2020年10月13日火曜日

森山栄之助の弁護を試みる

  祖先の足跡をたどって多様な文献に当たるなかで、強く印象に残った人が何人かいる。そのうちの1人が、通詞の森山栄之助だとメールでお伝えしたところ、岩下哲典先生が2005年に書かれた「日米和親条約の締結前後における領事駐在権をめぐって──オランダ通詞森山栄之助の関与とハリス駐在問題の発生と解決──」(『明海大学大学院応用言語学研究科紀要』「応用言語学研究」No.7)のコピーを、後日再びお送り下さった。この論考のなかで多く引用されていた三谷博東大名誉教授の『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)を図書館で借りて読んだうえで、私なりに考えたことを以下にまとめてみた。条約問題は、素人が論じるにはあまりに複雑で、拙著『埋もれた歴史』でもほとんど触れなかったので、今回、史料を再び読み直すよい機会になった。図書館では館内閲覧しかできない『大日本維新史料』が、古いものは国会図書館デジタルコレクションで公開されていることに気づいたのも収穫だった。膨大な史料のどこを読めばいいか、ピンポイントで教えてもらえることが、こうした専門家の研究のありがたさだ。

 手短に言えば、「日米和親条約」の第11条の問題で、英語の条文と日本語の条文が異なっているために、2年後にハリスが赴任した当初トラブルが生じた一件は、森山が通訳を誤ったために生じた、と三谷氏は主張しておられ、それを受けて岩下先生はその間の経緯を詳しく論じておられる。
 
第十一條 兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣により、合衆國官吏のもの下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事 

 Article Ⅺ There shall be appointed by the government of the United States consuls or agents to reside in Simoda at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty; provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.  

 問題の箇所は、「両国政府に於いて據無(よんどころな)き義これ有り候時は」と、「provided that either of the two governments deem such arrangement necessary」の部分である。双方を読む限り、意味に大差はなく思えるのだが、日本語版は両国が一致して必要と認めた場合、英語はどちらか一方が必要と考えた場合、と解釈しうるのだという。当時は英語を解する日本人がほとんどいなかったため、条約文は日米双方が理解できるオランダ語と漢文をあいだに介して内容の擦り合わせがなされた。交渉のあらましは以下のようなものだった。

●嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 第1回目交渉 
アメリカ側の要求は①漂流民の保護、②寄港地の開港、③通信・通商で、最大の目的は太平洋航路を開くために石炭補給ができる寄港地を確保することだったので、通商は無理強いしなかった。ただし、日本が外国船の打ち払いや漂流民の入国拒否をつづける「寇讎」の国(敵国)となるのであれば、20日以内に100隻の軍艦を集結して戦争におよぶことも可能だとペリーは脅した。「彼国の者どもは強硬不撓の性質にて、一度申出し候事をば、如何様繰り返し」と、ペリー来航後に応接掛は老中に報告している(『幕末外国関係文書5、244号)  

●2月19・26日(陽暦3月17・24日) 第2・3回目交渉 
日本側からは、長崎で欠乏品を代金と引き換えに供給、5年後にもう1港を開くことなどを提案したのにたいし、ペリーは日本の東南(往路)と北部(復路)で5、6カ所開港するよう要求する。前年のフィルモア大統領の書簡は日本の南部に1港開港を求めていた。結局、日本側が下田を提案し、最終的に下田と箱館の開港が決まる。 

●2月30日(陽暦3月28日) 第4回目交渉 
日本側が用意した書面は用いられず、アメリカ側が用意したオランダ語の条約案を森山栄之助にその場で訳させて協議した。同日のペリー側の記録にはこうある。(『ペリー艦隊日本遠征記』原書p. 377、邦訳書、下巻、p. 215) 
「日本国内に領事代理を居住させる提案は、明らかに委員[応接掛]たちの不安を最も掻き立てたものだった。[……]代将[ペリー]はそのような代理人は、アメリカの自国民のためであるのと同じくらい、日本人自身のためにも置かねばならないと断固として主張した。最終的にそのような官吏が下田に滞在することで譲歩され、ただし条約締結後、1年もしくは18カ月は任命しないことになった。議論された新たな点を含めてさらに2つの条項が議論され、条約案の写しに加えられ、日本人は条約に関して合意した限りのことで彼らが理解したことをオランダ語でまとめ、翌日、ポーハタン号まで届けることを約束したため、代将はその場を離れた」

 前述の応接掛から老中への報告でも、「すべて條約の文は、異人より蘭文の草稿を持参仕り、且、彼方日本通詞にて漢文を心得居候者も、応接の席に出、互いに論議致し」行なった、つまりオランダ語版をまず作成したとする。このとき老中から、「下田へ亜墨利加人差置き候と申す義、十八ヶ月後、有無の答致すべく事か、如何や」と確認されて、応接掛は「来春より下田港へ館舎を建て、吏人を置く事を乞う事度々[……]ヘルリ申し聞き候は、段々御断の趣、某は得と承伏[承服]致し候へども」としたあとで、ペリーが言ったのと同様のことを述べ、「此後再び此相談に及ぶ事も有るべし、但し、それとても十八ヶ月後の事に致すベくと申し候意を認めたる事」と答えている。

