2022年5月6日金曜日

結局はエネルギー問題なのか

 政治・経済のニュースはあまり興味がないので、普段は最低限の情報しか読まないが、数日前、ウクライナ侵攻に関連したエネルギー問題と、その隣のページにあった労組分断という記事をひとしきり読んでしまった。 

 私がまだ旅行会社に勤めていたソ連崩壊から間もないころ、シベリアの石油開発事業関連で来日したアメリカ人と話をしたことがあり、その後も世界の石油メジャーや日本の商社などが大規模な開発を進めるニュースを見るたびに、そのことをよく思いだしていた。北極海も、地球温暖化で季節的に航行が可能になると、各国がこぞってこの海域に触手を伸ばすようになった。 

 翻訳の仕事を通じて長年、気候問題にはかかわってきたので、もう何十年も科学者が警告の声を上げているにもかかわらず、化石燃料の使用が増える一方の現実に、エネルギー問題の厄介さを痛感している。改めて各種統計を見ると、ロシアは天然ガスの埋蔵量が世界1位、石炭は2位、石油は6位で、2016年の総輸出額に占めるエネルギーの比率は約6割という。天然ガスは温暖化対策の切り札とも言われてきたので、ロシアはその点でこの数十年間かなり有利だったのだろう。 

 今回の戦争の経済制裁によって、これらの化石燃料の一部が使われなくなれば、地球の気候にとっては喜ばしいのだろうが、各国がその穴埋めをすぐに再生エネルギーで賄えるわけではない。代わりに原発を増やしたり、その代替分の化石燃料を遠隔地からCO2をだして運んだりすれば、地球環境にとってはむしろ嘆かわしい。 

 今年もすでにシベリアで森林火災が相次いでいるのに、戦争中でロシア軍がいつもの消火活動にかかわれていないというニュースも数日前に読んだ。ロシアの国土の60%は永久凍土で、温暖化の影響がいちじるしい北極圏では、近年、夏に猛烈に高温の日がつづき、火災が起きやすくなっているようだ。昨年、シベリアでは2012年を上回る最大規模の森林火災に見舞われ、WWFのサイトによると、日本の半分に当たる面積が焼失したという。ただでさえ温暖化で始まっている永久凍土の融解が、火災で加速されれば、CO2ブラックカーボンのエアロゾルとともにメタンが大量に放出されることも忘れてはならない。 

 エネルギー問題と労組分断の記事は、一見まるで無関係のようだが、政府の脱炭素推進によって、2030年代なかばまでに乗用車の新車販売をすべて電気自動車などに切り替えることになった結果、エンジン関連の製造業で雇用不安が広がり、それが生き残りをかけての労使協調につながっているという内容だった。同じことは電力総連でも言えるという。記事には、かつて50%以上あった労組全体の組織率が昨年はすでに全労働者の1割程度にまで落ちていたともあり、働く環境は様変わりしているようだ。 

 つまるところ、気候問題に端を発するエネルギーの方向転換に、世界中が揺すぶられているのではなかろうか。本来ならば、気候問題こそ人類が一致団結して取り組まなければならない未曾有の危機であるはずなのに、破壊の限りを尽くす戦争がつづき、一向に終わる気配が見えない。それどころか気候の危機を待たずに、核戦争で人類が自滅する可能性すらある。ミサイル攻撃を受けてもうもうと上がる黒煙。廃墟となった夥しい建物群。途方もないゴミ処理を想像するだけも、復興時に必要となる大量のセメントとそのために排出されるCO2のことを考えても、やりきれない。 

 連休中ずっと仕事に追われ、頭の痛い問題と暗いニュースに悩まされつづけていたので、昨夜、娘宅から羽化寸前のクロアゲハの蛹がやってきたのが、せめてもの慰めとなった。夏の終わりに、ベランダのレモンの木で孵った幼虫が蛹のまま年を越したものだった。小旅行にでかける日に限って黒ずんできたから預かって、と電話があった。そんなわけで、今朝は5時起きして、横目で蛹を監視しつつ仕事をした。蛹は7時少し前にモゾモゾとでてきて、8時半には完全に翅を広げ、昼前に窓を開けると飛び立っていった。

この蛹の「命綱」はまだ残っていたけれど、尾の先が枝から離れてしまっていたため、工作物で支えて冬を越していた。

羽化するときは、体を軽くするため、かなりの量のおしっこをする。

2022年4月18日月曜日

「シーボルトの帰り桜」

 昨春は、われながら呆れるほど桜三昧だったのに、今年の春は近所をおざなりに見て回る程度で終わってしまった。いろいろ忙しかったこともあるが、呑気に春を楽しむ気分になれなかったことも大きい。  

 そんな折に、たまたま県立長崎シーボルト大学のキャンパス内に植えられている「シーボルトの帰り桜」の写真をフェイスブックで見て、そこに〈ホクサイ〉と書かれていることに気づいた。NPOながさき千本桜によって平成15(2003)年に植樹されたものらしい。〈ホクサイ〉と言えば、コリングウッド・“チェリー”・イングラムが名づけたことで知られる品種なので、なぜ半世紀も時代をさかのぼるシーボルトの「帰り桜」とされるのかが気になった。

  ざっとネット検索したところ、ウィキペディアの「荒川堤」の項目に、「1866年にシーボルトが日本から持ち出した以後に日本では絶えていた〈ホクサイ〉は、日本のサクラを熱心に収集していたイギリスの園芸家のコリングウッド・イングラムにより保存されており、その後日本に里帰りした」との一文があり、その典拠として森林総研の勝木俊雄氏の『桜』(岩波新書、2015年)が挙げられていた。「シーボルトの帰り桜」は、大学構内だけでなく長崎の中島川沿いの眼鏡橋付近にも植えられているようだし、1901年創業というイギリス大手のフランク・P・マシューズをはじめとする苗木会社のウェブサイトにも、同様の説明を付したPrunus ‘Hokusai’のページがあった。  

 勝木氏の『桜の科学』は昨春、読んでいたが、『桜』は未読だったので、図書館から借りてみると、「なかには一八六六年にシーボルトが日本から持ち出したと考えられる〈ホクサイ〉という名のサクラなど、日本では見ることがない名称のものもあった」とだけ書かれていた。そう断定しているわけではない。フランツ・シーボルトは1866年10月に没しており、再来日したのは1859年4月から1862年5月までなので、この件を深く調べて書いたわけではなさそうだった。そもそも、この本が刊行される以前に「シーボルトの帰り桜」は植樹されているので、これとは別の根拠があったのだろう。  

 阿部菜穂子氏の『チェリー・イングラム』(岩波書店)も再読してみると、イングラムが〈ホクサイ〉と名づけた桜は、1919年に彼が購入したザ・グレンジの敷地内にもとからあった樹齢25年ほどと思われる大木がその始まりだった。当時、日本の桜の科学的分類の権威だった三好学に品種名を問い合わせたところ、「この桜の品種名は不明である」との回答を得ていた。「それなら、私が命名するよりほかにない。この桜を、世界的に有名な日本の画家、葛飾北斎にちなんで、〈ホクサイ〉と名づける」と、イングラムは宣言したと同書は書く。 

 ザ・グレンジはもともと1891年にクランブルック伯爵が娘のために建てたもので、その後、20世紀になって十数年間、『デイリーミラー』紙などの創業者の1人、ロザミア子爵の手に渡っていた。樹齢25年であれば、クランブルック伯爵が植えた可能性が高そうだが、それでもシーボルトの没後から30年は経ている。 海外に植木を売ることを目的として1890年に創業され、イングラムも利用した横浜植木商会や、1872年にマサチューセッツ州に創設され、東アジアの樹木収集に熱心だったアーノルド樹木園、あるいは「独立した日本特設コーナーが設けられ、菊や盆栽などともに、桜が植樹された」という1900年のパリ万博などから、ザ・グレンジのこの最初の所有者が購入した可能性は否定できないし、それらの入手方法のほうがより自然ではなかろうか。 

