に貸与してくれた。娘一家の新居まで公共の交通機関で行こうと思えば、電車とバスを乗り継がなければならず、往復で八〇〇円近くかかる。私はグーグルマップのルート検索でいちばん起伏のないルートを探して、自分のママチャリで通う気満々だったのだが、この文明の利器をありがたく利用させていただくことにした。自由にどこにでも行ける自転車は私のいちばん好きな乗り物なので、真夏と大雨のとき以外は、あと数年はこれに乗って足繁く通うことにしよう。 

 孫は知り合いが一人もいなかった新しい学校で、初日から数人の同級生に声をかけ、先生から紙までもらって、その先生の似顔絵を描いたらしい。先日、本棚を組み立てに行った折には、その先生に引率されて、友達と手をつなぎながら、楽しげに集団下校してきた。夕方には、近隣の大きな自然公園までの道をすでに覚えていた孫の先導で、自転車を2台連ねてちょっとしたサイクリングもした。板を買った際にホームセンターで見つけた小さな魚獲り網を背中のリュックに入れて、上り坂を懸命に漕ぐ孫は、先日、その網でドジョウをすくったらしい。ドタバタで始まった娘一家の新生活だが、少しずつ新しい環境に適応しているようだった。 

 この間、本業のほうは幸いにも(?)ゲラ待ち状態がつづき、しかも、ありがたいことに次の仕事も決まり、速攻で原稿が送られてきた。まだ月末にオンラインの研究会で発表するために、レジュメを作成し直さなければならないが、先月からつづいたドタバタの万屋の日々はそろそろ一段落して、もとの平穏な翻訳業に戻ることになる。 

 今後はおそらく週一くらいのペースで娘宅に通うほか、姉宅での孫のピアノのレッスンに付き合うことになると思うが、それも低学年のうちだろう。小学校4年にもなれば、友達優先になり、親とだってあまり外出したがらなくなる。婆さんの出る幕はさらにないだろう。よちよち歩きだったころ一緒に遊んだ公園や、ストライダーの練習をした尾根道、バドミントンで遊んだ駐車場などを見るたびに寂しくはなるが、遠隔地や外国に引っ越したわけでもなく、まして事故や病気や戦争でもう二度と会えないわけでもない。すべてのことは移ろい、変化する。ようやく少しばかり自由な時間ができるのであり、自分にあとどれだけ時間が残されているのかもわからない。やり残していることを、元気なうちに一つずつ片づけていこう。

孫の「エリック」遊び。このあと春夏秋冬を再現していた

幼稚園の帰りに立ち寄った秘密の小道で、思いがけず見た満開のエドヒガンと思われる大木

久々の大工仕事で、これまでになく大きな本棚をつくった

愛用の魚獲り網で獲物を探す孫

2025年3月15日土曜日

サザエさんの家完成!

 先週の土曜日、残っていた最後数章分の見直しを終えて、本当にようやく訳了となった。締め切りをオーバーすること一週間あまり。原書はほぼ500ページあり、見直し作業は目を酷使するので、湿布を貼り、目薬を射しまくっての作業となった。終わったあとも解放されず、まったくの手付かず状態だった確定申告が待っていた。  

 このストレスフルな数か月間を何とか乗り切れたのは、隙間時間につくりつづけた紙工作の極小サザエさんの家のおかげかもしれない。逃避行動でしかなく、ただの遊びで始めたのだが、気づけば子ども部屋やサザエさん夫婦の部屋、玄関まで出来上がり、こうなったら最後まで頑張ろうと風呂、トイレも仕上げた。自分でもよくやるよと、呆れている。  

