2022年2月2日水曜日

宣伝

 いくつかまとめて宣伝させてください。

◉東郷まどか ピアノリサイタル〜大作曲家の若き日々〜  2022年3月19日(土)19:00開演(18:00開場)  
戸塚区民文化センターさくらプラザ・ホール  J. S. バッハ:イギリス組曲 第2番 イ短調 BWV807  ショパン:ピアノ協奏曲 第2番 へ短調 Op. 21(ピアノと弦楽カルテット版)  バルトーク:ピアノ五重奏曲  全席自由 一般3,000円 学生2,000円  私の姉がまた戸塚でピアノリサイタルを開きます。室内楽が中心のようなプログラムなので、お楽しみいただけると思います。共演する大谷宗子さんは姉の船橋高校時代のピアノトリオ仲間、山田実紀子さんはママ友と、長いお付き合いの方々です。チラシは今回も娘のなりさがつくりました。 概要はこちら。 姉のインタビュー記事がこちらにあります。

◉「忠厚伝」合情記 YouTubeは こちら  
 明治維新後にアメリカに渡った上田の松平忠礼・忠厚兄弟のドラマです。制作に当たって拙著『埋もれた歴史』を参考にしていただいたそうで、私の高祖父もドラマのなかに少しばかり登場します(笑)。
  松平忠厚に関しては、飯沼信子さんの『黄金のくさび』(郷土出版社、1996年)という伝記があり、ニューヨークのブルックリン橋の測量に携わったという説がそこから広まりましたが、この有名な橋の歴史を調べてみると、36歳で他界してしまった忠厚の遺族が信じ込んでいた逸話に過ぎなかった可能性が高いことがわかりました。上伊那郡出身の渡邊嘉一がエディンバラの有名なフォース鉄道橋の建設にかかわっているので、ちょっと残念ではありますが。それでも測量機器を発明して『ニューヨーク・タイムズ』や『サイエンティフィック・アメリカン』に大々的に取り上げられ、アメリカ人と結婚した最初の日本人となった忠厚の生涯は、充分に注目に値するものです。脚本を書かれたみなとかおるさんは、その点を含め、拙著の主張を多く取り入れてくださいました。みなとさんは俳優の三輪和音さんとともに、ほかにも「日本史別天地」というシリーズで「小三郎」、「忠固伝」、「忠優伝」を製作し、公開しておられます。


忠厚の孫娘のハルさんが1992年に来日した際の新聞記事。2019年に上田に調査旅行に行った際に、上田藩士のご子孫の方に見せていただいた。ハルさんは2002年に亡くなっている。

『サイエンティフィック・アメリカン』の説明を頼りに、忠厚が発明した測量機器trigonometerを何年か前につくってみたもの






◉『グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル』 ベン・モンゴメリー著、浜本マヤ訳、山と渓谷社、2021年11月刊行  
1955年に67歳でテントどころか寝袋すらもたずに全長3500キロほどのアパラチアン・トレイルを歩き通したエマおばあちゃんの伝記で、私の大学時代の友人で、2018年に単身渡米してジョン・ミュア・トレイルをやはりスルーハイクした浜本マヤさんが、企画をヤマケイにもち込み、初めての挑戦にもかかわらず、翻訳をやり遂げた作品です。全編を原書と突き合わせてチェックするお手伝いを私がしました。
 
◉『飛べないハトを見つけた日から』 クリス・ダレーシー作、相良倫子訳、東郷なりさ絵、徳間書店、2021年11月刊行 娘のなりさが、挿絵・表紙画を担当しました。
 2020年に娘がつくった絵本『さくらがさくと』(福音館書店)は、以前にも書いたようにオーストラリアの出版社が英語版をだしてくれ、この2月からはアメリカでも発売されることになりました。それを機に、レビューアーの方が娘にメールでインタビューをして、こんな紹介記事を書いてくれました! 

