2020年9月14日月曜日

埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って

 ある日、グーグル検索で見つけた一文の謎を解こうと、元来飽きっぽい性質の私が足掛け6年間、調べ、書き、やっとの思いで本の形にしたものを、このたび『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)として、わずかばかりの部数ながら自費出版した。
  
 その一文は、幕末に信州上田を訪れたウィリアム・ウィリス医師が、偶然そこで出会った高祖父の名前を書き留めておいてくれたもので、これを手がかりに元禄時代まで祖先をたどり、幕末に生きた高祖父に関しては写真まで探り当てた。上田藩の馬役だった高祖父は、佐久間象山のもとで学び、幕末の転換期に老中を務めた上田藩主松平忠固に仕え、イギリス公使館付騎馬護衛隊長アプリン大尉のもとに通って西洋馬術を学んでいた。

  筆文字の古文書から当時の新聞記事や日記まで、国内外の多数の文献や古写真に当たり、足で歩いて現場を確かめた結果、歴史の定説がいかに間違っていたかがわかり、増えつづける疑問が原動力となった。一次史料を多く用いた考察で、すらすら読める内容ではないが、専門の研究者だけでなく、歴史散歩の愛好者や、祖先探し、古写真、馬・馬術に関心のある方にも読んでいただきたい。

 経費を切り詰めるため、インデザインを独学し、自前の校正による完全データ入稿という形をとったため、完璧とは程遠い仕上がりとなった。カバーには、江戸時代に上田藩の財源となっていた伝統的な上田縞紬の画像と、最後の藩主松平忠礼と筆者の高祖父の写真を使わせていただいた。カバーデザインは、娘で絵本作家の東郷なりさが、本書が少しでも「埋もれないように」、題字のなかに高祖父が打っていたはずの蹄鉄と、馬の尾、および上田の生糸を入れてくれた。(娘のブログ記事はこちら。)江戸時代まで日本の馬はわらじを履いていたので、西洋馬術を始めるには蹄鉄を打つ必要があった。

 歴史家は通常、過去のおもだった事件をつなぎ合わせるため、歴史全般を勝者の視点から語りがちになる。さもなければ敗者を悲劇の英雄として、人の琴線に訴えるドラマを描く歴史小説的なアプローチとなる。翻訳の仕事を通じて考古学や人類学、生物学、地理学、経済学など、歴史以外の分野に触れることが多い私からすれば、勝者であれ敗者であれ、歴史は少数の人間だけが動かしたものではない。歴史とは、偉人や英雄だけが活躍した物語ではなく、自分たちの無名の祖先たちもその時代を生きて、何かしらは考え、そこに関係していたはずのものなのだ。祖先や郷土史を調べ、忘れられた大勢の人びとについて調べることが、ひいては国の歴史だけでなく、世界の歴史も知ることにつながるはずだということを本書は微力ながら提言する。

  祖先探しをしたい一般の読者には、研究機関に所属しない一般人であっても、現在はインターネットや図書館などを通じて多くの史料が公開されていて、素人でも博物館や資料館の所蔵品の閲覧は可能であることを示し、どうやって調査を進めたかを伝えたい。

2020年9月13日日曜日

地球を支配する水の力

 8月下旬には、セアラ・ドライ著、『地球を支配する水の力:気象予測の謎に挑んだ科学者たち』(河出書房新社、原題はWaters of the World)が刊行された。コロナ禍のストレスの多い日々のなかで、締め切りと闘いながら仕上げた。

 水がテーマの本だが、これまで私が訳したフェイガンの『水と人類の1万年史』やC. バーネットの『雨の自然誌』(いずれも河出書房新社)よりは、水蒸気や海流としての水であり、気候科学の歴史に近い本だ。ただし、著者は科学者でもジャーナリストでもなく、科学史を専門とする歴史学者であり、19世紀から20世紀にかけての主として6人の科学者の伝記に近い形で構成されている。気象学と海洋学に関するものが多く、もちろん数式はでてこないが、物理にめっぽう弱い私は、太陽スペクトルだの、積乱雲、海洋渦のエネルギーに関する部分はかなり苦労した。

  カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』の背景にあった雲への種まき実験については、以前に訳したことがあったが、広島と長崎への原爆投下のあと、人間が自然に甚大な影響を与えうることが明らかになり、こうした大気圏実験が不可能になり、それがコンピューターによる模擬実験に取って代わった経緯を本書で知ると、今年になって大きく取り上げられている「黒い雨」の問題との関連を思わずにはいられない。ただし、1963年に部分的核実験禁止条約が締結されるまでに、合計で500回もの大気圏実験が行なわれたのちのことであるのを、現在取り組んでいる仕事から知った。

  個々の科学者たちの苦労話や功績はそれぞれ感動を呼ぶものだが、気候科学の直面する難題はあまりにも大きく、多分野にまたがる巨大な国際組織となったIPCCのなかで、一人ひとりの科学者の存在は埋もれつつあるという時代の変遷を知ったことが、個人的には本書からいちばん学んだことだった。科学とは何か、科学には答えがだせるのか、といった究極的な問いかけが心に残る。

  原書はご覧のとおり、ギリシャ神話の世界を思わせる素敵なイラストだったが、邦訳書はちょっと既視感のあるブルー・マーブルだ。でも、私たちが球体としての地球を意識するようになったのは、アポロが月に行って以来のことであり、本書ではグローバルという、いまではありふれた言葉になった英単語の意味をもう一度考えてもらうために、敢えて「全球的」という重たい訳語を使ってみたりもした。

  たとえ一時的に豪雨や酷暑に見舞われても、しばらくすると快適な日々が戻ってくる日本では、どうも一般人は気候問題を突き詰めて考えたりしないようだが、科学者たちが何を考え、どうやって地球温暖化の事実を突き止めたのか、本書を読んで考えてくれる方が増えたらと願う。この問題の入門書というよりは、多少は気候科学について読んだことのある方向けかもしれない。

 
    8月30日の夕方に見たかなとこ雲
本書に登場する唯一の女性科学者のジョアン・シンプソンが積雲の研究をするために、みずから雲のなかに飛行機で入ってしまう人だったので、雲を見る目がすっかり変わった。いわゆる大気の大循環に積乱雲がとてつもない量の熱のエスカレーターの役目をはたし、赤道の熱を極地に運んでいるのだとか。

2020年9月12日土曜日

書評:『日本を開国させた男、松平忠固』

 ペリー来航時とハリスとの条約締結時に、二度にわたって老中を務め、日本をいわば強引に開国させた上田藩主、松平忠固について書かれた事実上初めての歴史書だ。著者は上田藩士だった赤松小三郎を研究してきた拓殖大学の関良基教授。ご専門は歴史ではなく環境問題だが、上田のご出身で、上田高校OBとして幕末史の研究をつづけておられる。

『日本を開国させた男、松平忠固:近代日本の礎を築いた老中』(作品社)という本書のタイトルはかなり刺激的だが、当時の政敵が書き残した多数の史料を読みあさった結果、私も同じ結論に達した。現代の日本の政治を見ていて、なぜこうも意思決定が明快でなく、リーダーがちっとも指導力を発揮していないのかと歯がゆい思いをしている方は、幕末からよく似た状況であったことに妙に納得するものがあるかもしれない。譜代大名の老中は、明治維新を推進した側からすれば、倒したい敵の筆頭だ。老中はみな似たような名前の、顔の見えない無能の権力者集団のように描かれて、不平等条約から金貨流出問題まで、幕末史の汚点のすべての責任を負わされてきたが、本当にそうだったのか。井伊直弼や岩瀬忠震が本当に開国の功労者なのか、本当に不平等条約だったのか、松平慶永は本当に開明的な大名だったのか。少しでも史料を読めば、誰にでも浮かんでくるはずの諸々の疑問を、本書はこれでもかと読者に突きつける。

  関先生とは研究会で知り合い、3年前に上田で開かれた忠固のシンポジウム以降、忠固に関する史料についてたびたび情報交換をさせていただいた。上田に残る「忠固日記」の画像データも頂戴しながら、読めない筆文字に加えて、画面いっぱいに広がる虫食いの跡に、私は解読を諦めざるをえなかったが、本書にはその一端が紹介されている。研究者の伝をたどって協力を仰がれたとのこと。