 家だけではサイズ感もわからないし、臨場感が出ないと思い、サザエさん一家の人形をあれこれ探してみた。ネットオークションにはまだ古い人形が売られていたが、どれもピンとこなかった。考えた末に、私のミニチュア家屋にぴったりサイズの紙の人形を、レターパックの封筒の白い部分を張り合わせてつくることにした。足元のスタンドを畳と同色にしたので、さほど目立たずに部屋のなかに立つことができる。うちにあるセタカラーを適当に塗ったため、マスオさんの顔の半面はやたら赤ら顔になってしまった。もう一方の面はまずまずだったので、よしとしたところ、孫はすぐさま裏面に気づいて、「あっ、こっちはお酒飲んでる!」と嬉しそうだった。人形をつくったあとで、「推し活」の新聞記事を読み、アクスタなるものの存在を知り、私の人形はまさにそれだとおかしくなった。アクスタは、推しの対象の二次元画像を使ったアクリルスタンドのことで、それを持参して推し仲間とともに集まって飲んだりするのだとか。  

 家をつくる過程で参考にさせてもらったネット上の平面図や俯瞰図、イラスト、模型などは、いずれも原作の漫画ではなく、テレビのアニメを根拠としているようだった。ドラマにするに当たって、辻褄が合うように制作側が新たに引いた図面だろうか。原作は1951年から断続的に1974年までに書かれており、少なくともその後半は私の子ども時代の記憶と重なる。正面に高い棚がある勉強机は、子どものころにはまず見たことがなかったし、台所も昭和末期以降のシステム・キッチンに近い。うちにあった原作漫画では、子どもたちは寺子屋机のようなものに座っていることも多く、台所には湯沸かし器もなかった。 

 ネット情報では、お風呂はタイル張りの長方形の大きな湯船に見えたので、壁と床をトルコ石色の包装紙の残りで「タイル張り」にしたあと、同じ包装紙のラピスラズリ色の部分を使って大きな浴槽をつくった。何やらトプカプ宮殿のようになった風呂場を見せたら、漫画を熟読している孫に「木のお風呂は?」と聞かれてしまった。ワカメちゃんが風呂掃除をしている場面に描かれていた「風呂桶」は、私が生まれ育った高根台団地にあったものとそっくりで、そのことを得意になって説明してやっていたのだった。  

 正確な名称はわからなかったが、江戸時代の鉄砲風呂を薪からガスに換えた風呂だったと思われ、少なくとも昭和30、40年代には間違いなく使われていた。風呂桶の端が仕切られていて、そのなかに火を焚いて加熱させる鉄製の筒があって湯を沸かす仕組みだった。鉄の筒の周囲にも当然ながらお湯があった。画像を見ているうちに、その上部の小さな蓋を取ってなかのお湯を最後に掛け湯として使っていたことや、私たち幼児が風呂椅子に乗って出入りしたため、風呂桶の前面が一部ひどく腐食していたことや、風呂桶全体用の大きな蓋をガラス戸の前に立てて隙間風を防いでいたこと、夏はまだ明るいうちに窓を開けっぱなしのまま入っていたことなどが、懐かしく思いだされた。ステンレス製の風呂に替わったときは、鍋に入っているようで落ち着かなかった。そんなわけで、ラピスラズリの石棺のような湯船の代わりに、昭和の鉄砲風呂をつくり、ついでにスノコもこしらえた。  

 トイレはよい画像が見つからなかったが、どうやら和式らしく、しかも部屋の中央に何やら不思議な線が描かれているものがあった。これは一段高くなった和式トイレではないかと思い当たり、ひょっとして汲み取り式で、下に便槽があるために高くなっていたのか!と、遅まきながら気づいた。私が住んでいた団地のトイレは水洗だったが、祖父母の長野の家は確かこんな汲み取り式で、黒ちりと呼ばれたちり紙を使っていた。私のミニチュアでは、悩んだ末に結局ロール式のトイレットペーパーを採用した。このポットントイレは、どういうわけか床の間のすぐ隣に位置しており、他人事ながら気になった。  