 先日、私の誕生日に娘からはコウモリの絵を、孫からは神奈中バスの絵をプレゼントしてもらいました。よりよってブログを開設してすぐに、コウモリは世界中の悪者になったような感がありましたが、牧人舎のエッセイを「コウモリ通信」にしたのは、端的に言えばアイデンティティの問題でした。100回目のエッセイ記念にも、娘がコウモリを描いてくれ、それを描き直してくれたのがこのブログのヘッダーの絵です。新しいコウモリの絵はプロフィールのところにあります。

2022年2月1日火曜日

日本最初の時計台

 昨年末から、忘れないうちに書いておきたいと思いつつ、仕事が終わらず、書きかけになっていたことがある。今月下旬に、河出書房新社から刊行される『世界を変えた12の時計:時間と人間の1万年史』(デイヴィッド・ルーニー著)の訳者あとがきを書いた際に、ブログの「ブリジェンス設計の町会所」で書いたことを念のためにと思って調べ直したら、次々に疑問が湧いてきたのだ。  

 昨年、日本最古の時計台が札幌市か豊岡市出石町のものかで競われ、結局わずか27日差で札幌に軍配が上がったというニュースが流れていた。どちらも1881(明治14)年のことだった。しかし、現存する時計台としては最古だとしても、札幌の時計台が日本で最初の時計台だったわけではない。  

 では、本邦初の時計台はどこに建てられたのか。初期の時計台について書いているほぼすべての情報源は、近衛兵第1、第2歩兵竹橋陣営の時計台を、明治4年竣工の第一号時計台としている。その根拠としているのが、平野光雄氏が1958年に書いた『明治・東京時計塔記』の次のような記述だった。 

「近衛歩兵隊営所の大時計は、明治年間、東京において建設された時計塔中、もっとも古く、またその生命も一等長かったものである」 
「営所正門を入り、ただちに眼前に横たわる明治四年に竣工した兵舎[……]の屋上中央に、巨大な円筒型の洋風時計塔が屹立していた」
 「時計塔機器は、明治四年に据えつけられたもののごとく、あるとき徒弟を鐘塔に上らせてみると、直径一尺六寸ほどの鐘の下部円周に刻まれた一連の欧文中に、一八七一年の年号が入っていたそうである」

 しかし、竹橋陣営の竣工年を明治7年とする資料もかなり見受けられる。実際はどうだったのか。少し調べてみると、この建物を設計したウォートルスこと、トマス・J・ウォーターズに関する丸山雅子氏の研究が『ファインスチール』という日本鉄鋼連盟の定期刊行物に掲載されていた(2017年春号・夏号)。そこに、竹橋陣営の「建設に必要になった大量の煉瓦は、ウォートルスの指導の下、東京の小菅で焼かれた」と書かれていたのだ。ウォートルスがそれ以前に設計し、明治4年に竣工した辰の口の分析所の煉瓦はおそらく上海から運ばれてきたことも、丸山氏の論考に書かれていた。竹橋陣営は規模が大きいので、輸入に頼るわけにはいかなかったのだろう。

 ところが、いまの東京拘置所がある場所に建てられていたという、その小菅のレンガ製造に関する葛飾区の公式ページを覗いてみると、この工場は明治5年2月末の銀座大火を受けて銀座を煉瓦街に改造するために建設されたものだという。工場ができたからと言って、すぐに順調にレンガが生産されるわけでもないし、竹橋陣営の規模からすれば、明治7 (1874) 年竣工説のほうが正しそうだ。こちらは『近衛歩兵第一聯隊歴史』に明治7年2月10日に連隊が竹橋陣営に移転した旨が書かれていた(国会図書館デジタルコレクション)。ただし、時計台に関する言及はない。  

 ブリジェンス設計の町会所は明治7年4月竣工で、見つけた限りで最も古い記録は、『横浜沿革誌』(太田久好著、1892年)だった。明治7年4月の項の3番目に「同月、町会所(当時市会所)時計台竣功[ママ]し、鐘及機械装置鐘声を試験す」とあるので、4月上旬と推測できるかもしれない(デジコレ有り)。当時は、アルフレッド・ジェラールも横浜でレンガの製造を始める前で、以前にも書いたように、ブリジェンスは町会所も木骨石張りで設計したようだ。日本橋の駅逓寮庁舎に時計が設置されたのが同年4月30日なので、町会所のほうが数日前に竣工したと考えられるだろう。あいにく横浜開港資料館がまとめた『横浜町会所日記 横浜町名主小野兵助の記録』も明治3年1月から4年12月までの期間しかなく、開港資料館で当時の新聞もざっと探してみたが、この時期の史料は驚くほど少ない。ある意味でいちばんの変動期、混乱期だったのかもしれない。  

 早期に建てられた時計台として、平野氏が挙げていた横浜高島町遊郭、岩亀楼のものは、前述したように明治6年ではなく、8年ごろの可能性が高い。突如として改暦になり、定時法になったのが、明治6年1月1日なのだ。この時計台は町会所のものとデザインもそっくりで、町会所のものを真似た、もしくはブリジェンスが頼まれて似たデザインで設計した、と考えるべきではないだろうか。平野氏は『時計亦楽』に、古いヨーロッパ製置時計のような形の町会所の鐘塔は明治期には珍しく、のちに陸軍士官学校や第一高等学校でこれに似た時計台がつくられたと書いている。  

