2021年9月20日月曜日

二夫さん

 私には会ったことがなく、その存在すらつい数年前まで知らなかった大叔父がいる。亡父と疎遠であったため、そもそも父方の親戚はあまりよく知らないのだが、この大叔父(二夫、つぎお)は1928年ごろにアルゼンチンに移民したきりとなっている。弟の話では、東京外国語学校(外大の前身)の西語学科をでて外務省に入り、その後、一念発起して海を越えたようだ。  

 たまたま弟と私は同じ時期にナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を読んでいて、話は自然とこの二夫さん一家のことになった。弟は子供のころ、二夫さんの妻リンさんと末娘マリアが一時帰国した際に会ったことがあり、そのときの写真ももっていたが、詳しい事情は知らなかった。  

 アルゼンチンのミシオネス州にいたこの大叔父一家を頼って、父の姉も十数年間、地球の裏側にある彼の地に移住していたことがあったので、アルゼンチン生まれの子供たち、つまり私のいとこRaulたちなら詳しいだろうと久々に連絡してみた。だがあいにく、親世代が他界したあと、ミシオネスの一家とは言葉の問題もあって音信不通になってしまったとのことだった。  

 幸い、いとこの家には二夫さんが1969年1月に書いたという長い手紙が残されていた。明治生まれで、長年、日本を離れていた二夫さんの手書き文字は、古文書よろしく変体仮名が多く使われ、読むのにかなり苦労したものの、FB友たちの助けを借りて9割以上は判読することができた。そこには、アルゼンチンの日系人たちや家族の近況が事細かに綴られていた。  

 私の実家のアルバムには、アルゼンチンに渡った伯母夫婦の後ろに、日本人らしい若い男女が立つ写真が残されていた。いとこがもっている写真と見比べると、後ろの2人は二夫さん夫婦の上の子供たちである可能性が高い。だが、長女に関しては手紙のなかで言及がないので、ひょっとすると早世したのかもしれない。  

 いとこのラウルが子供のころ一緒に釣りに行ったという二夫さん次男のカルロスについては、「武州政府の水産局に席をおいて大学の方の研究室はムセオ〔博物館〕にあって」養殖に関連した研究をしていると手紙には書かれていた。カルロスに関しては、ラウルがネット上から彼の功績をたたえる小冊子(Ictiólogos de la Argentina, Carlos Togo, 2011)を見つけてくれた。そこには一目で親戚と思える顔立ちのおじさんの写真数点ともに、彼がラ・プラタ川流域で発見したらしいカラシン科淡水魚の新種、Hyphessobrycon togoiの写真が掲載されていた。ところが、書かれているスペイン語を自動翻訳してみると、家庭の事情で魚類の研究からは離れてしまい、そのためかつての同僚たちが2006年に彼の名を学名に付けて功績を顕彰したというもののようだった。

 二夫さん家族に関しては、祖父の除籍謄本にかなり詳しく記録が残っていたが、下のほうの子供たちは記録がない。ホセという名前だけが伝わっていた男の子は、どうやら考古学を専攻し、「昨年の休みは教授の供でサルタに古墳発掘に行って帰宅しなかったが、此度は年末に帰宅して一週間ばかり居て、又、休中はサルタ州」であることなどが、手紙から判明した。このホセに違いないと思われるDr. José Togoという考古学者が、昨年、日本の外務大臣表彰を受賞していたこともわかり、研究論文に書かれていたメールアドレスに連絡してみたのだが、いまのところまだ返答がない。  

 弟が子供のころに会ったというマリアについて、二夫さんは「これは宅での一番の才女だ。親が云ふのも変だけれ共(ども)、これは毛唐の中に押し出しても一歩もヒケをとらない。それに人気者で凡ての人に可愛がられる人徳もある」と一押しだった。マリアは法科で学んでいる。末娘が育つころには、現地社会にすっかり溶け込み、アルゼンチン人として互角に勝負できるようになったのだろう。  

 佐賀県多久市の父の実家で撮影された古い家族写真がある。初めてこの写真を見せてもらったときは、まるでフィリピンの一家のようで、さすが南国だと驚いた記憶がある。なかでもとくに目立つのが前列中央に、大正ロマン風の着物を着て座るつぶらな目の若い女性で、この人が二夫さんの妻リンさんではないかと気づいたのは何年か前のことだった。  

 この写真は子供たちの年齢から1933年ごろの撮影と推察されるのだが、二夫さんとリンさんの婚姻届は1930年にだされている。二夫さんが1969年の手紙のなかで、「アルゼンチンに来て此年で四壱年になる」と書いているため、彼が出国したのは1928年と逆算したのだが、リンさんと結婚するために一時帰国したのか、リンさんだけしばらく日本に残っていたのか等々、あれこれ頭を悩ませた。  

 しかし、いとこのラウルや弟と何度もメールをやりとりするなかで、驚くべき事実が見えてきた。二夫さんは1928年に日本を離れてからおそらく一度も帰国せず、数年後に、アルゼンチンから故郷出身のお嫁さんを探したのだろう。リンさんは、おそらく1933年ごろ、この写真が撮影されたのちにアルゼンチンへ渡ったに違いない。これはリンさんと、付き添いで渡った彼女の弟タケシ(のちにラウルらの父親となる)の壮行会の写真だったのだ。  

 手紙の最後に二夫さんはこう書く。「だが負けおしみで強がりでなくハッキリ言へる事は、俺にわ後悔はない。若き日の発願の眞念を一貫して遂行して来た現実をツクヅク眺めても一寸もミヂメな感慨わ起こらない[……]俺わ後幾年生があるか知れぬが一粒の麦となって此世を去って祖国日本の現状も豊かさの中の幸と不幸を見る。[……]現在の俺の只一つの希望わ、君達一家を中ツギにして故国日本にある目に見ぬ血縁の人々の[カ]俺達一家との、形にわ現われずとも、目にわ見へなくとも、強い一本の綱で結ばれて居る事と信ぢておる。又信ぢなければいけないと思ふ」  

 二夫さんやリンさんが存命のうちは叶わなかったが、いまはインターネットで地球の裏側も瞬時につながる時代だ。一粒の麦が見事に実を結んだような、アルゼンチンの親戚たちと、1世紀近い歳月を経て再びつながることができたらと願っている。そうしたらいつか、私もアルゼンチンまで行って、どことなく似た顔立ちながらスペイン語をしゃべる父のいとこたちや、私のはとこたちと会い、togoiと名前の付いた魚がラ・プラタ川で泳ぐのを見て、紀元前11,000年ごろとも言われるクエバ・デ・ラス・マノスの洞窟壁画を見て人類のグレート・ジャーニーを実感し、お土産には娘が愛飲するマテ茶を買い込もう。

追伸:ここまで書いた翌朝、ホセ東郷博士の娘さんからメールが入っていた!! 
 

多久にある父の実家の家族写真。画面中央の若い女性がリンさん。後列、左から2人目が弟のタケシさん、その右隣が私の祖父。祖母に抱かれているのが私の父

アルゼンチンに渡った伯母夫婦と、二夫さんの子供たち

2021年9月10日金曜日

益満休之助

 諸田玲子の『お順』を読んだ際に、『西郷を破滅させた男 益満休之助』(芳川泰久著、河出書房新社、2018年)という小説があることを知り、図書館から『山岡鐵舟先生正伝 おれの師匠』(小倉鉄樹著、島津書房、2001年復刻版)と、勝海舟の慶応4年から明治7年の日記である『勝海舟全集』19巻(勁草書房)と一緒に借りてみた。  

 益満休之助と山岡鉄舟は、先述したように過激な尊皇攘夷テロ組織、虎尾の会を結成していた仲間であり、この会のメンバーが幕末・維新史でどういう働きをしたのかは興味が尽きない。しかし、益満を主人公にした芳川氏の小説は、完全なフィクションで、構想を練るうえで著者が前提とした多くのことが、史実とされていることと食い違っていた。  

 江戸の無血開城に一役買ったと言われる益満は、その前年、西郷隆盛の命を受けて薩摩藩邸の焼き討ち事件という陽動作戦を実行して捕縛され、伝馬町牢屋敷に収監されていた。「処刑されるべきところを海舟が命乞いして自邸に預かっていたものである」と、勝部真長は海舟日記の解説に書く。実際の日記には3月2日の条にこう書かれていた。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり、訴え出し所の家臣、南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所〔処〕せらる。早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某[それがし]申す旨ありしを以て、此頃、此事 上聴に達し、御旨に叶う。右三人、某へ預け終わる」。徳川慶喜の許可を得て、という意味だろうか。  