 サザエさんの家の玄関はガラス格子戸だ。「格子戸をくぐり抜け、見上げる夕焼けの空に〜」と歌われたころも、すでに少数派だったように思うが、最近では絶滅危惧種になっている。気になって近所を歩くたびに、つい人の家の玄関を見てしまうのだが、確認できた限りではいわゆる昔ながらの格子戸は5、6軒にしかなく、そのうちの2軒は廃屋で、うち1軒は翌日には解体されてドアが外されていた。格子戸は防犯上も断熱効果からも、好ましくないのだろう。 

 もっとも、玄関は表の顔なので、アイデンティティの問題とも多少かかわるのかもしれない。新しくできた家は錬鉄製の金具などがついた洒落た洋風のドアの家が多い。スペイン風、北欧風、イギリス風、コロニアル風など、さまざまな洋風家屋を眺めていると、横浜にはいまだに幕末の居留地の影響があるのかと複雑な思いがする。子どものころに和風の人形の家で遊ぶ経験がないから、洋風を刷り込まれてしまうのか。そう考えて検索してみたら、チビまる子ちゃんの家という玩具は何種類かあったようだが、どれも色遣いが日本家屋とは言い難いものだった。トトロの映画に出てくるような家はないのかと思ったら、なんと、「みんなの草壁家」という精巧なセットが昨年夏に売りだされていた! が、その値段が……。 

 サザエさん宅は開口部の多さでも際立っている。中央部分にガラスが入った額入り障子は、明治期に徳川家勝が上田藩瓦町藩邸の跡地に建てた屋敷にも使われていたし、昨年、見学させていただいた別所温泉の産業遺構でも使われていた。通常は、寒い日や雨天の場合は雨戸を閉め切って、暗いなかで照明を使って過ごしたのだと思われる。サザエさん宅では障子の向こうに縁側があり、そこにガラス戸があってさらに雨戸がある。 明治になってガラスが普及し始めたことで、障子はどんどん窓ガラスに替わっていったのだろうが、透明なガラスだと、隣家や通りが目の前にある日本の都市部では家のなかが丸見えになる。昭和の型ガラスの流行は、明かり取りや換気のために開口部はできる限り設けたい、ただし目隠しは必要という需要に見合ったものだったに違いない。私のミニチュアでは、カーテンのない小窓から覗けないように、湿布についていた凹凸のあるフィルムやトレーシングペーパーをガラス代わりに使ってみた。レースのカーテン、遮光カーテン、ブラインドなどが普及し、そのうち開口部そのものが減ったことで、凝った型ガラスも風前の灯火となっているようだ。 

 逃避行動とはいえ、サザエさんの家のミニチュアをつくることで、懐かしい思い出に浸るとともに、私の生きてきた時代の変遷を改めて感じることができた。「またそんな物つくって。暇だねえ」と、いまでも言われてしまうが、非実用的で、経済活動とは無縁の工作物にも、お金には換算できない価値がある。少し前に、あり合わせのもので創意工夫を凝らすブリコラージュ(bricolage)の大切さを語る本もリーディングしたところだ。制作費は180円ほどのコニシボンドを追加で購入した以外は、ゼロ円で済んだ。組み立て式にしたので、まだA4サイズのダンボールに全体が収まる。

左側にあるのが額入り障子。通常の障子をつくったあとで、わざわざつくり直した。
われながら傑作だと思っているお風呂。脱衣場にある洗濯機は二槽式にしたが、絞り機がついたものや、脱水機が別の時代なのかもしれない。

トイレは小さすぎてうまく撮影できないので、制作途中のもの。
やたら立派になってしまった玄関。少しでも屋根をつけたかったので、昨日付け足してみた(3月18日差し替え)。アニメの指定は青い瓦だが。鬼瓦は多少意識してサザエさん風。