  祖先探しから始まった私の調査記録を本にまとめるに当たっても、関先生からはひとかたならぬご助力をいただき、拙稿を読んでいただくことから、この新著を原稿段階で読ませていただくことまでお世話になった。しかも、あとがきに当時まだ未刊の拙書まで、長い書名を明記して宣伝してくださるというありがたさ。本書で松平忠固の名が少しでも社会に浸透すれば、私が自費出版する本が、無名の君主に仕えた無名の祖先の話にならずに済む。そのことだけでも、充分にありがたかった。

 ちなみに、忠固は「ただかた」と読む。私の原稿を読んでくれた母は、いつまでも「ちゅうこ」と呼びつづけていたが(苦笑)。忠固の容貌は知られていないので、表紙の肖像画は近親者の写真等からの想像図とのこと。彼の息子・娘たち、異母兄、姪、甥の息子等は写真や肖像画が残っており、その誰もが細面で高い鼻、左右に突きだし気味の大きな薄い耳の持ち主で、揃いも揃って美形なので、17歳で姫路藩から上田藩に養子入りして藩主になったころは彼もこんな顔だったかもしれない。 多数の史料画像や写真を盛り込み、本来の理系研究者らしく図表も使った作りになっているので、本格的な歴史書だが、幕末史に興味のある方には刺激的な内容になると思う。ぜひお読みいただきたい。 


  気が抜けて仕事にならなかった日に、封筒の裏につい描いて見た私なりの忠固想像図。「癇癖の強そうなやや蒼白な顔、右眼は故障があって少し鈍いが、そのぶんまで左眼は鋭く光り、体躯は頑丈とは云えぬが精悍の気あふれている」と、『あらしの江戸城』には書かれていた。

科学の人種主義とたたかう

 長らく拙訳書について書ける媒体がフェイスブックしかなく、このブログを開設したことでようやく、本年5月末に刊行されたアンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう:人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社、原題:Superior: The Return of Race Science))について、一般向けに発信することができるようになった。

  前作のフェミニズムの本、『科学の女性差別とたたかう』の原題がInferiorだったので、対のような題名だが、内容的にはこちらのほうがさらに突っ込んだものと言えるかもしれない。インド人移民の子としてロンドンで生まれ、石を投げられこともある著者が、「10歳のときから書きたいと思っていた本」だったことを最後に知ったときには、思わず胸が熱くなった。


  すでに7月26日付の赤旗日曜版では早稲田大学の塩田勉名誉教授が、8月1日付の日経新聞では東京大学の進化学者の佐倉統教授が、それぞれによい書評を書いてくださったが、このたび9月12日付の朝日新聞でも、同じく東京大学の社会学者である本田由紀教授が、本書の論点を簡潔にまとめてくださった。

  この作品が問いかける問題の甚大さが日本でも徐々に理解されてきたのか、少し前にめでたく重版になった。しかし、ジェンダー問題を扱った前作と比べて、本作への世間の反応は鈍いように思う。ブラック・ライヴズ・マター(BLM)に象徴されるような人種問題は、日本では他人事なのだ。社会のなかにいる異質な人の数がごくわずかなときは、珍鳥のごとく、好奇の対象になるか、ちやほやされるからだ。「彼ら」の数が増えて目立ってくるようになり、「われわれ」の利害とぶつかり合うようになって初めて、人種問題は生じてくる。だから、日本では人種主義者が黄色人種として一括りにする人間同士のあいだで類似の社会問題が生じ、二言目には国籍の話になって終わり、かたや他国の話になると「人種差別はいけない」という道徳の話にすり替わる。