 5日の条にはこうあった。「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」。3人の薩摩藩士のうち、旧知の間柄の益満を同行して西郷に会いに行きたいと言いだしたのは、山岡側と読める。  

 ところが、小説は勝が大久保一翁に推薦された山岡を呼び、勝邸で偶然、益満と鉢合わせたという呑気な設定で始まる。それでいて、山岡はその日、義兄の高橋泥舟に上野の寛永寺の大慈院に呼ばれ、慶喜から拳銃をもらったという筋なのだ。  

 勝海舟は後年、『氷川清話』で「山岡といふ男は、名前ばかりはかねて聞いて居たが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考へだから用心せよといって、ちっとも会はなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間莫逆(ばくぎゃく)の交りを結ぶもとになった」と語っている。

 山岡鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹が書いた『おれの師匠』(1937年刊)には確かに、「山岡が寛永寺閉居の慶喜公に謁見したのが慶長三年[慶応4年の間違いか]三月五日」とあるが、「山岡がどうして慶喜公に近づいたか、明かでない。おれも師匠からそれを聞きそくなった。『戊辰解難録』にもその辺の消息が記されてない」とつづく。

 山岡鉄舟が書いたとされるものの大半は、安倍正人という正体不明の人物が20代の2年間に7冊を立てつづけに出版した贋作なのだという(A. アンシン「山岡鉄舟の随筆と講和記録について」)。小倉もこの安倍による『鉄舟言行録』に関して、「此の書の出所が明かでないのと著者の安倍正人とかいふ男がどんな人か知らぬから信を置けない」と、疑問を呈している。山岡が実際に書いたと言われる2つの文書が収録されたのが『戊辰解難録』(1884年)で、そのうち「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(戊辰談判筆記)という文書が江戸無血開城の始末書を指す。  

 国会図書館デジコレで『戊辰解難録』を読んでみると、こんなことが書かれていた。「当時、軍事総裁勝安房は余、素より知己ならずと雖も、曽[かつ]て其肝略あるを聞く故に行て是を安房に計る。安房、余か粗暴の聞こえあるを以て少しく不信の色あり。安房、余に問曰く、足下如何なる手立を以て官軍営中へ行やと」。このときが両者の初対面であること、勝が最初は山岡を信用しかねて、意図や計画を問いただしたことなどがわかる。やがて、「安房、其精神不動の色を見て、断然同意し、余か望に任す。それより余、家に帰しとき薩人益満休之助来り。同行せん事を請う。依て同行を承諾す」とつづく。  

 『戊辰解難録』には、山岡が勝邸を訪ねた記述の前段に、「一点の曇なき赤心を一、二の重臣に計れども其事決して成難しとして肯せず」とあるため、一般には3月5日に上野で慶喜に謁見したあと、幕臣を何人か訪ねて交渉したあと勝を訪ねたと解釈されている。しかし、当時、大半の幕臣が番町や駿河台、神田小川町などに住んでいたことを考えれば、謁見と同日に、事情を説明しながら数軒を訪ねたあと赤坂の氷川の勝邸に向かって、夕暮れまでに着いたのかと疑問が湧く。身分証明書のない時代に、慶喜の命を受けて西郷の元に単身乗り込むならば、その旨を一筆書いてもらわなかったのか。慶喜の書があっても「一、二の重心」は協力しなかったのか、など腑に落ちないことは多々ある。  

 勝の記録と山岡の「戊辰談判筆記」は、このように微妙に食い違うので、当時の状況は詳らかにはわからないが、勝の「胆略」が益満らを預かっていることまで含み、それを事前に慶喜本人もしくは、側に仕えていた義兄の泥舟から山岡が聞いていた可能性は高いだろう。虎尾の会の仲間であることは、「余か粗暴の聞こえある」を気にしていた山岡にしてみれば、おおっぴらに自慢できる間柄ではない。益満は死刑囚であり、責任をもって自分の預かりとしたのに、その身柄を初対面の相手に委ねるうえで勝には相当な決心が必要だったはずだ。山岡の帰宅後、益満がふらりと一人で現われたと考えるのは非現実的だ。ここはやはり勝の日記が示すように、益満を同伴する策が山岡側からの提案であって、5日当日、彼が連れ帰ったのでなければ、山岡邸までは勝が誰か警護をつけて送りだしたと考えるべきだろう。2人が駿府に出立したのは翌6日なのだ。  

 この間の出来事を勝部氏は、益満という人物は「旧年中の西郷の挑発行動──火つけ、強盗、押込みによる江戸市内撹乱のリーダー格である。この益満を同行して西郷に逢いにゆく事は、西郷の意表を衝き、西郷の一番痛い所、権謀術数の汚い面を海舟がすべて知っているぞと匂わすことである」と、解説する。  

 益満の小説では、慶応3年に西郷から江戸を掻き回すように命じられた益満や伊牟田尚平、相楽総三らは、「お国のために死んでくれ」と頭を下げられていたとする。虎尾の会の仲間だった伊牟田は慶応4年6月15日に強盗事件を起こして収監され、翌年7月に判決が下され、京都二本松の薩摩藩邸で自刃させられた。相楽は虎尾の会とは無関係の下総相馬郡の郷士で、赤報隊の隊長として東山動軍の先鋒となって活動したのに、のちに官軍の手で殺された。小説では益満も上野の戦いで西郷の「撃て」の命令のもとに殺されたのだが、じつはそこで九死に一生を得て名前を変えて生きつづけていた、という設定になっている。  

 だが、先述したように、益満は上野で死んだのではなく、5月15日に黒門前で負傷して横浜の軍陣病院まで運ばれ、そこで雨の日に病室の移転を希望したために、濡れた傷口が化膿して5月22日夕方7時ごろに死去したことが、昭和なかばに東大医学部で偶然に発見された病院の日記から判明している。郷里の鹿児島の草牟田墓地に彼の遺髪墓があるらしく、ネット上で見る限り、その墓標にもこの命日が刻まれていた。勝海舟も5月24日の日記に「昨日、益満休之助死す。此程、上野にて砲疵を受けたりしが、終に死せり」と、1日ずれてはいるが、書いている。西郷に意図的に殺されたわけではない。また、フィクションとはいえ、幕末のこの時代に西郷が「お国のために」というナショナリスト的な言い方を実際にしたのかという点も気になった。  

 このように、肝心の益満休之助に関しては、芳川氏の小説は重要な点を見逃したまま、奇想天外な筋を考案した感が否めないが、江戸の無血開城に関連してイギリス側の圧力があった点を思いださせてくれたことはよかった。私が祖先探しを始めた当初に購入した萩原延壽の『遠い崖:江戸開城』7巻を久々に読み返してみたら、よく理解できるようになっていた。いずれ、この観点からも調べ直してみよう。  

 芳川氏の小説は、中江兆民が登場するあたりから、ルソーの『民約論』(『社会契約論』)が明治の日本でどう受け止められたのかが描かれ、この辺の事情にはまるで疎い私としては面白かった。明治になる前に死んだ益満とは切り離して、中江を主人公にした小説にすればよかったのではないかと思った。  

 一緒に借りた2冊の書からは、多くの発見があった。お順が夫、佐久間象山の死後、腐れ縁のように付き合った村上俊五郎に関する記載は、どちらの書にも多々あったので、諸田氏はこれらを参照して小説にしたのだろう。 『おれの師匠』には、「鐡門の三狂」であり「鐡門の四天王」の一人であった村上政忠(俊五郎)に関する、かなりまとまった項がある。「三狂」は村上のほか、松岡萬、中野信成で、「四天王」はそれに「師匠の義弟に当たる石坂周造」が加わるという。松岡と石坂は村上同様、虎尾の会以来の仲間で、石坂周造の妻、おけいは、山岡の妻英子(ふさこ)の実妹という。つまり双方の妻が高橋泥舟の姉妹ということになる。  

 松岡萬については調べたことがなかったが、1882年3月に書かれたという「戊辰談判筆記」は、松岡から大森方綱なる人物が借り受け、おそらく本人の了承を得ずに無断で同年6月に最初に『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』として出版されたもののようだ(A. アンシン、「山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始末書」)。

