2021年7月12日月曜日

皇太后古写真に見られる誤解

 以前、英照皇太后について調べた際にネット上で見つけたいくつかの論考に、鈴木真一撮影の肖像写真があると書かれていた。あれこれ検索するうちに、参考文献に上がっていた明治神宮発行の古い図録『五箇條の御誓文発布百三十年記念展 明治天皇の御肖像』に、その写真があるのだと勘違いをして古本を入手したところ、期待はずれで、すでに知っている写真しか掲載されておらず、そのまま放置していた。最近またいくつか古い史料を入手したこともあって、虫眼鏡を片手に着物の紋様やら、絨毯の模様を調べたりしたところ、件の図録から思いがけずいろいろな情報が得られたので、とりあえず古写真の件でブログ記事を書くことにした。  

 一つ目は、英照皇太后の写真として広く知られるものが、実際には明治天皇の美子妃の写真だと、より確信をもって主張するものだ。前回参照した写真集では、内田九一が明治5年に撮影したとされる明治天皇の束帯姿の肖像写真(明治神宮の図録では写真1)の周囲が切り取られていたため、下の絨毯の模様がわからなかったのだが、この図録では全体が見えたため、はっきりと確認することができた。そして、その模様は、英照皇太后の写真として、このカタログにも掲載されていた、釵子(さいし)をつけて眉毛のない女性の肖像写真(同図録の写真25)の絨毯とまったく同じだったのだ。同図録には明治天皇のこの写真が、湿板コロジオン法によるもので、ネガ硝子板が現存することや、岩倉使節団からの依頼で撮影されることになった経緯、およびそれらの情報の典拠が『明治天皇紀』であることなども書かれていた。幸い、図書館で貸し出し可能だったので、第1、2巻を借りてみると、2巻の明治5年8月5日の条にこう記されていた。 

「曩(さき)に天皇・皇后、写真師内田九一を召して各〻御撮影あり、是の日、宮内大輔万里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、九月三日、皇太后、亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、当時の宸影、一は束帯にして、一は直衣を著御し金巾子を冠したまふ」

  図録に解説されていたように、8月5日に天皇・皇后の写真が皇太后に贈られたことから、9月3日に皇太后の写真も内田九一によって撮影されたことが確認できる。同日の条はさらにこうつづく。 

「是より先二月、特命全権副使大久保利通・同伊藤博文が書記官小松済治を随へて米国より帰朝するに際し、特命全権大使岩倉具視、済治をして御写真拝戴を宮内省に申請せしむ、宮内省は御写真出来せば直に外務省を経て之を送付せんとせしが、五月両副使再渡米の期に至りても未だ成らざりしが如し」 

 やはり図録の解説どおり、肖像写真の撮影の発端は岩倉使節団からの要請であり、5月にはまだ撮影されていなかったことがわかった。つまり、明治天皇の束帯姿の肖像写真の撮影日は明治5年5月14日以降、8月4日以前としかわからないことになる。内田九一に関する資料にはなぜ4月12・13日撮影と具体的な日にちまで書かれていたのだろうか。

 ちなみに、大久保利通と伊藤博文はこのとき、不平等条約を改正しようと意気込んで渡米したのに、「固より条約改正に関する全権委任状を携帯せず」、それを取りにもう一度日本に戻るという失態を演じており、そのことも第2巻の同年3月、5月の箇所に説明されていた。  

 ネット上では、「英照皇太后」とされる写真(25)の唐衣の文様が九条家の紋で、やはり九条家出身の貞明皇后が結婚の儀で着用した唐衣と同じと書いている記述も見られたが、九条家の紋は下がり藤らしく、昭憲皇太后の実家である一条家もよく似た下り藤なのにたいし、この唐衣の紋はどちらも五瓜に桔梗に見える。それが何を意味するのか私にはわからないが、いずれにせよ、この文様を理由に写真(25)を英照皇太后と決めることはできない。 

 明治神宮の図録には、掲載された写真の詳しい目録もあり、明治天皇の束帯姿の写真(1)は、寸法が「縦二七、横二一、五」(27×21.5cmか)、制作者が内田九一、年代は明治五年、所蔵・奉納者(年)は千葉胤茂(昭和四九)となっていた。一方、「英照皇太后」の写真(25)のほうは、「縦二七、八、横一九」(27.8×19cm)、制作者は空欄、明治時代、徳大寺米子(昭和四九)である。双方の写真の大きさはほぼ同じで、同じ明治5年に内田九一が撮影した明治天皇のもう1枚の肖像写真(2)の寸法は27×19.8cmで、さらに近い。寄贈・寄託されたのがどちらも昭和49年で、「英照皇太后」の写真に関してはとくに、明治神宮所蔵のこの1枚しか、少なくともネット上では確認できないことを考えると、この当時の誤解がいまにつづいていると考えるほうが自然だろう。図録の写真(25)は、内田九一が初めて皇居に呼ばれた明治5年に撮影された美子皇后の写真と考えるべきだ。  

 慶応2年末に崩御した孝明天皇の写真が残っていないことは周知の事実なのに、英照皇太后が東京に移る前に御所なり実家の九条邸なりに写真家を招いて写真を撮影したと考えるには、無理があるのではないか。  

 二つ目は、内田九一が9月3日に撮影した英照皇太后の写真が実際には何カットか残っていて、私が以前に入手した冊子と絵葉書に使われていた肖像写真が、いずれもこのときの作品であった可能性が非常に高いことだ。今回も特徴的な敷物がヒントになった。よく似た模様の敷物が、昭憲皇太后(美子妃)の肖像写真(13)として有名な内田九一撮影の写真にも写るが、こちらはどうやら少し厚手の絨毯のような敷物で、かたや英照皇太后の明治5年の肖像写真のものは薄手で皺が寄りやすい大きな布状のものに見える。その特徴的な敷物が、ほぼ同じ姿勢を保ちつつ、撮影の角度や表情が異なる皇太后の何種類かの写真に皺までほぼ同じ状態で写っているのだ。撮影のあいだ、皇太后は相当な忍耐力で、重い衣装を着て同じ姿勢を保ちつづけたものと思われる。よく見ると、大半のカットでは、後ろに椅子か、身体を支える器具の先端が覗いているが、私が入手した絵葉書ではそれが隠れている。  

 このときの写真として知られるものは、明治神宮の図録に収録された写真(26)を含め、大半はソフトフォーカスというか、露出過多でピントが甘い。ちなみに、写真(26)の寸法は27.81×19cmで、寄贈者・寄託者を含め、(25)と同様の情報が目録に書かれていた。 

 ところが、私が入手した『御大喪図会』第136号の写真と絵葉書(昭憲皇太后の肖像と間違えているもの)の写真は、いずれもピントがかなり合っており、とくに前者は目の窪みや、現代風にくっきりと整えられた眉までがはっきり見え、カメラのアングルが違うせいか、おすべらかしの頭頂部の窪みがなく見え、意志の強そうな大人の女性を感じさせる写真になっている。そのせいで、これは後日まったく同じ衣装で撮影されたものと思い込んでいたが、長袴の皺にいたるまでが同じなので、いずれも同日に撮影された一連の写真と考えるべきだ。『御大喪図会』には「小川一眞謹製」とクレジットが入っているが、遺影に使われたもう1枚の写真の撮影者と混同されたのではないか。若く優しく見えるソフトフォーカスのカットのほうが、英照皇太后はお気に入りだったのか、それらが名刺大の写真、カルト・ド・ヴィジットなどに焼き増しされた。  