 もう一つ早期に建てられたものとして、工部大学校の時計というのがある。この建物に関しては泉田英雄氏がたいへん詳しく研究しておられるのだが、時計台そのものに関する記述はわずかで、泉田氏の他の論文を含め、いくつかの論考やウィキペディアの工部大学校の項を突き合わせてみると、どうも細部に食い違いがあるような気がしてならない。泉田氏のウェブサイトによれば、時計台のある建物は当初、小学校校舎と呼ばれ、「1872[明治4]年暮れにほぼ完成」していたはずで、「時計塔は当初から設計にあったが、グラスゴーから送られてきた時計が破損していたため、あらためて注文し直し、取り付けが半年遅れた」という。そうだとすれば、1873[明治5]年中にはこの時計台が存在していたことになる。  

 だが、時計台のある小学校の建物は手狭過ぎてのちに博物館に転用されており、泉田氏の別の論文「工部大学校創設再考」によれば、工部省工学寮工学校(のちに工部大学校と改称)の校長となったヘンリー・ダイアーが日本に到着した時期には、この「建物の煉瓦壁が数フィートの高さまでしか立ち上がっておらず、翌年3月の完成までの間、近隣の屋敷で授業しなければならなかった」はずなのだ。ダイアーは1873年4月にイギリスのサウサンプトンを出港しており、8月に授業を始めている。「翌年3月」は明治7年3月であり、仮に時計の取り付けが半年遅れていれば、ウィキペディアが典拠を示さずに書くように、「1875年になって取り付けられた」可能性すらでてくる。平野氏は、この時計台の建物に使われたレンガがイギリス製で、明治6年12月に竣工という『明治工業史』建築篇の説を引用しているが、竣工時期にどんなものだろうか。  

 つまり、ごちゃごちゃと書いたが、本邦初の時計台は、明治7年2月10日(竹橋陣営)、3月(工部大学校)、4月(町会所、駅逓寮庁舎)と非常に接近した時期に完成した可能性がある、ということだ。「時計台」と呼ばれたブリジェンスの横浜の町会所は、少なくとも日本で最初の時計台の地位を争う有力候補だったのである。

横浜開港資料館で売っている絵葉書。雪の日の町会所。撮影は日下部金兵衛のはずだが、その旨の記載はない。風見鶏が切れているのが残念

平野光男著、『明治・東京時計塔記』(1959)と『時計亦楽』(1976)ともに青蛙房

『横濱史料 開港70年記念』横浜市役所、1928年刊、高島町遊郭岩亀楼、
キャプションには明治5年と入っている

町会所の跡地に立つ横浜開港記念会館(ジャックの塔)
何か史料があるかと思って、一応訪ねてみたら、2024年3月31日まで改修工事で休館中だった。2021年12月撮影。

2022年1月8日土曜日

小寒

 小寒を過ぎて、日没時刻はすでに、私が記録をつけ始めた12月中旬から20分以上延びているが、横浜の日の出時刻はまだ1月2日からずっと6時51分のままだ。ただし、小寒の朝、見に行った日の出の位置はすでに少しばかり北にずれていた。冬至で「静止」した太陽は、ちゃんとまた折り返してきていたのだ。  

 お正月を挟んでそれだけ日数が経ったにもかかわらず、私はまだ終わる気配の見えない本と格闘している。こんなときはよく「オワラングゼーブ帝だ!」などと、娘と冗談を言い合っていた。当時もこのムガル皇帝(アウラングゼーブ)の日本語表記はひどいと思ったが、ヒンディー語読みだとオーランジェブであることをグーグル翻訳の音声機能で知った。全然違うじゃない!  

 現在の仕事はベンガル語がたくさんでてくるため、私はそのたびにベンガル文字のアンチョコ表と見比べながら、音声を何度も聞き直している。そんなことに膨大な時間を費やしたところで、気づいてくれる人はまずいないのだろうが、ベンガル語の総話者数は3億人近くで世界第7位であり、1億3000万人のドイツ語話者数よりも、2億人以上のフランス語話者よりもはるかに多いことを考えると、適当にローマ字読みするわけにもいかない。  

