その間も卒園式にお墓参り、姉のリサイタルとあちこち出かけ、娘も細々とした仕事で多忙だったので、月末まで幼稚園の預かり保育のお迎えもあった。3 年間つづけたこのお迎えは、重たい電動アシスト付き自転車に乗って、急坂を上り下りしなければならないもので、雨の日や雪の日は徒歩で孫と延々と歩くことになった。それでも、具合が悪くて行けなかった日もなく、無事故のままお役御免となった。年少時にはブランコを漕ぐのもぎこちなかった孫も、年長時には帰り際によく園庭で高く漕ぎながら延々と乗るようになった。同じ時間にお迎えがきた友達と一緒に逆上がりや雲梯、登り棒なども練習した。
平日はほぼ毎日、何時間か一緒に過ごしてきた孫だったが、4月初めに娘一家が、文字どおり足の踏み場もなかった手狭な賃貸を離れ、同じ区内とはいえ、隣駅が最寄りとなるところへ引っ越したため、私の生活圏からは離れていった。荷造りが始まり、空になった本棚に、幼稚園の帰りがけに摘んだ花を小さなカップに入れて一心に飾っている孫を見て、胸が痛んだ。孫はショーン・タンの「エリック」になったつもりで、生まれ育った家に別れを告げていたようだった。私自身、孫の世話に追われた6年間が終わり、急に解放されたらどうなることやらと不安だった。桜が咲くころには、いなくなってしまうのだと思うと、春になるのが恨めしかった。日本人の桜にたいする特別な思いは、年度の節目となる季節と重なって美しい光景が深く記憶に刻まれ、「去年は一緒に見たのに」とか、「来年の桜は……」と考えてしまうこととも関係するかもしれない。
ところが、引っ越しの日が迫っているというのに、娘宅は一向に片づく様子がない。前後の数日間は、しんみりとする間もなく、荷造りやら掃除やらに追われ、合間には隠れん坊や忍者修行にも付き合わされた。小学生になっても、相変わらずのソメコぶりだ。挙句の果てに、娘からは本棚に入り切らず、床に積まれていた本を入れる本棚をつくってくれと頼まれる始末。服でも玩具でも、大半のものはそれらしきものを手作りして誤魔化しながら子育てをしたので、娘はいまだに私が何でもつくってくれると信じている。近所のホームセンターで購入した板はいったんうちのアパートに運んでもらい、格子に組むための溝を切ったり、やすりをかけたり、ドリルで穴を開けたりといった音の出る作業を仕事の合間に済ませることにした。だが、うちには電動工具は一つもなく、万力のついた作業台などももちろんない。古い鋸一本でギコギコと中腰で切ったので、数日間、腰痛に苛まれる羽目になった。二年ほど前にやはり娘に頼まれて樹洞を広げるために鑿のセットも購入していたので、今回はそれが役立った。
こうした肉体作業と並行して、「忠固研」の論文集のために執筆した論文とコラムの初校という、頭の痛い作業もあった。割り当てられた字数ぎりぎりで原稿を提出していたのに、多数の修正を求められ、そのたびに文字数をちまちまと数え、あっちを削って、こっちを足しての繰り返しとなった。
第50回を迎えた赤松小三郎研究会で短い発表をすることにもなっていたため、忘れかけていた参考文献を読み直してレジュメを作成し、さらに当日のためのパワーポイントのスライドもつくらねばならなかった。この時期、十分な時間が取れないことは最初からわかっていたので、発表のほうは簡単に絵図の紹介で終わらせるつもりだった。ところが、いざ調べ直すと、以前に生麦事件の謎解きに取り組んだときのことが甦り、事件発生時ですら人はそれぞれの立場でまるで異なった証言をすることや、時代とともに話が書き手の都合に合わせてどんどん変化し、「藪の中」状態になっている面白さに夢中になり、どんどん深入りしてしまった。そのため、毎度のことなのだが、早口で発表時間の枠を目一杯使うことにはなったし、先に提出してあったレジュメの間違いがあちこちで見つかったが、何かしら新しい視点は提示できたと思う。長年、先祖探しでお世話になってきたこの研究会に、多少なりとも恩義がはたせたのであれば嬉しい。