 ここで重要なのは、ピントの合っている2枚のカットには、眉がはっきりと見えることだ。その数カ月前に撮影された美子妃と私が考える写真(25)には眉が見えないので、明治5年9月3日撮影の英照皇太后の写真が、本邦初の眉有り既婚女性写真ということになるのではないだろうか? 日本の近代化に向けてみずから行動で示した皇太后の強い意思の表われ、と私は思う。  

 三つ目に、明治神宮の図録は、内田九一撮影の昭憲皇太后(美子妃)の写真(13)を明治5年撮影としているが、これも間違いと思われる。この年の3月に明治天皇が断髪し、10月8日に新制軍服姿で撮影された有名な肖像写真と対にしてよく使われた、くっきりと眉の見える皇后の写真だ。この写真を、明治5年撮影の皇后の写真と思い込んだことからの誤解ではないか。  

 これと同じ写真に手彩色を施した写真が神奈川県立歴史博物館に所蔵されており、図録『王家の肖像──明治皇室アルバムの始まり』に写真10として掲載されている。寸法もほぼ同じだが、明治6年とされ、画像は明治神宮所蔵のものよりずっと鮮明だ。同図録には、『明治天皇紀』の明治6年10月14日の条が引用され、「皇后午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先ず御梅茶屋に御小憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる」とし、そのあとにこう付け足す。「この軍装の天皇と和装の皇后の写真は市中に出まわった。それらが現在もあちこちで確認できるということは、相当数が売られていたことになる」  

 まだ天皇髷のあった明治天皇の2枚の肖像写真に比べて、軍装の明治天皇の写真も格段に鮮明であり、皇后の写真と同じ絨毯の上で、同様のやや高めのアングルから撮影されている。宮内公文書館には洋装姿の明治天皇の写真とセットで保管された史料(32240)があり、皇后の写真は明治5年撮影としているが、神奈川県立歴史博物館の解説のほうが正しいと思われる。  

 明治6年に内田九一が撮影した軍装写真を最後に、写真嫌いだったと言われる明治天皇の肖像写真は撮られていない。御真影として全国の小学校などにも配られ、最敬礼が教育勅語で定められていたキヨッソーネによる肖像画は、『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)によれば、「天皇お食事の隣室控え襖を隔てて正面よりの御姿をスケッチさせた」もので、その後、キヨッソーネが「天皇の正装を借り受けて自らモデルになり、スケッチ画を元に精密なコンテ画を描き上げ」、写真師・丸木利陽が数十日かけて撮影したという。

 明治31年に失火により御真影を焼いてしまった上田の尋常高等小学校の校長で、作家の久米正雄の父は、責任を負って割腹自殺したと、ウィキペディアの御真影の項に書かれていた。天皇の肖像写真はそれほど神聖視されたのに、皇后や皇太后の写真は撮影当時こそスターのブロマイドのごとくありがたがられたものの、その後は宮内省すら長く顧みないものとなったのだろうか。敗戦後、御真影は焼却処分にされたとも、同じ項に書かれていた。

(左)昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書(英照皇太后の写真が間違って使われている) 

(右)『御大喪図会』第136号に「小川一眞謹製」とされていた写真

明治5年、内田九一撮影の明治天皇・皇后の写真と思われるものの敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

「英照皇太后」と貞明皇后の唐衣の紋比較
(上)『天皇4代の肖像:明治・大正・昭和・平成』(毎日新聞社)に、「英照皇太后」として掲載された写真
(下)同書から、「結婚の儀 貞明皇后」の写真

英照皇太后と昭憲皇太后の写真の敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

2021年7月9日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その2

 ブリジェンスは、居留地の実力者ショイヤーとの縁故、あるいはヴァルケンバーグ弁理公使のつてで、主要な建築物の仕事を手がけることができたと一般には言われてきた。しかし、彼の仕事の多くがイギリス関連のものであったのに、この2人はどちらもアメリカ人で、接点となった期間も短いことを考えると、これらの縁故だけではなかったのではないか、という疑問が湧く。  

 リチャード・ブリジェンスの名前で検索すると、南米沖にあるトリニダード・トバゴの植民地を描いた絵が数多く見つかる。これらの絵の多くは、ブリジェンスの父で、建築家、家具職人、作家および画家であったリチャード・ヒックス・ブリジェンスが、自著『西インドの情景』のために描いた挿絵で、奴隷制の実態が描かれた作品として近年注目されている。ブリジェンスの母マリアが、イギリス植民地だったトリニダード島の砂糖きび農園を相続したため、1820年8月17日にロンドンで洗礼を受けた長男リチャード・パーキンスと、1825年生まれの男女の双子を連れて、一家はこの年に移住した。ブリジェンス家にはさらに3人の子供が生まれたことなども、ネット上の祖先探しのサイトなどからわかる。なお、横浜外国人墓地の墓標によれば、幕末の日本に来日したリチャードは1819年4月19日生まれである。 

 父同様に多才だった息子リチャードは、弟ヘンリー・フレデリックとともにアメリカでしばらく地図製作やリトグラフによる印刷業を営んでいた。リチャードは1854年にはサンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。その後、1865年になって妻子を追うように、彼もサンフランシスコから太平洋を渡って日本にやってくるのだが、不思議なことに彼の名前は1867年になってようやく在留外国人人名録である『ジャパン・ディレクトリー』に居留地124番、建築家および土木技師として見つかるという(Meiji-Portraitsの彼の項より)。ところが彼はその年の9月には山手120番地に完成したイギリス公使館と、翌年8月に竣工した築地ホテル館を設計しているのだ。どちらもオールコックに代わって1865年6月に赴任したイギリス公使のハリー・パークスと幕府間の取り決めで推進された建設プロジェクトで、前者は浅海を埋めて最初の鉄道を通した高島嘉右衛門が、後者は清水建設の創業者の婿養子の二代目清水喜助が施工している。  

 来日後1年やそこらで、まだ定職もないような時期にブリジェンスが大きな仕事を受注できた背景には、ショイヤーの急死後に遺言執行者に彼が指定され、ショイヤーが「今日流のいい方をすれば、土地ころがしで財を成していった」(澤譲著、『横浜外国人居留地ホテル史』)人物であったことは何かしから関係するだろう。また、1866年暮れに横浜の居留地では豚屋火事という大火事があって、ちょうど建設ラッシュであったことも無関係ではないはずだ。しかし、それだけではない。彼について書かれたわずかばかりの記述はなぜか写真史と関係するものが多い。

「その1」でも引用したように、『写真事歴』にはこんなことが書かれている。 「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして、石板の術を知る。蓮杖これと交を結び、其勧誘に従い、石板機械を購求し、且つ其術を伝習せり」。ここから、ブリジェンスが写真師の下岡蓮杖にリトグラフを教えたことがわかる。  