  だが、レイシズムは人種差別主義なのだろうか? 著者サイニーによれば、raceという言葉の起源は確認される最古の使用例でも16世紀で、人種を形質のように記した最初の書は1758年刊行のリンネの『自然の体系』だとする。明治初めに西洋文明を吸収するなかで、確立された事実として西洋人から教えられた人種の概念を鵜呑みにしてきた私たちにとっては信じ難いことだが、人種の定義は科学的には少しも定まっていない。レイシズムとは、人種という科学的根拠のない概念を後生大事に掲げて、人間を何かとカテゴリにーに分類し、それによって階層化を図る主義、という意味ではないのか。そう考えるにいたって、あまり馴染みのない訳語ではあるが、人種主義という言葉を本書では採用した。

  議論の前提に含まれた多くの偏見を見抜く著者の鋭さは格別で、インタビューを受けた偏屈な人種主義者だけでなく、デイヴィッド・ライクのような超一流の遺伝学者もたじたじとなっていた。人種科学が復活の兆しを見せている現在の風潮に、資金源を追及しながら立ち向かう彼女の姿勢には、ジャーナリストとしての気迫を感じた。

2020年9月10日木曜日

ブログ開設のお知らせ

 20年近く、翻訳グループ牧人舎のホームページに「コウモリ通信」として月に一度エッセイを書いて参りましたが、2019年10月にグループが解散しまったため、ようやく重い腰を上げて自分のブログをつくることにいたしました。

 今後は不定期の発信になりますが、拙訳書のご案内や、このたび自費出版しました初めての著作に関連した記事をはじめ、これまでどおり多岐にわたる雑多なテーマで備忘録代わりに書いてゆくつもりです。ときおり覗いていただければ幸いです。

2019年8月30日金曜日

牧人舎のHP最後のコウモリ通信

 数日前、いつものように朝、パソコンを立ちあげてインターネットを開くと、グーグルのロゴが、「’98 9 27」という日付入りの昔のブラウン管モニターのパソコンの絵になっていた。一目で意味がわかったのは、50代以降の世代だろうか。いまやこれなしには生活できないほどのインフラとなったグーグルの誕生記念ロゴだった。  

 会社に入って初めて触ったパソコンも、起動するのに8インチ・フロッピーを何枚も出し入れしなければならない、こういう太ったCRTモニターのパソコンだった。私はインターネットが完全に普及する前の1995年末に退社したのだが、World Wide Webというものが今後は世の中を変えるのだと、ITに詳しい同僚たちからよく聞かされていたので、その後の大変化にもなんとか対応できたのだろう。  

 1年ほど失業保険とアルバイトで凌ぎながら翻訳学校に通い、そこで出会った鈴木主税先生に弟子入りし、牧人舎の一員となった。このころ私がもっていたのは、会社員時代に買ったトラックボール付きのマックのノートパソコンで、ウィンドウズとのファイルの互換性が非常に悪かった。使わない東芝のダイナブックがあるからと、無償貸与していただいたのはじつにありがたかった。  

 当時はまだパソコン通信の全盛期だった。認知症の祖母の近況を、母のきょうだいたちとパソコン通信で連絡し合っており、それを「綾子さん通信」と呼んでいた。電話回線に繋ぐと「ピーヒョロヒョロ」と宇宙との交信のような音が鳴るもので、貧乏暮しの私はおもにメールの送受信時にしか接続せず、毎回、電話のそばまで行って祈るような気分で使用していた。何かを検索しようにも、当時の検索機能はお粗末で、どこに分類されているのかわからなければ、調べようがなかった。グーグルが使えるようになったときは、白い画面に思いついた言葉を打ち込めばよいという発想が画期的で、感動したのを覚えている。とはいえ、仕事で本格的にインターネットが使えるようになったのは、常時接続しても破産しなくなったここ十数年のことだ。文字列にして入力することなど、検索のコツについては、鈴木先生の弟子仲間から多くを学んだ。塩原通緒さんが、害虫駆除の仕方までグーグル検索するのを知ったときは、目から鱗が落ちた気がした。仕事の調べ物だけでなく、日常のあらゆることに使えるのだ。  