 この文書がどういう経緯で誰に向けて書かれたかは不明だが、明治という時代ゆえか、慶喜にたいする山岡の本音なのか、「旧主徳川慶喜」と呼び捨てで書かれている点が気になった。実際、山岡の死期が迫った際に、徳川家達は見舞いにきたものの、当時まだ静岡にいた慶喜が上京した形跡はない。勝海舟は何度かやってきて、臨終前は「前日来二階につめきって居た」という。虎尾の会が倒幕組織だったことを考えれば、実際、山岡の立場は複雑だったに違いない。「余は国家百万の生霊に代わり生を捨るは、素より余か欲する処なり」というその一節は、いかにも明治の作文と思うが、幕末の山岡にすでに徳川家ではなく、日本の国民全体を救うという思想があったとすれば、勝海舟との共通点はそこにあったのだろう。

 1881年に明治政府が維新勲功を調査した際、山岡が「おれか。おれは何にもない」とにべもなく自身の功績を否定したため、岩倉具視が山岡を呼び寄せて話を聞いたという一件があったという。それが何かしらこの文書を書いたことと関係するだろうか。山岡は10年間という条件で宮内省に勤めて、1882年6月に辞職している。ところが、山岡が辞職させられたと勘違いして腹を立てた松岡が、「短刀を懐にして、岩倉さんを訪れた。岩倉さんを刺し殺して自分も死ぬ覚悟なのである」と、小倉は書く。もっとも、岩倉のほうが数枚上手で、うまいこと言いくるめられて帰宅した松岡は、今度は自殺未遂をする。このように、いかにも「三狂」なのだが、松岡から原稿が漏れた経緯には何かこうした事情も関連するのだろう。  

 同年秋ごろ、徳川家達が山岡の維新時の功労をたたえて贈った武蔵正宗を、山岡が自分などそれに値しないので、「誰か廟堂の元勲に差上げるのが至当である」と考えて岩倉具視に贈呈した。このとき岩倉が書かせたのが「正宗鍛刀記」という。またもや岩倉である。

「四天王」の1人で、日本で最初に油田を開拓した石坂周造についても、三十万円の借財を山岡が背負わされ、最後まで苦しめられたが、「山岡の死後徳川さんと勝さんとで整理したのであった」と、書かれていた。  

 一方の海舟日記で村上の名前が最初に見られるのは、慶応4年4月4日で、ただ一言、「村上俊五郎来る」とあり、25日には「山岡来る。市中取り締まり、石坂、村上の事相談」などとある。諸田氏の小説のように、3月5日に山岡が同伴してきたのかどうかは不明だ。5月14日には、「多賀上総宅、官兵焼打ち、我が宅へ乱入。刀槍、雑物を掠奪し去る。夕刻、村上俊五郎、田安へ来りその転末を話す」と、ほぼ小説にあったようなことが記されている。だがその後は「織田、村上俊五郎、金子押貸し、妄行の旨、申し聞る」(明治3年12月25日)、「浅野、村上〔俊五郎〕乱防の事内話。切腹或いは入牢然るべしと云う」(明治4年4月13日)、「山岡、村上〔政忠、海舟の妹お順の旧夫〕、水戸辺脱〔走〕中、発狂の儀なりと」(明治5年8月29日)、「村上俊五郎へ二百両遣わす」(明治6年4月17日)などの記述が増え、明治初期からとんでもない人物であったことがよくわかる。 

 諸田氏の小説のなかで、お順が兄の海舟をもう臆病だと思わなくなった象徴的な一件は、その現場を彼女が見たかどうかは別として、慶応4年4月10日の条にこう書かれていた。「此夜 思召しを以て御刀拝領。仰せに云う。頃日よりの尽力、深く感じ思召す所[……]此上言のかたじけな気を承りて、覚えず汗背、亦(また)感泣、申す処を知らず。明日城地の御引き渡しは頗る難事、唯一死を以て此上意に報答し奉らむか」  

 益満休之助について少し調べるつもりが、ずいぶんと多くの新しい発見があり、これでまたさらに読むべき本が増えてしまった。

2021年9月4日土曜日

『ショック・ドクトリン』上巻を読んで

 以前から一度読んでおこうと思いつつ、上下2巻の大作で、なかなか手がでなかったナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)の、とりあえず上巻だけ目を通すことができた。翻訳の大先輩である幾島幸子さんが、村上由見子さんと共訳なさった作品であり、昨年から「コロナ・ショック・ドクトリン」などと言われだし、再び注目を集めていたのはよく知っていたが、少し前にリーディングをした衝撃的な本で言及されていたために、ようやく読んでみる気になった。下巻が読めるのはいつのことやらなので、忘れないうちにメモ程度に書いておく。  

 政治・経済分野の本は、正直言って苦手なほうだが、下訳時代に9/11以降のネオコンの台頭に関連して、プレストウィッツやエモットの本を訳したことはあったし、本書で克明に綴られる中南米の凄まじい状況も、チョムスキーの『覇権か、生存か』で苦労しつつ訳したこともある。  

 とはいえ、いずれも20年近く前のことであり、よく理解しないままに終わっていたので、ナオミ・クラインの非常に明解な説明と、読みやすい訳文のおかげで、ようやく少しばかり全体像が見えてきた気がする。1970年生まれの著者が、1973年のチリ・クーデターの背景に、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンと、シカゴ大学で彼の教えを受けたチリ人留学生たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことを見事に説明してみせたのは、画期的なことではないだろうか。  

 1957年から1970年までにアメリカ政府の資金で学んだ約100人のチリ人留学生たちは、帰国するころには、「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」という。つまり、徹底的な自由市場経済体制に国家を改造すべく目論む思想だ。しかし、チリでは1970年には経済の主要な部分を国有化する政策を打ちだしたアジェンデが政権の座に就いており、この政権を阻止すべく動いたのが、前年アメリカ大統領になったばかりのニクソンだった。それによってピノチェト将軍による軍事政権が樹立し、アジェンデ政権中枢部が殺害・拘束されただけでなく、1万人以上の市民が逮捕され、大勢の人がサッカー場で見せしめに虐殺されるなど、「抵抗は死を意味する」ことがチリ全土に示された。  

 そんな野蛮な独裁制を、なぜ自由と民主主義を標榜するアメリカが支援するのか。その理解に苦しむ現象のからくりを、本書は解き明かす。衝撃的な出来事を巧妙に利用する政策を、著者クラインは「ショック・ドクトリン」と名づけている。 「つまり、深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、〈改革〉を一気に定着させてしまおうという戦略だ」という。

 フリードマンの教義が前提とするのは、「自由市場は完璧な科学システムであり、個々人が自己利益に基づく願望に従って行動することによって、万人にとって最大限の利益が生み出される」という考えだ。インフレ率や失業率が上昇するのは、市場が真に自由でなく、何らかの介入やシステムを歪める要因があるからだ、というわけだ。著者は自己完結したこの教義を資本原理主義と呼ぶ。  

 資本主義と自由はイコールだと信じるフリードマンの教義は、実際には自由の国ではなかなか受け入れられず、「自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった」。そのため、シカゴ学派の学者たちは世界中の軍事政権を跳び回ったのだという。  

 ニクソンはのちに、フリードマンの助言に従わずに賃金・価格統制プログラムを実施してインフレ率を下げ、経済を成長に転じさせ、フリードマンを激怒させたという。しかも、それを実施したのが、フリードマンの教えを受けた一人で、当時、新人官僚だったラムズフェルドだったそうだ。意思決定が複雑な民主主義国家では、外部から適切なブレーキがかかるという意味だろうか。  

 本書によると、フリードマンとシカゴ・ボーイズがピノチェト政権下のチリで実現したのは、資本主義国家ではなく、コーポラティズム国家なのだという。この用語の説明部分は何度読んでも意味がわからず、ネット上の定義もあれこれ読んでみたものの、著者の意図がいま一つ飲み込めなかったので、ネットで原文を探して自分なりに訳してみた。

「コーポラティズムはもともとムッソリーニが目指した警察国家モデルで、そこでは社会の三つの勢力である政府、財界、労働組合が同盟を組み、ナショナリズムの名のもとに秩序を保つべく三者が協力し合うものだった。ピノチェト政権のチリが世界に先駆けて実行したのはコーポラティズムの進化だった(…was an evolution of corporatism)」。この箇所が訳書では、「チリが世界に先駆けて発展させたのは、まさにこのコーポラティズムだった」となっている(上巻、119ページ)。 