小窓には湿布のフィルムが貼ってある。

 居間

本棚がなぜか子ども部屋にしかなさそうだ。

台所。三種の神器は揃えたが、冷蔵庫が大きすぎた気がする。

サザエさん夫婦の部屋。箪笥二棹はまだつくっていない。三面鏡は子どものころよく座って遊んでいたので、思い出深い。

こたつは欲しいと思い、仏間とされる部屋に入れてみた。

 全体図

2025年2月21日金曜日

雛人形考

 昨秋、娘に教えられて読んだルーマー・ゴッデンの未邦訳の児童書の続編『Little Plum』に、マッチ棒で雛人形をつくり、ケーキでつくった雛壇に挿して飾るという突飛なエピソードがあった。挿絵の人形は雛人形にはまるで見えなかったし、そもそもマッチも見なくなって久しく、わざわざ買って試してみる気にはならなかった。それでも、この話は頭の片隅に残り、年末にたまたまネット上で多面体のウッドビーズの画像を見た途端、爪楊枝とウッドビーズを組み合わせてはどうかとひらめいた。  

   ケーキの雛壇というアイデアは採用せず、うちにあった端材でまずは組み立て式の極小の雛壇をつくった。各段に小さな穴を開け、楊枝の雛人形をそこに挿せるようにした。ウッドビーズを2、3個の通した楊枝はまるで串刺しした銀杏のようだったが、雪洞や桜、橘にいたるまで、すべてウッドビーズや木材を組み合わせることで、一応それらしいものができあがった。 

   小さな階まで備えた豆雛壇飾りを眺めながら、これぞヒエラルキー、序列の最たるものだなと苦笑してしまった。何しろ、ずっと平等に関する本を訳しており、序列についていろいろ考えさせられた挙句に、夜な夜な階段をつくっていたのだ。  

   今回の豆雛では、衣装はすべてただ色で塗り分けることにした。男雛と右大臣、左大臣がいわゆる着物ではなく束帯を着ていることは、その昔、娘に2セット目のお雛様をつくった際にようやく気づいたことだった。見慣れないその衣装は何やら昔の中国皇帝の袍のようで、違和感を覚えたものだった。袍との大きな違いは振袖のような長い袖だ。 

   じつは年末に、公家のことを揶揄して「長袖」と呼んでいた理由を調べていた。武士は袖の周囲に紐を通した「袖括り」で邪魔な袖を絞っていたのにたいし、公家や僧侶はそのままにしていたためという。ただし、徳川慶喜が大坂城で束帯を着ている姿をワーグマンが描いているので、武家でも正装は束帯だったのかもしれない。 

   パークス一行が謁見した際のこの大坂城のイラストでは、裾が踵よりもはるかに長い「長袴」を着ている武士もかなりいる。幕末に来日した外国人が長袴姿の役人を見て、立膝で進んでいるのだと勘違いした話をどこかで読んだ覚えがある。背の低い人であったとすれば、なおさらそう見えただろう。御殿の床を拭き掃除するようなこの袴は、明治維新ともに廃れたに違いない。ワーグマンは横浜で鉄道が開通した折の明治天皇と新政府のお歴々も描いている。天皇だけ束帯姿だが、袴は指貫とか狩袴と呼ばれるハーレムパンツのようなものを着用し、浅沓と思われるものを履いている。 

   豆雛をつくり終えてから気づいたのだが、束帯の背中部分には、用途不明の石帯という瑪瑙などの石を取りつけた革のベルトが本来ついているらしい。母の初節句に曽祖父が贈った昭和初めの内裏雛で確認してみたら、石こそないが、黒い革の帯を締めていた。唐代や明代の袍では、これとよく似た石付きベルトが腹側に締められている。 ネット上でざっと調べた限りだが、石帯はもともと金属製の帯だったらしい。奈良の大塚陵墓参考地や新山古墳から出土した帯金具のようなものだ。魏晋南北朝や鮮卑関連の出土品とよく似るもので、それが帯、つまりベルトであることが私の興味を大いに掻き立てる。というのも、D・アンソニーの『馬・車輪・言語』(筑摩書房)をはじめとするいくつかの文献に、コリオスなどと呼ばれた裸体にベルトだけを締めたような若者の襲撃団のことが書かれていたからだ。騎馬民族のあいだでベルトは大きな意味をもつものだった。その風習が鮮卑を通じて遠い日本まで伝わり、平安時代に背中側のひそかなファッションになったのでは、というのが私の想像だ。 