 年始には何年ぶりかで母方の叔父の家を訪ね、いとこたちも家族を連れてきていたので、つかの間、親族が大勢集まった昔の祖父母宅でのお正月の光景が甦ったようだった。いま訳している本に、子供時代にいかに拡大家族や家族ぐるみの友人たちに囲まれて育ち、そのなかでどれだけ多くを学んだかが綴られている。その成育環境があってこその人なのだと思い知らされたところなので、核家族化したうえに、コロナ禍で家族以外の人との接触が極端に制限されたこの数年間がおよぼす悪影響を嘆かずにはいられない。年始に予定されていた、父方の初めての(!)いとこ会は、オミクロン核の急速な広まりによって、残念ながら延期となった。  

 相変わらず先行き不透明なままだが、そのなかでも時は刻々と過ぎてゆく。大事な成長期を多くの制限のもとで過ごす子供たちが不憫だ。関東で4年ぶりの大雪となった翌日、すでに残りわずかになった雪で元気に橇遊びをする近所の小学生たちを見て、少しだけ安心した。 

 長らくご無沙汰している何人かの方々が、お年賀状でブログ読んでいるよと書いてくださったのは嬉しかった。本年もなるべく定期的に書くつもりですので、どうぞよろしくお願いします。

 新京成の新鎌ヶ谷付近で見た
 富士山とスカイツリー

 初雪にFOOTPRINTS

子供が自由に遊べる希少な空間。ここを設計し維持してくれている方々に感謝したい。

2021年12月28日火曜日

不定時法

 今年も残すところあとわずかとなったのに、またもや見込み違いで、年末にはとうてい仕事が終わらず、締め切りを1カ月ほど延ばしていただいた。まだ年賀状にも取りかかれないまま、訳し終えた部分から見直しを進めて小出しに提出する、「三枚のお札」作戦の真っ最中というところだ。いろいろ考えていること、書きたいことはあるのだけれど、如何せん時間も気持ちの余裕もないため、目下の近況だけ、年末のご挨拶代わりに書いておくことにした。  

 今年の前半は、以前にも書いたように、時間と時計に関する面白い本を訳しており、少し前に訳者あとがきを書きながら改めて明治初めまで、日本で使われていた不定時法について少しばかり調べてみた。高緯度の地域ほどではないにしろ、冬と夏では日の出、日の入り時刻に数時間のずれがある日本では、年間を通して空が白んできたら起床できるように時間のほうを変えていたというのは、何やら逆転の発想のようで、とても新鮮だった。

 時間を変えるのは年間24回、二十四節気に合わせていて、その点では太陽暦であったことなどを知ると、実際に試してみたくなる。巧妙な仕組みになっていた和時計を1台欲しいところだが、うちは東向きでもあるので、取り敢えずは日々の日の出時刻の変化を1年間おおよそ(起きられる限り)追ってみようと思い立ち、冬至の少し前から始めてみた。  

 街灯や門灯の明かりが入るので、真夜中でも完全な暗闇ではないが、夜明け前にほんの少し空が明るくなると、ものが見えるようになる。最初の光はカーテンの上の隙間から射し込むので、欄間が高い位置にあったのはそのためでもあったのではないだろうか。つまり目覚まし代わりとして。電気のない時代であれば、日の出前のこの30分ほどの時間、明け六つは、とても貴重だったに違いない。  

 私がいつも利用させていただいているKe!sanサイトによると、冬至の明け六つは6時11分だが、春分・秋分は4時54分、夏至は3時49分と変化していた。横浜の冬至の日の出時刻は6時47分だったが、やや内陸部に住んでいるので、うちの近所の小高いところから実際に太陽が見えたのはその7分後ほどだった。周囲に民家が密集するうちのアパートでは40分ほどあとでなければ太陽は見えない。  

 冬至前の12月18日には、横浜の日の出時刻は6時45分だったので、そこから少しずつ遅くなったわけだが、実際には日の出時刻は冬至後もどんどん遅くなり、いちばん遅いのは1月7日ごろらしい! これは地軸が傾いているからだという。かたや日の入り時刻はいちばん早いのが12月6日ごろで、冬至のころには実際にはどんどん日が暮れるのが遅くなっていたのだ。確かに晩秋にいちばん日暮れが早く感じるし、クリスマスを過ぎるとすでにだいぶ日が長くなったような気がする。ただし、日の出・日の入りで厳密に計算すると、冬至の日はいちばん昼の時間が短くなるそうだ。そんなことも知らずに、ただ柚のお風呂に入って満足していたのかと思うと情けない。  