 『大日本維新史料』(第2編第5 p. 377以降)では、急にもちだされた領事駐在の件に、「政府に於いて、とても相許し申すべき義にこれ無き」と、林復斎がまず強く拒絶すると、ペリーは「左候はば、先ず其の儘に成し置かれ、もしまたお差支えの義、出来候節は、一人指し置き候ように成られしかるベく存じ候、猶又十八ヶ月の後、使節参り申すべく候間、其の節此事はご談判に及び申すべく候」と、即答は求めなかった。 

●3月1・2日(陽暦3月29・30日) 
3日の調印式を前に日米の事務方が最後の作業に追われた。ペリーの遠征記は「アメリカの通訳官らは日本人と協力しながら、条約を漢文、オランダ語、日本語でそれぞれ作成するのに追われた」と、先ほどの続きに書く。1日の午後、条文作成のために森山と徒目付で漢学者の平山謙二郎、および浦賀奉行与力2人がポーハタン号に派遣された際には森山がすべてを取り仕切っていて、平山らは黙り込んでいたとアメリカの中国語通訳ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』に書く。

 だが、平山は2日の夜8時に「日本語版から作成した漢文版の条約をもってきて、若干の変更と、下田の遊歩の距離に関する重要な間違いを訂正した」(原書、pp.150-52、邦訳書、pp. 252-3)。平山は当日のメモに、「合衆国の官吏を置く、約條にいたし候、一、十八月の後、両官府の一にて余儀無き筋有らば官吏を置くべし」(同維新史料 p. 462)と書いている。ところが、先に合意を見たオランダ語版をもとに作成され、平山が確認した漢文版では条約の第11条は「倘両国政府均有不得已之事情」(もし両国の政府、均しく已むを得ざる事情あらば)と、両国の意味が強調されていた。オランダ語版そのものは現存していないようだが、和解(和訳)はあり、「両国政府之内一方より貴官を設けんと要する時至らば」、つまりeitherの意味になっていた。

 思うに、ペリーにとって領事を置くことはしごく当然の手続きであり、応接掛がこれ以上、態度を硬化させないうちに条約を締結してしまえば、あとは1年半後に領事が赴任したときに何とかなるという思いがあったのではないだろうか。交渉全体の通訳だけでなく、オランダ語版の作成にも責任を負った森山栄之助は、日米のどちらかの政府が必要と認めれば、という意味だと正確に理解していたのであり、それに関しては平山謙二郎も、たとえその成り行きが不服だったとしても、理解はしていたのだ。三谷氏の書では、森山が「領事在住問題を継続交渉に委ねようという日本全権の言葉をアメリカ側に通訳せず、逆に日本側に対してはペリーの断固たる意向を将来の予想のように訳した」と推論し、森山は日米の「両者の強い意志に挟み打ちされた時、これを糊塗する道を選んだのである。森山の始めた作為は交渉妥結まで続けられ、交渉関係者全員を加担者に巻き込んだ」(『ペリー来航』、p. 179)とまで書くが、はたしてそうだろうか。むしろ、先に合意したオランダ語の内容を書き換えて漢文版を作成・承認した平山に作為があったのではないのか。三谷氏も「これは明らかに日本側の欺瞞行為である」とするのだが、それにつづいて「日本全権はアメリカ側だけでなく、公儀の老中も欺こうとした。交渉に使ったオランダ語版ではなく、漢文版を条約の正文とし、日本語版はそれからの翻訳として報告したのである」と書く(同、p. 181)。これはウィリアムズの説明とは異なり、応接掛から老中への説明にも、私が読む限りでは「全権が条約本書と称する漢文版」(同、p. 198)に相当する部分は見つからず、老中は交渉がまずオランダ語版で作成された経緯は理解していたと思われる。

 実際には、拙著にも書いたように、ペリー来航時、林復斎ら応接掛は、交渉前の2月2日に、月番老中の松平忠優(のちに忠固と改名)から「応接の事一々旨を老中に請うなかれ。[……]後日の咎は老中、これに任せんと」送りだされており、6日に水戸の斉昭が和親交易は決して許してはならないと応接掛や老中に言い含めたにもかかわらず、この日「老中等大学[林復斎]等に諭して前納言[斉昭]の命に従わざらしむ」と、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安紀事』に書いているのだ。福井藩の中根雪江の『昨夢紀事』にもこの間の出来事に関連して随所に老中間の意見の違いがあったことが示唆されている。「一説、林・井戸二氏、下田の事を申出せしは、両氏杜撰の意見にはあらで、内実は閣老衆の両人へ被命し時、為ん方なくは下田位はと何となく申されたる事あれば」(第1巻、p.165)。この箇所を引用した『水戸藩史料』は、「此の時月番の閣老は松平伊賀守忠優なり。其の人の阿部正弘と一致せざりしは前後の事情に明なり」と注を入れている(上巻乾、p. 286)。下田・箱館の開港が決まった2月26日は、老中首座の阿部正弘がひそかに辞表を書いた日だが、交渉が自分の手に負えなくなったことを苦にしたのかもしれない。平山謙二郎(省斎)はのちに一橋派として岩瀬忠震や橋本左内らとともに忠固に敵対した人物だ。 