「すなわち、警察国家と大企業が互助同盟を組み、第三の勢力部門である労働者にたいする総力戦をするために手を結び、それによってこの二者の同盟による国富の取り分を大幅に増加させるものだ」と、つづけば意味が通るのではないか。つまり、著者がこの言葉を従来の意味ではなく、労働組合と労働者を除外して、国家と企業だけが手を結んだ形態として使ったのだと解釈すれば、である。非正規雇用が増えて、組合幹部だけが国家と企業と結託するという意味なのか等々、いろいろ考えてしまったが、そうではなさそうだ。  

 たとえば、サッチャーはイギリス版フリードマン主義を導入して、公営住宅を安価で購入できるようにして、のちに「オーナーシップ・ソサエティ」呼ばれる政策を掲げたものの、就任3年後に支持率は25%にまで落ち込んだ。ところが、「コーポレート作戦」という、コーポラティズムを示唆する軍事作戦というショック療法に着手して、フォークランド紛争に勝利したため、支持率は59%に急上昇した。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「二人の禿頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と揶揄した、この紛争によって生じた混乱と愛国的熱狂に乗じ、サッチャーは強権を行使して炭鉱労働者のストライキを潰した。こうして、「民主主義国家でもそれなりのショック療法は実施できることを、サッチャーは身をもって示した」のだという。  

 レーガンとサッチャーの時代を経ると、「真のグローバルな自由市場を邪魔する者はいっさいいなくなり、制約から解き放たれた企業は自国内のみならず、国境を越えて自由に活動し、世界中に富を拡散することになった」。

 上巻にはチリのほか、インドネシア、アルゼンチン、ボリビア、南ア、さらには天安門事件や、ポーランドの「連帯」、ソ連崩壊など多岐にわたる事例に触れている。新聞やテレビで知っただけの歴史的事件が、クラインの解説を読むことで初めて、「そういうことだったのか!」と、目から鱗が落ちるようにわかってきた。ボリビアとポーランドでフリードマンに代わって暗躍した経済学者は、ジェフリー・サックスだった! 話題作となった『貧困の終焉』を読んで少しも共感しなかった理由が、いまになってよくわかる。ハイパーインフレのニュースばかりが伝わっていたアルゼンチンで諸々の恐ろしい事件が起きていたことを知ったのが、個人的には大きな衝撃だった。なにしろ、1930年代にアルゼンチンに移民したまま音信不通の遠い親戚がいるからだ。いつかまとまった時間の取れるときに、下巻を読みつつ、もう一度、上巻もおさらいしよう。

2021年8月24日火曜日

『お順』

 1年ほど前、勝海舟の伯父である男谷彦四郎(思孝)の名前を拙著で誤記していたことに気づき、少しばかり検索した際に、作家の諸田玲子が勝海舟の妹で、佐久間象山の妻となった順子(1836-1908年)を主人公にした『お順:勝海舟の妹と五人の男』(毎日新聞社、2010年)という小説があることを知った。たまたま村上俊五郎(この小説で言えば、五人目の男)について確認したいことがあって、文春文庫版(2014年刊)を図書館から借りて、とくに期待もせずに読み始めたところ、思いの外よく書けていて最後まで読み通してしまった。 

「五人の男」のうち、二人は父の小吉と兄の麟太郎(海舟)なので、お順のパートナーとなったのは実際には島田虎之助、佐久間象山、村上俊五郎(政忠)の三人である。ちなみに文庫版には、ちょっと誤解されかねないこの副題はもうない。  

 以前にも書いたように、男谷彦四郎の娘婿の誠一郎(信友)は直心影流の「剣聖」で、島田虎之助は麻布狸穴のその道場で免許皆伝、師範代となった。中津藩士の四男だった島田は剣豪として知られ、海舟も彼から剣術を習った。だが、お順にしてみれば島田は父親ほどの年齢で、彼が本当に初恋の相手で、許嫁であったのか、それともその部分は著者の創作なのかは、少しばかり調べたくらいでは確認できなかった。いずれにせよ、小説のなかでお順が生涯で最も愛した島田は、嘉永5(1852)年9月に病死してしまい、お順はその年12月に、よく知られるように、母の信からの絶大なる後押しもあって、島田よりさらに年上の41歳の佐久間象山の正妻となった。この母は、勝家の一人娘だが両親に早く死なれ、家を残すためにわずか4歳で、男谷家の妾腹の三男でわずか7歳の小吉と結婚させられたのだという。

 島田については史料が少ない分、小説の登場人物として自由に書けたようだが、象山に関する描写はそれに比べてややぎこちなく、これまで象山について数多く書かれてきた偏見をそのまま引きずっている印象を受けた。とはいえ、象山に嫁いだお順が、40人、50人の門弟が出入りする木挽町の塾で、姑のまんや側妻のお蝶、別の側妻菊の子である恪二郎などと暮らしていたのであれば、こんな雰囲気だったかもしれないと思う描写にはなっていた。私の高祖父は嘉永4年8月に象山塾に入門しているので、新妻だったころのお順に会っていたかもしれない。

 元治元(1864)年7月に象山が暗殺され、松代藩によって佐久間家がお取り潰しとなったことに憤慨して、お順が自殺未遂したという話はほかにもどこかで読んだことはあるが、出処は何だろうか? 子供のころから気が強く、父の小吉そっくりの跳ねっ返りのお順と対比して、この小説ではとことん殺生嫌いで、斬りつけられても刀が抜けないように、鍔を紙縒りで縛っているという兄の海舟の性格を巧みに描写する。典拠は『海舟座談』のようだ。それにたいし、象山の仇を討ちたいお順は「兄さまは臆病なのだわ」と思う。

 最後の男である村上俊五郎とお順が初めて会うのは、小説によると慶応4(1868)年3月5日、山岡鉄舟に連れられて赤坂の勝家を訪ねてきたときのことだった。この日、山岡がやってきたのは、その3日前に勝が益満休之助ら3人の薩摩藩士を、いざというときの切り札に使おうと、自宅に連れ帰っていたためだ。3人は前年暮れの薩摩藩邸焼き討ち事件で逃げ遅れて、小伝馬町の牢に収監されていた。一方の山岡もまた、西郷隆盛に「討伐の中止を談判する使者の役を、慶喜から直々に賜った」ため、益満を交渉の切り札にしようと考えていたという。「山岡が選ばれたのは、慶喜の身辺警護をつとめている義兄の高橋伊勢守(泥舟)の推挙によるものだという」とも、この小説には書かれている。そして、初対面の山岡にひと目で惚れ込んだ勝は日記に、「一見、その人となりに感ず」と書き、その場で西郷宛の書状を認め、山岡に託したという。海舟日記は『勝海舟全集』18の慶応3年までしかもっていないので、次の巻を借りてみよう。

 私はもともと幕末の外国人殺傷事件をかなり調べたので、勝海舟がヒュースケン暗殺犯の1人と言われる益満を西郷との交渉に使ったと初めて読んだときは、信じられない思いがした。慶応4年の上野戦争の際に負傷して、戸板に乗せられて横浜の軍陣病院に入院したが、病院の採光が悪いため病室の移転を希望したところ、たまたま大雨の日で、傷口が化膿して死亡したと、ウィリアム・ウィリス関係の鮫島近二氏の講演録で読んだこともあった。

 その益満と山岡、そして山岡の愛弟子という村上は、いずれも清河八郎の虎尾の会のメンバーだった。尊皇攘夷を掲げたテロ組織である。象山が暗殺されたあと、お順が再婚した相手が村上であると知ったときには、私には益満以上の衝撃があった。当時、私が村上ついて調べられた唯一の資料は、海音寺潮五郎の『幕末動乱の男たち』のなかの清河八郎だったが、今回、その元となったのが虎尾の会の一員だった石坂周造の『石坂翁小伝』(1900年)であることに気づいた。

 国会図書館のデジコレで読んでみると、下総「神崎に居ります中に村上新五郎と云ふ者が武者修行で私の所に尋ねて来ました。是れは身体も大きし如何にも豪勇」などと書かれていた。なぜか俊五郎ではなく、新五郎となっているが、同一人物だろう。この村上と石坂が、「浪士を騙って商人から金子を強奪した男たちを捕らえ、即刻、首を刎ねて両国橋にさらしたというおぞましい噂」について小説に書かれており、その件も、この『石坂翁小伝』に詳述されていた。しかも、その事件を調べた町奉行は井上信濃守(清直)だったという! ハリスとヒュースケンと度重なる交渉をつづけて日米通商条約を締結させ、その後、外国奉行を務めた井上は安政の大獄で左遷されたあと、南町奉行になっていた。  