 冬至の日の出を見に行った朝、周囲の色がどんどん鮮やかになるにつれて、近くの木で眠っていたらしいヒヨドリが一羽、また一羽とけたたましい声をあげて飛び立っていった。

「たいようがでるまえに、さいごの ねぼすけも とびたった」という、娘の新しい絵本『ハクセキレイのよる』(福音館 ちいさなかがくのとも 2月号)の最後の一文がふと浮かんだ。冬季には街路樹などをねぐらとするハクセキレイの一夜を追っただけの静かな物語だが、小さな読者が自分の知らない夜の時間の話にどんな反応を示すのか楽しみだ。月刊誌なので店頭に並ぶ期間は短いため、ご興味のある方は早めに探してみてほしい。  

冬至の日の出

『ハクセキレイのよる』とうごうなりさ作 
 福音館、ちいさなかがくのとも2022年2月号

2021年12月14日火曜日

ブリジェンス追記

 昨日、たまたま別件で検索中にたいへん詳しい面白いサイトを見つけ、ついあれこれ読んでしまった。建築史家の泉田英雄氏のサイトと思われる。『埋もれた歴史』を書いた際に、私もイギリスの公使館や領事館について少しばかり調べたのだが、このサイトには明治以降のものを中心に、建築学的な観点からかなり詳しい経緯が綴られていた。  

 目下多忙なので、このサイトから判明した新たな事実をメモだけしておく。まずは、御殿山に建設され、高杉晋作らに焼き討ちされた公使館の設計者はラザフォード・オールコック自身だった!  

 横浜の山手に1867年に建設された公使館は、ブリジェンスの設計で始まったものの、工兵クロスマン少佐(Major William Crossman)が極東に派遣されたあと、その機能に相応しいように設計変更されたのだという。  

 さらに、現在の横浜開港資料館の場所に1870年に建設された領事館では、新たな図面が作成されたのだそうだ! 不恰好と不評だったこの領事館は、ブリジェンスのその他の建築物と似ていないと思ったが、そういうわけだったのか。泉田氏の説明を引用させてもらうと、「構造は木造軸組に石貼り(Stone Casing)で、長方形平面の三つのコーナーに塔屋が備えられ、特異な外観をしている。政情不安な時期にあって、監視塔が必要であったのだと思われる」。そうだったのだ、あの奇妙な塔は、クロスマンの発案だったのだ。  

 そこで思いだしたのが、『ジャパンパンチ』のワーグマンの滑稽な記事だ(1869年8月号)。見張る必要のあった方角だけ機能面重視で塔を設けていたのだ。以下、手書き文字を和紙に木版刷りしたものを読み取った限りだが、こんな内容である。後半部分はとくに、どういう構文なのかさっぱりわからないので、かなり推測混じりだ。正確に読み取れる方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。

 “Illustrious Sir” said a distinguished military officer to General Punch when will your next “heaven inspired” number appear
 “Sir” replied Punch Sama “when you have added the fourth tower to your Consulate building” 
Punch Sama is however merciful and having administered this well merited rebuke should condemn the Public to wait until the arrival of the Japanese Kalends he repents and produces his new and ever fresh Punch. 
 
「高名なお方」と、威厳のある将校がパンチ将軍に言った。「『天の啓示』による次の数字はいつ現われるのでしょうか?」〔八卦のことか〕 
「士官殿」とパンチ様は答えた。「貴国の領事館に四つ目の塔が付け足されたらだ」 
しかし、パンチ様は慈悲深く、この当然なる批難によって、大衆が糾弾する事態になるのを、彼が悔い改めつねに新鮮で新しいパンチを生みだす日本の朔日〔新暦のことか〕がめぐってくるまで待つように処置した。  

 日本の彫り師がカンマやピリオド、クォーテーションマークなどを見落としていたりするのかもしれない。後半部分のパンチが、『ジャパンパンチ』の新号という単純な意味なのか、日本でしょっちょう年号が変わっていたことへの揶揄なのかも不明だ。『ジャパンパンチ』を老後の楽しみで翻訳してみたいと、ひそかに思っているのだが、多くの人のお知恵を借りなければ難しそうだ。

『復刻版ジャパンパンチ』2巻(雄松堂)より、
 1869年8月号

『Far East』1871年7月17日号

2021年11月27日土曜日

『中村屋のボース』

 翻訳中の本の参考文献として、中島岳志の『中村屋のボース:インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)を再読した。単行本がでたころ、ちょうど『インドカレー伝』(コリンガム著、河出書房新社)を訳していたために、興味をそそられて一読したことがあった。若い研究者がこのような作品を書きあげたことに敬服した記憶はあるが、当時の私には時代背景がまるで理解できなかったので、玄洋社・黒龍会という怪しげな団体と新宿中村屋の関係どころか、この本の主人公であるラース・ビハーリー・ボースと、インドのもう一人の革命家チャンドラ・ボースとの関係も、いつのまにか頭のなかでごちゃごちゃになってしまった。  