 この前段には、蓮杖がショイヤーの妻アナに日本画の手ほどきをしながら、油絵の描き方を教わっていたことや、写真術をどう習得したかが書かれている。「是より先き米国の写真師ウンシンなるもの始めて本邦に渡来し、ショーヤの家に寄寓せしかば」、蓮杖がこれ幸いにと写真術を習おうとしたことも書かれている。だが、「言語通ぜず、且つウンシン吝で秘して教えざること多く」、なかなか学べなかったという。このウンシンは、ジョン・ウィルソンという、プロイセンのオイレンブルク使節団に写真家として雇われたこともあるアメリカ人で、この使節団で通訳を務めた際に暗殺されたヘンリー・ヒュースケンの遺体写真を撮影したことで知られる。ウィルソンはその後、文久遣欧使節とともに1862年1月に離日した。 

『写真事歴』にはつづけて、「横浜在留の宣教師の女ラウダなるもの、亦ウンシンに就て写真術を学べるより、蓮杖これを拮頑してほぼ其術を窺うを得たり」とも書かれている。「拮頑」は強引に迫って、という意味だろうか。これより15年後に書かれた『横浜開港側面史』には、無名の一老翁談として、「米国婦人ラウダと云う人から写真術の秘法を教えて貰った」としていた。  

 宣教師の女ラウダは、横浜開港直後の1859年11月に来日し、成仏寺にいたアメリカ・オランダ改革派教会所属の宣教師、S・R・ブラウンの長女ジュリアのことだ。ブラウン師の家族はしばらく上海にいて、1860年になってから来日した。成仏寺の前にブラウン一家がヘボン夫妻らとともに写るステレオ写真が写真史家のテリー・ベネットの『PHOTOGRAPHY in Japan』に掲載されており、1840年マカオ生まれの若いジュリアも写っている。  

 このジュリアが1862年9月に結婚した相手がジョン・フレデリック・ラウダーだった。ウィルソンが離日した時点ではまだ結婚前なので、ブラウン姓だったはずだ。だが、父のブラウン師はフィリップ・ペルツ師に、「イギリス領事館勤務の英国紳士」である結婚相手のラウダーについてこんなことを書いている。「この人は前の江戸駐箚イギリス全権講師で、いまイギリスに帰任し、最近ナイトの位に列せられたラザフォード・オールコック卿の後妻ミセス・ラウダーの連れ子です。[……]なお、ラウダー氏は、上海の最初のイギリス領事館付牧師の息子です。この牧師は上海に赴任してから、一年後に、夫人と三人の息子と三人の娘とを残して、海で溺死しました」(『S・R・ブラウン書簡集』)。  

 なんとも複雑な関係だが、ベネットが成仏寺の写真に関連して、こんな逸話を紹介している。ラウダーは上海で牧師の父を亡くし、未亡人となった母がオールコックと再婚することになったため、イギリス外務省領事部門の通訳生として17歳で来日した。そこで第一次東漸寺事件に遭遇し、拳銃をもって継父となる公使の護衛に務めた。この若い通訳生が3歳年上のジュリアを妊娠させたため、居留地内で大スキャンダルになり、周囲は2人をそれぞれの祖国へ帰国させようと試みた。しかし、若い2人は結婚を決意して、赤ん坊が生まれるわずか48時間前に夫婦になった、というものだ(F・Parker、Jonathan Goble of Japanからの引用)。  

 そんな意外な事実が判明しても、下岡蓮杖がジュリアから写真術を習ったのがいつの話だったのかはっきりしないし、オールコックとジュリアの関係が見えてきても、それがブリジェンスにどうつながるのかは不明だ。ラウダーはその後、長崎の領事館で書記官となり、1868年1月には大坂の領事代理として、アメリカの海軍少将の海難事故についてヴァルケンバーグとやりとりしていたことなどが確認される。ラウダーは明治初期に横浜の領事代理もしばらく務めたが、1870年に土佐藩士5人の付き添いも兼ねて一時帰国し、法廷弁護士の資格を取って1872年に横浜に戻り、イギリス外務省を辞任して明治政府のお雇い外国人となり、横浜税関の法律顧問に就任した。1870年に、現在の横浜開港資料館がある場所に完成した横浜領事館や、1873年に竣工した横浜税関、および土佐の後藤象二郎の蓬莱社の建物などは、横浜ユナイテッド・クラブの会長なども務めたラウダーが何かしらかかわっていそうだ。  

 結局のところ、ブリジェンスがどうやって横浜で地歩を固めたのかは残されたわずかな証拠から推測するしかないが、イギリス公使館という大きな仕事を受注できたことは運の始まりだった。横浜の山手に建設されたイギリス公使館は、江戸の高輪接遇所と併用されたとはいえ、パークスが拠点とした場所であり、1868年の4月には江戸開城を前に勝海舟も西郷隆盛もここを訪れている(萩原延壽著、『遠い崖、江戸開城』)。  

 ブリジェンスがイギリス公使館と築地ホテル館で使ったナマコ壁は、「木造の壁体の表面に平瓦を張りつけ、目地──継ぎ目──に漆喰を盛り上げる」江戸時代からの左官技術で、「ふつうの土壁より風雨にも火にも強」い。「工費のかさむ木骨石造の代りにナマコ壁を使って火に強い木造西洋館を手早く作ってみせ」、その結果、「ナマコ壁の西洋館という和洋折衷スタイルを編み出した」(藤森照信著、『日本の近代建築──幕末・明治篇』)。蒸し暑い気候に適したベランダと鎧戸のあるコロニアル様式も、現地の建築を取り入れた折衷案も、トリニダードという西洋の通常の建築資材が容易に手に入らない植民地で育った彼の経歴が、何かしら影響したに違いない。  

 ミヒャエル・モーザーの写真で『ファー・イースト』の表紙を飾った山下町のイギリス領事館は、木骨石貼りという工法で、耐火性を高め、見た目は石造建築という工法で建設されたが、不恰好だとして不評だったらしい。私が祖先探しを始めて最初に読んだヒュー・コータッツィの著作『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、この建物を描いた歌川国政作とされる横浜絵が使われていた。 

「その2」を終えるに当たって最後に一言付け加えておく。ラウダーは1902年1月に死去して外国人墓地に葬られた。この年の11月22日付の『ジャパン・ウィークリーメイル』に、ジュリアが43年間、住みつづけた日本を永久に後にし、イギリスへ渡ったという記事あることを、ジュリアについて散々やりとりしたアメリカの歴史家から教えられた。彼女が乗船したイギリスの蒸気船ドーリック号はハワイ経由サンフランシスコ行きなので、アメリカへ帰国した可能性もある。ラウダーの墓は草木が生い茂ってしまっているが、四角く縁取りされた壁面にジュリアの名前と生没年が刻まれているので、1919年8月18日に死亡という通知だけがもたらされたのだろうか。  

 ブリジェンスに関しては、肝心の町会所をはじめ、いくつか書いていないことがあるので、また追い追い記事にしたい。

(上)Far East、1870年8月1日号に掲載された山手120番のイギリス公使館 
(下)『横浜浮世絵』(有隣堂)より。「横浜高台英役館之全図」喜斎立祥(二代広重)明治2年



Far East、1870年8月16日号に掲載された築地ホテル

1870年に建設された横浜のイギリス領事館。Far East、1871年7月11日号の表紙に使われた。

2021年7月2日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その1

 横浜の開港史と深く関わった建築家リチャード・パーキンス・ブリジェンスについて、以前にもコウモリ通信に書いたことがあったが、少し前に現在の開港記念会館の場所にあった町会所の時計台について調べ直したこともあって、重い腰を上げてブリジェンスについてまとめることにした。かなり込み入っているので、すでに忘れかけている記憶をたどり、調べ直しながら数回に分けて書くことにする。  