 『水戸藩史料』には下田に関連した松平忠優のかなり驚くべき発言も残されている。これは水戸の斉昭から息子の川越藩主松平直宛の私信と思われるものに書かれた内容であり(上巻乾、p.632-636)、私は忠優の真意を測りかねて拙著では引用しなかったのだが、関良基氏の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳しく取り上げられている(pp. 62-64)ので、ぜひお読みいただきたい。「殊に松平忠優の如きは戦を忌むこと尤も甚だしく区々たる下田一港の如きはしばらく委棄するも可なりと発言」と、水戸の史料はこの一件を解説する。このあと、忠優は老中を解任された。

 四カ国語で作成された条約の各版間に齟齬あることは、翌年初めに下田にアダムズ艦長が再来した際に、箕作阮甫と宇田川興齋が確認作業を命じられ、第11条を含め、数カ条に問題を見つけたようだ(『水戸藩史料』上巻乾、pp. 519-527)。この年の正月に書かれた阿部正弘から水戸の斉昭宛の書簡は長文で私には充分に理解できないが、ロシアとの条約調印を担当していた筒井政憲と川路聖謨がアメリカとの条約で「漢文には倘両国政府均不得已之事情云々と御座候て、両国均と申す三字、後日此方より彼是と口出し相成り候」、あるいは「墨夷條約蘭文和解の方は漢文の両国均と申す字に符合仕らず[……]彼よりは是を差出し、此方よりは漢文を持出し終に所謂水掛にて論定仕りまじきか」などと書かれている(同、pp. 533-537)。条約に問題があったことは当事者のあいだでは周知の事実だったが、事前に誰かが再度交渉に現われるはずで、そのとき再度談判できると思い込んでいたのではなかろうか。

 1856年にハリスが突然来日した際に、幕府は確かに慌てふためいた。ハリスのオランダ語通訳ヒュースケンの日記の英訳版(原文はフランス語)には、8月21日の条(27日の読み違いか)に、日本側はアメリカの領事をこの地に置く必要性を感じておらず、その理由は条約で在日本領事が任命されるのは、「either [sic] of the two governments deemed it necessary」と書かれているからだと彼は記していた。その箇所に英訳者・編者が、「ヒュースケンはここで誤解していた。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合に(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と、注を入れている(pp. 85, 235)。英語のeitherは、ヒュースケンが気づかなかったように、「どちらか」ではなく、「どちらでも」と解釈できる言葉なのだ。オックスフォード英語辞典の定義を借りれば、「one or the other of the two people or things」という意味だ。その点で言えば、日本語の「両国政府に於いて」も解釈の余地がある言葉だ。

 ハリスの日記では8月27日の条に、上級の通訳(つまり森山)が前日にやってきて、「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなってはいない。[……]条約では領事は両国が派遣を望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた」と書かれている。この箇所の脚注では英語版の第11条が引用され、「日本語版はあいにく、両国政府が領事を任命する必要があると見なした場合にとしていた」とする(原書、pp. 208-209、邦訳書、中巻、p. 26)。安政の大地震から10カ月後でまだ復興していない日本に来日したハリスは、当初、困惑した幕吏に迎えられたが、29日には下田の柿崎の玉泉寺に入った。

 岩下先生は「後で一部の人々が、齟齬に気が付きながら、目をつぶった」食い違いを、再び現場に立たされた森山が臨機応変に対処したとする(p. 85)。諸々の背景を考えれば、私には応接掛が勝手に交渉を進めたわけでもなければ、森山栄之助が条約締結時に通訳を間違えたわけでもないと思われる。ハリスが突然やってきた当初、老中首座を退いたものの、なんとか開国を取りやめにしたい阿部正弘のもとで、森山はウィリアムズが署名している漢文版条約を盾に、領事駐在は両国が「均しく」已むをえない事情になれば、という意味なのだと主張するよう言い含められて、交渉に当たったと解釈することは可能であり、その方がより自然ではないだろうか。外国事務はその10月から老中首座の堀田正睦の担当となり、ハリスにとってはよい結果になった。

 蛇足ながら、ペリー再来の際に松代藩の軍議として横浜警備に就いた佐久間象山の「横浜陣中日記」の2月13日の条にある「例の謀る事」が、歴史学者の松浦玲の推測どおり、「横浜を以てこれに仮すの愈(まさ)れり」と『省諐録』にある下田開港阻止運動のことだとすれば、応接掛が19日に下田を提案する前の情報入手ということになる。象山が同月21日に出府して下田開港に反対し、「已むことなくば寧ろ横浜を開くに如かず」と建言したことは『水戸藩史料』(上巻乾、pp. 294-296)からもわかる。これは交渉の成り行きを見越して幕府内で事前に下田で根回しが進んでいた証拠であり、またこの時点ですでに横浜を代案として主張していた象山の慧眼には、驚かされるばかりだ。
 