〈ホクサイ〉と名づけられたこの品種はピンクの八重で、素人目にはこれといった特徴のない品種に見える。昨年、足立区都市農業公園で私も若木を見ていたが、印象には残らなかった。実際、〈福禄寿〉との唯一の目立つ違いは萼片(がくへん)だとするウィーベ・カウテルトの研究書(Kuitert Wybe, Japanese Flowering Cherries, 1999)もあるし、2014年、15年に訪英してイギリスの桜のDNAを研究したという勝木氏自身は、2015年に東大農学部で開かれた森林遺伝育種学会大会で、「形態観察の結果」としてはいるが、「英国での ‘Shimidsu’は‘松月’、‘Hokusai’は ‘渦桜’と考えられた」と報告している。 

〈渦桜〉は大阪造幣局の桜並木の看板では、「東京荒川堤に元々あった桜とされている。花名は、しわのある花弁が渦を巻くように、ややらせん形に並ぶことによる。淡紅色の八重咲で、花弁数は30枚程である」となっている。長崎の眼鏡橋付近の〈ホクサイ〉には、「薄いピンクで7個から12個の花びらをつけます」と書かれているので、はたして同じ品種と言えるのか私にはわからない。私には〈松月〉と〈福禄寿〉もそっくりに見えるし、八重桜はいずれも穂木を人工的に別々の台木の上に接木して増やすので、風土の異なる地で何十年、何百年も経るうちに品種が変わってしまうのではないだろうか。  

 片手間にほんの数時間、ネット検索した限りの憶測でしかないが、〈ホクサイ〉がシーボルトの桜だと言われ始めたのは、長崎時代の1820年代に彼の助手を務めた川原慶賀が描いた「サクラ」の絵が〈ホクサイ〉に似ているからではないか。この絵には登與輔と落款があり、Cerasus Pseudo-Cerasus var. flor. plenio roseisと書かれている。シーボルトの死後、日本の絵師たちが描いた原画は遺言により未亡人の手を経てロシア政府に売却され、現在はサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所の所蔵となっている。1041点に上る植物原図を1993年に丸善が『シーボルト旧蔵日本植物図譜コレクション』という30万円!の3冊本を刊行し、それを機に各地で展覧会が催された。  

 記憶を掘り起こせば、娘が高校時代、2002年の夏休みの宿題に「出島の三学者」と題して、ケンペル、ツンベリー、シーボルトを調べた際に、佐倉市立美術館で開催されていた「シーボルト・コレクション日本植物図譜展」に私も同行していた。「サクラ」の絵も見たのかもしれないが、記憶にはない。『シーボルト日本植物誌』は、ちくま学芸文庫版だがもっていた。だが、西洋の博物誌然としたこの本の挿絵と、川原慶賀などの日本の絵師が描いた膨大な数の絵がどう関係するのか、恥ずかしながら、これまで確かめたことがなかった。実際には、『日本植物誌』の挿絵はミンジンガーなどのヨーロッパの植物画家が、日本人絵師たちの作品を下絵にして描き直していたのだ!  

『日本植物誌』の解説によると、シーボルト事件で1829年10月に国外追放された際にも、彼は2000株近い日本植物の移出に成功し、ジャワ島のボイテンゾルフの植物園で馴化されていたようだが、オランダに戻ったのは翌年7月であり、コレクションの一部は彼の手には届かずじまいだったという。12歳の息子アレクサンダーを伴って1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日した際には、しばらく幕府の外交顧問にもなったが、失意のうちに帰国したと記憶している。ウィキペディアの彼の項目には、「2度目の訪日で集めた蒐集品や植物の種苗はミュンヘンで保管され、一部は長男アレキサンダーがイギリスに寄贈している」という心をそそる一文があるが、英語版には、アレクサンダーが遺品の多くを大英博物館に寄贈したとしか書かれておらず、「種苗」については定かではない。 

『チェリー・イングラム』によると、接木するための穂木は、樹が休眠中の冬のあいだに伐採する必要があり、穂木の切り口に湿った苔をつけたり、穂木をジャガイモに刺したりと工夫を重ねることでようやくヨーロッパまで無事に輸送できるようになったという。シーボルトが1862年5月に離日していて穂木を確保する時期でないことや、帰国後もオランダ、ロシア、フランスなどの政府に勤め先を求めたものの、成功していないことを考えると、そんな状況下で彼が日本からもち帰った桜の穂木を接木して無事に育てられたのか、と疑問をいだかざるをえない。それがやがてイギリスにまで渡り、大木となって花を咲かせていたなら、画期的なことなのだが、どこか飛躍している。  

 ちなみに、品種のラテン語名にシーボルトの名前がつく〈高砂〉というピンクの八重桜がある。これは1860–62年に日本に滞在していたプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンが、帰国後の1864年に輸入したもので、どういう経緯でシーボルトの名前がついたのかは、カウテルトの書にも、それを引用した阿部氏の本にも書かれていなかった。  

 余談ながら、12歳で来日した息子のアレクサンダーは、その後15歳で在日イギリス公使館に特別通訳生として雇用された。上田藩の赤松小三郎は、イギリス公使館付騎馬護衛隊隊長アプリンから「騎兵術を伝習し、同時に英文を学」んだ1864年末に、横浜の「アプリン宅に行き、アレキサンドルの通訳で話す」と日記に残している。アレクサンダーは1867年に休暇で帰国し、その際に徳川昭武や渋沢栄一らのパリ万博使節団に随行した。

 ワーグマンの『ジャパン・パンチ』1865年10月号には、インフルエンザのパークス公使の手当をするウィリス医師のもとへ、粥をもったミットフォードと、頰被りをして、燃えさしを入れてベッドを温める器具を担ぐスパーズ、つまりアプリン、それにアレクサンダーと思われる若者が見舞いにくる滑稽な絵がある。吹き出しの文字の判読を試みたが、意味不明の英語だった。通訳になった当初、アレクサンダーは英語が苦手だったらしいので、それをからかったものだろう。地球の裏側のような異国の地で、10代で独り立ちしたこの若者は、父の死に目には会えなかったようだ。  

 結局のところ、私が当初いだいた疑念が、かなり強まった程度で簡易調査はおしまいにせざるをえない。「シーボルトの帰り桜」と銘打って植樹した人たちが何を根拠としたのか、ご存じの方がいらしたらご教示願いたい。ピンクのふわふわとした八重桜の来歴を調べながら、そうか川原慶賀らの原画はロシアにあるのか、8つの本型の箱に収められていたこれらの植物画が長らく一般に知られていなかったのはソ連時代だったからなのか、などと現実に引き戻されるのが悲しい。そう言えば、アプリンも来日前にクリミア戦争とアロー戦争に従軍していた。イングラムの義理の娘が香港で日本軍の捕虜として3年以上も収容所生活を送り、日本の桜を生涯にわたって受け入れなかったというエピソードを思いだす。

足立区都市農業公園で見た〈ホクサイ〉。手前はおそらく〈鬱金〉。2021年4月撮影

川原慶賀による「サクラ」、『シーボルト旧蔵日本植物図譜展』(1995年)より
この図録に掲載されている桜はほかに、同じく川原慶賀によるイトザクラ(枝垂れ桜)と、再来日時に雇われた清水東谷によるエドヒガンとヤマザクラがある。