 多少、当時の背景が飲み込めてきて、チャンドラ・ボースもやはり日本に葬られていることを知ったあとで、それでインドカリーのボースのほうは何だったんだ?と思い、もう一度、隙間時間に読み直してみた。  

 両ボース(チャンドラとR. B.)はともにイギリスによる植民地支配から抜けだそうと、インドの独立を模索したナショナリストの革命家だが、別に親戚ではなく、実際にはほとんど互いに接点がなかった。当時のインドでは、マハートマー・ガーンディーによる非暴力、不服従による独立運動が多くの支持を得ていたが、両ボースのように、「非暴力主義ではインドは独立できない」と考え、テロを辞さない活動家も大勢いた。  

 フランス東インド会社の領有地だったシャンデルナゴルで育ったR. B. ボースは、高等教育を受けていない非エリートで、彼が革命家として目覚めたきっかけに、『バガヴァッド・ギーター』で説かれた「自己犠牲の精神」(Atmasamarpana)があったという。神への服従という意味らしく、ガーンディーの抵抗運動の根底にもこの精神があったようだし、ジハードにも、特攻隊にも、通ずるものがあると思う。ボースは「近代の〈個人主義〉を〈己のために他を犠牲にする〉ものと措定し、それに対して〈他のために己を犠牲にする〉〈家族主義〉を人類の理想と捉えていた」という。 

 ハーディング・インド総督暗殺未遂事件や、ラホール兵営反乱事件を引き起こし、イギリス政府のお尋ね者となったR. B. ボースはラビンドラナート・タゴールの親戚と偽って日本に亡命した。1915年6月5日のことだ。その彼がまず頼ったのが当時、日本に滞在中だった孫文であり、その伝で玄洋社の頭山満と知り合い、頭山からの依頼で彼を匿ったのが中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻だった。日本は当時、日英同盟を結んでいたので、ボースには国外退去命令がだされた。  

 R. B. ボースを支えつづけた玄洋社は、1880年、西南戦争に呼応して決起し、敗北した福岡藩士を中心に結成された日本初の右翼団体だった。『中村屋のボース』によると、「彼らにとって重要なのは、思想やイデオロギー、知識の量などではなく、人間的力量やその人の精神性・行動力にこそあった」という。頭山らにとって、ボースの「政治的・思想的発言は一貫して重要なものではなかった。[……]彼らにとって重要だったのは、イギリスの植民地支配によって悲惨な状況におかれているインドの革命家が、日本に期待をかけている姿によって自尊心が満たされることであり、その人物を自分たちが劇的な形で保護したという美談によって、自らのアジア主義的行動が、意義あるものとして正当化されることであった」という著者の分析は鋭い。

 一方のボースは、人間存在の本質は宗教的「神性」にあり、それを欠いた人は「人間の形は備えて居ても、人間と認めることは出来ない」としていた。そこに頭山らと相通ずるものがあったのだろうか。彼はまたコミュニストの唯物論には賛同しないものの、ロシア革命については「侵略主義の人々のあとに自由主義の人々が政権を握るに到った」として高く評価しており、イギリスを主要な敵とする対外戦略を進めていたソ連は、彼にしてみれば戦略的な利害が一致していたという。冷戦時代に生まれ育った世代にとっては理解しにくいが、イデオロギーなど当時の人びとにとってはこの程度のことだったのだ。  

 ボースはやがて地下生活を支えてくれた相馬家の娘、俊子と結婚し、第一世界大戦後にはもはやイギリス政府からも追われなくなり、自由の身となって一男一女をもうけ、日本に帰化した。しかし、つかの間の幸せな暮らしは、1925年に俊子が肺炎で病死したことで終わりを遂げた。その後も、子供たちを育ててくれた相馬夫妻との縁は切れず、中村屋を支える意味でも、看板メニューとして売りだされたのがR. B. ボース直伝の「恋と革命の味」と言われた「インドカリー」だった。  

 コリンガムの『インドカレー伝』を訳して以来、カレールーもカレー粉も使わなくなった私だが、ちょうど多忙な折でもあり、新宿中村屋の「極めるインドカリー」を買って味見してみた。レトルトにしては具がたっぷりだったが、何かのスパイスが効きすぎて味が単調になり、自分でつくる自己流カレーのほうが、それぞれのスパイスの微妙な香りと素材の味が楽しめてよほど美味しいと思った。  