 牧人舎のホームページができたのは、グーグルが誕生して間もないころだった。翻訳の仕事は、ただ外国語がわかればできるものではなく、それを読みやすい言葉で書く作文力が要求される。自分でもある程度文章が書けなければ、翻訳はできない。鈴木先生は文章を書く訓練が必要と考えておられたのだろう。「どんなテーマでもいいから、とにかく書いてみなさい。かならず自分の力になるから」と言われて、ホームページの今月のエッセイに寄稿するようになったのは、1999年12月のことだった。ちょうど祖母を亡くしたばかりで、仕事は翻訳見習いでしかなく、子育てプロのお母さんたちのあいだで私は浮いていたので、エッセイの題名は「コウモリ通信」とした。私は文学少女でもなかったし、国語は物理と同じくらい苦手科目の一つで、最初のころは書くテーマを考えるだけでも苦労していた。  

 鈴木先生はその10年後に亡くなられ、牧人舎の活動そのものも先生の晩年には縮小したが、ホームページだけは、立ち上げ時からずっと管理人を務めてこられた野中邦子さんが運営をつづけてこられた。途中、ほんの数カ月ほど更新がなかった時期はあったものの、20年近くにわたって毎月、新刊の紹介やエッセイの入れ替えを、ご自分の翻訳の仕事の傍らこなしてこられた。思いついたときだけ、暇なときだけ更新するのではなく、定期的につづけるのは簡単なことではない。私はただそのご好意に甘えて、月末になるとエッセイを書いて送ってきた。長年つづけてきて、習慣化されたことが、今回でおしまいになる。牧人舎そのものが店じまいとなるのだ。最終回のこのエッセイは、「その229」となるようだ。  

 ここ10年間はSNSも普及して、音信不通になっていた友人・知人の消息を知り、連絡を取るのは容易になったが、それまでは私の「コウモリ通信」をネット上で見つけて読んだと連絡をもらうことが何度かあった。発信しつづけたおかげで頂戴したお仕事もいくつかあるし、書いた内容について問い合わせをいただいたこともある。最初のころは、誰が読むかもわからないネット上で発信することへの気後れもあって、気軽に読める当たり障りのないことを書いていた。個人情報をどこまで書くか、宗教や政治の話題はどう対処すべきなのかなど、自分なりに試行錯誤をして少しずつ書ける範囲を広げてきた。これだけ多くの情報がネット上にあふれるようになったいま、誰にでも書けて軽い笑いを誘うだけの、暇つぶしどころか、人様の時間を奪うだけの文章をこれ以上私が増やしても仕方がない。途中からそう思うようになり、万人受けはしなくても、私にしか書けないテーマを選ぶようになった。それが高じて、近年はやたら歴史テーマの、それも非常にマイナーな話題が多くなったので、以前はかならず読んでくれていた娘からも、「面倒臭くて読んでいない」と、言われるようになった。 
 
「コウモリ通信」を始めたころはまだ小学生で、よくイラストも描いてくれた娘は、いまではちょっとした絵本作家になり、今春にはボローニャのイラストレーター展で入選し、結婚して一児の母にもなった。私同様、仕事と育児を両立させなければならない娘は、締め切りに追われててんやわんやの毎日を送っている。産後八週間で職場復帰しなければならなかった私は、自宅でピアノを教えていた母と、大勢のベビーシッターに助けられながら子育てをした。恩返しはなかなかできないので、せめてもの罪滅ぼしで、いまは孫の面倒を週に3日ほど数時間ずつ引き受けている。  

 最終回の「コウモリ通信」を書くことで、翻訳業に転職してからの20年余りを振り返ることができた。数えてみたら、牧人舎時代に部分訳・下訳した本は21冊、共訳または自分の名前でだしてもらったものが4冊、「これをもって出て行きなさい」と追いだされ、独立するきっかけとなったフェイガンの『古代文明と気候大変動』以降の訳書が25冊になった。牧人舎時代の友人の紹介で始めたハーレクインも10年間で合計27冊訳した。娘の大学の入学金を工面すべく、牧人舎時代に知り合った編集者を拝み倒して翻訳させていただいたアマルティア・センの『人間の安全保障』は、その後も私の懐具合の厳しいときを見計らったように重版してくれ、先日も10刷の連絡を頂戴した。この四半世紀、フリーランスで曲がりなりにも生きてこられたのは、牧人舎のおかげなのだ。鈴木先生、野中先生、本当に長いあいだお世話になりました。そして長年、「コウモリ通信」を読んでくださったみなさま、ありがとうございました。