 この石坂は何度目かの入牢中に戊辰戦争が勃発して情勢が変わり、やはり慶応4年3月15日に突然釈放され、山岡鉄舟預かりとなった。このあと、勝にも会うのだが、石坂は「勝と云ふ者は私共とは大に反対家であって彼れは西洋の心酔家であって」などと述べている。  

 4月11日に江戸城が明け渡され、慶喜は水戸にて謹慎という前夜、慶喜から贈られた銘刀を抱き、人知れず主君のために号泣する兄の後ろ姿をお順がひそかに見守る場面がある。長州征討時に勝が密使に立てられた際には、「慶喜公も、麟太郎が嫌いだ」と書かれ、「徳川より国を優先する」という勝の信念にも触れられていたが、お順はこのときの海舟の姿を見て、「もう、兄を臆病だとは思わなかった」。  

 そんな勝海舟の妹のお順の相手として、およそふさわしくないのがこの村上俊五郎なのだが、2人を強く結びつけた時代背景として、著者は5月15日の彰義隊の戦いの日に、海舟の留守のあいだに官軍が勝家に押し入った際に、村上が用心棒となってお順や家族を守ったときのことを描く。『氷川清話』に、このとき官軍200人ばかりに取り囲まれ、武器などを一切運び去ったことや、官軍からも旧幕臣からも命を狙われていた勝が、都合20回ほど敵の襲撃に遭ったとも書かれていた。このときのお順の武勇伝は知られているようだが、村上との一件はまだ確認できていない。小説では、お順は剣の達人である村上に兄の護衛を頼み、さらには象山の敵討ちも依頼したことになっている。  

 しかし、村上はアル中の疫病神のような人物で、何をやらせてもつづかず、どこでも問題を起こし、そのたびに山岡が次の勤め先を見つけ、勝家が当面の生活費を恵むというパターンが読んでいて呆れるほどつづく。明治元年9月に、旧幕臣のうち1万5000人が移住を希望し、家族を含めると総勢10万人近い人間が移住したという駿府へ、勝家も転居する。まだ婚姻届もだしておらず、祝言も挙げていない村上とお順がつかの間、同居した時期があった。勝に反感をいだく旧幕臣から詮索されないようにと、駿河国小鹿村(おじかむら)の出島竹斎という、父小吉の知己で、以前に海舟も金銭面で助けられた恩人が、お順たちの住む場所を提供してくれたのだ。海舟は竹斎への恩から、長男に「小鹿」(ころく)と名づけていたそうだ!   

 作者の諸田氏は、もともと2007年に半藤一利と対談した折に、勝海舟の妹のお順がおもしろいと勧められ、そこから調査を始めたそうだが、偶然にも実家の裏手に蓮永寺という、静岡時代に永眠した勝の母の信とお順の墓があるお寺があり、しかも父方の祖先が出島竹斎その人で、親族の蔵から未読の海舟の手紙なども見つかったのだという。したがって、お順と村上に関する新事実が、この小説を機に明らかになったわけなのだ。  

 しかも、『お順』によると、村上はその後、三方原の開墾事業を請け負って、またもや一揆を引き起こすなどの問題を生じさせ、その間におちよという若い娘に手をつけて、欣(きん)という娘を産ませたほか、別の愛人もつくっていた。村上に見捨てられたこの母娘の面倒を当初見たのが出島竹斎だった。お順は結局、村上と結婚することなく、ただちよと欣を引き取って、欣をわが子として育てたのだという。欣はのちに勝家の書生の熊倉操と結婚した。  

 横浜市歴史博物館には「熊倉家伝来 佐久間象山関係資料」があり、私もいくつか参照させてもらったが、そこでも「象山の死後、順子は実家の勝家へ戻り、後に村上政忠へ嫁いだ。政忠との間に生まれた欣子は、政忠の死後、勝家へ引き取られ、熊倉家へ嫁いだ」と説明されていたが、事情は違ったようだ。村上とお順に関する私の諸々の疑問は、この小説を読んで解けた気がする。  

 村上俊五郎は明治17年になって、頼みの綱だった山岡からもついに出入りを差し止められ、同21年に山岡が病死したことで取り乱した挙句に、勝家にお金の無心にきた。明治31年3月、「我が苦心三十年」と勝が日記に記したように、徳川慶喜が初めて参内して、天皇と将軍の和解が成立した。「これこそ麟太郎の悲願だった」と書いたあと、諸田氏は海舟からお順へのこんなせりふを付け加える。「ついでにもうひとつ……村上に絶縁状を送った。近年の無心は目に余る。おまえにとっても、幸多き年になるはずだ」。勝は翌年他界した。みずからの死を予期しての後始末だったのだろう。  

 お順は兄の死後10年ばかり生きて、明治41(1908)年に亡くなった。ネット上で見た彼女の墓は、母の信の墓標の片隅に小さく戒名だけ刻んだものだった。京都の妙心寺塔頭の大法院にある亡夫佐久間象山の墓には入らず、静岡の地で母とともに埋葬して欲しいと本人が希望したという。

『佐久間象山と横浜:海防、開港、そして人間・象山」横浜市歴史博物館、2014年より。真田宝物館所蔵。「象山自らが恪二郎と順子の写真を撮影したと伝えられる」とある。象山の写真はどうやらお順がシャッターを押したようで、同じときに撮影されたと思われる写真がもう1カットある

2021年8月17日火曜日

ブリジェンス設計の町会所

 謎の建築家ブリジェンスについてだらだらと書いてきたが、ようやく本題とも言える町会所に関して、隙間時間に在宅で調べられる限りのことをかき集めてまとめてみた。これは町会所というより、「時計台」の愛称で親しまれていた建物という。現在はこの跡地に、1917(大正6)年竣工の横浜市開港記念会館、通称ジャックの塔が立ち、これが国の重要文化財である歴史的建造物なので、それ以前にこの地にあった町会所のことはあまり知られていない。 

 きっかけは、このところずっと訳していた時間・時計の歴史に関する本に、公共の時計台に秘められた、とてつもない意味が書かれていたことだった。時間など、いまでは誰もが空気や湯水のように当たり前の存在として接しているが、これは改めて時間とは何か、それを可視化した時計とは何かを考えさせられた本だった。大まかに言えば、時計はローマの昔から支配者によって秩序を保つために使われてきたものであり、いまでは人工衛星に搭載された原子時計によって、私たちの暮らしのあらゆる側面が管理されているという驚くべき内容の本だ。

 これまでにも『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で、時間や時計に関連して深く考えさせられたことはあったし、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)には、スイスから開港当初にやってきた時計職人フランソワ・ペルゴの店に所狭しと並べられた時計を見に、日本の商人たちが群がったことが書かれていた。だから、文明開化と時計は密接に結びついていたんだろうと漠然とは思っていたが、改めて調べてみると、これは思っていた以上に重大な出来事だった。

 1932(昭和7)年刊の『横浜市史稿』地理編には、「町会所址」という項目があり、町会所が1874(明治7)年4月に改築されたことや、その建物が「石造で、屋上の高塔に大時計が据付けられ、本建物は時計台の名で通っていて、当時の横浜一名所となって居た」と書かれている。同風俗編でも、「石造二階の洋式建築」とあり、「其宏壮雄渾な誇姿には、其名も懐しい時計台と呼称が付せられて、明治初期の時代的雰囲気を語る記念の建築物であったので、其保存方法が慎重に考案されて居た最中の明治三十九〔1906〕年十二月に、可惜〔あたら、残念ながら〕、類焼の災厄に罹って灰土となった」と記されている。町会所の写真や銅版画を見ると、ブリジェンスのその他の作品とよく似た造りで、石造にしては華奢に見える。老朽化が進み、高塔は焼失する前年に撤去されていたというし、そもそも石造であれば「灰土」とならなかったように思うので、町会所も彼のその他の作品同様、木骨石張りだったのではないだろうか。 

『横浜市史稿』政治編三には、「之に要した建築費約八万円は、歩合金から支出した。此金は、明治六年五月、皇居が炎上して、直に造営に著手せられた時、横浜の貿易商人等が、歩合金の内を献金して、其費用の一部に充てんことを出願したけれど、遂に聞届けられなかったので、当時の神奈川県令陸奥宗光の発意を以て、其金を町会所建築費に転用したのであった」と、その由来が書かれている。  