都市農業公園で見た〈高砂〉。2021年4月撮影

娘が高校時代にまとめた「出島の三学者」と今回の参考文献

『復刻版 ジャパン・パンチ』第1巻(雄松堂)より

2022年3月27日日曜日

『歴史修正主義』を読んで

 英語には「Words fail me.」という妙な表現があるが、この「言葉にならない」状態を、いままさに実感している。 1月の下旬、世界終末時計がまた一歩進んで、訳注を書き換えなければならないのではないかと今年の発表を気にしていたのだが、そのときはまだ昨年と変わらず、1分40秒前という戦後最も0時に近づいた状態を保っていた。だが、その後の2カ月間で、核戦争という言葉が日々聞かれるようになり、さらに進んだのは間違いない。 

 私を含め、大多数の人は、ものづくりだろうが商売だろうが、スポーツや芸術だろうが、学問や研究だろうが、平和な世の中だからこそ意味のあることに従事している。いざ戦争になって、身一つで逃げなければならなくなったら、これまでのあらゆる努力が水泡に帰してしまう。夫や父や息子を置いて、小さな鞄だけをかかえて隣国に逃げださなければならなかったウクライナ難民は、すでに350万人を超えるという。その大半を受け入れているポーランドは、いったいどうやりくりしているのか。  

 先行きが見えず、もやもやしたなかで、FB友の方に勧められて、武井彩佳氏の『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中央公論新社)を借りて読んでみた。歴史研究に少しばかり足を突っ込み、自分で一次史料を読んでみた結果、従来の通説にいくつもの疑念をいだかざるをえなくなった私としては、自分のそうした主張も、歴史修正主義と呼ばれるものなのか、ずっと気になっていた。本書を読んで歴史修正主義と非難されるものの定義がよく理解できたことは、その意味でも大きな収穫だった。 

「歴史家は誰もがその時代と環境が産み落とした子どもに過ぎず、自分が属する社会集団や文化によって規定される枠組みのなかでものを考えている。[……]これに加え、私たちの思考そのものが言語による制約を受ける」という、著者の歴史にたいする認識は、私がこれまで感じてきたことそのものだ。「歴史は単数ではなく、常に複数であり、また固定的な歴史像というものは存在しない。歴史は常に〈修正〉され続ける運命にある。また、歴史的〈事実〉はある程度確定できるが、歴史的〈真実〉がどこにあるかを知ることはできない」という説明も腑に落ちた。  

 ホロコースト否定論に大きな焦点を当てた本書の内容は、南京大虐殺を否定したり、東京裁判を批判したりする同種の主張の欠陥を炙りだすうえで役立つだろう。実際、パル判事が「事後法」だと主張した件については、いろいろ関連資料を読んでみたいと思っていたので、いまだに蒸し返される戦犯問題を考えるうえでじっくりと読み直してみたい。  

 しかしそれ以上に、いまの私には、ホロコースト否定論が極右の台頭とともに増え、とりわけユーゴスラヴィア内戦でドイツへ大量の難民流入があった1990年代初頭から盛んになったという指摘が印象に残った。その一方、東欧の旧ソ連衛星国が「ヨーロッパ人」のアイデンティティを確立するうえで、「共産主義体制へ抵抗した事実が、正統性の根拠とされた。[……]西側の自由主義的な価値観を進んで受け入れる意志が示され、その歴史観に大きく接近する。[……]旧共産圏の国々は二〇〇四年以降、順次EUへの加盟を果たしていくが、東欧諸国が西欧諸国とともにホロコーストの歴史を共有していることが、皮肉にも彼らがヨーロッパの一部であることの証となった」という指摘も興味深い。

 歴史はこのようにつねに政治と密接にかかわるが、国の歴史を国民に共有させ、国民であることを誇れる歴史を提示することは、どうしても歴史修正主義につながりやすい。しかし、「長期的に見ると、自国民のみが満足する歴史は、将来の選択肢をせばめている」と本書はその点を明確にし、ジョージ・オーウェルの『1984年』にも言及する。この小説のなかで、主人公のウィンストンは全体主義的な国で党の命令を受けて過去の改竄を行なっている。『1984年』は数十年前に読んだきりなので、また読み返さなくてはいけない。「現実に起こったことがビッグ・ブラザーによる予言と計画に合致するように、過去のニュースを日々書き替えている」と、武井氏は説明する。  

 折しも、「プーチンの意味不明な言説は『1984』で読み解ける」というマーク・サッタ氏の記事を読み、ニュースピークさながらに彼が戦争活動を「平和維持活動」と銘打っているという指摘に苦笑してしまったが、「ホロコースト生存者の孫でユダヤ系のゼレンスキー大統領について、政府転覆や彼の殺害さえ目論みながら、自身はウクライナの〈非ナチ化〉に尽力しているとのたまう」というくだりでは、ちょっと待てよと思った。  

 2014年のマイダン革命の前後からウクライナの極右組織が台頭し、かつてのウクライナ蜂起軍を想起させる赤と黒の旗を掲げる右派セクターや、ナチスの親衛隊などが使用したヴォルフスアンゲルのシンボルを掲げたアゾフ大隊(現在は連隊もしくは軍Forces)などが大きな勢力となっていたことは、BBCやガーディアン紙、ドイチェ・ヴェレ、カナダのデジタルメディアVICE、フランスのフリーのジャーナリストなど、いくつもの欧米のメディアによって報道されてきた。だが、その多くはウクライナ東部で2014年からつづく悲惨な内戦に関する2018年までの報道ばかりで、私が見つけた最新のものはタイム誌が2019年夏に取材した動画だった。 

 右派セクターが祖国の英雄視するステパン・バンデーラのウクライナ蜂起軍は1943年から45年にウクライナのヴォルィーニ州、ガリツィア州東部などで数万人のポーランド人虐殺に関与したという。2014年に書かれたキャノングローバル戦略研究所の研究主幹、小手川大助氏の「ウクライナ問題について その3」という驚くほど詳しい報告書には、このバンデーラが1948年4月に今度はイギリスのMI6に採用されて、ソ連邦内における破壊活動に携わり、1959年にKGBにより暗殺されたと書かれている。何やら映画『007』のようだが、事実は映画より奇なり、なのだろう。小手川氏のこの一連の報告書を読むと、海外のニュース動画で見た断片がよく理解できるようになる。 

 ロシアの脅威と蛮行を前に、ウクライナのネオ・ナチについて語ることはタブーになったのか、2019年にゼレンスキーが大統領に就任して以降、ウクライナの非ナチ化はすでに達成されたのか、まるでそんな勢力は存在しなかったことにされている。いまやマーク・サッタ氏が言うように、プーチンのこの発言は笑いの種にされているが、実際には、「現在の政治に合わせて過去が書き替えられてゆく」『1984年』さながらの作業は、言論の自由や民主主義を標榜する先進国の主流メディアでも盛大に行なわれているとしか言いようがない。 

 アゾフ大隊の創始者のアンドリー・ビレツキーは、2014—2019年までウクライナ議会議員だったが、2019年の選挙で議席を確保できず、現在は「アゾフ軍の最高司令官」としてマリウポリでロシア軍や親露分離主義者と死闘を繰り広げている。3月18日にYouTubeで公開された動画で彼自身が語るところによると、マリウポリは2014年のロシア侵攻時に奪われなかった、ウクライナ側のドンバスの象徴となり、死守しなければならない都市だったそうだ。人口43万人ほどという大都市のマリウポリを、ロシア軍があれほど破壊する必要がどこにあったのかと唖然としたが、その意味がいくらかわかった気がする。後世の歴史家は、この紛争をどう読み解くのだろうか。