森山栄之助(多吉郎と改名)の墓所は長崎の本蓮寺だけでなく、巣鴨の本妙寺にもあること岩下先生から教えていただき、先日、訪ねてみた。「日本最初の通詞」という案内標識は誤解の多い表現だが、この寺は参拝者の便宜を図ってくれており、ほかにも遠山の金さんや、剣術家の千葉周作など著名人が埋葬されていた。

2020年10月11日日曜日

追補その6:谷中墓地と本郷弓町

 1年以上前から、確かめに行かねばと思いながら、本業があまりにも忙しくでかけられずにいた。ようやく仕事も一段落したので、多少小雨もぱらついていたが、昨日は思い切って都内の各地を歩き回ってきた。

 優先順位の高い場所の1つは谷中墓地だった。ネット上に墓マイラーの方々があれこれ有益な情報を載せてくださっているので、松平忠固の娘で、須坂藩主の堀直虎に嫁ぎ、夫の死後、実業家で、のちに政治家にも転身した中澤彦吉と再婚した俊(しゅん)姫の墓があり、墓碑にいろいろ刻まれていることは知っていた。墓碑銘が松平俊子となっていることがずっと気になっていたと、以前にご子孫の方が話しておられたので、いつか訪ねようと思っていた場所だ。

 墓所には夫婦それぞれの巨大な墓碑が並び、その一方に松平俊子と大書されていた。側面にはおそらくこう彫られている。「諱俊子松平氏考曰忠固三女妣井上氏/弘化四年十一月十六日生明治七年七月/嫁中澤彦吉産男二女一明治十六年四月/二十七日罹病而歿享年三十有七歳葬于/東京谷中公塋内」。俊子は1864年に16歳で須坂藩に嫁ぎ、1868年に最初の夫と死別後、1874年に26歳で再婚し、実際には35歳で幼い子供3人を残して亡くなったようだ。時代に翻弄された俊姫が短い人生の終わりに、自分は松平の人間なのだと夫婦別姓を主張し、それを夫が受け入れたのだろうか。

 私がこの墓碑で知りたかったのは、最初の1文だ。忠固は正室を早くに亡くし、子供はいずれも側室の子なのだが、上田に残る史料には食い違いがあった。いろいろ照らし合わせた結果、娘2人と最後の藩主の忠礼と末弟の忠孝の母としは、忠固が大坂城代だった時期に、「呉服問屋大丸の裁縫を引受くる職人の娘なりという」という説に分があると私は判断していた。もう一方の説は、上田藩士の井上氏の娘というものなのだが、家臣には井上家は一軒しかなく、その家の息子と思われる人物が「般若面」の「アバレ野郎」だと書かれていたからだ。俊子の写真は少なくとも3枚は残っており、忠礼とよく似た細面の美人であり、母としと思われる女性もほっそりしたきれいな人だった。ところが、この墓石に「井上氏」とあるのだ。「井上説」の根拠となっていた松野喜太郎氏の一連の記事は昭和初めのもので、おそらくこの墓標を確認して書かれたのだろう。ただしよく読むと、「松平氏考曰」となっており、「妣」に見える字が確かにそうであれば、母としもこの時分には故人となり、妻に先立たれた中澤彦吉氏は、「松平氏考」に頼らざるをえなかったのかもしれない。
 










 中澤彦吉夫妻の墓、谷中墓地(甲3号7側)

 墓地のこの区画には、もう一基「及川松野之墓」と書かれた墓碑があった。側面の碑文は薄れかけていてよく読めないが、「故上田藩士笈川玖太女」であることや、「姆」の字が読め、俊子の死後、「婦人悲傷[……]遂得病明治十七年四月十三日歿年六十有七」と書かれているので、俊子の乳母ではないかと思う。上田藩士には笈川久太という名前が見つかるが、その娘だとすると年齢が合わない。その妻だろうか。俊姫が大坂で生まれたときから側で仕え、おそらくは須坂藩にもついてゆき、最愛の姫の急死後は生きる気力を失ったに違いない。内田九一撮影の一家の写真の右端で床に正座している人だろうか。中澤氏のほうは、衆議院議員31年、並行して京橋区会議長40年、銀行重役などを務め、明治の大立者の1人として1912年まで長生きしたようだ。













 及川松野の墓  


 谷中に行く前に、本郷の弓町にも寄ってきた。岩下哲典先生の「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」(『金鯱叢書』第21輯)から、ここにあった上田藩の中屋敷がもともと唐津藩の中屋敷だったことを知ったおかげで、ネット情報から正確な場所が簡単にわかったからだ。この跡地には、1886年から日本基督教団の弓町本郷教会があり、現在の建物は1920年代のものとのこと。創設者の海老名弾正は横井小楠の娘と結婚した熊本バンドの一員だった。上田藩にもキリスト関係者が多いので、何らかの関係があるかもしれない。唐津藩時代は春日通りにいたるまでの広い敷地だったが、上田の最後の藩主忠礼時代の中屋敷は、現在の教会とほぼ同面積だったと思われる(※)。忠固が失脚して西の丸下の役宅を追われた上田藩に瓦町藩邸しかなくなって、さすがに気の毒だと思われたのだろうか。この土地は長らく唐津藩のものだったらしく、前の細道は「壱岐殿坂」と呼ばれていた。教会の斜向かいには、そうした歴史の一部始終を見ていたような文京区一というクスの古木が、いまなお若い枝をあちこちから伸ばして立っていた。