 しかし、『横浜市史稿』の説明には、これがブリジェンスの設計だとは一言も書かれていない。それどころか、全11巻のどこにも、彼に関する言及はない。昭和の初めには、「横浜一名所」の設計者は、すでに完全に忘れ去られていたのだ。近年、彼の功績がいくらかでも知られているのは、先述の1907年の『横浜貿易新報』の記事に、1983年に掘勇良氏が目を留めて以来なのではなかろうか。この記事には「過般、火災の為めに一朝烏有(うゆう)に帰したる横浜会館、即ち時計台なるものは、氏等夫婦の設計に成りし唯一の記念物なりしと云ふ」と、書かれていたという。  

 設計者については早々に忘れ去られたようだが、町会所は「時計台」と呼ばれて親しまれたという。そのためか、町会所はむしろ、ここに時計を設置したジェームズ・ファーヴル=ブラントとの関連で記憶されつづけたようだ。以前は、そのことが不思議でならなかったが、時計台に込められた意味を考えれば、当然のことに思える。  

 なにしろ、日本ではそのわずか1年数カ月前まで十二辰刻制で時を刻んでおり、庶民が時間を知るすべは、ほぼ2時間置きに鳴らされる時の鐘の回数を数えるしかなかったのだ。横浜の時の鐘は、うちの近所の境木の鐘が野毛山に移されたそうで、もちろん人手で撞くものだった。江戸時代までは基本的に昼と夜の時間をそれぞれ6等分する方法が取られており、そのため夏には昼の一刻は長く、夜の一刻は短くなり、冬はその逆になった。日の出とともに起きて活動し、行灯しかない夜間は基本的に寝て過ごす暮らしだっただろうから、生物時計に従った健康的な生き方だったとも言える。  

 夜間、誰もが寝静まったあいだも起きて鐘を打たねばならない人は、おそらく和時計を頼りに、時の経過ばかりを気にしながら当番をこなしていたのだろう。ウィキペディアの和時計の項やセイコーミュージアムの説明を参照すると、江戸時代に開発された和時計は、もともと昼と夜の時間の変化を、棒状のテンプの分銅の位置を明け六つ(卯の正刻)と暮れ六つ(酉の正刻)で変えることで調整していたが、のちに2本のテンプが昼夜の境で自動切り替えできる二挺天符が開発され、二十四節気に合わせて15日毎に分銅をずらし、一刻の長さを調整すれば済むようになった。文字盤の時刻の間隔を15日ごとに変えて表示する「割駒式文字盤」型というのもあったようだ。  

 いずれにせよ、和時計は厳密に日毎の日の出と日没の時刻を追っていたわけではなく、その30分ほど前後の薄明を明け六つと暮れ六つとしていた。東西に長い日本列島では、実際には場所によって日の出、日没の時刻に2時間近いずれがあるためだろうか。和時計がどれだけ普及していたかわからないが、同じ仕様でほぼ各地で違和感なく使うためには、厳密でないほうがよかったのかもしれない。  

 そうした暮らしが唐突に終わりを告げたのは、明治5(1872)年11月9日に詔書が発表され、そのわずか23日後の12月3日が明治6(1873)年1月1日となり、それまでの太陰太陽暦が太陽暦に改められ、不定時法だった十二辰刻制が24時間の定刻制に変わったためだった。12月がほぼ1カ月なくなってしまったことは確かにショックだっただろうが、急に24時間制になり、何時何分という細かい単位で時間を決められるようになった時代の変化は、じわじわとストレスになっただろう。明治5年10月14日に鉄道が開通したのも、この変化と無縁ではなかったはずだ。半刻(1時間)という認識まではあったとはいえ、横浜–新橋間を1日9往復とはいえ、単線で列車を走らせるうえで、より正確な時刻を運行者も乗客も知る必要があっただろう。  

 幕末に長州や薩摩からひそかに留学した若者たちが、まだ13、14歳の子供まで、これ見よがしに懐中時計の鎖を胸に垂らしていたのは、24時間制で正確な時刻がわかることが、文明化した人間の証のように感じられたからではなかろうか。彼らにとって断髪して洋装したあと、最初に手に入れるべきものは懐中時計だったに違いない。明治7年にもなれば、横浜では懐中時計をもつ日本人はかなりいただろうが、そんなものを買えない庶民にとっては、見上げれば時間が一目瞭然でわかる町会所の大時計は、1日に何度でも見てしまう画期的な存在だっただろう。4階の高さでそびえ、てっぺんに4方向から見える大時計を搭載した時計台は、当時すでに2階建て建物が増えていたとはいえ、居留地や日本人町のかなりの場所から見えて、ランドマークとなるとともに時刻を伝えていたのである。  

 残念ながら、町会所の時計台は日本初のものではない。TIMEKEEPER古時計ドットコムというサイトによると、明治4年に現在の北の丸公園にあった近衛歩兵隊衛所竹橋陣営の時計塔が第1号という。同サイトによると、明治6年には工部大学校時計と並んで、なんと横浜岩亀楼にも時計塔が誕生したことになっている。後者は高島町遊郭に移転した岩亀楼の明治8年ごろ写真に確かに時計塔が確認できる。高島町に移転してから、3度焼失しているようなので、時計塔のある建物が何年に建設されたか正確に知るのは難しそうだ。町会所と同年同月に東京の江戸橋付近にあった駅逓察新庁舎にも時計塔があり、これもファーヴル=ブラント商会が納入していた。京屋の外神田本店と銀座支店もその後、同商会からの機械式四方塔時計が設置されている。本邦初ではないにしろ、町会所は5本指には入る日本で最も初期の時計台だった。  

 ジェームズ・ファーヴル=ブラントは1863年にエメ・アンベール率いるスイスの使節団に加わって来日した時計職人兼貿易商で、前述の同郷のペルゴとも交流があったが、一方で武器も扱っており、西郷隆盛や大山巌と親しく、長岡藩ともやりとりがあったようだ。長岡藩士の先祖を探すうちに、ファーヴル=ブラントを調べたという人のブログ等によると、松野久子という日本人配偶者がいて、彼女の死後はその姪の松野くま子を後添えにもらったらしい。いつもながら豊富な情報を提供してくれるMeiji-Portraitsは、この日本人妻をMatsouno Shisaとしており、横浜外国人墓地に眠る夫妻の墓には、確かにこの綴りで彼女の名前が刻まれていた。フランス語読みならシサ・マツノとなる。江戸っ子だったに違いない。彼女は有名なMitsuno clan(水野氏か?)の出身と同サイトには書かれていた。  

 いろいろ読むとファーヴル=ブラントも探り甲斐のある人物のようだが、とりあえずここでひとまず、ブリジェンスに関する報告はおしまいとしよう。幕末・明治期の時間や時計に関連したことでは、ほかにもいくつか調べたことがあるので、いずれ翻訳書が刊行されたときにでも書き足すことにしたい。

町会所の写る絵葉書。元の所有者の筆跡から、焼失する直前の写真と思われる

『神奈川の写真誌』(確か明治中期、有隣堂)に掲載されていた町会所の全容

横浜外国人墓地22区にあるフランソワ・ペルゴの墓。2018年10月撮影。誰かが花を供えていた

同墓地9区にあるジェームズ・ファーヴル=ブラントと松野久の墓。2018年10月撮影

2021年8月10日火曜日

グランド・ホテルはブリジェンスの設計か?

 しばらく中断していた建築家ブリジェンスの続きで、彼が設計したと言われるグランド・ホテルについて、メモ程度に書いておきたい。 横浜のホテル史については、私も学生時代にお世話になった故澤護先生が、それは綿密に調べ、論文やご著書を残されているので、詳しくはそれを読んでいただくのがいちばんなのだが、ブリジェンスとの関連に絞って、判明している限りのことをまとめておく。  

 グランド・ホテルはもちろん、明治時代の横浜を代表するホテルだったのだが、このホテルがあった居留地20番は、1862年から1867年までイギリスの公使館が置かれていた場所だった。公使館付騎馬護衛隊隊長から馬術を習った私の祖先もそこを訪ねたかもしれないと思い、現在は横浜人形の家が立つこの付近を、何度もうろついてみた。  

 横浜開港資料館で買った絵葉書のうち、上のパノラマ写真はフェリチェ・ベアトが山手から撮影したもので、1864年10月29日号の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に木口木版で紹介された。ここは海岸通りの南東端に当たり、画面手前には1860年に掘削された堀川があり、海に注いでいる。撮影されたのは下関戦争の直前だったため、横浜港の沖合にたくさんの軍艦が商船に交じって錨泊している。  

