15年ぶりに、泊まりがけの登山に行ってきた。娘が6歳で初めて登った本格的な山である八ヶ岳の編笠山に、5歳の孫を連れて1泊2日で行ってきたのだ。娘が子どものころの登山にはいつも母が同行してくれ、食材等を背負って登り、調理の大半を手際よくこなしてくれた。今回はそれが私の役目となり、母が使っていたリュックを背負って登った。
私はふだん運動らしきことをほとんどせず、中学以来の腰痛もちであるうえに、膝の調子も万全ではなかった。鳳凰三山の縦走時に膝を故障してみんなに迷惑をかけた苦い経験が、山から足が遠のいた原因だったので、直前に膝用のテーピングも注文したのだが配送の遅れで届かず、結局、YouTubeで見つけた膝のストレッチ体操だけを頼りに出発することになった。
今回、娘が担いでくれたテントは、まだ秋葉原で会社勤めをしていたころ、昼休みに抜けだしてニッピンで店員の勧めに乗せられて購入した3kg強の軽量の同店オリジナルの製品だった。記憶が不確かなのだが、最初に編笠に登った1994年は麓の泉郷あたりに前泊して日帰りで行ったため、薄暗い森のなかをヘンゼルとグレーテルさながらに下山するはめになり、疲労困憊して駐車場(たぶん観音平口)にたどり着いたところにソフトクリームのスタンドがあり、それを食べたことだけはやけに鮮明に覚えている。
初めてテントで寝たのはその翌年のようだ。これまた無謀な計画を立てて権現から赤岳まで登るつもりが、途中で道に迷って藪漕ぎをしてどうにか前年と同じ登山道に出て青年小屋で張らせてもらったのだ。その同じテントを押し入れから引っ張りだしてみたところ、縫い目を覆うシーリングは剥がれかけていたが、生地そのものの状態はよく、加水分解しているようには見えず、ネット情報を頼りに自分でアイロンを使って張り替えてみたのだ。
秋葉原のニッピンが撤退したのは風の頼りに聞いていたが、神田店もコロナ禍とともに閉店しいたことを今回初めて知った。しかも、ニッピンのテントと検索してみるうちに、うちのはメスナーテントと呼ばれるもので、1978年にラインホルト・メスナーがペーター・ハベラーとともに人類初のエベレスト無酸素登頂を達成した際に携行したものだったことを古いブログ記事などから知った。ニッピンの社長がミュンヘンのIPSOスポーツ見本市でメスナーと意気投合して、軽量で簡単に設営できるドライエッケンシステム(ポールと本体をロープで巻きつけるもの)のテントを開発したのだそうだ。
この先、どれだけ山に登るかどうかもわからないので、今回とりあえずトレッキングシューズだけは購入し、その他ウォータージャグ、銀マット、ガスバーナー用のガスを買う程度で、あとは古い登山グッズを掻き集めて出かけた。とにかく天候がよく、みんなの体調が許せるレベルで、予定の入っていない週末となると、選択肢はほとんどない。「明日行くよ〜」というメールが娘からきた翌日午後、娘一家は車で一足先に出発し、私は土曜の朝、小淵沢駅で落ち合うために、えきねっとで残っていたおそらく唯一のグリーン席を購入した。全席指定の臨時列車だったので、快適なシートで2時間ちょっと身体を休められたのはよかった。
孫はふだんから自然公園などはよく歩いているし、低山には何度か登っているが、本格的な登山は今回が初めてだった。自分の寝袋と水、若干の食料など1.5kgほどの荷物を背負っているので、途中でダメになったら引き返すという前提で登り始めた。しかし、得てして子どもは身が軽いため登りは得意で、途中あちこちで鳥や花を見つけるたびに立ち止まっていた割には、地図に記されているコースタイムをいくらかオーバーする程度の速さで昼過ぎには青年小屋にたどり着いた。道中、行き合う人たちから口々に、「えらいねえ、何年生?」などと聞かれるたびに、「何年生でもないの。5歳」と得意げに答えており、到着した際には、小屋前でくつろいでいた人たちから拍手で迎えられていた。実際、今回の山行では子どもどころか、10代の姿すらほとんど見かけることがなかった。
青年小屋のテント場は所狭しと40近いテントが張られていて、まるで行者小屋のようだった。山に行く話が本格化し始めたこの一か月ほど、孫のお気に入りの遊びは「キャンプごっこ」だったので、テントを建てる作業も嬉々として手伝い、なかに入ると早速、寝袋を広げて寝転がり、「一緒におしゃべりしようよ〜」と誘われて参った。「乙女の水」という水場に水を汲みに行くごっこ遊びも、家でさんざんやっていたので、ウォータージャグに水を汲む作業も自分がやると言って聞かなかった。孫はどうやら「乙女の水」は、きれいなお姉さんがいる神秘の場所と思っていたようだったが。