 母の女雛も、曽祖父が伯母に贈った段飾りの女雛も、享保雛のように垂飾がゆらゆらとする明代の妃のような宝冠をかぶっている。以前に慕容との関連で記事を書いたことがあるが、石帯というもう一つのヒントを得たいま、またぞろ古代史への興味が湧いてきた。女雛に関しては、腰から背後に裳という薄衣がついていることも新たに知った。「裳を引く」という言葉があるように、要は西洋のドレスのトレインに似たもので、よく言えば天女の足元を隠す羽衣なのかもしれないが、これも宮中の床掃除をするものだったに違いない。  

 雛人形にはそれぞれ特有の持ち物がある。下段にいる五人囃子の太鼓や左右の大臣の矢筒などは、御道具のお膳やタンスとともに、子どものころ触って遊んだためによく知っていた。今回も矢筒はアイスクリームの棒を小さく切り、そこに矢を描いてビーズに貼りつけてみた。だが、考えてみれば、太政大臣や関白のいない時代には公家の最上位にいたはずの両大臣が、なぜ門番のように武装して立っているのかは謎だ。昇殿の際は、城内と同様、帯刀は許されなかったはずで、男雛が刀を差しているのも余計な気がする。  

 雛人形には立っている人と座っている人がいるが、座っている人形は少なくとも男性はみな胡座をかいている。正座を求められるようになったのは徳川家光以降という説がネット上には散見され、打袴を穿いている女雛と三人官女も、あまり両脚をぴったりつけているようには見えない。座り方の風習に関しては、暇になったらもう少し調べてみよう。  

 じつは豆雛をつくる前に、ゴッデンのもう一冊の日本人形の本『Miss Happiness and Miss Flower』も読んでおり、それをきっかけに小さな日本人形をつくったことは以前にも書いたとおりだ。邦訳出版してみたいと何社かに企画をもちかけてみたのだが、いまのところ成功していない。だいぶ古い作品ながら、先行き不透明で、欧米という指針を失ったようないまの時代にこそ読む価値があると思うのだが、どこかで拾ってもらえないだろうか。 

 この本では非常に小さな市松人形と思われる日本人形が石膏にガラスの目を埋め込んであると説明されていた。今回、いくつか雛人形の制作工程を調べたところ、どうやら正しくは桐塑胡粉技法と呼ばれるらしい。桐のおがくずと膠を混ぜたものでつくった原型に、胡粉と膠を混ぜたさまざまな濃度の液体を何度も塗り重ねるという、気の遠くなるような工程を経ている。目を埋め込んだ箇所を彫刻刀で切って「開眼」させる工程は、恐ろしいがなかなかの見ものだ。胡粉や膠は素人には手に負えないので、私は石膏粘土に3ミリほどのアイオライトのビーズを埋め込んで、小さな日本人形をつくってみたが、柔らかい状態ではうまく切れず、「人形は顔が命」という宣伝文句が耳にこだました。  

 母の雛人形は座高が10センチ前後の小さいもので、今回しげしげと眺めてみたが、老眼では目のつくりまで見えない。接写して画面で拡大してみたところ、確かに小さなガラスの目が入っているのがわかった。こんな小さい顔を精巧につくった職人技に感嘆する。宝冠の飾りは取れかけてしまっていたので、家にあった細い銅線と石のビーズで数箇所だけ修復してみた。背後には屏風の代わりに几帳があり、鳳凰と桐が描かれているが、五三でも五七でもなかった。衣装はとくに凝ってはおらず、パルメット起源と言われる忍冬唐草文の織物が使われていた。父親の赴任で朝鮮咸鏡南道の興南で生まれ、おそらく翌年初めに帰国した2番目の孫娘に、「祝 祖父 山口乕雄 門倉洵子殿 昭和十一年二月吉日」と箱書きして贈ってくれた曽祖父は、どんな思いでこの内裏雛を選んだのだろうか。  