 汐留に、ブリジェンス設計の初代新橋停車場を2003年に再建した建物があることは、多くの方がご存じのことと思う。当時の石段などを活かしながら復元され、鉄道歴史展示室とレストランになっている。汐留の再開発で見つかった新橋停車場の遺構の上に、古い写真をコンピューター分析して寸法などを割りだす先端技術を使ったものという。この初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社があり、蓬莱橋と呼ばれた石橋もあったはずだが、いまではその名を残す交差点しかない。ここにある陸橋から眺めると、ガラス張りの高層ビルに囲まれて、所在なさげな旧新橋停車場の全容がようやく見える。  

 ブリジェンス設計の建物で現存するものは残念ながらない。二代目神奈川県庁舎となった建物の門柱だけが、あじさいの里という瀬谷区の個人宅の門として残っている。ただし、上のランプは戦時中の金属供出で失われ、戦後につくり直したものという。『ファー・イースト』誌に掲載されたこの建物は、もともと1873年に横浜税関庁舎として建てられ、その後、税関がもっと港寄りに移転したため、前年に火災で庁舎(横浜役所と呼ばれていた)を失っていた神奈川県に1883年に譲渡された。  

 以前の記事でも書いたように、ブリジェンスが横浜にあったイギリスの公使館や領事館など、数多くの明治初期の西洋建築の設計を手がけることになった背景には、彼をめぐる複雑な人脈があった。初回は、横浜の競売人だったラファエル・ショイヤーとその妻アナとの、比較的よく知られた関係についてまとめたい。  

 ショイヤー夫妻ついて調べているうちに見つけた史料が開港直後に来日したオランダ商人デ・コーニングの書だった。これはあまりに面白かったので企画をもちかけ、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)として翻訳出版させていただいた。来日当時、アナは30歳前後の美人で、それまで居留地にほとんど西洋人女性がいなかったこともあって、パリの最新流行のドレスに身を包んだ彼女を一目見ようと、居留民も日本人も寄ってたかって眺めたという滑稽なエピソードが同書では紹介されていた。デ・コーニングは彼女のことを、「とびきり美しいスペイン系アメリカ人のクレオール」ではないかと思ったようだが、実際にはアナは1827年、アイルランドのロンドンデリー生まれだったことが、フロリダ州ジャクソンヴィルにある彼女の墓標からわかる。  

 開港当初、このショイヤー夫妻が住んでいたのは、ペリー上陸のハイネの絵に描かれた「玉楠」のすぐ裏手にあったアメリカ25番で、玉蘭斎(歌川貞秀)の大絵図には「画ヲ能ス女シヨヤ住家(ホイス)」と書かれていた。玉蘭斎は1860年に「玉板油絵・大胡弓・笛・二線」という題名の西洋美人の絵を描いているほか、『横浜開港見聞誌』(国会図書館では「横浜文庫」)でも、同一人物ではないかと思うアメリカ婦人の絵を複数描いており、いずれもモデルはショイヤー夫人のアナではないかと私は推測している。日本人画家たちと交流のあった女性だからだ。  

 この「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして石板の術を知る」と、写真家の下岡蓮杖について『写真事歴』(山口才一郎著、1894年)に書かれていたことから、アナの妹が、ビジン、つまりブリジェンスの妻ジェニーだったと考えられている。ブリジェンスの名前は、耳で聞きとれる音と綴りが一致しなかったためか、表記が定まらず、彼が忘れ去られた一因はそこにもあったようだ。下岡蓮杖は、ハリス領事の通訳だったヘンリー・ヒュースケンに下田で写真の原理を習ったあと横浜にきて、このユダヤ系アメリカ人のショイヤーのもとに手代として住み込んでいた。  

 ブリジェンスが横浜にきたのはショイヤー夫妻の来日より数年後のことで、日本には、1864年4月30日に夫人のジェニーと子供がまずサンフランシスコからやってきたことが『ジャパン・ヘラルド』紙から判明している。同じ船でE・ショイヤーという人物も来日しているので、幼児連れで太平洋を横断する若い母親の付き添いだったのかもしれない。翌年の3月25日付の同紙の乗客リストに、ブリジェンスという名前があるため、彼自身は1年遅れて来日したようだ。  

 夫人のジェニーは町会所が焼失した翌年の1907年まで生き、亡くなった際に『横浜貿易新報』に「横浜開港以来女子建築家として夙に在留外人間に知られたるブライトゲン夫人」という死亡記事が掲載されていた。ブライトゲンは、もちろんブリジェンスである。姉のアナは高橋由一などに絵を教えたことで知られるが、妹のジェニーも「夫ブライトゲンに死別れたる後は健気にも女子の腕にて専ら夫の事業を引継ぎ家屋の築造設計の業を営」んだという。1983年にこの古い新聞記事をもとに墓を探し当てた横浜開港資料館の堀勇良氏が、「謎のアメリカ人建築家」という記事を『市民グラフヨコハマ』第46号に書いたときは、まだどうにか墓碑銘が読み取れ、そこには「R. P. BRIDGENS BORN 19TH APRIL 1819 DIED 9TH JUNE 1891」とあり、別の面には「JENNIE M. BRIDGENS」の刻字が読めた。しかし、私が何度も外国人墓地をうろついて2018年にようやく墓石を見つけたときには、表面はさらに風化してかろうじてRとBRIDGENS、DIEDの文字が読める程度になっており、上に立っていたはずの相輪のような突起物も落ちていた。  

 ブリジェンスが来日した年の8月21日に、ラファエル・ショイヤーは居留地三次会の初代議長に選出され、その席上で「大演説の終了直後に心臓発作で急死した。享年六十六歳であった」と、藤倉忠明氏の『写真伝来と下岡蓮杖』には書かれていた。ショイヤーは横浜外国人墓地の22区に葬られている。「ショイヤー夫人の館にショイヤーの遺産管財人として居留する建築家ブリジェンス」とも、同書には書かれており、ラファエル・ショイヤーの事業の処理を、ブリジェンスが引き受けていたことが窺われる。「建築絵画師のビギンと云ふ人から、始めて石板印刷術を習ひました」と、『横浜開港側面史』で蓮杖本人も語っている。

 翌1866年1月にアメリカの弁理公使として元北軍の将軍ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが赴任してきた。任期は短く、1869年11月には離日しているが、その間に幕府が発注した軍艦ストーンウォール(甲鉄艦、のちに東艦)を、戊辰戦争勃発による局外中立を理由に引き渡さず、1869年2月になって薩長軍側に斡旋したことで知られる。  

 幕府に対抗できるだけの軍艦を購入したいと焦る薩摩の五代友厚と寺島宗則に、「諸外国に局外中立を要求する通牒をすぐに発するよう助言した」のはサトウだった。「そうすれば、アメリカ公使が〈ストーンウォール・ジャクソン〉を徳川側に引き渡すのを防げるし、回航待ちのフランスからの二隻の甲鉄艦も食い止められるからだ」と、『一外交官の見た明治維新』には書かれた。同艦と対抗できるのは「この近海では英国の甲鉄艦オーシャン号あるのみ」という状況で、「大君がストーン=ウォール号を手に入れる場合、ただちに制海権を獲得するであろう」ことを危惧したと石井孝氏は『増訂明治維新の国際的環境』に書いていた。ストーンウォール号は、私の遠縁の若者が戦死した箱館湾海戦では旗艦となった。