最近のささやかな楽しみはこれ。孫と拾った種を一緒に蒔いたもの。結局、芽がでたのはフウセンカヅラだけだが、植え替えるときは、殻を潰せばいいらしい。

2022年3月7日月曜日

弘化2年の森山栄之助

 森山栄之助(1820-1871年)については、すでに何度か「コウモリ通信」でも書いてきたが、ラナルド・マクドナルドに出会う以前のことを少しばかり調べたところ、いくつもの意外な事実が見えてきたので、忙しくなる前に取り敢えず書いておく。  

 通詞として彼の名前が最初に知られるようになったのは、1845年4月、日本の漂流民22名を乗せてきたアメリカの捕鯨船マンハッタン号が浦賀に寄港した際のことだった。その2年前の天保14年6月2日に森山が長崎を出立して、出張扱いで浦賀に行ったことが、レファレンス共同データベースの調査サービスからわかる。浦賀に出張したのは、1842年に異国船打払令が老中真田幸貫の意見を水野忠邦が取り入れて廃止し、薪水給与令に変わったことと関係があるだろう。浦賀にオランダ通詞が詰め始めたのは1847年からのようだ。マンハッタン号が来航したとき、数えで25歳の森山は「浦賀奉行手附、和蘭陀小通詞並」と『通航一覧続輯』之百八に書かれているという(この史料は館内閲覧のみで、まだ調べに行けていない)。

 オランダ語が通じない相手だったため、アメリカ人の下船は許可されない旨を、カタコトの英語や抜き身の刀を首に当てて身振りで示したこと、別れに際して達筆で書かれたオランダ語の手紙を無署名でクーパー船長に渡したことなどが、『チャイニーズ・リポジトリー』誌に掲載されたマーケター・クーパー船長の航海日誌に書かれていた。当時はまだ『諳危利亜語林大成』という約6000語が収録された写本の英和辞書があるのみだったが、森山が生まれる前に、この辞書の編纂を指導したオランダ商館の助役ヤン・コック・ブロンホフが通詞たちに英語を教えていた。  

 この事件については平尾信子氏の『黒船前夜の出会い』(NHKブックス)などに書かれている。この年3月24日に突然、東京湾口に姿を現わしたマンハッタン号は、房総半島で4人の日本人をまず下船させ事前に交渉をさせてから、4月17日に浦賀に入港した。森山が活躍したのは、4月18日から21日(和暦:弘化2年3月12−15日)までのわずか4日間のことだが、このときの働きで、森山とほぼ同年齢で老中首座になったばかりの阿部正弘から褒美をもらっている。  

 マンハッタン号事件について調べたあとで、早稲田大学所蔵の「紅毛告密」に森山が父で大通詞だった森山源左衛門とともに翻訳者として名前を連ねており、そこに巳年四月、つまり同年4月と書かれていることに気づいた。この怪しげな題名の文書は、その前年1844年8月15日(弘化元年7月2日)に長崎に入港したオランダ船パレンバン号が運んできた、オランダ国王ウィレム2世から将軍宛の親書と、贈り物の目録の翻訳だった。 

「紅毛告密」には、「喎蘭告密」「紅毛告密」「和蘭告密」等のさまざまな名称で多数の写本があり、早稲田大学所蔵のものには、天文方の渋川六蔵訳、宇田川榕庵・杉田成卿訳とともに、森山親子の訳が三通り並ぶ。「大船庵」という古文書のサイトに掲載されていた「和蘭告密」や宮内庁宮内公文書館にある「喎蘭告密」を頼りに筆文字を読み取ると、以下のようなものだ。宇田川・杉田訳は、私では正確に読めない。 

【渋川訳の冒頭】 
「鍵箱之上書和解 渋川六蔵 この印封する箱には和蘭国王より日本国帝(征夷大将軍を指し奉るなり)に呈する書簡の箱の鍵を納む、この書簡の事を司るへき命を受る貴官のみ開封し給ふへし   
 暦数千八百四十四年二月十五日(天保十四癸卯の事、十二月十七日に当る)」 

【森山親子訳の冒頭】
 「横文字和解 森山源左衛門・森山栄之助/鍵箱之上書横文字 此封箱は日本国殿下へ和蘭国王より奉捧る書翰之鍵入有之候、此封御鮮明之儀は江戸表より其為被 仰付候高位之御役人様被為成度奉存候  
「スカラーヘンハーゲ」に於て、和蘭暦数一千八百四十四年第二月二十五日」

 「紅毛密告」では、同じ内容が3通りの訳で繰り返されたあと、贈り物の目録が一度だけ書かれ、その最後に森山親子の名前が並び、その上に「巳四月」と年月が入っている。目録の翻訳は森山親子によるものと考えてよさそうだ。冒頭を比較しただけだが、森山親子の訳は原文に忠実な直訳だったようだ。  

 3通りの翻訳はいつごろ、どの順番でなされたのだろうか。別段風説書は1840年の第1号から1847年の第8号までは長崎でオランダ通詞が行なっていたが、その後はしばらく江戸の天文方で訳し直し、長崎訳と江戸訳が比較されていた。ウィレム2世の国書は、まだ長崎訳のみの期間にもたらされたものだが、鍵付きの箱であり、長崎奉行に開封の権限はなかった。 

 弘化2年というこの年に、栄之助の父は参府休年出府大通詞、つまりオランダ商館長の江戸参府はないけれど、オランダ通詞だけが出府する役を担っていたことが、『和蘭陀宿海老屋の研究』史料篇(思文閣出版)からわかる。出典は「出府名簿」とあり、出府小通詞は植村作七郎だった。前述したように、栄之助は3月まで浦賀にいたので、この年に親子がともに関東にいたのであれば、マンハッタン号事件後に栄之助が江戸へ行き、そこで父とともに翻訳を命じられた、という可能性がありそうだ。  

 佐藤昌介の『洋学史の研究』(中央公論社)で親書問題が取りあげられていることを岩下哲典先生から教えていただき、読んでみたところ、翻訳の経緯は以下のようだった。幕府の訓令を仰いだ長崎奉行の伊澤政義が弘化2年8月20日に国書を受領し、国書は翌日長崎から江戸に与力の平田音三郎によって運ばれ、9月21日に到着、23日に勘定奉行石河政平が受領した。平田に随行したオランダ小通詞の西記志十(のちの西吉兵衛)にそこで翻訳させる予定だったものの、西が急病になったため、改めて天文方見習兼書物奉行の渋川六蔵(敬直、1815−1851年)に翻訳が命じられた。渋川がいつ翻訳したのか時期は不明だが、12月23日に国書翻訳の功を賞されており、伊澤らにも12月19日に黄金・時服が下賜されているので、それ以前と考えられている。佐藤氏によると、天文方山路弥左衛門名義の翻訳があり、これを実際に訳したのは天文方詰通詞として江戸に在勤していた品川梅次郎と、天文方の役員の杉田・宇田川らであり、山路が弘化2年5月19日に国書翻訳の功で称されているという。  

 興味深いことに、天文方見習兼書物奉行の渋川六蔵(敬直、1815−1851年)という人は、鳥居耀蔵、後藤三右衛門とともに天保の改革で頭角を現わした三羽烏の一人で、天保10(1839)年にオランダ風説書は通詞を通さず、長崎奉行より直接江戸へ送り、天文方で翻訳すべきだと意見書をだしていた。蛮社の獄に関与したとされる渋川は、水野忠邦が失脚した際に臼杵藩のお預けとなったまま病死、とウィキペディアには書かれている。三羽烏の一人、後藤は死罪となった。「渋川は、弘化二年三月十六日に罪を得て評定所に召喚され、揚屋敷入りを命ぜられている。そうすると当然、渋川の訳文が問題となったであろうから、森山父子および山路が国書の翻訳を命ぜられたのは、渋川の逮捕と関係あったものと想像される」と、佐藤氏は書く。  