 今回、私が爪楊枝とビーズでつくった豆雛も、毛先の割れた細筆と老眼ゆえにどれも妙な顔立ちになってしまったが、小さな紙箱にすべて収まるため、娘は一目見るなり「欲しい! 顔を描き直すよ!」と言いだした。ついでにこしらえたピアス金具付きのお雛様だけは、先日ようやく色をつけて、今年の雛祭りに間に合わせたようだが、残りは来年回しとなりそうだ。いつか完成したら、写真を追加することにしよう。

爪楊枝とビーズの豆雛と、雛祭りをする人形たち

豆雛の段飾りは、この小さな箱に収まる

母がもっていた男雛の背面。石こそ付いていないが、黒い革の帯がある。笏は紛失してしまい、私が昔アイスクリーム棒を削ってつくったものをもっている

女雛のアップ。ガラスの目であることがわかる

飾る場所もないので、人形たちは返品されてきた自費出版本の段ボールの上に載せられている。左側の押絵は90年以上前のもの。鋏箱の上に乗る小さな内裏雛は、私の2セット目の布製雛。御道具類はヤフオクで数年前に購入したもの

娘が絵付けをしたピアス雛。背面にはちゃんと石帯と裳が描かれている

2025年2月1日土曜日

ストレス解消

 予定より一か月遅れでようやく本文は訳し終えたものの、これから見直しと訳語の統一をやらねばならない。A4にして54ページもあることが判明した巻末の原註はこれからで、まだまだ先は長い。それでも、一昨年から並行して書いていた「忠固研」のための論文を先日、曲がりなりにも入稿できたこともあり、諸々の峠は越したかな、と思う。 

 とはいえ、この間のストレスはかなりあり、肋間神経痛かと思うような痛みがあったり、めまいがしたり、歯を強く噛み締めていたりと、黄色信号が出ているのが自分でもよくわかった。隙間時間に寸暇を惜しんで参考文献に目を通せば、仕事も効率よく進むだろうし、多くのことを学べるとは思うのだが、疲れ気味のためつい逃避行動に走ってしまう。何度か書いているが、私の場合、それは往々にしてしょうもない工作物をつくることになる。今回のそれは、たまたまネット上で目にしたサザエさんの家の間取り図がきっかけだった。  

 年末にもちらりと書いたが、私の孫はこのところやたらサザエさんにはまり、日常のさまざまな場面で、サザエさんのセリフを口にしている。自転車のチャイルドシートのベルトが冬物の上着のせいでうまく締まらないと、「フッ、フッ、ベルトの穴一つで寿命が5年違うと言うじゃないか」など、ふざけたセリフが大半だが、「秋深し隣は何をする人ぞ」という芭蕉の句も、カツオ君のそれをもじったセリフ(何を着る人ぞ)からしっかり覚えていた。これはワカメちゃんが寒くて寝ぼけ眼で布団の上に足拭きマットを掛けて寝る場面からだが、その柄が自宅のトイレ・マットとそっくりであるため、強く印象に残ったらしい。 

 先日、孫は遊びに夢中でトイレが間に合わず、母親(私の娘)から先を考えて行動しなさいと説教されていた。その直後に娘が「ご飯炊くのを忘れた!」と叫ぶと、六歳児がすかさず「お言葉を返すようですが」と言ったのだ。一瞬の沈黙ののち、娘と私は大爆笑。孫は得意げににんまりとしていた。これは夏休みの宿題を終わらせていないカツオ君を叱るサザエさんに、彼女自身の三日坊主の日記数冊をカツオ君が突き返す漫画で覚えた言い回しだった。 

 何かとサザエさんを検索していたせいか、先月なかば、フェイスブックにサザエさん宅の俯瞰図が現われたのだ。世田谷区桜新町という設定の、かなり広いその平屋の画像をダウンロードし、孫に見せてやろうと眺めているうちに、考えてみれば孫は畳も障子も襖もない家に生まれ育ったなと思い当たった。四畳半だの六畳だのという言葉が死語になる日も、そう遠くはないのかもしれない。私自身、床間や違い棚は、旅館や保存された日本家屋でしか知らない。