※弓町屋敷は現住所では本郷4丁目6、7、8番地、および2丁目36番地で5082坪であったことが、伊東里津子氏「上田藩松平家の江戸屋敷」、『千曲』51号、1986年の論文を読み返して判明した。以前に赤松小三郎研究会の方からご教示いただいていたのに、見落としていたようだ(2025年3月16日)









 弓町本郷教会









 地上1.5mの幹廻りが8.5というクスノキ

2020年10月9日金曜日

追補その5:白旗問題

 先述の本野敦彦さんの「松平忠固史」のサイトのヘッダーにはもう1つ驚かされたことがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』の挿絵に使われたヴィルヘルム・ハイネの石版画「ルビコン河を渡る」にも、白旗が描かれていたのだ。画面上で拡大されるまで白旗の存在には気づかなかった。私が拙著『埋もれた歴史』に掲載した「江戸湾、浦賀の光景」とともに、アメリカ側が白旗を平和目的の意味で使っていたことは、これらの絵を見れば一目瞭然ではないだろうか。

 「白旗問題」と称される一連の論争に私が関心をもったのは、この問題がつねにペリー来航時の幕府の弱腰を批判される文脈で使われてきたからだ。ペリーの砲艦外交を象徴的に語るエピソードとして、日本側に開国と通商を迫り、いざ戦争になって降伏した場合に掲げる白旗まで2本渡したとする説で、それを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだでつづいている論争のことだ。私が調査の初めに読んだ佐久間象山の評伝を書いた作家の松本健一が何度も言及していたので、のちにどういう意味だったのかと疑問に思い、ペリー関連の書物をあれこれ読んでみた。そうした経緯を拙著『埋もれた歴史』で簡単に触れたため、岩下哲典先生からご著書『江戸の海外情報ネットワーク』(吉川弘文館)のなかで論じられていることを教えていただいた。

 簡単に説明できる内容ではないため、詳しくは同書をお読みいただきたいが、かいつまんで説明すると、ペリーの来航は前年からオランダ商館長による「和蘭別段風説書」で幕府上層部は知らされており、浦賀奉行所でも「奉行だけは老中から情報をリークされて知っていた。しかし、与力、同心たちには正式に話していなかったのである。それ故に中島[三郎助]は必死になってうわさのアメリカ船なのかどうか確かめた」(p. 122)のだという。

『ペリー艦隊日本遠征記』では、1853年7月8日に通詞の堀辰之助が「I can speak Dutch」と言ったあと、「彼の英語は最初の一文で尽きてしまったようなので」、オランダ語通訳のポートマンとオランダ語で会話が始まり、まずアメリカ船かと質問されたことなどが書かれている。ペリー艦隊に同行した中国語通訳のウィリアムズの随行記では、翌朝7時に香山栄左衛門がやってきた折に、乗船する前から次のようなやりとりがあったと書いている。「『アメリカ人ですか?』──『ええ、いかにもそのとおりです』と、その質問への多少の驚きをにおわせる口調で私が答えたところ、一斉に笑いが起きた」

 「ペリー側がなんども〈通達済み〉を主張したため、次第に香山はアメリカと幕府上層部が通じているのではないかと疑いを持つようになったという」(同)と岩下先生は書く。確かに、香山栄左衛門は後日、老中宛に提出した長文の上申書のなかで、ペリー側が「此度浦賀表に渡来致すべく義は、書面を以て昨年中、政府に通達及び置き候事にて」(『幕末外交関係文書』 第1巻〔15〕)、浦賀奉行所から長崎へ回れと言われてもそれはできないと主張したと書いている。しかし、アメリカ側の資料には、アメリカ人かどうか確かめた前述のやりとりしかなく、来航する旨を事前に日本側に通達したなどとはどこにも書かれていない。拙著でも指摘したように、当時の状況を考えれば、オランダがペリーの便宜を図るような紹介を日本側にするはずもないので、これは香山の誤解だろう。

 浦賀奉行所では白旗の意味はすでに弘化年代に知られていたことも同書で知った。「夷狄に白旗の使い方を教えられるとは……。しかし、日本側の火器が到底アメリカの敵ではないことを知っていた香山は、耐えるしかなかったのである」(p. 143)と当時の心情が分析されている。「白旗書簡」に関連した「与力聞書」の成立の過程まで探った岩下先生のご著書から、フェイクニュースが広まった舞台裏がよくわかった。



「ルビコン河を渡る」の絵は、神奈川県立歴史博物館の「ペリーの顔・貌・カオ──「黒船」の死者の虚像と実像」展(2012年)の図録ではなぜか、こう書かれていた。「『遠征記』によれば、実際はこのような状況はなく、蒸気軍艦の威力を背景に小艇を進めている[……]勇敢なベント大尉をイメージさせる虚構であるといえよう」。記録を読む限りまさにこういう状況であり、ハイネの描写は正確だと思われる。