 佐藤氏の著書には、驚くべきことも書かれていた。長崎から江戸に親書が届いたのち、通詞の西は9月24日に石河経由で林大学頭檉宇(皝、ひかる、1793−1847年)から直書を渡され、林家を訪ねたあと乱心し、その病状を26日に石河に報告したところ、その夕刻、国書和解御免願を提出するようにと石河の内意が伝えられたという。 「いうまでもなく林家は保守の本山であり、とくに大学頭皝の弟鳥居耀蔵や林式部韑は大の西洋嫌いとして知られていた。蛮社の獄をおこして渡辺崋山や高野長英らの洋学者を弾圧したのはかれらであり、さらに鳥居は長崎奉行井沢政義と共謀して長崎会所取調役で砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を罪におとしいれた」とも、佐藤氏は書く。  

 佐藤氏が親書問題の項を書くに当たって参照した書の一つが、『幸田成友著作集』第4だったので、そちらも借りてみると、通詞の西記志十は「過言」におよび、「広言」を吐き、「林大學頭[皝]の面前で〈容易ならざる儀〉を言ったと、土佐守[石河]が塚越藤助[御勘定組頭]へ物語ったのを、藤助から又聞きしたと、音三郎が長崎へ帰ってから差出した手稿書にある」と書かれていた。西記志十だけは長崎へ帰ったのちに奉行の伊澤からの目通りはなかったとも。佐藤氏は、林大学頭が西記志十に「おそらくは薬物を用いて狂気の体におとしいれ、かれに国書翻訳の資格なしと認定させたうえで、渋川を西に代わって国書翻訳の任にあずからせようとした」とまで推測するが、開国をめぐる発言で林大学頭の逆鱗に触れたのではないだろうか。  

 佐賀大学地域学歴史文化研究センターなどがまとめた『天保十五年和蘭陀使節船渡来』によると、パレンバン号は5カ月間も海上に錨泊させられた挙句に、10月18日(陽暦11月27日)は返書を待たずに出航していた。長崎の警備を担当していた佐賀藩が江戸藩邸と連絡を取るのに「中十一日」かかっていたことなども、ここからわかった。当時、「水野の再入閣にさいして、堀[親寚、信濃飯田藩主]をのぞく閣老がこぞって反対してサボタージュ戦術に出た」と、佐藤氏の書にあり、そのためオランダ国書問題への対応は遅れ、7月18日になってようやく老中牧野忠雅が長崎奉行に下知状を下したほどだったという。  

 幕府からの返書は、老中から摂政大臣宛として弘化2年6月1日(1845年7月5日)に、つまり森山親子や天文方の山路らの翻訳後にようやく書かれた。オランダは「通信之国」ではないため、国王親書への返事はできず、今後はもう書翰を送らないようにという「諭書」で、これを伊澤からオランダ商館長に渡したと思われる。  

 この年の7月3日(陽暦8月5日)には、イギリスの測量船サマラン号も長崎に来航した。このときは栄之助を含むオランダ通詞では言葉が通じず、同船に乗り組んでいた広東出身の船員と長崎の唐通詞が話すことで、ようやく意思疎通ができたと言われる。父の源左衛門の名前がこの年8月に翻訳された別段風説書の翻訳者のリストに西記志十らとともにあるので、親子とも夏には長崎に戻っていたのだろう。 『Narrative of the voyage of H. M. S. Samarang(サマラン号の航海)』と題された本がネット上で読め、その解説書の扉の横に「日本の紳士」と書かれた挿絵がある。サマラン号の来航時、森山はまだ江戸にいたのではないかと考えていたのだが、妙な着物を着た二本差しの若者の絵を見たあと、「彼らの多くはオランダ語を話し、なかにはフランス語が少しばかりできる人もいた。[……]若干の英語の言葉を操る者すらいた」という箇所と、「これらの人びとのあいだでも、深く窪んだ細長い中国風の目は一般的だったが、なかにはヨーロッパ人の目と同じくらい大きな目の者も見た」という一節を読んで、栄之助のことかもしれないと思った。長崎奉行所や通詞たちの礼儀正しい振る舞いは総じて好印象を与えたようで、刀を抜いて見せることを嫌がり、切腹はどうやるのかと尋ねると、非常に不快感を示したが、それには脇差しを使い、太刀は戦うためだと示唆した、とある。それなりに会話は成り立ったようだった。  

 長崎奉行の伊澤政義は、佐藤氏の書によると、高島秋帆の証人を病死と偽っていたことが発覚して罷免され、同年12月3日に江戸城西の丸留守居に左遷され、翌年7月25日にはそれも御役御免、差し控えを申し渡されている。ところが、ペリー来航の年、嘉永6年12月15日になって、突然、将軍申渡しで浦賀奉行に任命され、12月晦日には応接掛の一員として扱われるようになったことが、『幕末外国関係史料』3からわかる。この間に何があったのか、説明するものがいまのところ見つからないが、こうして伊澤は、彼の罷免後に長崎奉行を務めた井戸対馬守覚弘や森山栄之助とペリーに応接することになった。ペリー艦隊が浦賀に再び現われた翌年正月11日になって応接掛のトップに据えられたのは、林大学頭皝や鳥居耀蔵の弟である林韑(復斎)だ。この間ずっと老中首座は阿部正弘だったほか、石河政平や松平近直などの面子も弘化年間から変わらない。何やら寄せ集めのように見えたペリー来航時の応接掛の人選と、蛮社の獄の時代との関連がどこにあるのかを探りたいところだが、水野忠邦という人を見直し、阿部正弘との関係をよく調べないと簡単にはわかりそうにない。  

 ついでながら、森山栄之助は嘉永6年には参府休年出府小通詞となり、2月にはオランダ人からの献上品をもって京都に行った(『和蘭陀宿海老屋の研究』)ほか、7月に来航したロシアのプチャーチン一行にも大通詞過人として翌年正月まで、大通詞の西吉兵衛(「乱心した」西記志十)とともに勤めていた。

Notes from a journal of research into the natural history of the countries visited during the voyage of H.M.S. Samarang 、扉横の口絵、Gentleman of Japan (スクリーンショット)

図書館から借りている貴重な本の数々。横浜市の市民・県民税は高いけれど、こういう蔵書のためなら喜んで払いたい。

『幕末外国関係文書』3に掲載されていた1853年の長崎西役所露国使節応接之絵図。通詞は西吉兵衛と森山栄之助で、森山は背中を向けて平伏しているほうかもしれない。
 ゴンチャロフの来日時の手記は未読なのだが、そのなかにこんな描写があるらしい。「全権達は話したいといふ合図をした。すると忽ち、どこからともなく栄之助と吉兵衛が蛇のやうにするすると、全権の足下に両方から這ひ寄ってきた」(徳永直『光をかかぐる人々』)

2022年2月27日日曜日

平和主義について

 昨年から取り組んできた翻訳の仕事で、何度となく考えさせられてきた問題が平和主義だった。自分のなかで考えがまとまらないうちに、ロシアがウクライナに侵攻するという事態で世界が揺り動かされ、この暴挙にでたプーチン大統領にたいする非難の嵐と、ウクライナを支持するために青と黄色の国旗を掲げる人びとの反応を見ながら、なるほど、こうやって戦争に突入するのかと事態を注視している。

 戦争となるとすぐに軍事力の話になる。ウクライナとロシアの軍事力の差を検証し、ウクライナの軍備が不足していたと主張する人も多い。いまなお核抑止力に言及する人すらいる。しかし、実際にはどんな戦争でも、勝つためには国際社会から賛同を得られる大義が必要不可欠だ。先に手をだした側は間違いなく分が悪く、今回ロシア側の「偽旗作戦」は功を奏したとは言えない。  