「木材で手軽に建て、ガラスの代わりに紙を張った日本の家屋は、焼けるのに手間はかからない」と、幕末の日本に滞在したアーネスト・サトウが横浜の大火の折に書いたように、日本人は長らく木と紙と、若干の漆喰を使って家を建てていた。襖や障子で仕切られただけの空間は、音は筒抜けで、プライバシーもへったくれもないが、間取りは人数に合わせて自由に変えられ、風通しはやたらによく、陽光も取り入れられ、悪い面ばかりではない。縁側、玄関、勝手口の段差は、日本家屋が思いの外、高床に建てられてきたことを再認識させる。 

 うちの近所にも、いかにも昭和の家という感じの平屋が何軒もあったし、旧東海道沿いには昭和の初めごろの建築と思われるお屋敷もちらほらあったが、この十数年間で世代交代してどんどん建て替えられてしまった。最近は気密性を高くするためか、窓がほとんどない家もよく見かける。  

 実際に見ることが難しくなってきた昭和の家の造りを、せめて紙模型で孫に見せてやれたらと思いつき、手始めに2×4センチの小さな紙の畳をたくさんこしらえ、同じサイズで襖をつくった。敷居と鴨居は悩んだ末に、やはり厚紙を細く切ったものを3本貼りつけてみたところ、一応、スライドできることがわかった。雨戸までつくる元気はなかったが、縁側にはOPP袋でガラス戸もつくった。サザエさんの家は物置、トイレ、勝手口以外は、すべて引き戸だ。押し入れには布団を入れ、仏壇、掛け軸、雨戸の戸袋はつくった。木の雨戸のある家も減ってきているが、戸袋に巣をつくるムクドリやハッカチョウが穴から出入りするところは、孫と何度か眺めたことがあったので、戸袋は必須アイテムだった。全部つくるかどうかは不明だが、襖で仕切られた「田の字型の間取り」四部屋は完成させようかと思っている。 

 こんな調子で工作している限りは、体の不調も感じないので、ストレスはまさしく万病の元と思う。紙の模型に使用する材料はゲラが入ってきた大きな厚紙封筒や、レゴのパーツが入ってきたパッケージ(大量にある)、それに娘が長年、溜め込んだ包装紙等なので、制作費はゼロ円だ。常備しているコニシの木工ボンドだけは、少なくなってきたので買い足したが。狭い家のなかで場所をとるのは困るので、パーツごとにつくって自由に並べる方式にしたので、全体がいまのところA4サイズのネコポス用ダンボールのなかに収まる。 

 こんな妙なことを思いつくのは私くらいだろうと思ったら、サザエさん宅は人気があるらしく、本格的な模型がいくつも制作されていることを知って大いに笑った。最初に見つけた俯瞰図以外の間取りも複数あり、論文のようなものすら見つかった。まあ、それだけ昭和が遠くなり、ミニチュアで再現しなければならないものになったのかもしれない。

 縁側から見た図

奥が仏間。押し入れもあるので、そこが波平・フネさんの部屋ではないかと、ひそかに思っている。

奥が床間。そちらが老夫婦の部屋と見取り図はどれも書くが、客間ではないのかと思う。

一昨年にタイの友人たちと行った佐倉の旧堀田邸(明治23年築)。床間横の違い棚の上は天袋、下に収納場所があるものは地袋というようだ。そこに季節ごとの掛け軸や、花器などを収納しておくのだろう。それだけのために、かなりのスペースが割かれていたことになる。