 そのヴァルケンバーグの夫人アナの旧姓がショイヤーなのを発見したときは唖然とした。ネット上で見られる家系図調査のいくつかのサイトの情報からは、彼らが1867年11月25日に横浜で結婚したことがわかる。ヴァルケンバーグも最初の妻を1863年に亡くしていた。アナは夫ラファエルの死後、この弁理公使と再婚して、アメリカにともに帰国したのである。横浜の墓地にラファエルのみが眠っている理由がこれでわかった。  

 ここまでのことは、私が以前に調べ、当初は『埋もれた歴史』に書くつもりだったものの、大幅に削らざるを得なかった原稿の一部だった。しかし、ネット上の情報は歳月とともに驚くほど増える。今回、原稿を書くに当たって再度、典拠や文字、数字を確認するため検索をかけていたら、少々驚くべき新情報を見つけた。外国人に日本を教えるためのブログに、「米国と〈サツマみかん〉」と題して書かれていたなかに、ヴァルケンバーグ夫妻(記事ではヴォルケンバーグと記載)が九州を旅した際に日本の温州みかんを食べ、夫人のアナがそれを大いに気に入ったため、日本から帰国して9年後に苗を取り寄せて、サツマと名づけて1878年からフロリダ州で栽培を始め、それがアメリカ南部でこのみかんの栽培が始まった最初だというのだ。もう一説あることも紹介されており、それはなんと、横浜の開港当初にいた重要人物ジョージ・ホール医師が、1875年に日本を再訪した際に入手した温州みかんの苗を翌年から栽培しだしたというものだ。ジョージ・ホールがかなりの植物採集マニアだったのはよく知られているので、どちらも事実だろう。サツマの名称を誰がつけたかについては、イギリス編も書かれていたので、後日読んでみたい。もっとも、この記事を書いた方は、アナの驚くべき経歴は調べなかったようだ。  

 ネット上にはほかにも、1870年春にヴァルケンバーグ家の人びとが親族の金婚式に集まったときの集合写真も掲載されており、写真のなかのアナは、相応に年を取ってはいるが、まだ豊かな黒髪を結いあげ、玉蘭斎の絵にあるようなたくさんのフリルのついたドレスを着て写っていた。  

 次回はさらに複雑な人間関係を解さなければならないが、ブリジェンスについて知ることは、幕末・明治の過渡期の居留地をめぐる人間関係を知ることでもあるので、引きつづきお読みいただければありがたい。

 町会所、『横濱銅板畫』より

 新橋停車場、明治40–大正7年

横浜の三代目大江橋(1922年7月竣工)。奥に見えるのが横浜駅。翌年の関東大震災で大きく損傷する前の撮影。

 横浜税関、『FAR EAST』より

 あじさいの里、2017年9月撮影

『横浜開港見聞誌』国会デジタル図書館の「横浜文庫6編、[3](右)、[4](左)

横浜外国人墓地のブリジェンス夫妻の墓、2018年2月撮影

 同、ラファエル・ショイヤーの墓、2017年9月撮影

2021年6月22日火曜日

『藤岡屋日記』

 4月に鈴木藤吉郎について調べたとき、その事件について書いておられた関良基先生の参考文献が『藤岡屋日記』第8巻となっていたので、この巻を図書館から借りてみた。ざっと目を通してみると、上田藩主の松平忠固に関する記述があちこちにあったので、取り敢えずコピーだけとったものの、その後、忙しさにかまけて長らく私の狭い机に置きっぱなしになっていた。ファイルに片づける前に、気になった箇所だけでもまとめようと、いちばん肝心の忠固の死去時について書かれたところを再読してみた。 

 九月十日 
一 松平伊賀守病気に付、今日隠居仰せ付けられ、嫡子璋之助へ家督仰せ付けらる処、伊賀守、隠居致し候を残念に存じ、怒り忿死致し候よし。 
九月十四日 今卯上刻卒去     
      松平伊賀守忠優 四十八 

 『藤岡屋日記』は「日記」と言っても、日々の出来事を藤岡屋由蔵がその日に書いたわけではなく、方々から入手した情報を書き写してまとめたもので、それを情報として売っていたという。そのためか、9月10日の条に14日に死去した旨が挿入され、次の行は9月11日の条となっている。原本は関東大震災で焼失しており、どういう状態だったのかはわからないが、張紙や下ヶ札がついていたのかもしれない。忠優から忠固に改名してから2年を経ていたが、ここではまだ忠優となっている。情報の出処はどこだったのだろう。  

 水戸藩士だった内藤耻叟がこの9月の出来事として『開国起源安政紀事』に次のように書いた記述が、私の知る限りでは、忠固の最後に関連した上田藩以外の唯一の記録だった。「松平伊賀守隠居す。伊賀守は元老中たり。主として違勅条約に調印せしむる者とす。然れども井伊の為に憎疾せらる。是に至て内諭致仕せしむ」。内藤耻叟は、「内諭致仕」、つまり表沙汰にせず引退とだけ書いており、死亡については触れていなかったのだ。それに比べると、この日記の内容には驚くべきものがある。  

 ざっと読んだときには気づかなかったが、上田側の史料はすべて、死亡日を9月12日としているのに、ウィキペディアをはじめ、ウェブ上の人名辞典などはいずれも、この日記に倣ったのか、14日説を採用していた! 藩主の死をめぐっては諸々の事情から藩内で箝口令が敷かれたらしく、上田側の史料は曖昧模糊としたものしかなく、どちらが正しいのかは不明だ。 『藤岡屋日記』には、病気のため隠居を命じられたことが不満で憤死したという、なんとも釈然としない理由が書かれている。死亡時刻まで「卯上刻」、朝の5時40分と細かいが、上田側に残る史料で時刻に言及したものはまだ見たことがない。藩士を集めて9月4日付の遺言状が11月14日に読み聞かされたと伝わる。  

 忠固は芝西久保巴町の天徳寺に葬られ、その墓標には「今茲九月、以病致仕、伝位於今候、奉朝請、数日編*留遂不起、実安政六年巳九月十二日也、享齢四十有八、其月二十六日葬于都城南天徳寺先塋之次」と記されていた。編*はつくりの上部に不のようなものが付き、先塋は先祖代々の墓の意味のようだ。この碑文には、「奉朝請」と繰り返し書かれているが、何を意味するのか、ちょっと調べた程度ではわからなかった。9月26日には藤井松平家の菩提寺だった天徳寺に葬られたが、このお寺は虎ノ門3丁目に現存するものの、関東大震災後に墓地を縮小したようで、忠固の墓は一時期、多磨霊園に移されたが、いまはそこにもなく、都内の別の墓所に合葬されている。  

 天徳寺にあった墓の碑文は、上田郷友会の月報(大正4年1月号)の「松平忠固公」という特集記事に掲載されていた。上田の願行寺に遺髪と遺歯を納めた墓が、同年11月に建てられており、そこの墓碑にも、ほぼ同様の内容が刻まれていた。少なくとも死亡日は12日だ。 『藤岡屋日記』の一つ前のページには、9月10日の出来事として、松平伊賀守(忠固)の名代の三宅備前守が、「病気に付、願の通り隠居仰せ付けられ、家督相違無く、嫡子璋之助へ下され」云々と書かれている。田原藩主となった三宅康直は忠固の異母兄だが、当時すでに隠居しているので、この備前守は前藩主の息子で、娘婿に当たる三宅康保のことと思われる。上田藩は藩の存亡の危機に際して、田原藩を頼っていたのだ。  