 プーチンほどの人物であれば、過去の戦争の諸々の事例を熟知しているだろうに、なぜ敢えてこのような行動にでたのだろう。長年権力の座に就いてきたプーチンが、ついに頭がおかしくなったのか。それとも、ロシアにしてみれば「生存圏」を脅かされる事態がつづいてきて堪忍袋の尾が切れたのか。ロシア兵として攻撃に参加している大勢の人びとは、命令され、脅迫されて仕方なくやっているのか、それともロシア国民の大多数はプーチンの行動に共感するものがあるのか。危機を煽りつづけ、対話をやめ、プーチン一人を悪者にしてきた欧米側の対応には問題がなかったのか。  

 こうした疑問が私の脳裏にいくつも浮かぶのは、太平洋戦争中の、やはり狂気の沙汰としか思えない日本軍の行動と、それを一斉に非難した国際世論や、いまなお当時の日本軍の行動を正当化したがる一定数の日本人がいる事実と比べてしまうからだ。経済制裁で石油が輸入できなくなって開戦に踏み切った当時の日本の事情に類似する、ロシアでは意味をなす何らかの大義や正義があったのではないのか。地理的にも時代的にも遠く離れたところから眺めれば、ただの狂人にしか思えないヒトラーやスターリン、東條英機、あるいはサダム・フセインやウサーマ・ビン・ラーディン、カダフィなどのうち、何人が本当に狂人だったのか。本当に狂人だったとすれば、なぜいまだにその信奉者がいるのか、こうした問題は私のなかで長年解決がつかない。  

 祖国の存亡の危機に直面し、次の瞬間にもGPSで誘導されたミサイルのわずかな誤差で命を奪われるかもしれず、生き延びても住み慣れた街を破壊され、生活の糧をすべて奪われるかもしれないという事態に直面したとき、どういう行動をとるのが賢明なのか。民間人であれば、逃げる、つまり疎開するのが関の山で、それすら移動できる余裕のある人に限られる。大量のウクライナ人が国外へ脱出し、この事態が長期化すれば、周辺国では新たな移民・難民問題となるだろう。  

 祖国の危機には武器をもって反撃せよという、血気盛んな声も聞こえ、ウクライナに援軍を、と主張する人もいる。幸い、そうすれば第三次世界大戦を引き起こしうることを熟知している欧米社会からは、そうした声はまだ大きくない。しかし、「ウクライナ軍が勇敢に反撃」とか、湾岸戦争のころのようにそそくさと派兵しないアメリカを「弱腰」などと書く人も見受けられる。  

 私が翻訳の仕事のなかではたと考えさせられたのは、実際にはウクライナ情勢とはまるで無関係の、『バガヴァッド・ギーター』で描かれるアルジュナとクリシュナ神に関する短い言及だった。多大な犠牲者がでることを予期して反戦を唱えるアルジュナを、どんな壮絶な結果になろうと正義の戦争なのだから戦う義務があるとクリシュナ神が説得したというものだ。アルジュナは、説得されてしまったとはいえ、初代反戦論者、平和主義者だったのか、などと思い、何年か前にバリへ旅行した際に娘が土産に購入したワヤン・クリのミニチュア版が、偶然にもアルジュナだったらしいことを発見して、年末に写真を撮らせてもらっていた。  

 ヒンドゥーのこの聖典そのものはまだ読んだことがなく、アメリカのアラモゴードで最初の核実験を成功させたロバート・オッペンハイマーが、その情景を見て「われは死となり、世界の破壊者となった」と『バガヴァッド・ギーダー』から引用したという逸話について知っている程度でしかない(『未来から見た私たちの痕跡』では、この逸話は作り話とされていた)。いつか、きちんと読んでから書こうと思っていたが、そんな時間がもてるようになる前に世の中が様変わりしかねない、と思ってこの駄文を書いている。  

 じつは、アルジュナとクリシュナに関するこの説明を読んだとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、ペリー来航時に、通商を始める前提で和議を主張する幕閣や応接掛に、「奮発の様子毫髪もこれ無く」などと憤慨し、けしかけつづけた徳川斉昭のことだった。  

 このとき平和主義を貫いた幕府の対応が、決して単なる弱腰でも、その場凌ぎでもなく、少なくともアヘン戦争の発端をつくった清朝の対応の誤りや、おそらくわずか1日の戦いで、その後200年にわたるインドの植民地化を招いたプラッシーの戦いについても熟考し、通商によって生き残るすべも検討したうえでの判断だったに違いないことがわかってくるにつれて、憲法9条の萌芽はここにあったのでは、とすら思うようになっていた。ペリー来航時の幕府の対応は、軍事力ではどうあがいても太刀打ちできない大国からの脅威を前に、礼儀を尽くして正論を主張し、軟着陸できる妥協点を探ったものだったのだ。  

 段抜き見出しの新聞が配達されてくるたびに、ネットニュースでウクライナ情勢が次々と報じられ、SNSでウクライナへの同情を表わす投稿が増え、反ロシア感情が高まるのを見るたびに、私たち外野がこれをウクライナかロシアか、という国同士の対立にしてはいけない、と強く思う。こうした事態を招いた遠因が、ウクライナ・ナショナリズムの高まりであると知れば、なおさらだ。両国の関係は、日本と中国、あるいは韓国、北朝鮮との関係以上に複雑であり、国境線を引いてきれいに分かれるものでもない。どちらの国にも対立を煽る好戦的な人間はいるけれど、どちらの国でも圧倒的多数は平和な暮らしがつづくことを望んでいるはずだ。外野は平和主義に徹し、ロシア国内の反戦の声を拡大させ、プーチンの支持基盤を崩すことに徹するべきと思う。平和主義の問題は、いずれまた別の角度から、もう少し冷静な頭で考えてみたい。

ちょうど6年前にバリへ旅行したきに、娘が偶然買っていたワヤン・クリのミニチュア版。アルジュナ、と思う。

2022年2月20日日曜日

 車偏の漢字は、私が長らく興味をもってきたものの一つだが、これまで「輦」の字の意味をきちんと調べたことはなかった。訓読みは、てぐるま、音読みは、れん、という。字を見てのとおりに、複数の人間が引く車を指す言葉だというが、のちに輿と混同され、川を人足が担いで渡る際のお神輿のような乗り物も「輦台」と呼ばれるようになった。  

 正月明けに切羽詰まって仕事をしていたとき、ふとヤフオクで古い雛道具が安く出品されているのが目に留まり、以前から小さな御所車を欲しいと思っていたので、ほかに入札者のいなかった極小のものを手に入れてしまった。掌に乗るようなミニチュアで、屋形と呼ばれる本体は紙でできており、しかもその部分が箱のように、パカッと外すことのできる楽しい作りのものだ。その昔、娘が小さかったころ、古語辞典の口絵だけを頼りにフィルムの蓋を車輪代わりにして、御簾まで竹ヒゴで編んで牛車をつくってやったことがある。ところが、出品されていた何点もの御所車をしげしげと眺めた結果、私がいくつも勘違いをしていたことが発見された。  

 乗降用の階段付きのタイプもあって、いずれも御所車の後部にそれがあるので、乗り降りは後ろからしており、通常、前後に開口部があった。屋形部分は軽く丈夫にするために、竹を格子状に編んだり、網代張りにしたりしていたようだ。大半の駕籠もそうした造りで、まさしく人の乗れる「籠」だったわけだ。  