 それはさておき、祖国インドには帰れないまま、インドの独立のために日本を動かそうと働きかけるボースにとって、その後は歯がゆい日々がつづいた。1924年に日本を再訪した孫文は、アジア主義を掲げる頭山らすら、中国にたいする不平等条約である対華21カ条要求の撤廃に動かないことに業を煮やし、日本は「いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか」と迫った。孫文の死から1年後の1926年3月に、ボースは『月刊日本』で「声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は性来、白人に劣るの素質を有するが如くに解する」と糾弾した。

「大東亜共栄圏」の胡散臭ささを見抜いていたにもかかわらず、ボースはインドの独立を達成するには武力が必要という信念から、日本政府と軍との関係をつづけ、東南アジアで日本が占領した地域のイギリス領インド軍捕虜のなかから、インド人の志願者を募ってインド国民軍を編成した。しかし、1943年にはすでに50代なかばで、健康状態も悪化していたボースは、日本の傀儡と見なされ、インド人からの信頼が得られず、代わりにインド国民軍を率いる指導者として招聘されたのが、チャンドラ・ボースだった。悪名高いインパール作戦では、このインド国民軍が日本軍と行動をともにしていたのだ。  

 R. B. ボースは1945年1月に58歳で病死し、多磨霊園に葬られたようだ。一方、チャンドラ・ボースは終戦後の8月18日、活動の場をソ連軍の占領下にある満州国に移そうとして台湾から飛び立ったが、飛行機事故死した。遺骨は日本に運ばれ、杉並区のお寺に埋葬された。 

 本書には大川周明も随所に登場し、R. B. ボースが大川の故郷の酒田に講師として招かれた際に、「広茫たる田野を見て、私は故国印度の光景を想起せざるを得なかった」と書いたことなどにも触れられている。大川周明は私にとって謎の人物だが、東京裁判で東條英機の頭を叩いただけの人でないことが、少しばかりわかった。いつかまた、読み直してみよう。

『中村屋のボース: インド独立運動と近代日本のアジア主義』(中島岳志著、白水Uブックス)
元ホスト・ファーザーが送ってくれたベンガル・スパイス・ティーを飲みながら、このところベンガル語の発音と格闘している。ボースも本来はボシュのほうが近い。

2021年11月14日日曜日

七五三

 10月に早めに済ませる予定が、天候その他の事情で延び延びになって、先日ようやく孫の3歳の七五三のお祝いをすることができた。この子が育った3年間は、その大半がコロナ禍に見舞われ、最初のうちは公園の遊具に触れることすらできない日々がつづいた。この3年間に親族や親しい人が何人も鬼籍に入ったし、施設に入所した人もいた。そんななか、ほぼ毎週、電車を乗り継いで横浜まで通ってきては子守をしてくれた老母が、無事にひ孫の晴れ姿を見ることができたのは何よりも嬉しかった。  

 この日、孫が着た濃いオレンジ色の着物は、年の離れた私のいとこたちが着たもので、私の娘も、姪たちも、それぞれ3歳の七五三をこの着物でお祝いをした。娘と姪っ子たちは体格がまるで違い、3歳にして10cmも身長差があったので、同じ着物姿の写真を見比べては、袖や被布の下から覗く着物の長さの違いを見てよく笑ったものだった。今回、叔父夫婦に頼んでいとこたちの古い写真を探しだして送ってもらったところ、全員の写真を娘が上手に並べてくれた。それぞれに違うけれど、同じ晴れ着姿の童女が6人も勢ぞろいして、何とも楽しい写真ができあがった。  

 最初の持ち主だったいとこは、赤っぽい着物とオレンジの着物のどちらがよいか聞かれたらしく、「自分が好きなものを選んだ!」という満足感とともに、この着物を買ってもらった3歳当時のことを、いまもよく覚えているそうだ。しかも、どうやら購入先は別の叔父が勤めていた大丸だったようなのだ。大丸はもともと大阪の呉服屋から始まった会社で、私にとっては大丸とのかかわりは二重に意味があった。  