 下の絵葉書は、明治10年代撮影とのみ判明しているグランド・ホテルの写真だ。ブリジェンスが設計したとすれば、これがその建物なのだが、実際にはこの場所に建設された二代目のグランド・ホテルだという。1867年にイギリス公使館が山手に移り、同年11月に事務室等が売り立てられた(澤譲「横浜居留地のホテル史(1)」)。居留地20番はヘンリー・ホウイがイギリス公使館に貸していた土地で、公使館が移ったあとここに初代グランド・ホテルを建設した。ところが、まだ完成しないうちに、ホウイは1869年12月末に暗殺されてしまい、ウィリアム・H・スミスやジョージ・M・デアなどが共同で買い取り、1870年にメアリー・E・グリーンの経営で開業した。『ファー・イースト』の同年9月1日号に掲載された写真に、この当初の3階建てのグランド・ホテルが写っている。W・H・スミスは1862年にイギリス海兵隊の少尉として来日し、その後、実業家に転身してさまざまな事業を手がけ、「公共心にあふれたスミス」と呼ばれ、国籍にとらわれず居留民をまとめた横浜ユナイテッド・クラブの支配人を務めた。J・F・ラウダーもこのクラブの前身の発起人の一人である。  

 その後、スミスや写真家のフェリチェ・ベアトらが出資してこの初代のホテルを改装もしくは再建し、スミスを総支配人として1873年8月16日に二代目グランド・ホテルが開業した。こちらは、絵葉書にあるように2階建ての建物で、『日本ホテル略史』(昭和21年刊)によれば、「建物は木造二階建、一階に食堂、読書室、料理場があり、二階に客室三〇室を有す」というものだった。澤先生は、この書の間違いを多々指摘し、「建物の〈木造二階建〉も、〈石造二階建〉とした方が正鵠を得ている」としている。1890年に、隣接する居留地18番・19番に、フランスの建築家ポール・サルダ設計の新館が建てられると、20番の二階建てのほうは旧館と呼ばれるようになる。  この旧館がブリジェンス設計とされている旨には澤先生も言及し、こう評している。「ブリジェンスの作風は華麗さとか優雅さに欠け、どちらかと言えばずんぐりした単調な建築が多いので、この平面的で変化に乏しい〈グランド・ホテル〉旧館の設計も、彼の手になった可能性は大いにあり得るが、その確証はつかんでいない」(ホテル史(2))  

 ところで、この「旧館」にイギリスの工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーが1876年に滞在し、当時の様子を書き残している。その2年前、日本がウィーン万博で買い集めた美術品が海難事故ですべて失われたことに同情したイギリスのサウス・ケンジントン博物館が、1200点もの美術品・工芸品を寄贈してくれ、その選定にもかかわったドレッサーが、寄贈品とともに来日したときのことだった。ドレッサーの著作『Traditional Arts and Crafts of Japan』には、1876年末にサンフランシスコ経由で横浜に到着し、グランド・ホテルに滞在した日々が綴られている。第一印象では、さながらパリのグラン・ドテルのようだと思った場所を、翌朝、じっくり眺めたところ、「驚いたことに、昨日は堅固な石造りの建物として眺めていたものが、単に木造の骨組みの表面が、薄い石の平板で覆われていたのだ。それぞれの石は貫通しない程度に孔が開けられ、二本の普通の釘で吊るされているのである」。  

 城の石垣は別として、大量の石材を切りだし、輸送することも、その石を積みあげた建造物をつくることも一般的でなかった当時の日本で考案された苦肉の策だったのだろうか。見た目の西洋建築らしさもさながら、たびたび火事に見舞われた居留地では、耐火性という意味でも、石造りやレンガ造りの建物が求められていた。私が買った絵葉書のグランド・ホテルは、レンガ造りにも見えるのだが、少なくとも角部分は石造りに見える。そうした部分をドレッサーはしげしげと眺めたのだろう。  

 この「旧館」はブリジェンスの設計だろうか? 現地で手に入る素材で折衷案を考えだしたという点では、なまこ壁を採用した彼の他の作品に通ずるものを感じる。横浜税関として建てられ、二代目神奈川県庁舎となった建物は、外観石造、木造三階建てと書かれており、窓が等間隔に並ぶ中央棟などはとくに、この「旧館」に似ている。初代の横浜駅と新橋駅はいずれも木骨石張りで、伊豆斑石という凝灰岩が使われていた。少なくとも、技法という点では、グランド・ホテルの「旧館」はブリジェンス設計の可能性大と言えそうだ。  

 横浜には、現在は県立歴史博物館となっている旧横浜正金銀行本店など、石積みの本物の石造建築もあるが、建設されたのは1904年で、明治末期のものだ。現代の石造りに見える壮大な建築物は、いずれも石積みではなく、ごく薄い板石で外壁を覆っていることを考えれば、これはむしろ時代の最先端を行っていたのかもしれない。木造の民家で外壁の一部を石張りにした建物などは、近所でも見かける。木骨石張りというアイデアが、どこから生まれたのか、探ってみたら面白そうだ。

横浜開港資料館で買った絵葉書 
(上)「山手から見た居留地 1864(元治元年)7月」

(下)「海岸通り 20番グランドホテル(現在の〈人形の家〉付近)明治10年代」

2021年8月7日土曜日

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を読んで

 保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』を、細切れ時間をかき集めて読んだ。拙訳書『FOOTPRINTS未来から見た私たちの痕跡』について、北海道新聞に素晴らしい書評を書いてくださった地理学者の小野有五氏と、その後、多岐にわたる話題について何度もメールをやりとりさせていただくなかで勧められたのがこの本だった。  

 私が読んだのは岩波文庫から2018年に刊行されたものだったが、もともとは御茶ノ水書房から2004年9月に刊行された。著者の保苅氏が32歳で病死してから4カ月弱のちのことだ。本書は、保苅氏が1996年から2001年までオーストラリア国立大学に留学中に、ノーザンテリトリー準州に住むオーストラリア先住民の一氏族であるグリンジの、ダグラグ村を中心に現地調査をした結果をまとめた彼の博士論文をもとに、余命2カ月の末期がんとの宣告を受けてから、書籍として刊行するために多くの人の手も借りながら完成させたものという。  

 決して読みやすい本ではない。「幻のブック・ラウンチ会場より」として始まる第1章はとくに、「ども、はじめまして」という砕けた口語体の割には、オーラル・ヒストリーとは何なのかの説明もないまま、自分はインタビューも録音もせず、相手が自然に語ってくれるのを待つのだと読者は知らされる。エスノグラフィー(行動観察調査、保苅氏は参与観察とする)との違いを説明するのに、「事実確認的」(constative)、「行為遂行的」(performative)といった、やたら難しい用語が使われ、一般の読者には理解しづらいカタカナ語や、「歴史実践」(historical practice)、「歴史する(doing history)」など耳慣れない表現が多出する。最初のページのブック・ラウンチは出版記念会ではダメだったのか、なぜ「ローンチ」(launch)ではないのか等々、いちいち気になって、しばらく先に進めなかった。  

 それでも我慢して拾い読みしていくうちに、「僕たちは、歴史というものを、歴史学者によって発見されたり生産されたりするものだと思い込みすぎていないでしょうか。[……]学者以外がおこなう歴史実践は、せいぜいで歴史の授業に出席することくらいだと、思い込んでいないでしょうか」というくだりまできて、興味が湧いてきた。 

「〈われわれ〉歴史学者が、〈かれら〉インフォーマントの話を聞くという態度」にも疑問をいだいた著者は、歴史の語り手は人間に限らず、「場合によっては、石だって歴史を語りだす」、「いろんなモノや場所から歴史物語りが聞こえてくる」と述べ、それゆえに「過激で極端なオーラル・ヒストリー」という題名を考えたのだという。大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)を訳した私としては、石が語るのは、何ら不思議なことではない。もともとは、「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー」(通文化化する歴史)という題名を考えていたそうで、そうしなかったのは賢明だった。これではただ舌を噛んで終わりそうだ。 

「キャプテン・クックより以前に」オーストラリアにやってきたとグリンジの長老たちが主張する西洋人について、保苅氏が師と仰ぐジミー・マンガヤリ老人は「白人(カリヤ)は奴をキーン・ルイスと呼び、我々はジャッキー・バンダマラと呼ぶ」と説明した。「キーン・ルイスはこの土地にグロッグ[アルコール]をもたらした」、「バンダマラは、奴はライフルをもっていなかった。奴は長いあいだ、あれで暮らしていたんだ。……あのシャンハイを知っているかい?」などとも語った。  