 雛道具や着物のデザインに描かれる御所車は、総じて轅(ながえ)と軛(くびき)が置き台の上に載せられていて、牛はいないことが多い。本当に牛車だったのか、というのが私の長年の疑問だったが、その答えが「輦」にあったようだ。日本では畜力がほとんど使われず人力頼みだったことを以前に何度か書いたが、元祖人力車に限りなく近いものが、この輦なのだ。日本には去勢の習慣がなかったので、牛の制御が難しく、人も一緒に、もしくは牛なしの人力だけで引っ張る必要があったのだろう。  

 御所車に関心があったのは、以前からの車輪の歴史への関心に加えて、英照皇太后の葬儀で使われた乗り物が確かに牛車であったのを知ったためだった。当時の雑誌に掲載されたイラストでは、牛の絵の上に描かれた乗り物に「御輦」と書かれており、大喪時の写真や説明から、牛4頭と人が一緒になって引っ張ったことがわかった。皇太后の大喪では人が担ぐ御輿も使われており、輦を使う習慣がなかった東京では青山御所から青山停車場まで輿が、京都では停車場から大宮御所、そこから御陵墓まで輦が使われ、その間は汽車が使われた。青山を明治30(1897)年2月2日午後2時ちょうどに出発し、京都には翌朝8時35分に着く通過駅ごとの詳細な時刻表が掲載されていた。  

 このイラストを掲載した東洋堂発行の雑誌『風俗画報』の第135号、臨時増刊「御大喪圖會」の裏表紙には、発行者からのこんな広告がある。「苟くも帝國民たる者は。必ず一本を求め。机右に置て以て涙襟の紀念とせられむことを」。当時、輦なる乗り物を実際に見たことがあった国民はごくわずかだったと思うが、それが雛道具の一つとして後年盛んにつくられたのは、職人たちがこぞってこの雑誌の「一本を求め」たからかもしれない。英照皇太后は、おすべらかしに着物を着て御殿に住んでいた最後のお雛様のような人だったからだ。

 嘉永元(1848)年12月15日、英照皇太后が女御として入内した日にも「輦車を聴す」と『孝明天皇紀』は書き、「次引出御車、於中門外懸牛」などの文字も見られる。「懸牛(かけうし)」は、牛車を引く牛のことだ。「九条家記」からの引用であるこの長い一節は、私にはおおよそしか理解できないが、「次御車さしよせ[差に車](檳榔)於寝殿階、殿上人二人附御轅、諸司二分八人引之」などともあるので、二手に分かれて8人で牛と一緒に引いたのかもしれない。

 檳榔の文字が気になり、調べてみると、驚いたことに檳榔毛車(びろうのけぐるま)と呼ばれる乗り物のことだった。しかもこれは、檳榔子(areca nut)のできるビンロウではなく、同じヤシ科でも四国南部から南西諸島にかけて自生するビロウ(別名:蒲葵、アジマサ、クバ)の葉を細く裂いて並べた、雨覆いのように垂らした代物のことらしく、現代人の感覚からすると南の島の小屋にしか見えない飾りだった。  

 私が買ったミニチュア御所車のように、唐破風の屋根のついたものは、最も大型で最上級の「唐車」と呼ばれるものらしい。それに檳榔毛が取りつけられることもあったが、女御が入内するときに乗る檳榔毛車は、もう少し小ぶりの、物見のための窓のないタイプのようだ。一方、大喪のときに使われた輦は、車輪の直径1.8m、車軸からの車高が約2.3m、屋形の横幅が1.4mほどの大型のものだった。孝明天皇が崩御した際に牛車を製造した70歳過ぎの大工がまだ健在で、その人に造らせたと『風俗画報』第136号にある。  

 大喪時に発行された雑誌類は、だいぶ前に入手したきり、まだざっと目を通しただけだが、不可解な点は多々ある。大喪使長官は有栖川威仁親王だった。兄の熾仁親王とは葉山の御用邸となる場所を提供してもらうなど、交流があったようだ。斎主は廷臣八十八卿列参事件で中心的な役割をはたしたと主張する、当時82歳という高齢の久我建通で、両名の写真は雑誌『太陽』第3巻第4号では口絵のそれぞれ1ページを使って大写しになっていた。ところが、英照皇太后の実家である九条家当主で、同じ雑誌に「皇太后宮には内実御弟にて表面は甥御に当たらせらる」と書く九条道孝は、ようやく事務官の一人に名を連ねるだけで、写真は一枚も掲載されていない。下の弟たちである松園尚嘉、鷹司煕通、二条基弘、および甥の九条道実という近親者は8人の斎官の半数を占めていたと思われるが、それすら記述は一定しない。『風俗画報』135号には、「皇太后陛下の御乳母 たりし故菅山女官の生家たる京都加茂の南大路綱一郎氏」に関する記述もあった。菅山は「御乳母」だったのか。  

 英照皇太后の父は、右大臣も左大臣も務め、その後、公家の頂点である関白にまで登り詰めて、幕府とともに開国に向けて尽力していた矢先に、廷臣八十八卿列参事件で槍玉に挙げられた九条尚忠だ。関白は平安前期からあった職なのに、雛壇に関白はいないなあ、高位の公家であるはずの右大臣・左大臣が弓矢をもって下のほうに位置しているのも変だなあ、と思って調べてみたら、雛人形のこの名称は通称であり、本当は「随身」、つまり護衛なのだそうだ。  

 ヤフオクでは御所車のほかにも、壊れかけた古い雛道具をいくつか入手した。うちのお雛様にはなかった挟箱や長持をはじめ、「樹上の鶴」(コウノトリ!)が描かれた箪笥などを、日本の伝統工芸である蒔絵に孫が触れる機会にもなるのでは、という口実で自分を納得させ、購入したのだが、孫は少しばかり触っただけでとくに興味を示さなかったので、ざっと修理をしてしばらくは私が本棚に置いて楽しむことにした。  

 一方、ネット上でサイズがよくわからず、入手してみたら雛道具にしてはいやに大きかったお膳のセットのほうは、孫が大いに気に入り、あちこちで拾い集めた木の実や葉っぱ、種、BB弾などを上手に盛り付けて、盛んにぬいぐるみや人形たちの宴会を催している。漆塗りのままごとセットで遊んだ体験は、美意識や色彩感覚に何かしら影響を与えそうだ。 

《追記》
  この記事を公開したのち、図書館にリクエストしてあった京樂真帆子著の『牛車で行こう! 平安貴族と乗り物文化』(吉川弘文館)が回送されてきて、ざっと読んでみたら、檳榔に関する16世紀初頭の『浅浮抄』からのこんな一節が引用されていた。「ビロウヲホソクワリタレバ。イトノヤウニホソク。シロクウツクシクミユルナリ。(中略)ビロウヲホソクサキワルニハ。シヲゝ水ニ入テヨクニレバツヨクテ。雨ニモツヨク。日ニモヨクタユルナリ」。つまり、塩茹でして繊維だけを抽出したようなのだ。ところが、南国でしか栽培できないビロウは近衛家の島津荘の特産であり、時代が下がるとともに入手困難になりスゲで代用されたとのこと。画像検索で見た時代祭の「檳榔毛車」らしきものの写真では、繊維というよりは枯葉に見えたので、塩で煮ていなかったに違いない。

『風俗画報』臨時増刊、第135号、「御大喪圖會」と小さな唐車

その昔つくった御所車。前後が同様に「夕顔形」に開いていることを理解していなかった。

ようやく少しばかり目を通した明治30年刊の諸雑誌・刊行物

 樹上の鶴を見て、つい買ってしまった箪笥

 雛道具で孫が催す大宴会

「シロクウツクシクミユル」檳榔毛という描写からの連想で、シルクリボンを解いてみた。このような繊維を一定の間隔で留めていたんだろうと想像している。

2022年2月17日木曜日

『世界を変えた12の時計』

 昨年から時間や時計についてあれこれ考えるきっかけとなった拙訳書の見本が届いた。デイヴィッド・ルーニーの『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』(河出書房新社、David Rooney, About Time: A History of Civilization in Twelve Clocks)という本で、ご覧のとおり邦訳版は素敵なカバーになった。  