2024年12月31日火曜日

2025年元旦に

 2025年は戦後80年、昭和で数えれば100年の節目の年だという。時代が大きく変わりそうな気配がする。  

 大晦日の昨夜は、昨年と同じ近所のお寺まで娘一家とともに除夜の鐘を撞きに行った。6歳の孫はちゃんと昼寝をして夜に備え、帰宅したのは1時半ごろだったのに、往復とも夜道を元気に歩いた。昨年はコロナ禍の名残だったのか、缶入りの甘酒が振る舞われていたが、今年はちゃんとお鍋で煮たもので、娘の絵本『じょやのかね』そっくりに、「あついから きをつけてね」と孫はお寺の方から声をかけられ、「あまざけの ゆげで ほっぺた」を温かくしながら飲んでいた。近所の人たちは三々五々に集まり、こじんまりとした和やかな雰囲気のなか交代で鐘を撞いていた。108個用意されていたと思われる銀杏は、参拝客の波が途絶えたあとも、まだいくらか残っていた。 

 娘と孫が長々とスケッチを始めてしばらく経ったころ、本堂で読経が始まった。しばらくは銅鑼を叩きながらの読経だったが、そのうち二人の僧侶が蛇腹折りされたお経を高く掲げながら、右から左へ、左から右へ大きくパラパラと動かしながら大声でお経を唱え始めた。初めてみる光景に孫は釘づけになり、お賽銭箱に貼りつくようにしながらその様子をスケッチしていた。臨済宗の転読というお経らしい。ときおり聞こえる短い叫び声は「喝」だったのかもしれない。帰りがけに見せてもらったら、えらくよく描けていた。出がけに、除夜の鐘の場面を描いたコラージュ作品を「全部、糊だよ」と得意そうに言いながらプレゼントしてくれたのだが、それもじつに上手だった。小学校に上がる年齢というのは、子どもが大きく成長するときであるようだ。 

 昨夜は就寝したのが遅かったので、面倒だなあと思いつつ、今朝は早起きして頑張って近所の公園まで初日の出を見に行った。昨秋、この公園を平たく改造する計画がもち上がり、反対したこともあって、高台からの初日の出を拝んでおかねばと思ったからだ。途中、犬の散歩をする人などがちらほらいて、元日の早朝にしては人が多いなと思ったら、どうやらみんな同じ公園を目指しているらしい。頂上に着いてみたらすでに数十人が南東を向いて待っていた。親子連れ、老夫婦、中高生、若者など、まさしく老若男女と犬たち。最終的にはおそらく80人くらいはいたと思う。この景観を守った一人として、初日の出以上に心を強く動かされる光景だった。 

 公園を出たところで、若いお兄さんが落ちているゴミを拾い上げていた。思わず「ありがとう!」と、声をかけたが、ふと見ると、道路上にファストフードのゴミが点在している。一緒に拾い始めると、「僕、もって帰りますよ」とまで言ってくれたが、自分の分は家までもち帰った。暗いニュースばかりがつづくが、世の中まだまだ捨てたものではない。  

 暮れに、黒豆、きんとん、松前漬だけはつくり、いくらかお節料理を用意はしていたが、朝は面倒なのでいつものトーストにしながら新聞(毎日)を広げたら、デジタル技術を活かして市民が自由にネット上で意見交換できる直接民主主義の方向へ、一歩踏みだす試みが始まっているという一面のトップ記事が飛び込んできた。ちょうどいま民主主義に関連したテーマの本を訳しており、昨秋は公園絡みで横浜市の「市民からの提案」を利用したばかりでもあったので、興味深く読んだ。  

 私自身にとっても節目の年となりそうな本年、これまで以上に健康に留意して、いましかできないことを一つひとつこなしていきたい。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 孫からのプレゼント! 

 近所のお寺で除夜の鐘の順番待ち

 甘酒をいただく

 近所の公園で初日の出を待つ人たち

 公園から見える富士山とカラス

昨年、ひそかな願望を託してつくりつづけた人形たち。障子は真っ先につくってみた一つだったが、ようやく掛け軸(タンチョウは娘の絵を借用)と座布団をつくったら、やはり畳も欲しいと思い、年末になってボロボロのゴザ座布団を壊してつくり、ついでに花器も粘土でこしらえた。