 同日の『藤岡屋日記』には、安政の大獄で左遷された人びとの名前が連なる。木村図書、鵜殿民部少輔、黒川嘉兵衛、平山鎌(謙の誤記か)二郎、平岡円四郎。前月末には、岩瀬肥後守、永井玄蕃頭、川路左衛門尉などの左遷につづいて、安島帯刀–切腹、鵜飼吉左衛門–死罪、池田大学–中追放などの刑罰の情報、水戸の徳川斉昭の永蟄居なども書かれている。  

 この8巻は安政4(1857)年9月から安政6年9月までの記事なので、ちょうど忠固が老中に再任してから没するまでの期間が網羅されている。上田藩が神田小川町にもっていた上屋敷が、松平駿河守(杵築藩)に一時期渡り、それが今度は老中を辞任したばかりの長岡藩の牧野備前守の屋敷となり、西丸下の長岡藩の役宅に忠固が交代で入ったことなどもわかるし、この西の丸下の役宅に「和蘭陀領事官」クルティウスを迎えたときのことなども書かれている。いつか暇になったら、じっくり読むことにしよう。

 虎ノ門の天徳寺 2018年11月撮影

 上田の願行寺にある忠固の墓碑 2019年7月撮影
 
 十二日の文字が読める

2021年6月12日土曜日

『横浜と上海』

 カズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を読んで上海について調べた際に、以前に図書館から借りた横浜開港資料館刊行の『横浜と上海:近代都市形成史比較研究』(1995年)をもう一度読みたくなり、リクエストしてみた。当時、私の関心はもっぱら横浜の歴史だったので、なぜ上海と並べて論じているのか、あまり気にも留めていなかった。私のお目当ては、斎藤多喜夫氏が書かれた「横浜居留地の成立」という論文で、ちょうど訳していた『幕末オランダ商人見聞録』(デ・コーニング著、河出書房新社)に書かれていたことが、そのまま論文になったような内容に興奮した覚えがある。とくに資料として添付されていた、1860年1月に開港場として横浜を選択することが決定された居留民の集会の議事録は、一見、小説のようなデ・コーニングの回想録が事実にもとづいていたことがよくわかる内容で、情景が目に浮かぶようだった。  

 今回はむしろ上海に関心があったので、口絵の1855年当時の上海租界地図に、「上海」の所以となった城塞都市が大きく描かれ、その横にまだほぼ同面積でしかない租界があるのを見て、思わず声をあげた。横浜も寒村から始まったが、上海も急速に拡大した都市だったのである。  

 本が届いたころにはだいぶ忙しくなってしまい、じっくり読む時間は取れず、大半は斜め読みしただけだが、いくつか気になる点があったので、備忘録代わりにメモをしておく。一つは単純なことで、上海のInternational Settlement、共同租界は、イギリスとアメリカの租界を中心に構成されていて、そこにあとから日本やオーストラリアなども加わったようだ。『Footprints』で言及されていたJ・G・バラードが鉄条網越しに覗いた水田の向こうの光景はFrench Concession、フランス租界(Concession française)で、フランスだけは単独で租界を築いていた。もう一つ、華界と呼ばれた区画があり、一瞬、花街かと思ったが、中国人居住地区だった。  

 わざわざブログに書いておこうと思ったのは、この本に加藤祐三氏の「二つの居留地:一九世紀の国際政治、二系統の条約および居留地の性格をめぐって」という非常に興味深い論文があったためだ。ここにはとくに条約に関連する重要なことが多々書かれていた。上海と横浜は似たような経緯で「開港都市」(treaty port条約港の意味だろうか)になったが、アヘン戦争に敗北して「懲罰」として開港させられた5港の1つであった上海と、「交渉条約」によって開港された横浜では大きな違いがあったという。かりにペリー来航時に水戸斉昭の意見に従って交戦していたら、日本も同じ憂き目に遭ったということだ。「一門の大砲も火を噴かず、いっさいの交戦がなく、交渉のすえに締結された点」が南京条約とは決定的に異なると加藤先生は強調しておられるが、ペリー一行は、空砲をワシントンの誕生日にも条約交渉前にも何十発と撃っているので、この表現はやや違和感があった。  

 南京条約にはアヘン条項がなく、「公然たる密輸」状況を招来した、とも書かれている。アヘンの密輸は1823年にジャーディン・マセソンが福建沿海で最初に成功し、デント商会もそれにつづいた。条約上でアヘン貿易の「合法化」が明記されるのは、第二次アヘン戦争中の1858年に締結された天津条約の付則だという。その後もアヘンの貿易は「順調な伸び」を示したそうだ。  

 一方、日本では、「横浜開港を決めた日米修好通商条約(一八五八年)において〈アヘン禁輸〉が明示され、密輸は存在しなかった。貿易商品は、条約締結時のアメリカ側の期待とは別に、日本からの生糸輸出が主流となった」と、加藤先生も指摘しておられた。アヘン問題を早くから危惧していた佐久間象山は、ハリスとの交渉を前に想定問答集のような上書を作成しており、その草案は川路聖謨や交渉担当者の岩瀬忠震にも届いていたと考えられている。ハリス側の考慮があったのは確かだが、日本側も充分に理解したうえで交渉に臨んだのではないか。生糸に関しては、上田藩が中居屋重兵衛を通じて開港前から着々と準備を進めて売り込んだものだ。  

 日本にイギリス公使として赴任したオールコックが、上海の第2代英領事として1846年に着任し、上海租界の形成に力量を発揮したという指摘もこの論文にはあった。ハリー・パークスも上海領事だった。幕末史は日本の出来事だけを追っていては、とうてい理解できない。  

 加藤先生のこの論文で最も参考になったのは、最恵国待遇条項に関連する箇所だ。「列強の一国が(列強以外の他国と)結んだ最初の条約が他の列強に均霑されること、しかし後続の条約締結国は〈後塵をはいす〉ため、その条約内容は最初の条約以上には決してならない」と、これについては解説されている。均霑(きんてん)は、平等に利益を受けることだ。当時、最恵国待遇は列強間の合意であり、列強にとっては新たに戦争せずに条約上の権益を得られる割安の外交政策だったともある。ということは、日米和親条約に挿入されたこの条項は必然的に片務的になったのではないだろうか。しかも、これは清米間の望厦条約(1844年)、清仏間の黄浦条約(1844年)が締結された際に新しく生まれたものだという。ペリーに随行してきたウィリアムズは望厦条約の締結にかかわっており、この条項を入れたのは彼の発案だった。この条項が片務的であるから、幕府は不平等条約を結ばされたのだとよく批判されるが、当時の世界における日本の地位や、国際条約など結んだこともなかった当時の状況を考えれば、「その指摘は当たらない」とでも言ってみたくなる。  