 グロッグは、1730年代からイギリス海軍で支給されたラム酒の水割りを指す言葉だろうか。クック船長が第1回航海でシドニーのボタニー湾に上陸し、グウィーガルという先住民の一氏族と遭遇したのは1770年のことだ。クックの一行は突然の来訪者に敵意を見せた現地民の足元を狙ってマスケット銃を撃ち、現場に残された樹皮製の盾をもち帰り、のちにこれは大英博物館の収蔵品となって、100のモノの1つとして歴史を語った。クックの一行もグロッグは持参していただろうが、このときの出会いは非友好的に終わっているので、それを先住民に分け与えたのはもう少しのちの出来事だろう。  

 シャンハイはスリングショット、つまりパチンコとも呼ばれる小さな武器のことだ。これは意外にも、加硫した天然ゴムが1839年に発明されて以降に普及した武器のようで、シャンハイはそれが大量に生産された上海にちなんだ名称に違いない。興味深いことに、オーストラリアなどではこれをパチューンガと呼ぶらしい。ライフルは1849年ミニエー銃が開発されて以降、普及したので、キーン・ルイスあるいはジャッキー・バンダマラは、クックよりのちの19世紀なかばごろの人物だったかもしれない。保苅氏はジミーじいさんの言葉が、諸々の史実とは異なることを充分に理解しながら、聞き役に徹したようで、そのことに関して「歴史経験への真摯さ(experiential historical truthfulness)とはつまり、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったという歴史を真剣に考える歴史学のことです」と述べている。私ならば、客観的な証拠を示し、ジミーじいさんの記憶違いを正したくなるだろう。  

 グリンジの暮らす地域では1880年代から白人入植者が牧場開発に乗りだした。多くの人が働き手として雇われていたウェーブヒル牧場で1924年2月に大洪水が起こり、年間降水量が4インチ(1016ミリ)という地域であるため、ほとんどの牛はヴィクトリア川沿いに集まっており、何千頭もが溺死した。オーストラリアの国土の8割は年間降水量が600ミリ未満なので、グリンジの地域はそのなかでは湿潤ということになる。この出来事は人びとのあいだでは、日照りつづきであっため、ダグラグ村の長老が雨を司る虹蛇に雨乞いをした結果、数日間、雨が降りつづけたと語り継がれ、なかには洪水で白人を押し流すのが目的だったと主張する人もいたという。  

 この虹蛇を、保苅氏は「レインボウ・サーペント」、「レインボウ・スネーク」、あるいはただ大蛇などと表記していたため、小野有五氏は私が前述の訳書で使用した「虹蛇」という表記に疑問をもたれたようだが、現在ではこの訳語でウィキペディアの項目が立つほど、よく知られたものになっている。グリンジの人びとは蛇をJurntakalと呼んでおり、保苅氏はジミーじいさんとの対話のなかで、「ジュンダガル」について相当なページを割いているが、これが虹蛇かどうか言及していない。このあたりの用語の統一、定義がなされないまま本書は刊行されてしまったように思う。  

 ちなみに、先住民の言語はもともと250以上あり、現在ではそのうちわずか13言語のみが若い世代にも使われており、100言語ほどはもう高齢者のみが話すものとなり、残りは失われてしまったようだ。それほど多様であるため、「虹蛇」の現地語もボルルン、ダッカン、カジュラ等々何種類もあり、結局、共通語として英語表記が定着したのだと思われる。  

 ヘビと川は、ヤマタノオロチやインドや東南アジアのナーガを考えればわかるように、世界の多くの文化で密接に結びついている。極端に乾燥した広大なオーストラリアで、移動手段は自分の足しかなかった先住民について書いたブライアン・フェイガンは、『水と人類の1万年史』(河出書房新社)のなかで、「代々の狩人に知られてきた水場の在り処」が「〈ドリーミング〉行路、もしくは〈ソングライン〉と呼ばれるものであり」、「ソングラインの歌詞を繰り返すことで広大な土地を歩くことができる」と書いていた。こうした環境では、降雨の有無は生死を左右するものだ。恵みの雨をもたらしたあと空に浮かぶ虹を、天に昇る大蛇と考えたのか、などとも想像してみた。  

 もっとも、保苅氏が記録したジミーじいさんの説明はもっと断片的で、「見回してごらん、太陽はあっち(西)に沈む、そしてあっち(東)から起き上がる。これが正しい道だよ」といった調子だ。季節ごとに太陽が昇る位置も沈む位置も大きく変わるので、こんな大雑把な方角の把握で、水場が見つかるのだろうかと、心配になった。  

 ウェーブヒル牧場で暮らしていたグリンジの人びとは、劣悪な労働条件に抗議して1966年に牧場を退去し、1975年にはその一部である3300平方キロの土地を返還させたのだという。ジミーじいさんは1998年ごろ保苅氏が初めて会ったとき、すでに80歳前後のダグラグ村の最長老だったという。とすると、大洪水があった当時はまだ子供で、牧場の返還運動をしていたころは30代の働き盛りだったことになる。日本からきた若者を相手に、多くを語ってくれたジミーじいさんは、「尊重しなければいけないけど、今さら頼るには年をとりすぎ知恵いる人物」だったようだが、彼の記憶はその時点でどのくらい確かだったのだろうか? 

 私自身、祖先の足跡をたどるために、高齢の親族から聞き取り調査をするなかで、同じ出来事でもその当時の年齢や各人の性格によって、記憶された内容がまるで違うという経験を何度もした。数年後にもう一度問い直したときには、その記憶すら失われていることもあった。同じ事件の目撃記録でも、人によって、立場によってまるで異なることも知った。歴史は勝者によって書かれるという言葉の意味も、嫌というほど味わわされた。  

 歴史とは何かを問うのであれば、わざわざノーザンテリトリーまででかけなくとも、身近な老人との対話からでも充分にわかりそうな気がする。保苅氏は、周囲の世界を知るための最善の方法は、静かに注意を傾け、平原の向こうに飛ぶ鳥や、南方の山火事や、新しい轍に目を留めることだと教えてくれたジミーじいさんに大いに感銘を受けたようだ。だがそれとて、大半のバードウォッチャーや自然観察者は日本のどこにいても、日々どんな時間でもやっていることではなかろうか。オーストラリアン・クリーオルというクレオール言語で語るジミーじいさんと、英語を母語としない保苅氏がどれだけ先住民の思考を理解できたのかも、やや疑問が残った。  

 いまではオーストラリア先住民はほかのどの民族にも先駆けて7万2000年ほど前にアフリカをでた可能性が遺伝学から判明しているようだ。それでもヨーロッパや南アフリカ、南アメリカなど世界各地の洞窟で見つかっているのと同様の壁画を残すなど、人類共通の特徴が見られる。先住民が語る歴史の最も貴重な点は、そのとてつもなく長期にわたる時代の記憶であるはずだが、保苅氏はその最後の数百年の植民地時代の歴史をもっぱら研究した。私にはそれが残念に思われるが、世紀の変わり目はまだポストコロニアル理論にどっぷり浸かっていた時代だったのだろう。  

 なお、本書では白人にカリヤ、アボリジニにグンビンとルビが振られているが、白人を意味する先住民の言葉はカーティヤ(Kartiya)またはガバ(Gubbah)しかネット上で検索されない。グンビンはグリンジを含む言語族ンガンビン(Ngumbin/Ngumpin)のことと思われ、彼らはンガンピット(Ngumpit)と自称するようだ。さらに言えば、アボリジニ(Aborigine)という用語がいまでは差別用語と広く認識されているので、文庫化に際してはそうした旨の注記が必要だったのではないだろうか。私も昨年のサイニーの訳書でようやく気づいたのだが、読み返してみると『100のモノが語る世界の歴史』の原書(2010年刊)はAboriginalという形容詞は使っても、Aborigineは使っていなかった。オーストラリア先住民についてたびたび書いたブライアン・フェイガンは、2012年の原書でもまだAborigineを使っていた。

 ついでに言えば、「歴史とはそもそもナラティブである」などと唐突に書き、「物語り」(ナラティブ)と「物語」(ストーリー)とそれぞれルビを振り、注意散漫な読者には表記の不統一と誤解されるのがオチの書き方をする辺りも、編集サイドでもう少し補うべきではなかっただろうか。  

 かなり辛口の評になってしまったが、私よりも10歳近く若く、これだけの才能の持ち主だった保苅氏の命が、研究者としての第一歩を踏みだしたところで尽きてしまったことは、返す返す残念だ。