2020年10月7日水曜日

追補その4:「幕府陸軍」の指揮官は松平定敬か

 調査を始めた当初は、一次資料どころか、昭和初期の資料の古めかしい文体を読むのにすら苦労したので、古写真や横浜絵を調べることに多くの時間を費やした。早い段階で私が見つけた写真の1枚が、幕府陸軍の写真を言われてきた和洋折衷のこの一団の写真だ。『甦る幕末:ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社)に掲載されているので、おそらく現物はライデン・コレクションにあるのだと思う。

 中央に立つ洋装の指揮官が、どことなく上田藩の最後の藩主松平忠礼に似ているため、長らく頭の片隅に残っていた写真だった。忠礼は拙著の表紙に使わせていただいた写真で黒馬にまたがっている若者である。その後、『幕末維新秘録』という昭和40年ごろに出版された写真集(私が購入した古本は横浜新聞社刊)に、この同じ指揮官の騎乗姿と思われる写真を見つけた。ところがキャプションには「伏見稲荷山へ巡視の将軍慶喜」とあった。確かに双方の写真の背景には伏見稲荷のように鳥居が連なっているのだが、白黒の古写真から素人が判断する限りでは、鳥居は朱色ではなさそうだ。徳川慶喜はナポレオン3世から贈られたアラブ馬に、ナポレオン・ハットをかぶってまたがる写真が残っているが、この古い写真集の騎乗者は慶喜より明らかに細めで、黒っぽいスタンドカラーに燕尾付きの軍服のウエストに太いベルトを締めているところは、幕府陸軍写真の指揮官とそっくりだ。

 この2枚の写真に写る若者は誰なのか。馬は鹿毛か栗毛に見え、たてがみや尾の様子からも、忠礼が乗る飛雲という黒馬とは違って見える。たまたまこの2枚目の写真を見つけたころ、先述の『写真集 尾張徳川家の幕末維新』を図書館から借りて見ていたので、はたと思い当たったのが、高須4兄弟の末弟、桑名藩の松平定敬だった。この4兄弟はいずれもかなり面長だが、定敬はなかでも面長で細身であり、戊辰戦争時にはしばらく抵抗をつづけ、別の洋装姿の写真が残っている。定敬は明治に入ってから、養嗣子の定教と家臣の駒井重格とともに横浜のS・R・ブラウンの塾に通った。彼自身は日本に残ったが、定教と駒井がアメリカのラトガーズに留学したため、やはりラトガーズへ留学した上田の松平忠礼・忠厚兄弟と、多くの文献で混同されていた。名前も似ていれば、姿形も、境遇も似ているとあれば、間違われるのは無理もない。

 そんな経緯はあらかた拙著のなかに書いたのだが、入稿後に別件で検索をかけていた際に、Afloという写真素材を提供する会社のサイトで新たな情報を見つけてしまったのだ。サムネイルが小さく、報道関係者でないと登録して拡大画像を見られない規定になっていたが、無理をお願いしてウォーターマーク付きながら大きな画像を見せていただいたところ、幕府陸軍の指揮官と「伏見稲荷」の騎乗者と、同じ人物であることは間違いなかった。この写真は幕府陸軍の写真とほぼ同じ位置から撮られており、指揮官の後ろ姿が見えたために、ベルトが上着の後ろまでぐるりと回っていることもわかった。こちらの写真のキャプションは、一緒に並ぶ上田の松平兄弟の留学直前に撮影された写真と混同されたようで、「松平忠礼と鼓笛隊」(RM33318529)となっていた。

 上田の人にとっては、これはやや残念な結果となったが、桑名の関係者にとっては画期的な発見ではないだろうか。この3枚はいずれも、最後の京都所司代となった松平定敬の鳥羽伏見の戦いの前後の写真である可能性が高いと推測している。
写真:(上)Wikipedia 「幕府陸軍」より 
   (下)『幕末維新秘録』より

2020年10月5日月曜日

追補その3:ペリー来航時の鉄道模型

  拙著では佐久間象山と松平忠固に多くのページを割いたため、必然的にペリー来航について調べることになった。ペリーに関しては整理する必要のある重要なことがいくつかあるが、そのうちの簡単なものから、とりあえず書いておきたい。 『ペリー提督日本遠征記』には驚くようなことがたくさん書かれており、ペリー一行が土産にもってきた鉄道模型に関しては、「小さなもので六歳児がようやく乗れるほどだった。それでも日本人たちは、乗車はできないなどと言いくるめられることなく、かと言って客車内に入れるほど身体は縮められなかったので、屋根へと向かった。もったいぶった役人が丸い軌道上を時速三二キロで、緩く羽織った衣服を風になびかせながらぐるぐる回る様子は、少なからず滑稽な見世物だった」と、ユーモアたっぷりに記されていた。あいにく同書の挿絵「横浜蒸気車の図」には試乗する侍の姿がなかったので、私はこの件は確認できないままとなった。