 上海について調べたつもりが、思いがけず条約に関するよい資料を掘り当てたようだ。またいつか時間ができたら、この本を借りて、その他の論文も読んでみよう。

 1855年当時の上海租界地図

2021年6月1日火曜日

日米和親条約11条&9条問題

 昨年10月に「森山栄之助の弁護を試みる」と題したブログ記事を書いたところ、幕末史がご専門である東洋大学の岩下哲典先生がお読みくださり、論文にしてはどうかと思いがけないお言葉を頂戴し、横須賀開国史研究会をご紹介いただいた。コロナ禍の真っ只中で、とうの研究会に参加したことすらまだないのだが、関係者の方々のご好意に甘えて、このたび『開国史研究』第21号に、「日米和親条約の第十一条問題再考」という、大それたテーマで拙稿を掲載していただいた。「再考」としたのは、10年ほど前にこの研究誌に、第十一条問題に関する今津浩一氏の画期的な論文がでており、今回、それをもう一歩突っ込むと同時に、応接掛の組織的欺瞞という今津氏の結論にも疑問を唱えたためである。  

 昨年末はたまたま本業のほうは校正待ちで、次の仕事も決まっておらず、ふと時間の余裕ができていた。おかげでそれをじつに有意義に活用することができた。岩下先生は原稿の段階でつぶさに目を通してご指導くださり、本当に感謝してもしきれない。関良基先生にも原稿を読んでいただき、貴重なアドバイスを頂戴した。森山の置かれた立場がよくわかるように、今回、アメリカの議会図書館蔵のポートマンのスケッチを使わせてもらったのだが、どうしても読めない手書き文字は、イギリスの知人コリン・カートランド氏がいつもながら解読を手伝ってくれた。  

 オランダ語、中国語、英語、日本語という、4言語で作成された条文の文言を比較し、条約締結までの日米双方の動きを日を追って検証したほか、前後の出来事を中心に時代背景も探った複雑な内容で、ブログに書いても頭には入らないだろうと思うので、ご興味のある方はぜひこの研究誌を当たっていただきたい。  

 論旨だけ手短に書くと、領事駐在について日本側は日米双方が合意した場合のみ可能と考えたのにたいし、アメリカ側はどちらか一方でも必要とすれば可能と理解し、その食い違いは第11条の各言語の文言の違い、つまり通訳・翻訳の間違いを発端としていたという従来の説に、一翻訳者の立場から反論するものである。実際には、四言語で書かれた条文には当然ながら、細かい違いはそこかしこにあった。 「一体、条約の表、一様の文段には候えども、銘々の心の赴く所に随い、解し方も同じからず」と、オランダ語、英語の通訳として交渉に当たった森山栄之助自身が語ったように、日米の条文の違いと言われてきたものも、通訳・翻訳にはつきものの微妙な差異に過ぎない、というのが私の主張である。各言語や法律の専門家に、ぜひ再検討いただきたい。  

 森山がいち早く英語を学んだ長崎時代のことや、応接掛でないにもかかわらず、交渉に深くかかわり、漢文版の条文作成に大きく関与した平山謙二郎という徒目付に関して、論文を提出したのちに判明したことなどはブログにも何度か書いたので、併せてお読みいただければ嬉しい。  

 なお、実際には第11条以上に、第9条の最恵国待遇の交渉経緯により大きな問題があり、にもかかわらずこれまでなぜか誰からも見落とされてきたことを併せて主張した。日米和親条約は、日本が開国に向けて大きな一歩を踏みだした出来事だった。ペリー来航時の幕府首脳部は、蘭書やオランダ商館長からのごく限られた情報から、世界事情や時代の波を理解して無駄な争いを避けた。だが、この条約の締結は幕府の英断としては評価されておらず、むしろ否定的に捉える人がいまなお少なからずいる。その際、不平等条約の事例としてかならず引き合いにだされるのがこの9条なのだ。この条項が公式の交渉の場で一度も論じられることなく条文に滑り込まされた経緯は、日米双方の専門家の目で、よく検証し直すべきだ。そして、初めてのことずくめのなかで、圧倒的な国力の違いを黒船と大砲で誇示する紅毛碧眼の大男たちを相手に、冷静に粘り強く条約締結にかかわった人びとの努力は、当時の状況と照らし合わせて再評価すべきだろう。

 ポートマンが描いた横浜の交渉現場。

『わたしたちが孤児だったころ』

 昨夏に購入したのに、なかなか読む時間が取れなかったカズオ・イシグロのWhen We Were Orphans(2000年、邦題『わたしたちが孤児だったころ』)を、ようやく読むことができた。『Footprints』を翻訳中、戦前の上海で子供時代に日本軍に抑留されていたJ. G. バラードについてあれこれ調べるうちに、カズオ・イシグロの祖父が長年、上海で暮らしていたことや、この小説がその祖父と父の体験をベースに書かれたことなどを知り、衝動買いしたまま積読状態になっていた。  

 私はふだん、新聞の連載くらいしか小説は読まず、彼の作品も四半世紀ほど前に『日の名残り』を読んだきりなので、「イシグロらしい」などと言えるほどには知らない。それでも、この作品も信頼できない語り手が何とも言えない味をだしていて、ところどころ苦笑しながらどんどん引き込まれてしまった。  

 小説家というのは、総じて人間にたいする鋭い観察眼があるのだろうが、彼の場合おそらく、5歳という物心のついた年齢で渡英し、外から客観的に社会を眺める体験を経ているせいか、イギリス人らしさだか、イギリス臭さだかにたいする嗅覚が人一倍鋭い。この作品の主人公クリストファー・バンクスは、20世紀初めに上海の租界で生まれ育ち、両親が行方不明となったために10歳で本国に送られた少年で、イギリス人らしさやロンドンの社交界での名声を苦労して手に入れた人物として設定されている。彼は租界という隔離された世界しか知らずに育ち、自分のアイデンティティを東洋にも西洋にも見いだせないうえに、「孤児」となったためにさらに空虚感に苛まれ、行方不明の両親を探すことが自分の責任であると思い詰め、私立探偵にまでなった。彼の不幸な身の上は読者の同情を誘うのに、追い詰められるとアジア人を罵倒する、西洋人、というか文明人のいやらしさや俗物ぶりを発揮して辟易もさせる。そんな彼の身の上はきわめて特殊でありながら、誰にでもどこか思い当たる節のあるもので、とりわけ現地社会に決して溶け込まない海外駐在員の暮らしぶりを彷彿とさせる。  

 物語は、1930年代のはじめのロンドンと、日中戦争が始まる1937年の上海という2つの時代と場所を中心に展開するが、その間にも子供時代のエピソードが随所に挿入されて時代が前後するほか、最終章は1958年に設定されている。時代や場所が頻繁に変わるのは、信頼できない語り手のあやふやな記憶を中心に話が進むためである。どこまでが事実で、どこからが妄想なのかはっきりしないため、この作品を探偵小説だと思い込んだ読者は途方に暮れるようだ。もっとも、歴史的事実とされることも所詮、人の記憶の産物でしかなく、同じ出来事を同じ現場で見ても、それぞれに解釈が異なることを思い知らされた身としては、イシグロのこの手法には非常に共感するものがあった。  