 私自身は時計マニアとはほど遠いタイプで、何年か前に電波時計に買い換えるまでは、私の腕時計はいつも数分単位で狂っていた。そんな私が最初に時間と時計に興味をもったのは大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(N・マクレガー著、筑摩書房)でマリンクロノメーターの歴史に関する章を訳してからだった。小学生のころ、アーサー・ランサム全集にはまっていたので、クロノメーターが船に関係した時計であることは漠然と知っていたが、それによって人類がようやく経度が正確に割りだせるようになったことは、『100のモノ』を訳すまでまるで理解していなかった。  

 ちなみに、アーサー・ランサムの第1巻『ツバメ号とアマゾン号』の6章冒頭にはこんな一文がある。 
「ジョンが時計を見にひっこんだ。ジョンが船長になった今は、時計はクロノメーターとよばれている」
(原文:John disappeared to look at his watch, which was now called a chronometer because John was the master of a ship.)  

 神宮輝男・岩田欣三両氏の訳はとても好きだったが、いま読み返してみると、この箇所はいただけない。原書の初版が1930年という時代背景からも、のちにジョンがその時計をポケットに押し込んでいることからも、これは明らかに懐中時計だし、この箇所はクロノメーターの初出なので訳注がないのは不親切だ。小学生の私の頭では理解できなかったわけだ。一方、当時のイギリス人は子供でも、大英帝国の形成に大きく寄与したクロノメーターの何たるかは熟知していたに違いない。 

『100のモノ』の校正の合間にイギリスに旅行したときは、グリニッジ天文台を訪れて丘の上から蛇行するテムズ川を眺め、本初子午線をまたぎ、ゲートのところの大きな時計も見たが、報時球なるものを見たかどうかは記憶が曖昧だった。それでも、帆船の形の風見とともに、奇妙な赤い物体を見たおぼろげな記憶はあり、旅行時に撮った写真を探してみたら、カティサーク号の背景に見える天文台の上に確かに写っていた。

 まだ無線通信が普及しておらず、正確な時刻を知ることが自船位置の経度を正確に知るために必須であった時代に、報時球は主要な港に錨泊中の船から見える小高い場所に設置されており、1日に1回正確な時刻を告げていた。日本では1903年になって横浜と神戸に、その後ほかにも何箇所か設置されていことを知り、明治後期になってもまだそんなことをやっていたのかと、かなり意外に思った。横浜では、幕末にフランス波止場と呼ばれていた東波止場に設置されていたことなどが『神奈川県港務部要覧』からわかり、あれこれ検索するうちに、eBayで古い絵はがきが手頃な値段で出品されているのを見つけ、この仕事の記念と自分に言い訳して、つい購入してしまった。

 日本では明治4(1871)年9月9日から、皇居内旧本丸で正午を知らせる空砲が鳴らされていたことはよく知られる。これは改暦(明治6年1月1日)以前のことだが、「昼十二字大砲一発づゝ毎日時合法執行致し」てはいかがと兵部省から提案を受けて始まったのだという。では、それ以前はどうだったかと言うと、アーネスト・サトウが『一外交官の見た明治維新』で述べたように、「日本の時間は2週間ごとに長さが変わったので、日の出と正午、日の入り、真夜中を除けば、1日の時刻について確かに知ることは非常に困難だった」。不定時法でも昼九ツと夜九ツは季節にかかわらず、定時法の正午と深夜の零時と同じはずなので、庶民にとって午砲の「ドン」は定時法への移行を意味していたわけではなかったのだろう。  

 午砲に使われていた24ポンドカノン砲は小金井の江戸東京たてもの園に移設されており、佐久間象山の青銅砲について調べた折に見に行ったことがある。この大砲は品川台場にあったものを転用したとどこかで読み、佐賀藩が大量に鋳造した一門だろうかと調べたこともあった。 

『世界を変えた12の時計』では、こうした帝国主義時代の歴史が多くを占めるが、実際にはもっと古代や中世にもさかのぼって人類がどのように時を管理するようになり、それが権力とどう結びつき、人びとがどうそれに抵抗してきたかという根源的なテーマを追究したものだ。  

 なかには『不思議の国のアリス』の一節も登場する。じつは児童文学のこの名作を、私は娘に買ってやった仕掛け絵本でしか読んだことがない。ページをめくるとトランプが盛大に飛びだし、つまみを動かすとチェシャ猫がにんまり笑う楽しい絵本ではあったが、この作品については表面的に理解したに過ぎない。小学校の図書室から原作を借りてきて、夢中になって読んだ娘は、図工の時間に置き時計工作をした際に、白ウサギの懐中時計に見立てたデザインを上手に浮き彫りしていた。この時計はいまも動いていて、娘宅で使われている。引用箇所の翻訳に当たっては、既訳をいくつかネットで探したが、著者ルーニーがここで言わんとしていたことを正確に伝える訳が見当たらなかったので、新たに訳出した。いつか原作をちゃんと読んでおこう。  

 ルーニーのこの本は、現代のクロノメーターのようなGPSを動かす原子時計についてもかなりのページを割いている。GPSを私が最初に知ったのは、まだ旅行会社に勤務していたころに世界道路協会の会議が横浜で開かれ、関連の視察で当時まだ開発途上だったカーナビのお披露目を見たときのことだった。その前年の湾岸戦争で使われて話題になったものだったが、見通しのきく砂漠とは違い、市街地で使うには、精度の高い地図と組み合わせられなければ意味がないのだという説明を受けた記憶がある。いまでは軍事用のGPS受信機の精度は恐ろしいほど上がっているそうだが、人工衛星に搭載されて地球のはるか上空を回る原子時計に依存するGPSそのものは、決して堅固な技術ではない。意図的な妨害や、誤った情報にも振り回されるものであることは、昨年9月のアメリカ軍によるドローン攻撃による誤爆からも明らかだ。  

 コウモリ通信でたびたび触れてきた世界各地の時計台の代表格とも言える、ロンドンのビッグ・ベンの鐘は、2017年8月以来沈黙してきたが、今春には大規模修復工事が終わり、15分ごとに鳴り始めると、先日、報道されていた。ウェストミンスター・クオーターズ、ケンブリッジ・チャイムなどと呼ばれる大英帝国の象徴のようなこの旋律は、全国の小学校で私たちが聞いて育ち、懐かしくすら思う、いわゆるキンコンカンコンだ。あれがイギリス由来だったとは。

 この本は、まるで湯水や空気のように、当たり前の存在になりつつある時間とは何か、時計とは何か、改めて考えさせられる一冊だと思う。ちょっと逆説的だが、私はこの仕事以来、江戸時代までの不定時法に興味をもち、前述したように、日の出観察をつづけている。書店で見かけたら、ぜひお手に取ってみてほしい。

『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』デイヴィッド・ルーニー著、河出書房新社

 カティサーク号内で見たクロノメーター
 2012年5月撮影

 横浜にあった報時球

 グリニッジ天文台の報時球、2012年5月撮影
 左側はカティサーク号

 午砲に使われた青銅砲
 江戸東京たてもの園にて、2013年6月撮影

 娘が小学生のころ図工でつくった時計

冬至からの私の「日の出観察」。ほぼ二十四節気ごとに撮影。
新聞にでる横浜の日の出・日の入り時間で、エクセルで初めてグラフも作成してみた!