 ところが、松平忠固のドラマ脚本をお書きになり、私も講演会でお会いしたことのある本野敦彦さんが運営しておられる「松平忠固史」というサイトを拝見して、それこそ目が点になった。模型機関車の屋根に乗る侍の姿が描かれた絵がヘッダーになっていたのだ。出典が書かれていなかったので、画像検索をしてみたところ、アメリカのブラウン大学が12枚の絵からなる作者不明の「ペリー巻物」の1枚としてこの絵を公開していることがわかった。巻物自体は、1965年にアン・S・K・ブラウンという歴史学者がロサンゼルスの古本屋から購入したという。同大学の研究者が、この巻物の絵の元となった墨絵も発見して対比させていたので、それを手がかり少々調べてみた。 

 このとき汽車の屋根に乗る大冒険をした人は、斎藤一斎の娘婿で、ペリーとの交渉に立った林復斎のところで塾頭をしていた河田八之助(迪斎、てきさい)であり、日米和親条約の条約文の起草にも携わった人だった。河田はこのときの様子を「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」などと日記に残しており、日本財団図書館のサイトにその経緯がよくまとめられていた。

 墨絵(ペン画に見える)を描いたのは、榊令輔(綽、ゆたか)という蘭学者であったことがわかり、「代戯館(沼津兵学校付属小学校生徒)」(http://daigikan.daa.jp/seito.html)によれば、杉田玄端・杉田成卿の弟子だったという。福岡藩士の家に生まれたが浪人となり、のちに津藩に召し抱えられ、安政年間に『火技全書図』というセッセレル(Sesseler)の蘭書を訳したほか、『魯西亜字筌』というロシア語入門書も書いている。榊令輔のこの絵は、大宮の鉄道博物館にパネル展示されていたことが、ブラウン大学の研究者の報告からわかったが、原画を同館を所蔵するのか、もしくはどこか別にあるのかは判明しなかった。『沼津兵学校と其人材』にある「杉田玄端略歴」も図書館で読んでみたが、多くは書かれていなかった。

  河田八之助は、鉄道ファンのあいだでは、初めて汽車に「乗った」日本人としてよく知られる存在らしい。しかし、彼が条約文の起草にもかかわったのであれば、そこで彼がはたした役割のほうももっと注目されてよさそうだ。















 画像はブラウン大学のサイトからのスクリーンキャプチャ。

2020年10月2日金曜日

追補その2:徳川慶勝の古写真と上田藩瓦町藩邸

 拙著『埋もれた歴史』の調査に当たっては多くの方々にご協力をいただいた。調査を始めてまもない時期に国会図書館のデジタルコレクションに「門倉伝二郎」宛の杉田玄端の書簡を見つけたのに、何年間もその「乱筆」のくずし字が読めずにいたところ、関良基先生が見かねてお知り合いの研究者に頼んで、重要な部分を解読してくださったことがあった。のちにその研究者が、幕末維新史を専門とされる岩下哲典先生であったことを教えていただいた。本が出来上がってから、関先生にお願いして岩下先生にお礼代わりに献本させていただいたところ、逆に多数のご著書や論文のコピーを頂戴したうえに、いくつもの資料をご教示くださった。まだそのごく一部しか目を通せていないが、たいへん重要なものが多いので、拙著と関連するものを中心に追補として、このブログに書いていきたい。 

 なかでも驚いたのは、拙著で長々と取りあげた『写真集 尾張徳川家の幕末維新──徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)のなかの慶勝写真資料を整理なさったのが、大学院時代の岩下先生ご自身だったということだ。教えていただいた『金鯱叢書』第21輯(1994年)は図書館で借りられたので、「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」という先生の論考を読むことができた。

  上田藩の上屋敷だった浅草の瓦町藩邸が、明治になって尾張の徳川慶勝の手に渡り、写真愛好家だった慶勝が瓦町藩邸の写真を何枚も残していたために、私はこの写真集に大いに興味をそそられたのだった。藩邸に関して、私は上田藩の記録しかたどらなかったが、先生の論考から、慶応4年8月の段階で江戸の「郭内・外を決定し、郭内の旗本屋敷はすべて上地、大名屋敷は郭内一カ所、郭外は拾万石以上は二カ所、以下は一カ所」と定められたことなどがわかった。江戸の古地図と明治初期の地図を見比べながら、明治維新は革命だとつくづく思ったが、その発端はこの年の8月にすでに始まっていたのだ。  

 上田藩は「なぜ上屋敷をわざわざ江戸城から遠い浅草瓦町にしたのか」と、岩下先生が問うたとおり、この藩邸はJR浅草橋駅に近い場所にある。ここはもともと中屋敷で、上屋敷は中山道の終点のような筋違橋内にあり、藩主の松平忠固が老中であった時期は西ノ丸下の役宅が上屋敷になっていた。先生の論考では、唐津藩から引き継いだ本郷弓町の中屋敷が5083坪の屋敷だったはずだと指摘されていたが、最後の藩主忠礼の時代にもっていた弓町の屋敷は、万延2年の尾張屋板切り絵図では、神田上水懸樋近くの小ぶりな屋敷に見える。