 1840年代まで、上海は蛇行する黄浦江の西岸の細長い一帯、つまりBund、外灘と呼ばれた地区しかなく、さらに前は断崖上の「海の上」の城郭都市しかなかったことを前述の拙訳書で知った。ここが大変貌を遂げたのは、2度にわたるアヘン戦争によってであり、International Settlement、つまり共同租界が築かれてからなのだ。蒸気船を含む西洋の商船・軍艦数百隻が、無数のジャンクとともに停泊し、城閣のように商館が立ち並ぶ傍らで、中国人が困窮するさまを見て、1862年6月に幕府が派遣の千歳丸による視察団に加わった長州の高杉晋作や佐賀の中牟田倉之助、水夫に扮装した薩摩の五代友厚らが衝撃を受けたことは、よく知られる。アヘン戦争における中国の二の舞を踏むまいという思いが、幕府の対外政策の根底にはつねにあった。西洋の商人は横浜でもBundにsettlementをつくったが、日本ではそれぞれ海岸通り、居留地と呼んでいた。上海と横浜はいろいろな意味でよく似た歴史を経たわけだが、決定的な違いを生んだのは、日米修好通商条約でアヘンの輸入を禁じることができたためだ。中国が1世紀以上にわたってアヘンに翻弄されたのは、ラスト・エンペラーの溥儀の正妃である婉容の悲惨な晩年を考えればよくわかる。  

 物語のなかのクリストファーの父親は、モーガンブルック&バイアットというアヘン貿易を主とする架空の商社に勤めており、母親はその事実に胸を痛め、反アヘン運動に奔走していた。イシグロは、本当はジャーディン・マセソン商会の社員にしたかったのかもしれない。同社の会長トニー・ケジックも暗示的に名前だけちらりと登場する。アヘン戦争の原因となったアヘン貿易の主な担い手は、ジャーディン・マセソンとサッスーン商会だった。トニーの祖父であるウィリアム・ケジックは、1859年7月5日、横浜開港のわずか4日後に来日し、居留地1番地に英壱番館と呼ばれた拠点を築いた。その後、横浜の支配人はサミュエル・ガワーに代わったが、井上薫や伊藤博文ら5人の長州藩士がイギリスに密航した際には、たまたま訪日していたケジックが断髪・洋装などの便宜を図り、イギリスに送りだしている。孫のトニーは1903年、横浜生まれだ。  

 小説では、1937年にフィリップおじさんという人物が、アヘン貿易についてこう説明する。アヘンを奥地まで運ぶには護衛が必要であり、そのため「モーガンブルック&バイアットもジャーデン・マセソンもみんな、積荷が通る地域を支配している地元の軍閥と取引をしていた。これらの軍閥というのも、実際は成功した盗賊にすぎなかった」(入江真佐子訳)のだと。この軍閥が、クリストファーの母の失踪と関係していた。失踪事件はクリストファーが10歳のとき、つまり1911年前後に起きたが、ちょうどこの年の12月にハーグで万国阿片条約が締結され、アヘン貿易は違法となった。しかし、フィリップおじさんが説明するように、アヘン貿易の廃止は実際には、「貿易の担い手が変わっただけのことだったんだよ。今では蒋介石の政府がそれをやっている」のだった。アヘンは資金源として利用されつづけたのだ。 

 イシグロは単に小説の背景として、この時代の上海を選んだのかもしれないが、構想を練る段階で、自分の祖父と父が暮らした上海について入念に調べたのは間違いない。週刊現代に掲載された彼のいとこのインタビュー記事や、北海学園大学の森川慎也准教授の「祖父と父からイシグロが受け継いだもの」(2020)という論文を参考にすると、祖父の石黒昌明氏は、1905年に上海の東亜同文書院というエリート養成学校に入学し、その後、伊藤忠商事に入社して、上海支店の支店長まで務めた人だという。その後、労働争議の引責で退社し、トヨタ紡績の前身の会社の取締役となり、長らく長崎と上海を行き来していたそうだ。父の鎮雄氏は1920年に上海で生まれ、7歳で長崎に移住したが、学校の休みには上海に戻るという生活だったようで、小説に登場するクリストファーの幼馴染のアキラは、こうした祖父・父の上海時代から生みだされた人物と言える。1960年にイギリス国立海洋学研究所に招聘された海洋学者である鎮雄氏は、1981年に母の葬儀で帰国した際に、上海時代のアルバムをイギリスにもち帰ったそうで、この小説の構想はそのアルバムから芽生えたものと言えそうだ。鎮雄氏は、帰省した折に長崎中央図書館で古い上海の写真や地図をコピーし、日本語の読めない息子のためにキャプションを英訳してやったのだという。クリストファーは両親からパフィンと呼ばれ、可愛がられて育つが、イシグロもそんな幸せな幼少期を送ったのではないかと、論文に転載されていた祖父との写真を見て思った。  

 イシグロの作品をオーディオブックで何冊か読んでいる娘は、昨夏、私が図書館で日本語版を借りた折に一気に読み、違和感のない翻訳だったと感想を述べていた。私は購入してあった原書を読んだので、あとで邦訳版と比べてみると、原文のうまい表現や微妙なニュアンスが生かされていないと感じるところが散見された。  

 なかでも気になったのは、アキラの会話だ。原文では彼の英語は子供時代も、成人してからもたどたどしい。両親の仲が気まずくなり、会話が途絶えることがあるのは、自分たちが租界で生まれ育ち、いわば根無し草であるせいだとアキラ少年が想像をたくましくする場面は原文ではこうなっている。

 ‘I know why they stop. I know why.’ Then turning to me, he said: ‘Christopher. You not enough Englishman.’ 
「どうしてきみの親が話さなくなったのか知ってるよ。ぼくにはなぜだかわかる」そう言ってからわたしのほうに向き直り、こう言った。「クリストファー。きみにはイギリス人らしさが足りないんだよ」(入江訳)  

 文意は確かにそのとおりだが、原文のたどたどしさは伝わらないし、10歳の子供のセリフにしては、「イギリス人らしさ」という言葉はやや高度だ。私なら「きみ、うんとイギリス人じゃない」程度にしたい。  

 ところが、1937年に再会したときのアキラの会話は、やや原文に近くたどたどしく訳されていて、何やら別人の印象を余計に与える。アキラと別れたあとで長谷川大佐という日本の将校に、先ほどまで一緒にいた日本兵は、以前に知り合ったのかと聞かれて、クリストファーはこう答える。

 ‘I thought I had. I thought he was a friend of mine from my childhood. But now, I’m not certain. I’m beginning to see now, many things aren’t as I supposed.’  

 入江訳は「彼のことを幼友達だと思っていました」としており、そのためか大多数の読者はアキラとの再会はクリストファーの勝手な思い込みだと解釈しているようだ。実際、この前後の状況はあまりにも唐突な展開で、読者は語り手についていけなくなり、アキラとの再会は彼の想像の産物だとする説明が英語の解説や書評にも多い。  

 だが、アキラとの関係はおそらく子供時代から、言葉の問題もあってクリストファーが一方的に解釈していたことの連続だったのではないか。長谷川大佐の問いにクリストファーはただ、あの日本兵は昔からの知り合いで、子供のころからの友達なのだと思っていたと答えたのかもしれない。つまり、人違いしたわけではなく、アキラを友達だと思っていた事実に、自信がなくなったのだと。  

 まあ、一読したくらいでは、カズオ・イシグロの描く複雑な世界は半分も理解していないかもしれないが、おかげで上海の租界の暮らしや、アヘン貿易の実情は見えて気がする。上海の地図が頭に描けるようになったら、またいつか読み直してみたい。