2019年7月30日火曜日

「ペリーの白旗」問題

 以前からたびたび目にして気になっていた「ペリーの白旗」問題について、事実関係を確認しておかねばと、ホークスの公式記録である『ペリー艦隊日本遠征記』や通訳のウィリアムズが書いた『ペリー日本遠征随行記』などを読んでみた。砲艦外交を象徴的に語るエピソードとしてよく引き合いにだされるものだ。  

 急遽交渉に当たらされた浦賀奉行所の与力の香山栄左衛門がペリーから、いざ戦争になって降伏したい場合に掲げる白旗まで二旒渡されたとする説で、そのことを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだで論争がつづいている。長くなるのでここでは結論だけ書くが、アメリカ側の代表的なこの二つの記録を読むだけでも、当時の部外者の憶測を、後世の歴史家が真に受けた結果であることは明らかなはずだ。ペリー側は戦意がないことを意思表示するために測量船に白旗を掲げ、沖合に停泊中の船を幕吏が訪ねる際も、朝、艦隊に白旗が掲揚されるのを確認してからくるようにと説明し、香山も同様の趣旨を繰り返しているからだ。『ペリー艦隊日本遠征記』には、随行画家のヴィルヘルム・ハイネが描いた、船尾に星条旗、船首に白旗を掲げた測量船が遠くに富士山の覗く浦賀湊の沖に漕ぎだす挿絵もある(牧人舎のエッセイ時には船首・船尾を逆に書いていたので訂正)。  

 ペリー艦隊に関するこの二冊の本には、白旗問題を別としても、驚くような情報が満載されていた。浦賀での応接を拒み、強引に羽田沖付近まで入り込んだペリー艦隊を食い止めるために、再び交渉の窓口に立った香山は、嘉永7年1月28日(1854年2月25日)の午後になって、ほとんど思いつきで「神奈川の南にある横浜という小村」に小舟で乗りつけて視察することを提案した。「小村のそばにある空き地で、いまは収穫が期待できそうな麦畑となっている場所が、応接に適した場所として選ばれた。そこにたどり着く前に、村のなかの家を三、四軒、壊せば、新たに必要な建物をつくるための場所が確保できるだろうと、こともなげに提案された」と、ウィリアムズは書いている。デ・コーニングの『幕末オランダ商人見聞録』の描写もこれとさほど変わらない。綿繰り機が使われていたことや、生垣の椿が満開だったこと、大きな墓地があって、墓碑銘か卒塔婆に漢字のほか梵字が使われていることにも目を留めている。現在の横浜中華街付近にあったこの墓地は、1862年の地図にもまだ描かれている。  

 つづく2日間で幕府の海防掛は横浜沖の測量と現地を視察し、「右掛り一同徹夜払曉まても談判評決之上、則横浜を応接所と決し」、2月1日には月番老中だった松平忠優から、浦賀沖は波が荒いため、横浜で応接する旨の通達が海岸警備の諸大名にだされている(幕末外国関係文書之五)。しかもこの日、忠優は実際の交渉担当者たちに、「応接の事一々皆て老中に請ふなかれ。もし之を老中に請ふ、老中又之を前納言[斉昭]に乞はざるを得ず……後日の咎は老中之に任せんと」(『開国起源安政紀事』)と指示し、参与となって幕政に口出ししていた水戸の斉昭を牽制し、条約交渉を推し進めたのだ。このとき応接地として横浜が選ばれなかったら、後年、神奈川開港に向けてハリスと折衝するなかで、対岸の横浜を含めてはどうかとハリス側から提案されることは間違いなくなかっただろう。横浜はそれほど無名の小村だったのだ。  