この発表後は、ほとんど手をつけられていなかったリーディングの仕事を突貫工事で終えなければならなかった。さほど厚い本ではなく、私のよく知る分野も含まれていたので、楽勝に違いないと踏んだのが間違いのもとだった。物理が苦手は私は、自分の想像を超える宇宙空間での目に見えない運動の力について説明されたりすると、頭がフリーズする。前回の物理の本は、ありがたいことに宇宙物理を専攻した娘の夫が、コロナ以来、うちのアパートで「在宅勤務」していたので、気軽にその都度、質問することができたのだが、これからはそうもいかない。もしこの企画がめでたく通ったら、また孫と一緒にブランコを漕いでその力学を体感しながら、一度しっかり基礎を勉強し直そう。
幸い、娘の夫は何を思ったのか、引っ越しに際して誰にも相談することなく折りたたみ式の軽めの電動アシスト付き自転車を買い、それを私に貸与してくれた。娘一家の新居まで公共の交通機関で行こうと思えば、電車とバスを乗り継がなければならず、往復で八〇〇円近くかかる。私はグーグルマップのルート検索でいちばん起伏のないルートを探して、自分のママチャリで通う気満々だったのだが、この文明の利器をありがたく利用させていただくことにした。自由にどこにでも行ける自転車は私のいちばん好きな乗り物なので、真夏と大雨のとき以外は、あと数年はこれに乗って足繁く通うことにしよう。
孫は知り合いが一人もいなかった新しい学校で、初日から数人の同級生に声をかけ、先生から紙までもらって、その先生の似顔絵を描いたらしい。先日、本棚を組み立てに行った折には、その先生に引率されて、友達と手をつなぎながら、楽しげに集団下校してきた。夕方には、近隣の大きな自然公園までの道をすでに覚えていた孫の先導で、自転車を2台連ねてちょっとしたサイクリングもした。板を買った際にホームセンターで見つけた小さな魚獲り網を背中のリュックに入れて、上り坂を懸命に漕ぐ孫は、先日、その網でドジョウをすくったらしい。ドタバタで始まった娘一家の新生活だが、少しずつ新しい環境に適応しているようだった。
この間、本業のほうは幸いにも(?)ゲラ待ち状態がつづき、しかも、ありがたいことに次の仕事も決まり、速攻で原稿が送られてきた。まだ月末にオンラインの研究会で発表するために、レジュメを作成し直さなければならないが、先月からつづいたドタバタの万屋の日々はそろそろ一段落して、もとの平穏な翻訳業に戻ることになる。
今後はおそらく週一くらいのペースで娘宅に通うほか、姉宅での孫のピアノのレッスンに付き合うことになると思うが、それも低学年のうちだろう。小学校4年にもなれば、友達優先になり、親とだってあまり外出したがらなくなる。婆さんの出る幕はさらにないだろう。よちよち歩きだったころ一緒に遊んだ公園や、ストライダーの練習をした尾根道、バドミントンで遊んだ駐車場などを見るたびに寂しくはなるが、遠隔地や外国に引っ越したわけでもなく、まして事故や病気や戦争でもう二度と会えないわけでもない。すべてのことは移ろい、変化する。ようやく少しばかり自由な時間ができるのであり、自分にあとどれだけ時間が残されているのかもわからない。やり残していることを、元気なうちに一つずつ片づけていこう。
孫の「エリック」遊び。このあと春夏秋冬を再現していた
幼稚園の帰りに立ち寄った秘密の小道で、思いがけず見た満開のエドヒガンと思われる大木
久々の大工仕事で、これまでになく大きな本棚をつくった