事前に使えるかどうか確かめてみてはいたのだが、ガスバーナーが着火しなかったのは今回の失敗の一つだった。小屋からチャッカマンを借りて点火してから、コーヒーのためのお湯を沸かし、ご飯を炊き、レトルトカレー用を温める作業をつづけることで事なきを得たが、ライターでも持参すればよかった。水に浸す時間が足りず、お米は若干芯が残ってしまったが、食べられる程度には炊け、カレーを温めているあいだに、半分は翌日の昼食用おにぎりにした。孫はおにぎりも自分で握ると言って聞かず、その挙句に出来上がったおにぎりを地面に落として怒られるはめに。そんなドタバタがキャンプ場中に笑いを提供していたらしく、一つしかないトイレを待っているあいだも「ご飯炊いていましたよね」と声をかけられてしまった。
考えてみれば、うちのように煮炊きしている人はあまりおらず、最近は調理不要のレトルト食品で済ませてしまう人も多いのかもしれない。昔はキャンプと言えば飯盒炊爨だったので、やはりご飯は手を突っ込んで水加減を調整して炊かないとね、と私は思っている。もちろんコッヘルは使うが。お湯が沸くのにやたら時間がかかった割に、ご飯は意外に早く炊けたので、そう口にすると孫が、「うちではご飯はああいうので(電気炊飯器)炊いて、お湯はピッと(電気ケトル)と沸くでしょ。だからじゃない?」と、何やら鋭い指摘をするので驚いた。電気製品に慣らされてきた感覚なのかもしれない。
テントもフライシートのないものがかなりあったうえに、グラウンドシートとテントが一体になっておらず、5cmほどの隙間が空いている簡易テントすら見受けられて驚いた。あれで風雨や夜露に耐えるのだろうか。雨こそ降らなかったが、フライシートの内側はびっしょり濡れていたし、夜間にはテントが揺れるほど風が一時的に強まった。周囲のテントの大半はポールがスリーブと呼ばれる筒状の場所を通す形になっており、その出し入れに結構手間がかかりそうだった。
青年小屋では降るような満天の星空を見た思い出があったが、就寝するころは曇っており、月が昇ると満月に近くてあまりにも煌々としていて、ときおり霧も発生したため、星は明るいものしか見えなかった。娘もいつもテントで熟睡する子だったが、孫も結局、明け方まで一度も目を覚まさずに寝通し、私が夜中にヨタカが飛びながら鳴いていたと話すと、「なんで起こしてくれなかったのよ〜」とむくれていた。私は周囲のテントの物音や話し声が気になって細切れの睡眠しか取れなかった。
翌朝、古いバーナーを再度試してみると、今度はうまく着火したので、娘が好きなオートミールの朝食を食べたあと、7時ごろ出発して編笠山の山頂を目指した。自分の身長をはるかに超えるような岩塊がごろごろする場所を、孫は怖がる様子もなく果敢に登っていった。少し前までジャングルジムもてっぺんまで登れない怖がりだったのに、随分成長したものだ。私はと言えば、前日の登りで足が疲れていたことや、二晩つづきの睡眠不足、それに薄い空気なども重なって遅れがちとなり、一緒に登れるのはもうあと何年もないなと思った。こんな岩場を、60 代後半になるまでよく母が何度も登ったなと思う。登山ブームの昨今、70代後半のような人を含む年配者のパーティにも何回も出会ったので、日頃から運動して体力を維持できれば、あと10年くらいは登れるのだろうか。
2524mの山頂に立った私たちを迎えるように、富士山から南アルプス、そして権現、ギボシ、赤岳、阿弥陀岳など、昔登った山々がぐるりと見えて壮観だった。娘と孫がスケッチを楽しむあいだ、私は山頂でコーヒー、ココアを用意する係を命じられ、カフェを開くことに。5歳でこの山のてっぺんでココアを飲んだことを、四半世紀後、半世紀後にでも孫が思いだしてくれるなら、お安いご用だ。背負ってきた予備の水が軽くなるのもありがたい。
下山は、山頂から押手川まで一気に下るルートを通ったため、脚の短い孫はかなり苦戦し、この区間はコースタイムの2.5倍もかかってしまった。朝4時半から起きだしてしまったこともあって途中で眠くもなり、つい無駄口ばかり多くなる孫を励ましながら、何とか観音平まで2時過ぎにたどり着いた。ストレッチ体操が効いたと見え、私の膝も最後まで元気に働いてくれた。
編笠のあとはソフトクリームでしょ、とばかりに、そのあとは清里の清泉寮まで有名なソフトクリームを食べに行った。清泉寮は、清里と大泉から一字ずつ取ってつけた名称だそうで、ポール・ラッシュの名前はたぶん澤田美喜さんの本で読んだなと思い出した。復路は娘一家の車に同乗させてもらった。途中、中央高速が大渋滞していたため迂回路を通り、8時半過ぎに帰宅し、「無事に帰ってきたよ」と、母の遺影に報告した。
青年小屋の朝のテント場
押手川付近
1995年に青年小屋でテント泊したあとギボシから。
1994年に編笠山の頂上で
1998年ごろか
編笠山頂上。まだ同じ標識が立っていた
編笠山頂上
乙女の水を汲む孫
登りの途中で出会ったメスのシカ
今回の旅での唯一のスケッチ