 横浜に上陸したペリー一行が最新の科学技術を披露して見せた際の笑い話は随所に書かれているが、小型蒸気機関車のエピソードはなかでも傑作だ。「日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、客車の容量まで身を縮めるのは無理なので、屋根の上にまたがった。威儀を正した大官が、丸い軌道の上を時速20マイルの速度でゆったりした長衣をひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は少なからず滑稽な見ものだった」(『ペリー艦隊日本遠征記』、オフィス宮崎訳)。別の随行画家であるピーターズの挿絵には残念ながら、試乗する役人は描かれていない。  

 日本国内のこれら諸々の出来事はもちろん非常に興味深く、いずれじっくり読み直してみたいが、ちょうど大航海時代の歴史を訳していた私にとっては、むしろペリー艦隊が日本本土にやってくるまでの航海の記述がおもしろかった。艦隊と言っても、ペリーは1852年11月にヴァージニア州ノーフォークを両側に外輪がある蒸気フリゲート艦ミシシッピ号たった一隻で出発している。当初は12隻の艦隊となるはずだったのが、いろいろ手違いがあったようで、香港と上海で集結できるだけの船を揃えて、日本に向かった。通訳のウィリアムズは、4月にペリーが香港に到達したのちに初めて手配されているので、彼の手記には当然ながらそれ以降のことしか書かれていない。  意外に知られていないことだが、極東にくるまでこれほど時間がかかったのは、ペリーが大西洋を渡り、アフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋を通ってきたからなのだ。スペインのマニラ・ガレオン船は江戸時代初期から太平洋を行き来していたので不思議だが、アメリカがカリフォルニアを獲得したのは、ペリー自身がミシシッピ号で参戦した米墨戦争以降のことであり、当時はまだパナマ鉄道も開通していなかった。アメリカ東海岸から太平洋にでるには、南アメリカ南端のホーン岬かマゼラン海峡を通るしかない。このルートをたどったのが、江戸初期に来日したウィリアム・アダムズの一行で、ペリーも訪日前に彼の手記を研究していた。アダムズの船は航海の途中で寄ったハワイ諸島と思われる島で乗組員を殺され、死線をさまよいながら大分に漂着した。『白鯨』の元となった実話もこの航路をたどり、1820年にアメリカ東部のナンタケット島を出港した際には、船員たちは2年半は帰れないことを覚悟していたという。ペリーにしてみれば、そんな危険を冒すつもりはなかったのだろう。  

 大西洋・インド洋周りの航路はその点、大航海時代から探索され尽くし、潮流や恒常風をうまく利用できる航路沿いに、いくらでも補給基地が整備されていた。ナポレオンが流刑されたセントヘレナ島やモーリシャスのような、大海の孤島のようなところですら、さながらガソリンスタンドのように、水や食糧だけでなく、石炭までが用意されていたのだ。ミシシッピ号はこうした寄港地で500トンほどの石炭を積んでおり、効率よく機走するには1日当たり26トンが必要だったという。風と海流が利用できるときは外輪の水掻き板を外し、装着する枚数も調整していた。ペリーが日本本土にくる前に琉球と小笠原諸島に寄ったのは、こうした寄港地を確保するためで、「無人島を石炭置場に」という要求は、日本では当時ただ無人島と呼ばれていたボニン諸島、つまり小笠原を石炭補給基地にすることだったのだ。当時、日本では石炭は九州などごく一部でしか使われておらず、蒔水給与令からもわかるように、外国船に提供するつもりだったのは、帆船の捕鯨船上で皮下脂肪から鯨油を採取するための釜炊き用の薪か木炭だったので、交渉に当たった幕吏もどのくらい事情を理解していたのか怪しい。艦隊の食糧の一部は寄港地で手に入れる生きた四つ足動物であり、小笠原にはすでにハワイなどからの移住者が放牧したヤギが大繁殖しており、ペリー艦隊も牛と羊、ヤギを残している。数年前にこれらの子孫のヤギが島の生態系を崩していたため駆除されたことは記憶に新しい。肉を食べず、すべて人力で賄っていたに等しい江戸時代までの日本で、黒船の来航はまさに頭を殴られたような体験だったのだろう。
 

ハイネの石版画「江戸湾浦賀の光景」
ネットオークションで見つけ、わずか数千円でフランスから購入した。