 私の高祖父、門倉伝次郎が師事した佐久間象山は、吉田松陰の下田踏海事件に連座して8年間、松代で蟄居したのちに、元治元(1864)年春に一橋慶喜に招かれ、京都入りした。赴任先から妻のお順(勝海舟の妹)に宛てた手紙に「此地にて大丸店にて袴羽織肩衣用意致し候」ところ、30両もかかって肝をつぶしたと書き送っていたのだ。象山はこの手紙からわずか数カ月後に、尊王攘夷派テロリストに暗殺されてしまうのだが、明治の錦絵に描かれたように、洋装で西洋馬具を付けた白馬にまたがっていたわけではなく、「黒もじ肩衣、萌黄五泉平乗馬袴、騎射笠、めりやす、黒塗鞭、黒塗沓、西洋馬具」といういでたちだった。その着物が大丸で誂えたものかどうかは不明だが、可能性はあるのではないか。乗馬も都路という名の栗毛馬だった。

 一方、高祖父が仕えた上田藩主、松平忠優(のちに忠固)は、若くして正室を亡くしたのちに大坂城代を務め、産物会所をつくって上田の産品である紬織物「城代縞」の販路を開拓していたころに、おとしという側室を迎えた。おとしは少なくとも2男2女を産み、息子の1人が上田藩の最後の藩主、忠礼となった。そのおとしの出自については、上田藩士の娘という説と「呉服屋大丸の裁縫を引受る職人の娘」(『上田縞絲之筋書』)の2説あり、諸々の状況から後者の説に分があると私は見ている。ちなみに松平忠固は、日米和親条約と日米修好通商条約に老中としてかかわり、開国を断行した当人と言うべき人だ。  

 長年、大丸に勤めた叔父は、こうした経緯を何も知らないまま定年退職後まもなく難病を患い、苦しい闘病のあと他界した。祖先について調べた際に、2度も大丸の呉服に関する記述を目にし、そのたびに何かしら不思議な縁を感じていた。今回、その伝次郎の子孫たちが40年以上にわたって代わる代わる着てきた晴れ着が、大丸で購入したものだったと知り、亡叔父に伝える意味でも、どうしてもブログに書き留めておきたくなった。  

 七五三の準備をするために、姉が保管してくれていた着物をもらい受けに行ったところ、共布の巾着と、娘たちが付けたリボンが見当たらなかった。どうせなら、ゆらゆら揺れる「下がり」の付いた髪飾りにしたいし、10月なら色もオレンジの金木犀がいいと思って探したが、これぞと思うものがない。作り方サイトや動画などを見ると、つまみ細工は簡単そうに見えた。 

「下がり」にこだわったのは、以前に鮮卑の歩揺という飾りについて調べたことがあったためだ。本来は薄い金属片でできた飾りで、歩くと揺れて光るだけでなく、おそらくチリチリと金属音もしたのではないかと思う。歩揺に興味をもったのは、うちにある昭和初めのお雛様が、そんな垂飾の付いた冠をかぶっていたからだ。金属音を立てるという意味では、埴輪の馬が着ける馬鈴も、チャグチャグ馬コの鈴も、魔除けか、神への呼びかけか知らないが、何かしら意味があったはずだ。つまみの「下がり」では音が鳴らないので、昔買ったタイの山岳民族の刺繍入りのシャツについていた鈴も付けてみた。  

 ところが、予定以上に苦労してできあがった髪飾りを見せると、孫は顔を曇らせ、「オネンジはヤなの。青が好きなの」と、切々と訴えるのだ。どういう青がいいのかと聞くと、近所の果樹園のネットや、近所のスーパーBig Aの看板の、いかにも人工的な青がいいと言う。着物の濃いオレンジとはどう考えても合わないが、着る本人の希望を少しでも叶えようと、家にあったそれに近い色のリボンで大きめの花をこしらえ、お団子に結った髪に留めてやった。  

 当日の朝は、逃げ回る孫をなだめすかして椅子に座らせ、娘が慣れない手つきで髪を結うあいだ、可能な限り頭を動かさないように、あの手この手で釣り、何とか着物も着せて近所の神社に連れだした。11月に入ってさすがに金木犀の最後の花も散ったあとだったが、常緑樹や針葉樹の多い深緑の境内のなかでは、鮮やかなオレンジの着物がじつによく映えて、ちょこまか動く小柄な孫は、茶運び人形のようで何とも愛らしかった。この先、どんな世の中になるのか見当がつかないが、たくさんの人の思いを受け継いで、ちゃんとばあさんになるまで無事に生きてくれるようにと祈った。

同じ着物を着た代々の子供たち

老眼を酷使してつくった髪飾り。楽天ポイントを使ってほぼ無料でちりめん生地を10cmずつ買い、手持ちのビーズと合わせ、100均のコームに付けたので、制作費は300円以下!

孫の心を捉えているらしい近所のスーパーの看板