 「おそらくそこには、傷心の忠優(忠固)を慰めるに足りる歴代の居住者が営んだ汐入りの庭園があったと考えられる」という論考のなかの一文を読んだときには、思わず声を上げた。徳川慶勝の写真を整理された研究者も、瓦町藩邸の庭園を上田藩時代からのものと考えておられたのだ! 植木の茂り具合から、これは慶勝が新たに造園したものではないと私も考えていた。私の高祖父はこの藩邸にいたので、その光景を見ていたはずなのだ。江戸城からは遠いが、ここは中山道には近く、隅田川の感潮区間に位置するということは、川を容易にさかのぼれる場所ということだ。瓦町藩邸には上田の生糸商人も出入りし、長屋を貸し渡されていたので、忠固にしてみれば、江戸の中心街を通らずに横浜と船で行き来できる最高の立地だったのかもしれない。

上田藩瓦町藩邸があった付近の隅田川(2019年3月撮影)

付近にあった喫茶店の2階から眺める。すぐそばの鉄橋は私が通学・通勤に長年使った総武線隅田川橋梁

対岸から(2020年10月撮影)

2020年9月19日土曜日

追補その1:勝海舟と堀直虎

 どんな本でも、間違いの1つや2つはかならず見つかるものだが、先日、発売された拙著『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』は、本来ならば歴史学者に監修を頼みたいほどの内容なのに、校正をお願いする費用すら捻出できなかったため、入稿後に間違いがいくつも見つかった。いずれ正誤表でもだしたいところだが、 取り急ぎ恥ずかしい漢字の間違いを訂正させていただきたい。勝海舟の伯父の名前は正しくは男谷彦四郎(拙著p. 123は彦太郎になっている)であり、田原藩の砲術家は村上範致(同p. 166は範到になっている)だった。

 勝海舟の伯父さんなど、私の興味の対象でなかったのが大きな原因だが、つい最近読んだ『将軍慶喜を叱った男 堀直虎』(江宮隆之著、祥伝社)から、この人の婿養子である男谷信友が、幕末の三大道場を開いていた斎藤弥九郎、桃井春蔵、千葉周作のさらに上をゆく人物で、竹刀試合を奨励した直心影流を名乗る「剣聖」であったことを知り、調べ直して誤記を発見したのだ。信州の須坂藩主となる堀直虎は、この信友の道場に通ったという。信友は生まれが1798年なので、1823年生まれの勝海舟とは世代がずれているが、系図上では従兄弟、血縁でも又従兄弟の間柄らしい。

  勝海舟は墨田区の木母寺で剣の修行に励んだという記述をどこかで読んだ記憶がある程度で、あまり剣士のイメージはなかったが、信友の弟子のもとで学んだようだ。こうした道場は私塾と同様、藩などの垣根を超えて若者を結びつけていたので、勝の幅広い人脈には剣術の世界も一役買ったかもしれないとふと思った。調査の過程で陰惨なテロ事件について知ったのち、何が人をテロに駆り立てるのかに興味をもち、水戸や薩摩だけでなく、浪士関連の書物をいくつか読んだ。千葉周作に学び、清川八郎の虎尾の会にもいた山岡鉄舟と、やはりその会のメンバーでヒュースケン暗殺犯の一人である薩摩の益満休之助を勝が再会させ、それが江戸城無血開城を実現させたといくつかの本に書かれていた。実際に勝がそうした離れ業をやってのけたのだとしたら、剣術の世界での彼の地位のようなものが役立ったのかもしれない。勝の妹で、佐久間象山の妻だった順子が、象山が暗殺されたのちに、虎尾の会メンバーだった村上俊五郎と再婚というかなり不可解な行動を取ったことも、こういう背景を考えればわからなくもない。もっとも、剣の達人で知られた山岡鉄舟は、一度も人を斬ったことはなかったと言われる。彼の知行地であった埼玉県小川町には、小川和紙を売っているその名も門倉商店という店があり、そこを訪ねがてら鉄舟が好んだという「忠七めし」を姪たちと食べたことがある。

  堀直虎のこの小説には、直虎の親友だった土佐新田藩の山内豊福についても詳しく書かれていた。幕府と本藩の板挟みとなって豊福と妻が自害し、あとに娘二人が残されたことは知っていたが、この本を読んでその経緯がよくわかった。堀直虎も「慶喜を叱った」あと、江戸城内で自害した人であり、その妻は上田の松平忠固の娘の俊子だった。後年、俊子の弟の忠礼がアメリカから帰国後に先妻と別れて、再婚した相手が、山内豊福の遺児の豊子だった。山内家と縁組した理由がようやく理解できた気がする。ただし直虎に関しては、以前に『維新の信州人』で読んだ青木孝寿氏の短い論考のほうが、小説仕立てでない分、私には参考になった。どちらにも、須坂藩の丸山という家老が登場し、佐久間象山に馬を手配した人が確か「須坂の丸山という人」だったなあ、などと思いだす。

『庶民のアルバム 明治・大正・昭和「わが家のこの一枚」総集編』に掲載されていた山内豊子